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対馬の神々が証する古代海路とイスラエルのルーツを解明

10世紀初頭、延喜式神名帳と呼ばれる国内の神社一覧が編纂され、格が高く由緒ある2861社と神々3132座が式内社として朝廷から認知されました。その結果、西海道の式内社107座の内、九州では最大数となる29座が対馬から選別されたのです。これは大宰府管内9国2島の中で最も多く、重要な祭祀が多く存在する拠点として、対馬が早くから認知されていたことを意味します。島内に同名の神社が多数存在することにも注目です。また、対馬に数多く存在する古墳には、その村落周辺に式内社、または論社が存在することからしても、式内社は対馬の古代史において重要な位置を占めていたと言えます。

その延喜式によると、卜部(うらべ)と呼ばれ、主に亀卜(亀甲を用いて吉凶を占う法)による国占いをする職務については、対馬から10名、壱岐および伊豆から5名ずつ、都合20名が任命されることが定められていました。古代から日本の祀りごとに対馬が深く関わり、卜部の半数が対馬の出であることが決められていたのです。国を占う祭司が、大陸からの文化の入口である対馬、壱岐だけでなく、日本列島の太平洋側にあたる伊豆諸島からも招集されていたことは驚異に値します。これは古代日本社会において宗教文化が、まず日本列島周辺の島々から土着化したことを示唆しているようです。後述するとおり、対馬、壱岐、伊豆諸島だけでなく、淡路島や沖縄などの多くの島々が、アジア大陸からの移民の拠点として古代史に布石を残しています。

渡来者の指標となる和多都美神社

対馬に存在する数多くの式内社の中でも、圧倒的な存在感を誇るのが、仁位の和多津美神社と木坂の海神神社です。その風格と歴史の重み、美しい境内のレイアウトは、訪れる人を魅了します。和多津美神社は「ワタツミノ」と呼ばれ、837年に授位されて以来、国史にはすべて「和多津美神」と記載されているとおりです。また、対州神社誌(1685年)には、和多津美神社は「渡海宮」と記されており、中世からは頻繁に「渡海」と記載されていることから、「ワタツミ」とも呼ばれていたことがわかります。現在では、土地の人たちの呼称は「ワタヅミ」と発音されています。

木坂の海神神社の「海神」も元来、「ワタツミ」と読まれることに注目です。今日では「カイジン」と読まれることが多くなりましたが、本来は、和多津見と同様の読みです。古語では「ワタ」は「海」、「ツ」は「の」、「ミ」は「神」を意味すると考えられ、「ワタツミ」は「海の神」、「海神」となります。また、海神神社は対馬国一宮として由緒ある栄光の歴史を誇り、対馬の神社の中でも最高位に位置付けられ、海神伝説と八幡伝説の宝庫として八幡宮、八幡宮本宮とも呼ばれています。「和多津美」と「海神」、いずれの「ワタツミ」も、その言葉の背景には海を旅する民に関する思いが込められているようです。

和多津美神社の御祭神は彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと、ホオリ)別名、山幸彦と、豊玉姫命(とよたまひめのみこと)であり、山幸彦は神武天皇の祖父にあたります。そして海幸彦と山幸彦の神話の中に、海神と山幸彦との関係を垣間見ることができます。兄の釣針を無くしてしまい、途方に暮れていた山幸彦が、ある日、塩椎神(しおつちのかみ)の導きにより船に乗って辿り着いたのが、綿津見神(海神)の宮です。日本書紀には綿津見神が海神豊玉彦と記載されていることから、この宮の建立は豊玉彦によるものと考えられます。そこで山幸彦は豊玉彦命の二女である豊玉姫命をめとった後、その海宮に3年も滞在します。その後、赤鯛の喉に釣針が見つかり、兄の海幸彦に返却することとなりますが、それに纏わる主権争いの詳細が古事記、日本書紀に記されています。山幸彦と海神との関わりが明記され、和多津見神社の御社殿裏には磐座だけでなく、豊玉姫命の墳墓もあるため、日本神話の海幸山幸伝説は、和多津美神社が発祥ではないかと言われる所以がここにあります。

