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古ヘブライ文字とアラム文字をルーツに片仮名は草案されたか!

日本語の文字として日常使われている平仮名と片仮名は、一般的には漢字を省略、もしくは草書化するという過程で平安時代に考案されたと考えられています。ところがその読み方と文字の形に合致する漢字が複数ある中で、なぜ特定の漢字が選ばれたのか、またその基準は何かということに関しては定説がありません。例えば「あ」と読むことのできる漢字は「亜」、「阿」など、複数ありますが、これらの漢字からどのようにして一つの漢字を選び、それを日本固有の文字の原型として差別化したのでしょうか?

日本古代の文字としては、アヒル文字とも呼ばれる神代文字が史上最古であるという見解もありますが、定説では大陸より持ち込まれた漢字が、日本で使われた最初の文字ではないかと言われています。興味深いことに、これらの漢字は仮名文字が創作された頃から、仮名に対し、「真名」とも呼ばれていたのです。仮名文字が漢字表記の補助的な役割を果たしながら、次第に独立した日本固有の表音文字として使われ始め、時に漢字と仮名が対峙するようになった結果、仮名文字に対して漢字を「真名」と呼ぶようになったのでしょうか。

「マナ」と言えばイスラエルの民が荒野をさまよい歩き、約束の地であるカナンの地へ旅している途中、神が天から降らせた食物の名前として有名です。「マナ」の原語を直訳すると「これは何」となり、それは神から与えられた命の賜物を意味しています。旧約聖書の申命記にはマナが与えられた理由として、「人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。」と記されています。マナは命の象徴であり、神の言葉に直結する意味を含んでいたのです。新約聖書においては「言葉には命がある」という記載も見られ、イエスキリスト自身も、「わたしは天から降って来たパンである」、「朽ちる食べ物のためではなく、永遠のいのちに至る食物のために働くがよい」と語られたのです。よって「マナ」とは「永遠の命」に至る食物の意味があり、人は神の言葉によって生きるという教えに繋がっていたことからも、「マナ」と「言葉」の関連性をうかがうことができます。

漢字が当初「真名」と呼ばれたのは、天から降ってきた無数のマナをイスラエルの民が食べて生きながらえたように、大陸より紹介された多くの漢字から知的な恵みを得て、日本の文字文化が息吹き始めたことを象徴するためかもしれません。そして、それらの漢字を「真名」と呼び、日本の文字文化の骨子となるべく「命の言葉」と表現したと考えられるのです。日本古語で愛をマナと読んだ理由も、神の賜物や永遠の命というテーマに関係していた可能性があります。こうして多くの渡来人の流入と共に、漢字文化は急速に普及していくこととなります。

さて、「真名」という言葉に象徴されるように、古代日本文化の根底には、イスラエルの文化が息吹いていました。その一例を日本語の文字体系に見出すことができます。ヘブライ語のアルファベットは、22の子音と「アイウエオ」と同じように発音される5つの母音から成り立っています。日本語の文字にも「あいうえお」と読む5つの母音があり、それに9文字の子音を組み合わせ、最後に「ん」を足した文字列から構成されています。そして興味深いことに、「だ」、「ぱ」などの濁音と半濁音が含まれる文字や、「じゅ」、「みゃ」などの拗音を伴う文字を個別の子音と捉えるならば、子音の総数は22になります。例えば「ぴゅ」という文字は「は行」の「H」という子音に属するのではなく、「PY」という別の子音に「う」の母音を足してできた字と考えるわけです。そうすることにより、新しく子音が13種類加わり、日本語の仮名文字もヘブライ語と同じく22の子音数を持つことになります。しかも仮名文字は片仮名に限らず平仮名も含めて、同等の読みとなる古代ヘブライ文字や、その原型となるアラム語の形状に酷似しているのです。これらはすべて、単なる偶然ではなかったのです。

