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2023/09/21

古代イスラエル史を振り返る 失われたイスラエル部族の行方と日本史との接点

信仰の父アブラハムの足跡

信仰の父として旧約聖書に記載され、今日でも世界中の人々に崇められているアブラハムは、紀元前2166年頃、シュメール文化の中心地である首都、ウルで生まれました。父親のテラと母親と共に暮らしていたアブラハムは、成人してから神と出会うまでは、アブラムと呼ばれていました。そのウルの地で、アブラハムは後の名をサラと呼ばれるシュメール人のサライを妻として迎えます。

約束の地へ向かうアブラハムの旅路
約束の地へ向かうアブラハムの旅路
サラは不妊の女性であり、子供がなかなかできませんでした。アブラハム自身はセム系に属する民族の出自ですが、西アジアの文化圏においては母方の血縁が人種を決定すると考えられていたことから、もしアブラハムとサラの間に子供が生まれたならば、シュメール系の子息と考えることもできます。

ある日、アブラハムの父テラは家族全員を連れて、北西方向の彼方にあるカナンに向けて旅立つ決断をします。そして大勢の親族と共に一家はメソポタミア南部のウルを出発してハランまで到達し、テラはそこに滞在することを決めます。そのハランの地で父テラは亡くなり、アブラハムが家長となりました。

アブラハムとイスラエル12部族

神の使いを迎えるアブラハム(『創世記』第18章)。ドレ画
神の使いを迎えるアブラハム
(『創世記』第18章)
その後、ハランの高原にてアブラハムは神と出会い、天からの啓示を受けることとなります。創世記の12章にそのメッセージが書かれています。
「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし...地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」
そしてアブラハムは神が語られたとおり、約束の地となるカナン、今日のイスラエルの地へと移住することをためらわず、即座に実行しました。

当時、アブラハム一家は神の祝福が宿る富豪として、その名声はハランの地に知れわたっていたことでしょう。そして繁栄と恵みの象徴である一家が突然ハランを去ることが知れ渡り、一緒にカナンに向けて移住することを思い立った人々も少なくなかったはずです。そして大勢の付き添い人と共に、多くの財産と家畜を持ってアブラハム一家はカナンへと旅立ちます。

その約束されたカナンの地において、アブラハムにはまず、女奴隷ハガルとの間にイシュマエルが生まれました。イシュマエルはイスラム圏の諸国やユダヤ教の人々からは、今日までアラブ人の祖と考えられています。その後、90歳になったサラには、イサクが生まれました。そしてアブラハムの孫にあたるイサクの次男、ヤコブには12人の男の子が誕生し、その子息たちからイスラエルの12部族が形成されました。

イスラエルとは、神の命により、ヤコブに与えられた新しい名前です。こうしてイスラエル国家を形成する民族が、12部族を中心として成り立ち、歴史の流れを大きく変えていくことになります。

出エジプトとイスラエル全盛期

イスラエルの出エジプトからカナンへの道のり
イスラエルの出エジプトからカナンへの道のり
その後、イスラエルの民はエジプトで生活を始めるのですが、いつの間にかエジプト人の奴隷となってしまい、そのまま4世紀以上の年月が経ちます。そして紀元前13世紀にモーセが歴史の舞台に登場し、奴隷状態であったイスラエルの民をエジプトから脱出させて、再び約束の地であるカナンへと導くのです。それが出エジプトと呼ばれる出来事です。

そのカナンと呼ばれる新天地、今日のイスラエルが存在する地域において、紀元前1050年頃、イスラエルの民が王政を求めた結果、サウル王の統治による新国家が成立します。次のダビデ王の代において、イスラエルは黄金時代と呼ばれるほど栄え、ダビデ王の子であるソロモン王の時代に至っては、その名声は世界に響きわたりました。そしてエルサレム神殿が構築され、大勢の貴賓や要人がソロモン王を歴訪しただけでなく、イスラエルはタルシシュ船を使って世界中の国々と貿易を行うまでになりました。

北イスラエル王国と南ユダ王国の崩壊

イスラエル王国
イスラエル王国
ところがソロモン王が没した紀元前931年、度重なる王の背信行為による罪のため、早くも国家の崩壊が始まり、イスラエルは10部族から形成される北イスラエル王国と、2部族からなる南ユダ王国に分裂し、内乱の時代に突入します。神への冒涜、および金と権力によって腐敗した王政が原因となって国家の弱体化が急速に進んだあげく、紀元前722年、アッシリアの攻撃を受けてきた北イスラエル王国が崩壊し、占領下に置かれました。その結果、国を失った北イスラエル王国10部族は国外に脱出し、世界各地へと逃げ去ったのです。

それからおよそ140年後の紀元前586年、今度は南ユダ王国も、バビロニヤ帝国の侵略によって滅亡し、多くの住民は捕囚としてバビロン(現在のイラク周辺)の地に連れ去られてしまいます。それから50年近くたった後、南ユダ王国の2部族はバビロンの捕囚時代を経てエルサレムに帰還してきます。ところがその人数があまりに少ないことから、多くの南ユダ王国の民も歴史から姿を消してしまったと推測されるのです。つまり行方がわからなくなったのは北イスラエル王国の10部族だけでなく、多くの南ユダ王国の民も、失われたイスラエルの部族の中に含まれていたのです。

イスラエルの再建国と失われた部族

北イスラエル王国と南ユダ王国が崩壊した後、1948年の国連決議を経て今日のイスラエル国家が再び建国するまで、何と2500年もの年月が経ちました。その間、イスラエルの民は国を失ったまま、他国の統治下における生活を長年に渡り強いられてきたのです。

