1. ホーム
  2. 天皇家のルーツはユダヤ?
2021/01/13

南ユダ王国の滅亡と民の行方

北イスラエル王国の民が離散し、アジア大陸を東方へと移住しはじめた直後から、南ユダ王国も滅亡への道を辿り始めます。その時代における人の流れを掴むことにより、古代イスラエルと日本には歴史の接点が存在した可能性が見えてきます。北イスラエル王国が崩壊した前722年頃、南ユダ王国ではヒゼキヤ王による宗教改革が行われ、古代の祭祀活動が復興し、民衆の信仰も高まりました。ヒゼキヤ王による宗教改革は、過去にも類をみない膨大な規模を誇るものでした。その精神的な復興、国家のリバイバルを糧にして民衆が一丸となった結果、北イスラエル王国を崩壊させたアッシリアによる侵略に対しても南ユダ王国は歴史的な勝利を治め、国家は安泰の日々を過ごすことができました。

その宗教改革の背景には、王の指南役として活躍した預言者イザヤの的確なアドバイスがありました。祈りのうちに神の言葉を聴くことができたイザヤは、国家が問題に遭遇し、侵略される危機に直面する度に、国王が何をなすべきかを告げることができたのです。そして神を信じ、イザヤのアドバイスに従って真摯に行動した結果、ヒゼキヤ王は敵国の侵略に対してことごとく勝利を治めることができました。こうしてヒゼキヤ王が在位している間、南ユダ王国は長らく繁栄し続けたのです。

熱心な信仰をもって神のお告げのとおりに改革を行ってきた南ユダ王国のヒゼキヤ王でしたが、その晩年は神への背信行為を繰り返すこととなり、神の叱責をかうことになります。ヒゼキヤ王は晩年、難病に侵されて死を目前にしながらも奇跡的に病気から快復し、延命の日々を15年、神から与えられたことをイザヤから告げられました。よって本来ならば、さらに神に感謝を捧げながら余生を送ることになるはずです。ところが病気から快復した後、ヒゼキヤ王の態度は激変し、背信行為に身を委ねてしまうのです。神を見捨て、荒れ果てた王の姿を目の当たりにしたせいでしょうか、ヒゼキヤ王の子、マナセ王子も神を信じることはありませんでした。むしろあざけ笑うがごとく、マナセ王子は国王になると、南ユダ王国の歴史でも類をみない悪事と暴挙を繰り返し行ったのです。その結果、北イスラエル王国と同様に、南ユダ王国に対しても神の怒りと裁きがくだることになります。こうしてヒゼキヤ王が亡くなった直後の時代から、南ユダ王国は一気に衰退したのです。

マナセ王が亡くなった後、歴代国王の中には一時、神に帰依した王も存在し、国家が平安を取り戻す時代もありました。しかしながら人々の信仰と神に対する誠実な想いは長続きすることはなく、継続して台頭する悪徳な国王が横暴を振るい、民衆が不信仰の罪に染まることに対する神の怒りは収まりませんでした。そして北イスラエル王国が崩壊した後、1世紀余りで、南ユダ王国も壊滅したのです。

現存するエルサレムの城壁
現存するエルサレムの城壁
紀元前586年、南ユダ王国はバビロンの侵略により滅び、エルサレム神殿は破壊されました。そして王国に在住していたユダとベニヤミンの2部族、及び祭祀のレビ族は、バビロンに捕囚の身として連れていかれたのです。南ユダ王国が崩壊した際、国民全員がバビロンに連れ去られていったわけではありません。エルサレム周辺の住民の多くは捕囚の民となりましたが、一部の貧しい民は、エルサレムに残されました。また、当時の南ユダ王国全体の民の数は百万人をゆうに超え、あまりに多かったことから、実際には北イスラエル王国の「失われた10部族」のように世界各地に離散した民も少なくはありませんでした。つまり、南北イスラエル国家の崩壊で失われたのは北の10部族だけでなく、残りの南2部族も、歴史の中に消え去っていく民が多く存在したのです。

エルサレム神殿の跡を望む
エルサレム神殿の跡を望む
その歴史的背景や、ヒゼキヤ王が在位した前後の南ユダ王国の人口、および捕囚の民の数については、聖書の歴史書から推察することができます。北イスラエルが崩壊した前722年から136年を経た前586年、遂にユダ王国も滅びます。そしてバビロン国王はイスラエルの民を捕虜として捉え、「エルサレムのすべての市民、およびすべてのつかさとすべての勇士、ならびにすべての木工と鍛冶1万人を捕らえて行った」ことが記録されています(列王24:14)。エルサレム周辺に残った民は、国の民のうち、貧しい者のみでした。