また、海幸山幸の伝説のみならず、和多津美神社境内周辺には実に多くの旧跡が存在します。5基の鳥居と磯良恵比須の磐座を初めとし、御社殿後方にある2つの岩からなる夫婦岩,豊玉姫命の墳墓(御陵)、山幸彦と豊玉姫命の出会いに纏わる玉の井の遺跡、そして満珠瀬(みつたませ)、干珠瀬(ひるたませ)の岩礁が、実に美しく自然の環境と調和しています。満潮時に社殿近くまで満ちる海水を眺めながら、龍宮城を連想する人も少なくないはずです。この和多津美神社こそ、朝鮮半島から渡来する民が目指す最初の指標となるランドマークであり、しかも、邪馬台国へ旅立つ起点となる狗邪韓国の港が、巨済島に存在していたことを見事に証していたのです。

5連の鳥居が意味すること

和多都美神社の鳥居と社殿浅茅湾の入江奥に佇む和多津美神社には、御社殿前から海に向かって一直線に5基の鳥居が並んでいます。しかもそのうち、海側から数えて一ノ鳥居と二ノ鳥居は浅瀬の海中に造られていますが、潮が引くたびに浜が浮かび上がり、二ノ鳥居までは歩いていくことができます。そして潮が満ちると、今度は海水が参道沿いに御社殿の両側まで満ち、周囲一帯が海で囲まれます。海の中に建てられた鳥居が浮き沈みし、周囲の自然と調和するその幻想的な光景は、訪れる人々を魅了してきたに違いありません。何故、このような海中の鳥居が造られ、潮の満ち引きを目の当たりにする場所に、御社殿が造営されたのでしょうか。しかも鳥居は一直線に北西、310度を向いているのです。

鳥居の起源については諸説がありますが、そのルーツをイスラエル、ユダヤ教の「過越」として、「贖いと救いの象徴」に捉えることが有力視されています。旧約聖書によれば出エジプトの時代、エジプトのすべての初子を撃つ、という神の怒りから逃れるために、古代イスラエルの民は、神の命令に従って其々の家の戸口を、ほふられた動物の血で赤く塗りました。その印をもって神の災いから逃れたのです。その後、イスラエルでは神の災いが通り過ぎていくことを祝し、「過越の祭り」が始まりました。そして血で染められた赤い戸口は、いつしか救いの象徴となり、それが赤い門、鳥居のルーツとなり、後世においては石造の鳥居も造られるようになったと考えられます。また、イスラエルの民がエジプトを脱出する際のクライマックスでは、モーセが手をかざすことによって海が分かれて地が乾き、その海底をイスラエルの民が渡り、後を追って来るエジプトの軍団から逃れたことが記載されています。イスラエルの救いに関するテーマには、贖いの血で染められた戸口や、地表に露出する海底が含まれているのです。

和多津美神社が造営されたそのデザインの背景には、この「イスラエルの救い」というモチーフが潜んでいるのではないでしょうか。まず、5基の鳥居は御社殿を参拝し、神の恩寵を受けるための戸口となりますが、その鳥居の一部が海の中に存在するということは、和多津美神社の御神殿に集う民が海から訪れることを意味すると考えられます。実際、対馬に存在する他の神社でも、海に向けて海岸沿いの浜辺に建てられている鳥居が少なくありません。また、鳥居の足がときには海の下に沈み、ときには地表に姿を表し、しかも人がそこを歩くことができること自体、出エジプト記においてイスラエルの民が海底を歩いて渡り、約束の地へと向かったことを連想せずにはいられません。

また、鳥居の向きや位置も無作為に作られたのではなく、すべてが計算ずくめで設計されたと考えられます。つまるところ、鳥居の向きは、その方角から参拝者が訪れることが想定される大変重要な指標です。和多津見神社の5基の鳥居は北西方向310度を指し、その角度に重大な意味が秘められています。