今日のイスラエル国民は、南ユダ王国2部族を構成したユダ族ベニヤミン族の子孫、そしてユダヤ教に改宗した諸外国人で占められています。そこには北イスラエル王国の10部族は含まれてない、と一般的に考えられています。その結果、足取りが途絶えた北イスラエル王国の民は、イスラエルの「失われた10部族」と呼ばれるようになったのです。

実際には、それら10部族だけでなく、多くの南ユダ王国2部族の行方もわからなくなっていると考えられます。これらの失われたイスラエルの民は、地球上のどこに向かって足を運んだのでしょうか。さまざまな憶測が飛び交う中、昨今ではイスラエルの学者らにより、特に失われた10部族の行方を追っていく研究が進められ、アジア大陸の各地にイスラエル移民の痕跡が見いだされています。

イスラエル国家の崩壊と日本建国との接点

行方がわからなくなったイスラエルの民、すなわち離散した北の10部族、および、南ユダ王国の2部族の民の行方は、日本の歴史にも大きく関わっていた可能性があります。日本には歴代天皇年表もしくは皇歴と呼ばれる天皇家の年表が存在します。その記録を辿ると、紀元前660年、神武天皇が即位した時点から今日まで125代にわたる天皇家の歩みが暦に記されているのです。

確かに万世一系の立証は難しく、この年表の中には学問的な見地から、その存在さえも疑問視せざるを得ない天皇が記載されているという指摘もあります。しかしここで大切なことは、暦から計算できるおよその年代を想定したうえで、その数字が重要な意味をもっているという前提において、その時代背景とアジア大陸の情勢を振り返り、そこに何かしら歴史の接点や因果関係がないかを、しっかりと検証することです。

すると日本の初代天皇の年代は北イスラエル王国が滅びてからおよそ60年後となり、南ユダ王国が崩壊の危機に直面していた真っ只中と同時期であったことがわかります。つまり南北イスラエル王国の崩壊と時期を同じくして、日本国家の歴史が始まった可能性が見えてくるのです。果たしてここに歴史の接点があったのでしょうか。

文明開化からはじまる日本古代史

日本列島という大陸から離れた離島においては、本来、原始的な文化から歴史が始まるはずです。ところが日本の有史においては、何故か突然のごとく、高度な文明をもっている人々が列島各地に姿を現しています。それらの国生みの神々は船に乗って島々を行き来することが常態化していたように見受けられ、船を用いて海を航海するだけの文明を当初から保有していたようです。また、人々の行動を記録するだけの文字文化も存在していたからこそ、それらが克明に記録され、最終的には日本書紀や古事記などの史書に編纂されて、神話化された記述にまとめられたのではないでしょうか。

これら一連の歴史の流れは、古代、イスラエル人が日本に渡来したという前提で考えることにより、歴史のつじつまが合います。大陸文化の流入がなければ、弥生時代後期における日本文化の発展も想定できません。また、歴史人口学によると、数世紀に渡り100万人以上の大陸からの移民の流入を想定しない限り、古代日本において人口が急上昇したことを説明する術はないようです。

失われたイスラエルの部族が古代、日本に渡来したという前提で歴史を見直すと、これらのパズルが紐解けてくるようです。日本の宗教文化の発展や、さまざまな風習、言語の用い方なども含め、日本古来の文化が発展した経緯の背景にはイスラエルの文化が存在し、日本建国の土台となる真相が浮かび上がってきます。

コメント
  1. 谷口一 より:

    アブラハムは紀元前2166年ごろ、シュメール文化の中心地である首都、ウルで生まれました。
    エビデンスはどこにあるのですか。

  2. 中島 より:

    日本では出自を見極めるために古くから戸籍が重要視され、家系図が大切に考えられてきました。籠神社に収蔵されている海部氏系図は平安時代までさかのぼり、その他、国生みの時代までたどれる出雲国造関連の系図などもあります。

    同様に、イスラエルは古代より家系を重要視し、イスラエル人特有のこだわりと英知をもって長い歴史にわたり、それら家系に関わるデータを文書化して温存してきました。その結果が旧約聖書の歴史書に残されており、世代ごとにきちんと年数も書かれています。よって、北イスラエル王国、南ユダ王国の崩壊から遡り、ソロモン王の時代、ダビデ王の時代へと年代をきちんと換算することが可能であり、そこからさらに系図をたどると、アブラハムの時代にまで到達します。

    その年代はおよそ紀元前21世紀頃と考えられ、2166年というのは単なる計算値であり、アバウトに考える必要があります。アブラハムの生涯については詳細が創世記に記されています。その内容については、昨今の考古学関連の研究成果からも、確認できます。

    最近ではNational Geographicにも、発掘調査関連の記事が掲載されています。
    https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/16/a/031500018/
    この調査では、発掘された古代の粘土板に記録されている事項からも解析が進められています。その結果、ウルという古代都市がメソポタミア南部を支配した時期が紀元前2000年頃であることもわかり、そこには6万人を超える大勢の人々が暮らしていただけでなく、「輸出用の毛織物や絨毯を生産する大規模な工場もあった」ことがわかりました。また、同時期、ウルの最盛期に人気を博した、「フンババ神の仮面」と呼ばれる古代シュメール人に伝承される作品も発掘されました。これらの調査結果からも、ウルという町の存在は史実として特定され、聖書の歴史書に記載されているアブラハムの生涯に関する記述とも一致することがわかります。今後、ますます発掘調査が進められ、さらに詳細が解明されていくことと考えられます。

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