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2024/11/01

東夷とイスラエルの関係 東アジア史の根底に潜む西アジアからの難民

異国人、九夷の正体とは

上海博物館所蔵の孔子書写本
上海博物館所蔵の孔子書写本
前20世紀、アジア大陸において中国最古の夏王朝が繁栄していたころ、九夷と呼ばれた異国人が、アジア大陸の東方に住んでいたとされ、どこからともなく中国史に姿を現しました。一説によると九夷とは君子国である日本を指すとも言われ、朝鮮説も流布されています。九夷については、「竹書紀年」と呼ばれる中国の古文書に記載されているだけでなく、考古学的に見ても最近の発掘調査で夏王朝の存在自体が確認されたことから、歴史の重みを感じずにはいられません。

九夷が東アジアの中国に突如として姿を現した直前の前21世紀ごろ、西アジアではイスラエル人の祖先でもあるシュメール国家がアモリ人の侵略により、歴史から姿を消しています。その直後にアジア大陸の東方に多くの部族からなある九夷が突然姿を現し、殷時代から前11世紀にかけて勢力を保っていました。このような時代の流れと歴史的背景から、九夷のルーツがシュメールと絡んでいる可能性が見えてきます。

九夷については、畎夷・于夷・方夷・黄夷・白夷・赤夷・玄夷・風夷・陽夷と9部族の名前が具体的に挙げられるものの、抽象的な名称しか用いられていないため、その存在は疑う声もあがっているようです。しかしながら九夷とシュメール、そしてイスラエルの文化や風習には類似点がとても多いのです。九夷とシュメール(イスラエル)が同じ民族であったと想定することにより、古代史の流れが紐解かれていきます。

例えば一見、抽象的な名称とも思える九夷の部族名ですが、色彩の文字が多く使われています。イスラエル12部族も、年の月や、個別の色に結び付けながら、それぞれの部族がシンボルによって象徴されていました。ナフタリ族は1月の緑、ヨセフ族は2月の白、ベンジャミン族は3月の黒、ルベン族は4月の銀、シメオン族は5月の金、レビ族は6月の紫、ユダ族は7月の茶、イッサカルは8月の黄、ゼブルン族は9月の桃、ダン族は10月の青、アシェル族は11月の赤、ガド族は12月の灰と、各部族には年の月と色が割り当てられていたのです。

つまり、古代社会においては抽象的な名称が部族の名前やシンボルとして使用されることに何ら不思議はなく、むしろ九夷が、黄、白、赤という色彩のアイデンティティーを用いていること自体、九夷とイスラエルに何等かの関連性が存在していたことの証かもしれません。

シュメールの歴史から紐解く九夷の存在

レンブラント『アブラハムとイサク』
『アブラハムとイサク』
レンブラント
九夷のルーツにイスラエル部族が関わっていると想定することにより、古代史の流れが見えてくるようです。イスラエルのルーツは元を辿れば、古代メソポタミア南部に興ったシュメール文化圏の大都市、ウル出身のアブラハムまで遡ることから、シュメール人が先祖と言えます。よって、シュメールの末裔はイスラエルの部族に繋がるだけでなく、東アジアに現れた九夷の正体でもある可能性が高いのです。

古代、シュメール文化圏では統治国家としての都市の雛型が存在していたと考えられ、人類最古の文字とも言われる楔形文字が体系的に整理されていました。また戦車を発明し、車を活用していただけでなく、高度な天文学の知識も携え、農業や灌漑、そして航海技術まで会得していたのです。ところが、シュメール人は前21世紀ごろ、アモリ人によって征服され、突如として歴史から姿を消してしまいました。

シュメール人の一部は、アブラハム一家のように北西にあるカナンの地へと旅立ち、中には後にエジプトを支配する「ヒクソス」の先駆者となった者もいたことでしょう。しかしながら、他の大勢の民は大陸を横断して東アジア方面に移動したと考えられます。また、沿岸伝いに船で東方に旅し、東南アジアまでたどり着き、そこからアジア内陸へと移動する民も少なくなかったでしょう。