和多都美神社の五基鳥居の方角地図上にこれら5基の鳥居をプロットし、その方向に合わせて線引きをしてみました。すると、310度の線は対馬海峡を越えたその向こう側の巨済島、南東にある岬の頂点にあたり、その岬の北側には、港に適した入江が存在します。その場所は東アジア、中国側から釜山に向かう海路の途中に在り、双方向からのアクセスに優れているだけでなく、対馬にも近いという絶好のロケーションです。その港から岬を経由し、対馬の中心、浅茅湾入江奥の和多津美神社を目指して大勢の民が、海を旅したのでしょう。和多津美神社の鳥居は、狗邪韓国から民が対馬に向けて船で海峡を渡ってくる方向を、ピンポイントで示していたのです。

浅茅湾の奥に佇む和多津美神社の鳥居は、実は、巨済島の岬から大和の国の玄関となる最初の離島、対馬に向けて海を渡ってくる旅人の指標として、海上航海の安全を願うべく建立されたのです。アジア大陸を渡り歩き、ときには船に乗り、最終的に朝鮮半島の最南端に位置する狗邪韓国に辿り着いた大勢の人々にとって、そこから未知の海原を渡り、対馬へと旅立つには、神の守護と勇気が必要であったに違いありません。救いの象徴である5重の鳥居を誇示する対馬の和多津美神社は、邪馬台国へ向けて更なる旅を続ける大勢の渡来者に、きっと力と勇気、信仰を与えたことでしょう。和多津美神社の優雅な鳥居の姿は、今日もその歴史の面影を対馬に残しています。

神社が証するユダヤルーツ

海神神社の美しい境内
海神神社の美しい境内
和多津美神社の北西、木坂の海岸近くにある海神神社も「ワタツミ」と呼ばれ、「大小神社帳」など複数の文献によると、海神神社をもって式内和多津美、つまり本来の和多津美と定め、和多津美神社をその御子神社としています。和多津美神社と海神神社は深い関わり合いを持っていることになります。海神神社の別名は木坂八幡宮でもあり、社伝には「対馬国一宮に坐します」と書かれています。また、木坂の伊豆山は「神功皇后が海神を祀らせ給いし所」とし、「継体天皇の御代祭殿を建て、神功工合、応神天皇を加へ祭り、八幡宮と称す」と述べ、更に「欽明天皇の31年宇佐に分祀す」と記されています。実際、延喜式に記述のある、最も古い八幡宮として名高い豊前宇佐宮の社伝には、創祀の年を同じく欽明31年としており、年代の一致からしても、海神神社が八幡宮の発祥の地である可能性を残しています。また木坂は地域名ですが、土地の言葉ではキシャカと発音し、古代から神領とされていました。

八幡神社の祭神は応神天皇であり、八幡神社の創設には秦氏らが深く関わっていることが知られています。そして海神神社の御社殿背後には、応神天皇以下の神が奉祀されている「伊豆山」がそびえ立ちます。応神天皇の名前に秘められた号令については前述のとおりですが、それにより一気に大陸から大和の国への渡来者の数が加速して大和朝廷の建国が企てられ、その働きを統括したのが秦氏ら、ユダヤ系渡来者であったと考えられます。よって、海神神社、和多津美神社には秦氏が関与していたと考えるのが妥当です。そしてユダヤ系の秦氏であるが故、「ワタツミ」がヘブライ語であったとしても、決して不思議ではありません。

また、海神神社の御社殿の裏山を「イズ山」と呼ぶこと自体、対馬の厳原(いずはら)や出雲などの「イズ」という発音を含む言葉との関連を匂わせているようで、大変興味深いことです。ヘブライ語で「最果て」「最高」「極度」を意味するitsumo、イツモ(itsumo、イツモ)という言葉がありますが、これは「イズ」のルーツと考えられます。すると山陰のおよそ最北端となる半島の麓にある「出雲」だけでなく、「出る」ことを「イズル」と読んだり、「厳」を「イズ」と読むようになった理由がわかります。よって、大和の国の西の最果てとなる対馬でも、最も西側の海岸沿いにある山を「伊豆山」と呼び、対馬に対して日本列島の反対側にあたる東の「最果て」にあたる島々を「伊豆」と呼び、その東西両極端の地から卜部が呼ばれることになったと考えられます。