古代日本に持ち込まれたヘブライ文字

前8世紀、イスラエルの北王国がアッシリアの攻撃を受けて崩壊した後、一世紀ほどしてから南ユダ王国も壊滅し、多くの難民がイスラエルを出国して世界各地へと離散していきました。そしてアジア大陸を東の果てまで横断し、そこから舟に乗ってさらに東に浮かぶ島々、日本列島まで到達した民も少なからず存在したと考えられます。中には西アジアの港から舟を用い、大陸の海岸沿いを航海して日本列島までたどり着いた民もいたことでしょう。もしその仮定が正しいとするならば、高度な文明を既に携えていたイスラエルからの渡来者により、彼らが用いていた固有の文字が古代の日本社会にもたらされていたはずです。特にイスラエル系の民は文字を大切にする民族であり、モーセの十戒に代表されるイスラエルの律法や預言書を大切に保管していたと考えられるだけに、それらの文献を携えてきたに違いありません。それゆえ、読み書きができる者は極わずかな一部の律法学者に限られていた古代社会においても、イスラエル民族固有の文字が日本列島に持ち込まれたと推定できるのです。

無論、当初はイスラエル系渡来者の数は少なく、特にイスラエルから旅する途中、どこにも滞在することなく、直接日本列島まで到来した人数はごく僅かであったことでしょう。また列島に移住した際、イスラエルの民が拠点とした地域も、渡来者の総数が少ないだけに限定されたと考えられます。その上、離散したイスラエルの民は、自らの軌跡を移住した拠点に残さず、その存在が知られないようにしていると噂される程、歴史に爪痕をほとんど残さないまま今日に至っています。それゆえ、古代の日本社会において、いつ、どこに、イスラエル系の渡来者が訪れ、そこを生活の拠点としたかということを知るためのデータを見出すことは、困難なことでしょう。しかしながら、文化的背景や、さまざまな状況証拠などから、そのヒントを見出すことは可能です。そしてそれらのデータから、事実、彼らが日本に来ていたことを察することができるのです。その最も顕著な事例のひとつが、日本固有の文字と言われる仮名文字の存在です。

日本固有の文字が草案された背景

昨今の人口統計学によると、弥生時代後期における大陸からの移民の数は100万人とも言われています。確かに膨大な数に上る渡来者が朝鮮半島を経由して日本列島を訪れたことには違いなく、その結果、弥生時代の歴史が古墳時代、飛鳥時代、そして奈良時代へと一気に移り変わっていきます。突如として訪れはじめた大勢の渡来者の中には、中国で高度な教育を受けた知識層も含まれており、必然的に漢字文化が古代の日本社会に紹介されることとなりました。そして渡来人を中心とする学者の間では、有無を言わさず、漢字が主流の文字として使われるようになったのです。これら新しい渡来者の波に押され、遥か昔に日本列島へと移住してきた初代イスラエルの民の存在は、一旦は歴史の中に埋もれていくことになります。

日本と中国との文化交流が深まり、文字文化の象徴である漢字や、大陸に由来する宗教文化などが矢継ぎ早に国内に流入した飛鳥、奈良時代において、中国の優れた文化を日本に導入することは、もはや国家にとって不可欠であったことは言うまでもありません。しかも日本に居住する多くの知識層は大陸で既に高度な教育を受けてきた渡来人か、その二世、三世とも考えられ、高度な学問については中国で習得するか、もしくはそのコンテンツを日本においても学び続けるという図式ができていたのです。それゆえ、政権争いの渦中にあっても、遣唐使のように多くの学者・僧侶が大陸に旅立っていくことになり、中国との文化交流の過程において、漢字文化は知識層にとってコミュニケーション・ツールの基本として認知されたのです。そして中国大陸からの渡来者の波が長年継続したこともあり、日本列島では中国文化に通じた知識層を主体に、漢字文化が普及していきました。

しかしながら、学問の基本として既に認知された漢字ではあっても、所詮、中国語と日本語の間には言語としての相違点が多く、それらの文法も大きく異なっていました。また、漢字文化は一旦、知識階級層に普及するものの、日本固有の文字ではないこと、そして中国語を学ばなければ到底理解できない深い知識を必要としたこと、大陸で教育を受けてきた中国系の渡来者を圧倒的に有利な立場に置き、学問に限らず権力闘争に関わる内政や諸外国との交易においても多大なる影響を与えはじめたこと、そして中国語を理解しない在来の統治者、学者や住民などを不利な立場に追いやる結果を生みはじめたことなど、さまざまな問題が浮上し、国内に危機感が生まれることになります。その結果、中国の漢字文化とは一線を引く、日本独自の日本語の発音に適した文字を創作し、それらの固有の文字も普及させることが望まれるようになりました。

