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東アジア史に眠るユダヤの痕跡

前21世紀、東アジアにおいて夏王朝が繁栄したころ、九夷と呼ばれた異国人が、どこからともなく中国史に姿を現します。九夷については、「竹書紀年」と呼ばれる中国の古文書に記載されているだけでなく、夏王朝の存在自体が、考古学的にも最近の発掘調査から確認されたことからしても、歴史の重みを感じずにはいられません。

九夷の原点に潜むシュメール人

九夷の原点は、前20世紀、東アジアの中国に突如として姿を現した、9つの部族からなる異国人の集団にあります。九夷については畎夷・于夷・方夷・黄夷・白夷・赤夷・玄夷・風夷・陽夷と9部族の名前が具体的に挙げられるも、抽象的な名称しか用いられていないことから、その実在は疑う声もあがっているようです。しかしながら夏王朝と同時期、西アジアで勢力を持ちはじめたイスラエル12部族も、年の月や、個別の色に結びついてそれぞれの部族がシンボル化されていました。ナフタリ族は1月の緑、ヨセフ族は2月の白、ベンジャミン族は3月の黒、ルベン族は4月の銀、シメオン族は5月の金、レビ族は6月の紫、ユダ族は7月の茶、イッサカルは8月の黄、ゼブルン族は9月の桃、ダン族は10月の青、アシェル族は11月の赤、ガド族は12月の灰と、各部族には年の月と色が割り当てられていたのです。つまり、古代社会において抽象的な名称が使用されることに何ら不思議はなく、むしろ九夷が、黄、白、赤という同じ色彩のアイデンティティーをイスラエルと共有していることに、九夷とイスラエルの関連性を垣間見ることができます。

イスラエルのルーツは、元をたどれば古代メソポタミア南部に興ったシュメール文化圏の大都市、ウル出身のアブラハムにさかのぼるため、シュメール人が先祖と言えます。そのシュメール人こそ、当初、東アジアを訪れた九夷の正体である可能性が高いのです。当時、シュメール文化圏では統治国家としての都市の雛型が存在していたと考えられ、人類最古の文字とも言われる楔形文字が体系的に整理されていました。また戦車を発明し、車を活用していただけでなく、高度な天文学の知識も携え、農業や灌漑、そして航海技術まで会得していたのです。ところが、シュメール国家は前21世紀ごろ、アモリ人によって征服され、突如として歴史から姿を消してしまいました。

シュメール人の一部は、アブラハム一家のように北西にあるカナンの地へと旅立ち、中には後にエジプトを支配する「ヒクソス」の先駆者となった者もいたことでしょう。しかしながら、ほかの大勢の民は、大陸を横断して東アジア方面に移動したと考えられます。また、沿岸伝いに船で東方に旅し、東南アジアまでたどり着き、そこから内陸へと移動する民もいたのではないでしょうか。国家を失ったシュメール人の行方はこれまで歴史の謎に包まれていましたが、シュメール国家の消滅と同時期に九夷が中国史に姿を現していること、その部族の筆頭が畎夷(Chuan-Yi)と呼ばれ、シュメールの頭文字ではないかと考えられること、そして後述するように九夷の文化的特徴が西アジアの中でも特にシュメールや、イスラエルと類似していることからも、多くのシュメール人は東アジアに移動し、九夷の原点となったと考えるのが自然です。

東夷に合流するイスラエル難民

長い年月を経て、九夷は徐々に大きな影響力を持つ存在となり、殷代(前17〜前11世紀)には中国の東部を拠点として数を増し、やがて東夷と呼ばれるようになります。そして後漢書や「通典」の東夷序略によると、周代(前10世紀以降)では中国の東方、淮河流域周辺や泰山周辺を拠点として、その勢力はきわめて盛んになり、現地の民から恐れられるまでになりました。

東夷のルーツはシュメール人と考えられ、イスラエルの先祖でもあることから、いつしか東方に楽園の地が存在することが語り告がれたのでしょうか。その新天地を目指して、イスラエルから大勢の移民が訪れたと考えられるのが、春秋時代です。ちょうど同時期、前722年、北イスラエル王国が消滅して大勢の難民が消息を絶ったと言われていますが、シュメール人と同様に、イスラエル人の多くはアジア大陸を東に旅したと考えられます。そして前8世紀から前6世紀にかけて、大勢のイスラエル難民が中国にたどり着き、現在の江蘇省・山東省周辺に拠点を持つ九夷の仲間入りを果たして、一大勢力となっていきます。

この膨大な数に上るイスラエル難民の流入が、実は春秋時代の引き金となった可能性があるのです。東アジア全体が混沌とした動乱に陥った春秋時代は「覇者の時代」とも呼ばれ、力ある者は誰でも実権を握り、諸侯を牛耳ることができました。その結果、東アジア各地では紛争が絶えず、国政は大いに乱れたのです。まず外国からの難民が絶え間なく押し寄せること自体が大きな社会的不安要素となり、政治的バランスを著しく崩しました。また、過度な難民の流入は、現地人との緊張が必然的に高まることを意味し、争いを避けることは困難であったと推測します。また、高度な文化を携えたイスラエル人は、自らの統治能力を駆使して新天地においても、常に政治経済の実権を握ろうとしたと考えられます。多くの革新的なアイデアを携えたイスラエルのリーダーたちは、各地の「覇者」となり政治権力を奪取しようと試みたのではないでしょうか。また、アジア大陸を旅してきたイスラエル難民は、当初北の10部族のみでしたが、その後、南ユダ王国も崩壊することにより、さらに大勢の難民が東夷を目指して旅をしてきたと考えられます。北イスラエルと南ユダ王国は元々兄弟同士でしたが、最終的に戦争をして国家を二分したわけですから、東アジアの新天地においても兄弟国同士、小競り合いや領地の奪い合いが絶えなかったはずです。よって、イスラエル難民の存在は、東アジアのパワーバランスを大きく狂わせてしまい、春秋時代という混沌とした時代を招く発端となったのです。