国家を失ったシュメール人の行方はこれまで歴史の謎に包まれていましたが、シュメール国家の消滅と同時期に九夷が中国史に姿を現していること、その部族の筆頭が畎夷(Chuan-Yi)と呼ばれ、シュメールの頭文字ではないかと考えられること、そして後述するように九夷の文化的特徴が西アジアの中でも特にシュメールや、イスラエルと類似していることから、シュメール人が東アジアに移動し、九夷の原点となったと推測されます。

九夷と東夷のルーツはシュメール

後漢書(宋紹興)
後漢書(宋紹興)
長い年月を経て、九夷は徐々に大きな影響力を持つ存在となり、殷代(前17~前11世紀)には中国の東部を拠点として数を増し、やがて東夷と呼ばれるようになります。そして後漢書や「通典」の東夷序略によると、周代(前10世紀以降)では中国の東方、淮河流域周辺や泰山周辺を拠点として、その勢力はきわめて盛んになり、現地の民から恐れられるまでになっていたようです。

九夷のルーツにシュメールが存在するとするならば、同様に東夷のルーツもシュメールとなり、イスラエルと共通の先祖をもつことになります。そして古代、どちらの民族もアジア大陸を東方へと移動し続けたことは注目に値します。

東夷に合流するイスラエル難民

春秋時代の諸国
春秋時代の諸国
そのイスラエル民族移動が顕著に現れたのが、中国の春秋時代です。同時期の前722年、北イスラエル王国が滅びて大勢のイスラエル難民が消息を絶ちました。国家を失ったイスラエル人の多くは、アジア大陸を東方に旅したと考えられます。その結果、前8世紀から前6世紀にかけて大勢のイスラエル難民がアジア大陸の各地に離散することになります。

アジア大陸を東方に旅したイスラエル難民の中には、中国にまで達した者も大勢いたことでしょう。また、東夷の拠点となっていた現在の中国江蘇省・山東省周辺まで渡来してきた民も少なくなかったと想定されます。それらの渡来者は、共通の先祖をもつ九夷の末裔である東夷と合流したと推測されます。そして時を経て、東夷は東アジアにて一大勢力となり、中国史書に記されるまでになります。

膨大な数の難民が春秋時代の内乱をトリガー?

この膨大な数に上るイスラエル難民の流入が、実は春秋時代における内乱の引き金となった可能性があるのです。東アジア全体が混沌とした動乱に陥った春秋時代は「覇者の時代」とも呼ばれ、力ある者は誰でも実権を握り、諸侯を牛耳ることができました。その結果、東アジア各地では紛争が絶えず、国政は大いに乱れたのです。

まず外国からの難民が絶え間なく押し寄せること自体が大きな社会的不安要素となり、政治的バランスを著しく崩しました。過度な難民の流入は、現地人との緊張関係が必然的に高まることを意味し、民族間の争いを避けることは困難であったと推測されます。また、高度な西アジアの文化を携えて渡来してきたイスラエル人は、自らの統治能力を駆使して新天地においても、常に政治経済の実権を握ろうとしたのではないでしょうか。多くの革新的なアイデアを携えたイスラエルのリーダーたちは、各地の「覇者」となり政治権力を奪取しようと試みたはずです。

イスラエル王国
イスラエル王国
西アジアより大陸を東方に旅してきたイスラエルの難民は、当初北イスラエルの10部族のみでしたが、その後、南ユダ王国も崩壊することにより、さらに大勢の難民がアジア大陸の東方にある東夷の拠点を目指して旅をしてきたと考えられます。預言者イザヤに与えらえたメッセージには、国家は滅亡しても東方に希望が残されていることが示され、また、古くから東方には同じルーツを持つ民族がアジア大陸の東方に拠点を持っていたことも知られていたのではないでしょうか。それ故、大勢のイスラエル難民はこぞって、東方に向かい、旅を続けたことでしょう。

北イスラエルと南ユダ王国は元々兄弟同士でしたが、最終的に戦争をして国家を二分したわけですから、東アジアの新天地に到達した後も、兄弟国同士、小競り合いや領地の奪い合いが絶えなかったはずです。また、膨大な数に上るイスラエル難民の存在は、同胞間の争いだけでなく、地域の先住民との衝突の原因にもなったと推測されます。それが東アジアの政治的なパワーバランスを大きく狂わせてしまうこととなり、春秋時代という混沌とした時代を招く結果となったと考えられます。