古代日本においては漢字文化が日本に紹介される以前より、文字の文化を持つイスラエル系の渡来者が既に列島を訪れており、その先住者によりヘブライ語を理解する文化の基盤が一部の地域に脈づいていました。そして時間が経つと共に、日本語を文字で表記する必要性に迫られるようにもなり、漢字文化が導入される以前から、日本語をヘブライ語のアルファベットで表記することが試みられたのではないでしょうか。その際、先祖代々伝承されてきたヘブライ文字が流用された可能性が高いと考えられます。特にヘブライ語の文字は、子音と母音の組み合わせにより成り立つ言語であり、どちらの言語も、「ア」「イ」「ウ」「エ」「オ」という五つの母音を共有するだけに、日本語の発音に準じて、それらにヘブライ語の文字をあてがうことは決して難しいことではなかったのです。つまり、ヘブライ語の文字は、仮名文字を創作する格好のお手本だったのです。こうして仮名文字が体系づけて創作されるベースは、遠い昔から着々と日本の土壌で培われていきました。

ところが一世紀前後を境にして中国大陸から新たなる渡来者の波が押し寄せ、瞬く間に中国語と漢字の導入が列島内で急速に浸透し、時代が一変します。新しい渡来者の中には、中国大陸に長年滞在した多くのイスラエル系の民も含まれ、中にはヘブライ語を流暢に扱うことのできる学者も少なからず存在したはずです。しかし、中国からの渡来者の波はその勢いを留めることなく、彼らが携えてきた漢字の文字文化は、あたかも日本語の主流となる言語であるかのごとく、特に中国語を母国語とする知識層によって大胆に広められていったのです。その時代の急変に危機感を抱いた在来の民は少なくなかったはずです。特に文字文化を既に持っていたイスラエル系の民は、漢字のみが日本語の公式な文字となることに不安を覚え、日本語にふさわしい日本固有のアルファベットを、先住者である彼ら自身が創作し、それを普及させることを望んだに違いありません。

その願いを叶える原動力として貢献したのが、弥生時代後期から奈良、平安時代にかけて国内の政治や経済、文化など、多岐にわたり大きな影響力を持った秦氏の存在であったと考えられます。秦氏らを中心とするユダヤ系の有力者が朝鮮半島より大勢渡来し、古代の日本社会で次第に頭角を現し、国家の中核となる朝廷においても影響力を持つようになるにつれて、古来より列島にて育まれてきた少数民族によるユダヤ文化の芽は、秦氏らが携えてきた同族のルーツに絡むユダヤ文化に後押しされ、日本の土壌で息吹くことになります。秦氏らは、中国大陸から朝鮮半島を経由して列島に到来し、代々中国語を読み書きできるだけでなく、祖国の言語であるヘブライ語を理解できる者も少なくなかったのです。特に朝廷を周辺として政権に関わる有力者の間では、ヘブライ語だけでなく大陸系の複数の言語を理解できる学者も大勢いたことでしょう。中国で教育を受けた渡来者の流入と共に、漢字文化は日本文化の中核となる言語構成において圧倒的な影響力を及ぼしましたが、これらの優れた渡来系の学者により、それまで培われてきた日本固有の文字文化の基盤も、共に活かされる時が到来したのです。

日本語の文字を草案するにあたり、その原型としてヘブライ語を用いることは、自らの民族ルーツを言語に残すという大切な証となるだけに、イスラエル系渡来人にとっては重要なことでした。そしてヘブライ語アルファベットや、その原点に関わるアラム文字など、当時、西アジア各地で普及した文字を参考に日本語の文字を体系づける努力が為され、仮名文字はユダヤ文化の証として、その存在感を現していくことになります。その試みは、大陸から流入してきた漢字文化との共存が明らかになることにより一気に加速し、圧倒的な利用人口の格差から生じる不利な立場を克服するべく、ヘブライ語と同じように子音と母音を組み合わせて日本語の発音にダイレクトにリンクした表音文字を草案する原点となったのです。こうしてイスラエルの民族が、先祖代々用いてきた文字文化に由来する新しい仮名文字の文化が、日本列島にて創生されました。