南ユダ王国の民がバビロンに捕囚された後、時を経てエルサレムに最初に帰還してきた人々の数は、「会衆は合わせて42360人、男女の奴隷が7337人、歌うたう者が男女合わせて245人あった」(ネヘ7:66)と聖書に記録されているとおり、その数は多くありませんでした。バビロンよりエルサレムに戻ってきた部族は南ユダ王国に属するユダ族の子孫、ベニヤミン族の子孫、そしてレビ族の祭祀であり(ネヘ7:3-42)、その祭祀の数は4289人しかいませんでした(ネヘ7:39-66)。

エルサレム 嘆きの壁
エルサレム 嘆きの壁
また、帰還した際にエルサレムには「ユダの子孫、ベニヤミンの子孫、およびエフライムとマナセの子孫が住んでいた」(歴上9)と記されているとおり、南ユダ王国の支族ではない、エフライムとマナセ族も、エルサレムに居住していたことが記録に残されています。捕囚の時代から北イスラエル国の民も、少数ながらエルサレムに残留していたのです。南ユダ王国に属するベニヤミン族の領地は、北イスラエル王国のエフライムと隣接していただけでなく、その北方にはマナセ半部族が居住していたことから、それら北イスラエル王国の2部族は、古くから南ユダ王国と行き来があったことでしょう。それ故、国難に遭遇した際に、一部、北イスラエルの2部族は南ユダ王国のエルサレムにのがれ、そのまま滞在することになったと推測されます。しかしながらこれら2部族に関する記述は、この聖書の1か所に限り、その後の足取りについては何ら記録が残されていないことから、あくまでも推測にすぎません。

嘆きの壁近くに建てられたオマールモスク
嘆きの壁近くに建てられたオマールモスク
これらの記述から、北イスラエル国の民と同様に、南ユダ王国の民も、その多くが世界各地に離散したと考えられます。南ユダ王国が崩壊した前586年の時点でも、その総人口は数百万人に膨れ上がっていたと推測されることから、バビロンに捕囚の民として連れていかれたのは一部の民であり、残りの多くは世界各地へと離散したに違いありません。その結果、バビロンに連行された捕囚の民の数は限られており、最終的にバビロンからエルサレムに帰還した民の数も少なかったのです。

今日見ることのできるエルサレム城壁の跡
今日見ることのできるエルサレム城壁の跡
1世紀の歴史家、ヨセフスによると、「捕囚の地からエルサレムに帰還した者の数は、42462人であった。」と記されている通り、捕囚の民の数は限られていました。南ユダ王国に住む多くの民も、実は歴史の流れに消えていったのです。つまるところ、南ユダ王国が崩壊した際、その2部族と祭祀レビ族の多くは、バビロンに捕虜として連行されることを拒み、国から逃れて世界各地へ離散したと推測されます。その2部族のひとつがユダ族であり、それがイスラエルのダビデ王朝を継ぐ王系一族です。多くの民がアジア大陸の各地に徒歩で離散していく最中、国家の崩壊を未然に察知した王族らは、海洋豪族の力を借りて船を使い、新天地を目指したと推測されます。そして一行が目指したのは、アジア大陸のはるか彼方にある東方の島々でした。新しい歴史の舞台が東アジアに登場する予感がします。

コメントする

コメント
  1. shu hashimoto より:

    「いざ しゅったつ」って、イザヤが出発した時の有り様か、かけ声が元なのではと思いますがどうでしょうか?

  2. rick より:

    「さくらさくら」の歌にも「いざや、いざや」と繰り返し歌われます。その意味も本稿では解説しています。「いざや」という言葉自体、イスラエルの預言者、イザヤの名前であり、その意味も、神の救いにちなんだものです。そして「いざ」という言葉が「救い」に繋がるヘブライ語であることから、例えば、「いざ、出陣!」という掛け声にしても、戦いの前に、神に救いを求める祈りの言葉としても理解できると考えられます。

中島尚彦

中島 尚彦

1957年東京生まれ。南カリフォルニア大学、ペンシルベニア大学ウォートン校、フラー神学大学院卒。音楽系ネット通販会社サウンドハウスの創業者。古代史と日本古来の歌、日ユ同祖論の研究に取り組むとともに、全国の霊峰を登山し、古代遺跡や磐座の調査に本腰を入れている。

筆者プロフィール Instagram Twitter