緯度
東西一直線上に並ぶ御社殿
これらの地理的位置付けが実に巧妙に考慮されている事実を、海神神社の位置から見出すことができます。淡路島の伊弉諾神宮においては、境内に巨大な地図をもって明確に解説されているとおり、伊弉諾神宮を中心として、その西側の端には海神神社が、また、東側には伊勢神宮がまったく同じ緯度34度27分の位置に並んでいるのです。つまり、これら3つの御社殿が東西を結ぶ一直線上に緯度を同じくして並び、東側は伊勢神宮を超えて更に東の最果てまで辿ると、伊豆諸島でも新島と利島の間に浮かぶ鵜渡根島周辺にあたります。これらの著名な神社が見事に一直線に並んでいるのは単なる偶然ではなく、お互いが深く関与しているからこそ、意図的に神社の位置が計算づくめで決められたのです。その英知の背景に潜むのがイスラエルであり、秦氏のルーツとなるユダヤ王朝です。

和多津美とは良き知らせの福音

和多津美神社と東アジアからの渡来人との関わりを証するのは、5連の鳥居の存在だけではありません。実は「ワタツミ」という言葉にも外来語の意味が込められていたのです。「ワタツミ」には「和多津美」という漢字があてられていますが、そのままでは日本語での意味が不透明です。「渡海」とあてることにより、海を渡る旅路に関連させるか、「海神」として「海の神」と解釈することはできますが、「和多津美」自体は考慮のしようがありません。

「ワタツミ」をヘブライ語の文字で並べると、右から左にワタツミと書くことができます。ヘブライ語は右から読みますが、このままでは意味がない言葉も、逆読み、すなわち日本語のように左から読むことにより、文字に秘められた意味を理解できることがあります。また「ワタツミ」の場合、文字列の中間に「神」の頭文字であるy(y)の子音を付加するだけで、「イズ」という言葉が語中に含まれ、ワタイズミ「ワタイズミ」となり、伊豆山の麓に鎮座する海神神社にふさわしい「最高」を意味する「イズ」という言葉を、たった1つの神の文字で簡単に追加することができます。そこで文字列を逆さにして並べ変えると、ヘブライ語の表記はhimtsi tuv、ヒムチトゥヴ(himtsi tuv、ヒムチトゥヴ)となります。これは「もたらされる」「運ばれてくる」という言葉と、「良いこと」を意味する2つの言葉が合わさった表現であり、直訳すれば「良いことがもたらされる」「良き知らせが訪れる」となります。つまり「福音」を意味する言葉だったのです。

日本人にはあまり馴染みのない「福音」という言葉ですが、新約聖書では「エウアンゲリオン」というギリシャ語の言葉が何度も用いられ、古代ギリシャでは紀元前から詩人らによっても使われていました。この言葉には、国家が戦争に勝利し、その勝鬨の知らせを待ちわびている群衆に、自国の軍隊が勝利したことを伝えて皆が喜ぶ、という歴史的背景があります。すなわち、「エウアンゲリオン」とは「戦勝の良き知らせ」を宣言する言葉としてギリシャ・ローマ時代を通じて使われ、それがいつしか、「良い知らせ」「良き訪れ」、そして日本語では宗教的概念を含む「福音」という言葉で表現されるようになったのです。「和多津美」と言う言葉は、まさに「エウアンゲリオン」と同等の「福音」を意味するヘブライ語の言葉だったのです。

狗邪韓国から海を渡り、大和の国へ向けて航海してくる民は、まず、最初の拠点となる和多津美神社に佇む5連の鳥居を救いの指標として目指したことでしょう。対馬の「ワタツミ」は「福音」、「良き知らせ」の象徴として、旅立つ者に勇気と力を与えたに違いありません。大和の国に約束された神の救いこそが「和多津美」による「福音」の意味であり、その「良き知らせ」を信じた大勢の群衆が、命をかけて海を渡り、日本列島へ渡来してきたのです。