ごく一般的には、片仮名は万葉仮名を起源として、漢文を和読するための訓点として万葉仮名と併用して用いられたのが最初ではないかと言われています。しかし実際には、その時代をはるかに遡る遠い昔から、仮名文字が考案される文化の基盤ができ上がっていたと考えられます。少数派のヘブライ系渡来人が古くから存在した社会の中で、日本固有の文字文化が草案される環境は、大勢の渡来者が訪れ始めた弥生時代後期には既に整っていたとも考えられ、日本語の文字文化の必要性からしても、長い年月をかけて徐々に体系づけられたのではないでしょうか。そして、漢字文化が日本列島に広まるにつれ、背後で培われてきたへブライ文化を土台とする仮名文字も台頭してきたのです。

表面的には中国の漢字文化に由来しているように見える仮名文字の文化ですが、実際その根底には、同じ大陸文化でも西アジアのイスラエル系文化が脈々と流れていたのです。つまり仮名文字とは、ヘブライ語アルファベットを参考にして考案された、古代日本における最初の、表音文字からなる日本語のアルファベットだったのです。そして仮名文字は漢字文化の流入と共に徐々に活用され始め、簡単で覚えやすい表音文字であることから、日本語の基幹となる文字文化の中核として、末永く普及していくことになります。

片仮名のルーツとなる古ヘブライ・アラム文字

片仮名の疑問点を考察

片仮名は、平仮名が創作された平安時代と同時期に創作されたというのが定説です。そして、漢字の草書体から作られたと言われている平仮名とは異なり、片仮名は50音図を基に、漢字の一部をとってその字形を基に新たに文字が創作され、「仮の文字」、もしくは「片方だけの仮名」という意を含めて、片仮名と呼ばれるようになったと一般的に言われています。確かに漢字の一部分を流用して文字を形成したように見える片仮名は複数あるように見受けられますが、実際に片仮名の形状に似た断片を含み、しかも類似した発音を持つ漢字の数は複数あることから、どのような理由や基準をもって特定の漢字が選別されたかを理解する術はありません。更に漢字を基にした創作の経緯がはっきりしない文字も複数あることに気がつきます。例えば「キ」「シ」「へ」「ワ」「ン」等、漢字由来説ではその文字の成り立ちをうまく説明できません。

また、高貴な文学を綴るために用いられた平仮名とは別に、公文書を中心とした汎用性の高い文字として活用されるべく創作されたのがカタカナと言われていますが、果たしてそこまでして、平仮名と同様の表音文字を何故、創作する必要性があったのか、答えに窮してしまいます。他国の言語の例を見ても、外来語の文字を元に、二通りの同じ発音を持つアルファベットを同時期に創作するというような事例は見当たりません。文字の創生は複雑であり、その普及と理解に時間がかかることからしても、用途別にアルファベットの文字セットを重複する形で考案するような無駄な作業が行われるとは考えづらいのです。更に、日本の土壌においては漢字文化の流入がその根底にあることから、それに付随する形で別途、二系統のアルファベットを考案するような必要性が本当にあったのでしょうか。これまでの定説には多くの疑問が残されています。

平安時代に突然のごとく仮名文字が日本の歴史に姿を現した背景には、その原型となる外来の文字形が当初から存在したに違いありません。そして、それらの文字形から日本語の発音に準じる個別の文字が選別され、その形状に多少の工夫を凝らした文字のデザインが片仮名の原型になったと考えてよいでしょう。ところが、これまでは漢字がそのルーツであることが定説として謳われてきましたが、前述したとおり、様々な疑問が残されているだけでなく、片仮名の成り立ち全てを説明することができないのです。漢字以外に片仮名の起源を説明する手段はあるのでしょうか。

仮名文字を草案する際のベースとなった外来語を、遠い昔に日本列島を訪れたイスラエル系の渡来者がもたらしたヘブライ語と想定することにより、すべての片仮名文字の成り立ちをわかりやすく理解することができます。前七世紀以降、日本列島には徐々にイスラエル系の渡来人が居住する目的で到来し始めました。それから長い年月を経て、渡来人によっても日本語が語られるようになるにつれ、いつしか日本語も、その発音のままに書き記すにふさわしい表音文字を用いて書き記す必要性が生じたことでしょう。幸いにも、ヘブライ語と日本語は、共に「アイウエオ」と発音する5つの母音と子音の組み合わせによって文字が成り立つことから、ヘブライ文字を用いて日本語の発音に準じた表記をすることは簡単でした。それゆえに、同じ民族間でのコミュニケーションのツールとしても、古くからヘブライ語のアルファベットを用いて日本語が表記されたこともあったのではないかと想定されます。