東夷の背景に潜むイスラエル文化

イスラエルの民が東夷の背景にあるならば、必ずや、イスラエル文化の痕跡が東アジアの歴史に残されているはずです。九夷や東夷の生活習慣や思想についての記述がある後漢書、三国志、梁書、魏書、随書などの東夷伝に、少なくとも2つの決定的な根拠が記載されています。まず後漢書東夷伝によると、東夷の風習は「酒を飲み、歌舞することが好きで、ときにはかんむりを冠り、錦の衣を着る」とあり、さらに「器具には、俎豆を使用する」と繰り返し記載されていることに注目です。「俎」は、生贄の肉を乗せるまな板であり、豆は菜を盛る高月(たかつき)のことです。この2つの文字を合わせると、祭祀の供を盛る器の意味となります。つまり東夷では、祭壇とお供えを伴う儀式を執り行い、燔祭を伴う宗教的儀式を営んでいたことがわかります。

次に、「政治のゆきわたったところでは、道義が行われる」だけでなく、「法は7〜800年も続き、それゆえ東夷は一般に穏やかに行動し、心に慎むことを慣習としている」と記載されていることにも注目です。これらの記述からは、東夷の民が先祖代々、律法を共有していたことがわかります。イスラエルの民はモーセの律法に従って燔祭の儀式を長年執り行ってきただけでなく、トーラとも呼ばれる律法を社会全般の規律として遵守することに努め続けてきた民族です。モーセに律法が与えられた時代は、およそ前13世紀です。そしてイスラエル国家が崩壊し、大勢の北イスラエルおよび南ユダ王国の民は、北イスラエルが前722年に滅びた直後の前6世紀に、そして南ユダ王国は前586年に滅びたことにより前6世紀から前5世紀にかけて、多くの難民がアジア大陸を東方に旅したと考えられます。つまり、モーセの律法を掲げたイスラエルの民が中国の淮河流域周辺に到達したと考えられる時期は、モーセの時代からちょうど7〜800年後のことであり、東夷伝の記述に合致します。

また、隋書列伝には、東夷は「衣服については一般の服装と礼服とが兼ね備わり」、「儒教の経典を学ぶことが好きで、文学や史書を愛読する」、そして「先哲の遺風がなければ、どうして能くこのような(良い風習に)なることができようか」、と書かれています。この特徴こそ、まさにイスラエル民族の天性といえる勉学や宗教に対する熱意と姿勢の表れではないでしょうか。そのイスラエルのルーツを自ら悟り、東夷をこよなく敬愛したのが孔子です。このように東夷は博学であるだけでなく、宗教的儀式にも長け、そして規律正しい人種だったことがわかります。古代社会において、同様の慣習や文化的背景を持つ民族は少なく、シュメールを先祖とするイスラエル人の民族移動と東夷の関係を結びつけることにより、多くの謎を解明することができます。

諸子百家は博学なイスラエル人

前6世紀以降、大勢のイスラエル難民が合流した東夷は、淮河流域を拠点とする人口の急増により、一気に勢力を拡大していったと考えられます。また、春秋時代に興された斉や魯のように、東夷の影響を強く受けたと考えられる漢民族系の小国が山東半島周辺に建国されるに伴い、東夷の一部は漢民族と同化していく傾向も見られたのではないでしょうか。それ故、魯においては古くからの礼制が尊ばれ、実際にその教えを体系的にまとめあげたのが儒教であり、その立役者はまぎれもなく孔子です。

春秋時代は混乱期ながらも、東アジアに移住してきたイスラエルの学者、およびその子孫に多くの活躍の場を与えたことに違いありません。その結果、政治的な大混乱を横目に、さまざまな新しい思想や宗教哲学が提言され、民衆レベルだけでなく国政にまで大きな影響を与えることにより、春秋時代は後の中国の土台となる文化の基礎が固まった時期となりました。そのような東アジア史の流れの中で、孔子、老子、荘子、墨子、孟子、荀子などの諸子百家と呼ばれる偉大な人物が現れ、これまで類をみない卓越した学識をもって、中国に多大なる文化的貢献を果たしたのです。彼らの多くはイスラエル人である可能性が高く、現存する諸子百家の肖像画における孔子や老子などは、西アジアの出自であることをあからさまに描写していると言って良いほど、その顔つきは西アジア特有のものです。また、孔子は背丈が2mを超えた体格の持ち主でもあり、自身がイスラエルの出自であることを知っていたからこそ、中国のさらに東方に存在するであろう「君子の国」、「不死の国」に憧れを持ったのでしょう。つまり、前6世紀前後より続々と登場する古代中国史に名声を連ねた哲学や宗教的思想の大家の多くは、イスラエルと何らかの関わりを持っていた可能性が高いのです。

淮河流域周辺に勢力を拡大した東夷は、春秋時代にピークを迎えるものの、その後、歴史の流れは、秦(前221年〜前206年)を境に一変します。そしていつしか東夷とは、朝鮮半島を中心とする地域を指すようになり、東夷は、海を渡った倭の国、日本も含むようになりました。日本の古代史が激変する前兆の訪れです。