東夷の背景に潜むイスラエル文化

イスラエルの民と東夷に血縁関係があるとするならば、イスラエル文化の痕跡が、東夷の拠点となっていた中国の東方に残されているはずです。九夷や東夷の生活習慣や思想についての記述がある後漢書、三国志、梁書、魏書、随書などの東夷伝には、少なくとも2つの大切な根拠が記載されています。

まず、後漢書東夷伝によると、東夷の風習は「酒を飲み、歌舞することが好きで、時にはかんむりを冠り、錦の衣を着る」とあります。さらに「器具には、俎豆(そとう)を使用する」と繰り返し記載されていることに注目です。俎豆の「俎」は、生贄の肉を乗せるまな板を指します。つまり生贄の儀式の際に使われる木製の板のことです。また、豆とは菜を盛る高月(たかつき)のことです。この2つの文字を合わせて俎豆とすると、祭祀の供を盛る器の意味となります。つまり東夷では、祭壇とお供えする儀式を執り行い、燔祭を伴う宗教的儀式を営んでいたことがわかります。

次に、後漢書東夷伝には「政治のゆきわたったところでは、道義が行われる」だけでなく、「法は7~800年も続き、それゆえ東夷は一般に穏やかに行動し、心に慎むことを慣習としている」と記載されていることにも注目です。これらの記述からは、東夷の民が先祖代々、律法のような戒律を共有していたことがわかります。その「法」はどこに由来しているのでしょうか。イスラエルの民はモーセの律法に従って燔祭の儀式を長年執り行ってきただけでなく、トーラとも呼ばれる律法を社会全般の規律として遵守することに努め続けてきた民族です。東夷の民が共有してきた戒律は、そのイスラエルの律法を指している可能性があります。

モーセに律法が与えられた時代は、およそ前13世紀です。そして北イスラエル王国が前722年、南ユダ王国が前586年に滅びてしまい、直後の前6世紀から前5世紀にかけて、多くのイスラエル系の難民がアジア大陸を東方に旅したと考えられます。つまり、モーセの律法を掲げたイスラエルの民が中国の淮河流域周辺に到達したと考えられる時期は、モーセに律法が与えられた時代からちょうど7~800年後のことだったのです。後漢書東夷伝の記述に合致するということは、東夷の法がモーセの律法であった可能性が見えてくるのです。

東夷を敬愛した孔子

二十四史
二十四史
隋書列伝には、東夷は「衣服については一般の服装と礼服とが兼ね備わり」、「儒教の経典を学ぶことが好きで、文学や史書を愛読する」、そして「先哲の遺風がなければ、どうして能くこのような(良い風習に)なることができようか」、と書かれています。つまり、東夷とは宗教的儀式にこだわり、文字を操ることに長けていた民族であったことがわかります。しかもその風習を、「先哲の遺風」と称し、長い歴史を誇る文化であったことをほのめかしています。この特徴こそ、まさにイスラエル民族の天性といえる勉学や、先祖代々に渡り伝承されてきた宗教に対する熱意と姿勢の表れではないでしょうか。

そのイスラエルのルーツを自ら悟り、東夷をこよなく敬愛したのが孔子です。東夷は博学であるだけでなく、宗教的儀式にも長け、そして規律正しい人種でした。古代社会において、同様レベルの複雑な宗教的慣習や文化的背景をもち、かつ、卓越した文字文化を携え、知識層はだれもが流暢に読み書きできるというような民族はほとんど存在しません。シュメールを先祖とするイスラエル人の民族移動と東夷を結びつけることにより、多くの謎を解明することができるのではないでしょうか。

前6世紀以降、大勢のイスラエル難民が合流した東夷は、淮河流域を拠点とする人口の急増を背景に、その勢力を一気に拡大していったと考えられます。また、春秋時代に興された斉や魯のように、東夷の影響を強く受けたと考えられる漢民族系の小国が山東半島周辺に建国されるに伴い、東夷の一部は漢民族と同化していく傾向も見られたのではないでしょうか。それ故、魯においては古くからの礼制が尊ばれ、実際にその教えを体系的にまとめあげたのが儒教でした。その立役者は、まぎれもなく孔子です。

諸子百家は博学なイスラエル人?