こうして日本語の仮名文字は、ヘブライ語アルファベットを格好の模範として体系づけられ、最終的には、ヘブライ文字の子音に母音を組み合わせて文字形が整えられるようになったと考えられます。その結果、全ての片仮名文字はヘブライ語のアルファベット、及び、そのルーツに絡む同じ西アジア系に属するアラム語の文字形状の面影を残すこととなり、イスラエル系の民にとっては、大変馴染みやすく、覚えやすい文字として目に映ったことでしょう。片仮名で書かれた日本語ではありますが、ヘブライ語と同様の感覚で、いとも簡単に読むことができたのです。これまで漢字の一部から草案されたと考えられてきた片仮名ですが、実はその文字形状のルーツは全て、ヘブライ語に起因していたのです。

その後の時代においては漢字文化の流入と共に、イスラエル系渡来人の間では、日本固有の文字の重要性が再認識されただけでなく、漢字では表記しづらい表音文字として使用頻度が急速に増えていくことになります。そして満を持して平安時代に至っては、公の文献でも使われるようになり、日本語の文字文化の一端を担う存在として幅広く認知されるようになりました。そして後世に至っては、外来語を表記するために用いられただけでなく、近代までも漢文調のような格式を持った公文書では、漢字と併用して片仮名が使われてきました。

ヘブライ文字の起源

ヘブライ語は元来、イスラエル人の言語であり、アラム語、フェニキア語と共にセム語派に属します。前十四世紀頃、地中海周辺では村落間での物々交換において文字を使った伝達手段が発展し、フェニキア(今日のレバノン周辺) の地域を中心にフェニキア文字が使われるようになりました。そしてイスラエルもその文字文化の影響を大きく受けたのです。フェニキア文字は22 文字の実際の発音に準じるアルファベットから成り立ち、それがヘブライ語のアルファベットであるKetavIvriの原型になったと言われています。実際、フェニキア文字とヘブライ文字は、その子音数が同じであるだけでなく、その形状もほとんど同じです。

この22文字により構成されるヘブライ文字は、例えば旧約聖書を執筆する際に使われました。そして前六世紀、南ユダ王国の民がバビロニア地方へ捕虜として連行され、バビロン捕囚の時代に至るまで、ヘブライ語を表記する文字として使用されていたのです。ところが国家が崩壊した後は、多くの民が世界各地に離散して行方がわからなくなっただけでなく、南ユダ王国の民の多くは異国の地、バビロンの捕囚となったことから、単一国家の言語としてヘブライ語を代々に継承していくことが難しくなりました。そしてヘブライ語は周辺地域の言語の影響を著しく受けるようになります。特に前7世紀頃から中近東全域において広範囲に普及し、使われ始めたアラム語の影響は大きく、徐々に古代ヘブライ語の存在が歴史から消え去っていくことになります。

その後、前五世紀、捕囚後の国家再建にあたり活躍した祭司エズラにより、古代のヘブライ文字を復興する作業が試みられました。その際、文字の形状は元来の文字に類似するも、もう少々角ばったアラム文字の形を参考に書き換えられたのではないかと言われています。そして一般的にはヘブライ文字に類似した形状のアラム文字が使われるようになり、ヘブライ人が所有していたパピルスや羊皮紙には、ごく普通にアラム語が記載されるようになったのです。こうして古代ヘブライ文字は、時代と共に少しずつ形状を変化させながら一旦はアラム語にすり替えられていったのです。また、前一世紀頃までには死海文書に見られるような、今日、ヘブライ文字のアルファベットとして知られる、角ばった文字形に類似した書体も見られるようになりました。ヘブライ語には日本語でいう楷書体のような文字の他に、その形状を多少くずした筆記体も多く見られ、それらは草書体とも呼ばれています。その後、ヘブライ語とアラム語をベースにしたパルミラ語が、前一世紀から三世紀に全盛期を迎え、その文字形状からも、ヘブライ語の進化の様子が伺えます(表1参照)。これらの前七世紀から三世紀頃に普及したヘブライ文字やアラム文字、パルミラ文字などが、片仮名を草案する際のベースになったと考えられます。