磯良恵比須とはイスラエルの砦

和多津美神社の御祭神は、神社明細帳などに記されている彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)別名、山幸彦と、豊玉姫命であり、「對州神社誌」には、渡海大明神とも記載されています。豊玉姫命は宮を建てられた豊玉彦命の二女であり、伊弉諾尊と伊弉冉尊の孫娘にあたります。そして境内の裏には御祭神として豊玉姫命の墳墓のスペースが広く取られており、また、御社殿に向かって参道左側の浜辺中央付近には、磯良(いそら)と呼ばれる磐座が存在します。磯良は古い海神伝説のシンボルであったと考えられ、和多津美と深く関連していることは、同一境内に建立されていることからも明白です。磯良恵比寿の磐座と3本足の鳥居
磯良恵比寿の磐座と3本足の鳥居
そこには3本足の鳥居が鱗上の磐座を囲むように建立され、「磯良恵比須の磐座」と呼ばれています。また、御社殿の左側にも同様に3本足の鳥居が大きな御神石を囲うように建てられています。これら磐座の存在は、古代社会において、何らかの祭祀に関わる儀式が行われていたことを裏付けており、その結果、磐座が御神体石となった可能性が高いことが、案内板にも記されています。

磯良恵比須については、磯良伝承と恵比須神の2つに分けて考えることができます。ごく一般的に磯良は海の神、磯良(あづみのいそら)であり、豊玉姫命の子とされています。太平記には神功皇后(応神天皇の母)の時代、海人族の長として三韓出兵の際、龍宮から潮を巧みに操って自軍に有利な海路を保ち、皇后の出兵成功に大きく貢献した阿曇氏の記述がありますが、その祖先です。

また、日本人にとってなじみの深い「恵比須神」は七福神の1つ、日本古来から漁業の神として庶民信仰をあつめています。恵比須神の総本社である西宮神社の祭神が蛭子(ヒルコ)大神であることから、その信仰ルーツには蛭子が関わっていることがわかります。古事記によると、伊弉諾と伊弉冉との間に生まれた初子の蛭子は、生まれてから3年たっても立つことができなかったため、葦の舟でオノゴロ島から流されてしまうのです。その蛭子神が漂流したという伝説が日本各地に残っています。足の萎えた蛭子だからこそ、海ではその神聖さが発揮されるとも考えられたのでしょうか。九州北部や西部沿岸では水死体を恵比須と呼ぶこともあり、豊漁をもたらすと信じられていました。例え、恵比須神が不具の神であっても、海という漁民が深く関わる世界では祝福をもたらす神聖な神と考えられたのです。そして、いつしか蛭子は恵比須と同一視されるようになり、蛭子信仰が海神と結び付くことにより、磯良恵比須は海を操り、漁業の福をもたらす縁起の神として祭られるようになったのではないでしょうか。こうして和多津美神社の磯良恵比須では、海の神、阿曇磯良や蛭子(恵比須様)を招き入れるために祭祀儀礼をこの磐座で行っていた可能性があります。

ところで「磯良恵比須」は、上記の説明を否定することなく、その言葉の意味をヘブライ語で理解できます。磯良(イソラ)または磯良江(イソラエ)その言葉どおり、イスラエルを意味し、「イソラ」という読みはその略称です。恵比須(エビス)はヘブライ語で「砦の島」、「要塞の島」を意味します。「エ」はヘブライ語でi,イー(i、イー)と書き、「島」の意です。「ビス」はbitsur、ビツー(bitsur、ビツー)となり、要塞、砦を指します。その「エ」と「ビツー」を合わせると、「砦の島」の意味になり、そこにイスラエルを足して「イスラエル・エビツー」となり、それが多少訛って「イスラエビス」になったと考えられます。その言葉の意味は「イスラエル島砦」です。大和の国は、イスラエルが目指した新しいエルサレムが興される約束の島、砦の島として「イスラエビス」と呼ばれたのです。

その証として、大陸より渡来した秦氏により、和多津美神社にも三柱鳥居が建立されたと考えられます。この三柱鳥居は前述したとおり、京都の太秦に在る木ノ嶋神社の三柱鳥居と同様のものであり、大陸から渡来したユダヤ系秦氏の三位一体、基督信仰を象徴していると考えられます。アジア大陸から大勢の移民が約束の地、大和の国に渡来しようとするとき、その最初の関門であり、邪馬台国のゲートウェイとなった対馬の和多津美神社には、大和の国が新しいエルサレム、神の国を司る堅固な島の砦となることを知らしめるため、その入口に「イスラエビス」を祭り、新しいエルサレムとなる平安京の太秦にも、同じ三柱鳥居を建立したのです。