春秋時代は混乱期ながらも、西アジアから逃避し、アジア大陸の東の端まで移住してきたイスラエルの宗教リーダーや識者、およびその子孫らに多くの活躍の場を与えたことに違いありません。その結果、政治的な大混乱を横目に、さまざまな新しい思想や宗教哲学が提言され、民衆レベルだけでなく国政にまで大きな影響を与えることにより、春秋時代においては後の中国の土台となる文化の基礎が固まった時期となりました。

そのような東アジア史の流れの中で、孔子、老子、荘子、墨子、孟子、荀子などの諸子百家と呼ばれる偉大な人物が現れ、これまで類をみない卓越した学識をもって、中国に多大なる文化的貢献を果たしたのです。彼らの博学は、どこに由来しているのでしょうか。その多くはイスラエル系の血統に起因する可能性が高いと想定されます。それ故、現存する諸子百家の肖像画における孔子や老子などは、西アジアの出自であることをあからさまに描写していると言って良いほど、その顔つきは西アジア特有のものです。また、孔子は背丈が2mを超えた体格の持ち主でもあり、自身がイスラエルの出自であることを知っていたからこそ、中国のさらに東方に存在するであろう「君子の国」、「不死の国」に憧れを持ったのではないでしょうか。つまり、前6世紀前後より続々と登場する古代中国史に名声を連ねた哲学や宗教的思想の大家の多くは、イスラエルと何らかの関わりを持っていた可能性が見え隠れしているのです。

東夷が日本も指すようになった背景

淮河流域周辺に勢力を拡大した東夷は、イスラエル難民が西アジアから大量に押し寄せた春秋時代にピークを迎えるものの、その後、歴史の流れは、秦(前221年~前206年)の崩壊を境に一変します。そしていつしか東夷とは、朝鮮半島を中心とする地域を指すようになり、東夷という言葉が海を渡った倭の国、日本も含むようになりました。

それは、朝鮮半島を経由して多くのイスラエル系民族が、日本列島に移住したことの証でもあります。日本の古代史が激変する前兆の訪れです。

コメント
  1. 高瀬 裕 より:

     出雲市の砂原遺跡から出土した石器は、12万年前とも言われています。
     その時渡って来た人々が、日本人の先駆けだとしたら、また歴史が変わってしまいます。
     イスラエル、シュメール、そのずっと前から、東に向かう道があったのでしょうか。
     瓊瓊杵命が高天原から降臨した時に、道案内を申し出た猿田彦命とは、先駆けて日本に渡った人々ではなかったか。
     そんな思いをしています。

  2. 高瀬 裕 より:

    芝山古墳群の姫塚古墳からは、ユダヤ人のような風貌の埴輪が出土しています。詳しい内容はわからないのですが、これについて何か情報がありましたらお願いいたします。

  3. rick より:

    千葉県にある芝山古墳群の姫塚古墳から出土された埴輪の中には、帽子をかぶり、あごひげをはやした風貌の男性像があります。そのことを指しているのだと思います。姫塚古墳の近郊、千葉県房総風土記の丘にある国の史跡「龍角寺古墳群」「岩屋古墳」は藤原氏に関係する史跡と言われています。それが事実とすると、藤原不比等の名称からわかるとおり(historyjp参照)、藤原一族はユダヤ系の渡来者であると想定されることから、「龍角寺古墳群」も何等かの形でイスラエルの歴史と絡んでいると推測されます。それ故、「龍角寺古墳群」に隣接する「岩屋古墳」は「イワヤ」と呼ばれたのでしょう。ヘブライ語で神は「ヤ」です。つまり「イワヤ」とは「岩なるヤ」、「岩なる神」を指しています。また、「イワ」はヘブライ民族を示す「イブリ」の略称でもあることから、「ヘブライの神」をも意味するのです。

    よって姫塚古墳のルーツにイスラエルが存在しても何ら不思議はなく、埴輪の形状からしても、まさにユダヤ人のような風貌に見えるのではないでしょうか。

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