東の島を目指すイスラエル民の渡航ルート紀元前722年、アッシリアの攻撃によりイスラエルの北王国が滅亡した後、何十万人ともいわれる大勢の民はどこへ行ったのでしょうか?彼らが南のユダ王国に移住したという記録もなく、諸外国の歴史の中に捕囚の民として登場することもありません。また、北イスラエル王国が滅びた後、南ユダ王国も崩壊し、多くがバビロンへの捕囚の民となり、その内ごく僅かな民だけが最終的に祖国に戻ってきたことが知られています。つまり南ユダ王国からも、行方がわからなくなった民が大勢いたのです。
さまざまな資料を探ると、歴史から姿を消したイスラエルの民の多くは東方へ移住した可能性が非常に高いことがわかります。なぜならイスラエルの地理的条件を見ると、西方は海、北は天敵のアッシリア軍団、南はアラビアの砂漠という過酷な条件下に囲まれているのです。そして逃げ道の一つとも考えられていた南西方向のエジプトについても、北イスラエル王国の民は当時敵対していた南ユダ王国を通らなければいけなかっただけでなく、最終的に前7世紀後半には、エレミヤを通してエジプトに逃げる者は滅びるという預言まで語り告げられたほど、イスラエルの民にとっては代々、咎められていたのです。それ故、必然的に東方へ向かって未知の世界へと向かうしか、生き延びる道はなかったのです。
当時、イスラエルには神からのメッセージを民衆に伝える預言者が何人も存在しました。彼らは、神への背信行為に対する裁きのメッセージを人々に語り伝え、一人でも多くの民が改心して、神の道に立ち返ることを求めていたのです。そしてあるとき、預言者の中心的存在であったイザヤが、救いのメッセージを叫びはじめました。イザヤは南ユダ王国のエルサレム神殿に出入りしながら南ユダ王国の王に仕えた預言者ですが、イザヤの預言は北イスラエル王国に関する事項も含めて広範囲にわたり、彼の名声は北イスラエルでも良く知られていました。そのイザヤが、「東で神をあがめ、海の島々(海沿いの国)でイスラエルの神、主の名をあがめよ」(イザヤ書24章15節)と、叫び求めたのです。戦争の噂で人々が不安で恐れ慄いている最中、偉大な預言者イザヤは国家の滅亡を断言すると同時に、救済の道も示したのです。そしてイザヤの預言を聞いた大勢の民は、絶望の中にも僅かな希望の光を見い出し、中には東の島々を目指して実際に大陸を横断する決断をした民も少なくなかったことでしょう。そうでなくとも前述したとおり、東方にしか逃げ道はなかったのですから、大勢が東に向けて大陸を移動したと考えられます。
その後のアジア大陸の歴史を振り返ると、このイスラエル民族大移動の軌跡を垣間見ることができます。まずイスラエル民族は元来、遊牧民族であり、信仰の父と呼ばれるアブラハムや「主は私の羊飼い」と歌ったダビデ王のように、天幕で移動しながら羊や馬を放牧して生活圏を築いてきました。そのイスラエルが国家を失ったころ、紀元前8世紀から7世紀にかけて、イスラエルからタガーマ・ハランを通り、その北方にある黒海とカスピ海の間を抜けた今日の南ウクライナ周辺に、スキタイと呼ばれる広大な遊牧騎馬国家が形成されたのは周知の事実です。スキタイが歴史に台頭したタイミングからしても、行方がわからなくなった北イスラエル王国の部族がスキタイに同化して、それが騎馬民族と化し、長い年月をかけて徐々に東方に向けて拠点を広げていったと考えても不思議ではありません。スキタイは南ユダ王国が滅びた前6世紀には北の草原地帯からコーカサス山脈の東側を抜けてアジアに侵入し、その領地を拡大しつつメディア軍を破り、東方のアジア圏を席捲するまで至りました。また、前4世紀には騎馬民族が「匈奴」として東方のモンゴルで勢力を伸ばしながら遊牧国家を建設しており、そのルーツが西アジア地区から移住してきた高度な文明を持つ民であることもわかっています。スキタイはいつしかアジア大陸から忽然と姿を消しますが、それは騎馬民族が東漸するにつれて各地で現地の住民に同化し、新たな騎馬民族の群れを形成しただけでなく、多くの民がさらに東へと向かって太平洋岸周辺に拠点を持つ東夷とも同化した結果ではないでしょうか。
日本の古墳時代後期に作られた古墳から発掘された副葬品や装飾品の多くが、モンゴル系騎馬民族の物に類似していることや、天皇家の万世一系の制度が騎馬民族のものと酷似していること、また日本語の語源や意味、読み方が、大陸のツングース系諸言語と類似点が多いことなどの事実を振り返って見ても、騎馬民族系の民がアジア大陸から日本に到来し、日本の古代史に関わっていたという史実を匂わせているようです。それは、国家を失ったイスラエルの民が離散し、大勢が東の島々に救いを求めてアジア大陸を渡り、長い年月を経て日本列島までたどり着いた民が少なくなかったことの表れとも考えられます。その東の海にある島々こそイスラエルの新天地であり、倭国、大和の国なのです。天皇家の歴史が幕を開けたのは、北イスラエル王国の崩壊後、およそ60年後のことでした。失われかけたイスラエルの文化が、日本の土壌で再び、芽生えることになります。