片仮名成立過程の推測

ヘブライ文字から草案された片仮名

日本列島にイスラエル系の渡来者が訪れたのは、少なくとも前七世紀、イスラエルの北王国が崩壊した直後の時代まで遡り、それから何世紀にもわたり、移民の波は継続します。特に弥生時代後期にあたる前一世紀以降から三世紀にむけての渡来者の数は膨大であり、その中にはイスラエル系の民も多く含まれていたと考えられます。これらのイスラエル系渡来者によって高度な西アジアの文化が日本へ流入することになり、ヘブライ文字の文化もその例にもれず、初期の渡来者によって直接持ち込まれたと考えられます。そして、その後も継続して、ヘブライ語だけでなく、後のアラム語やパルミラ語まで、ヘブライ語の表記に使われていた文字が日本列島に紹介されたことでしょう。

片仮名のルーツとなるヘブライ語のアルファベットを振り返る場合、フェニキア文字をルーツとしたヘブライ文字からアラム文字、パルミラ文字、そしてより角ばった楷書体の文字までを網羅した上で検証する必要があります。これらの文字は千年近い年月をかけて徐々に進化してきていますが、文字形状の類似性からしても、イスラエルの文化が様々な地域の文化圏と交流をもち、相互が深く関わりあいながら、それぞれの文化が発展した様相を垣間見ることができます。そのヘブライ文化の象徴でもある文字の延長線に日本が存在し、列島においては、新たなる仮名文字の文化が開花したのです。

片仮名の形状を創作する方法は難しくありません。イスラエルの民が日本に渡来したと想定される時期に持ち込まれたと考えられる、ヘブライ語やアラム語のアルファベットに基づき、日本語の発音に対応する子音の文字、及び母音となる文字を選別し、それらを合わせてひとつの文字の形状にまとめるだけです。前述したとおり、ヘブライ語のアルファベットは時代と共にその形状を少しずつ変化させています。イスラエルからの渡来者が日本列島に訪れ、居住を開始した時期は前七世紀頃と想定されることから、ヘブライ語の文字を選別する際は、それから日本の弥生時代後期、古墳時代までを含むおよそ十世紀という長い期間にわたり使用されたと考えられる文字を検証する必要があります。

それら、片仮名を草案する際に用いられた可能性のあるヘブライ語の文字は、前六世紀に見られるヘブライ語のオストラコン、前六世紀以降の古代アラム語、前五世紀以降の帝国アラム語、そして死海文字やパルミラ語があり、全てが検討の対象になります。そして、これらのヘブライ語の文字をベースに、どのようにして片仮名が草案されたか推測するわけです。これら片仮名の原型となったアルファベットの文字は、(表1)に掲載されています。

また母音に関しては、今日では七世紀から九世紀頃にかけて、聖書に記載されているヘブライ語の文字を正しく発音する為に、イスラエルのマソラ学者達が考案したニクダーと呼ばれる母音記号が広く使用されています。しかしながら、片仮名が草案されたと考えられる時代においては、まだニクダーが存在しなかった為、長母音を表す4種の子音文字それ以前の古代ヘブライ語における母音表記方法が検討の対象となります。ニクダーが使われる以前の時代、既に前十世紀には、4つの子音文字、アレフa、へーh、ヴァヴv、ヨッドyが、母音としても併用して使われていました。そしてa(アレフ、a)はa/e/o(ア、エ、オ)、h(へー、h)もa/e/o(ア、エ、オ)、v(ヴァヴ、v)はo/u(オ、ウ)、y(ヨッド、y)はi/e(イ、エ)の母音として用いられたのです。

これら4つの母音を「アイウエオ」に相当する母音として用い、それらを子音と一緒にして合体した結果、新しい片仮名文字が草案されたと考えられます。西アジアの言語では、子音に付加される母音は、その下に記載されることが一般的ですが、言語や時期によっては母音が横や上部に付け加えられることがあります。それゆえ、片仮名の文字を創作するにあたり、母音の添付方法は、上、下、横、斜めと、およそ自由に、文字形を描きやすいように工夫されたと想定できます。時には母音を落として子音だけの形状にすることもあったでしょう。こうして日本語の発音に該当する文字は、ヘブライ語やアラム語のアルファベットに母音が足されて一体化され、その合作された文字の形状をわかりやすく整えることにより、片仮名の文字が完成されたのです。

片仮名をヘブライ語の文字を基本にして創作する際、大事な視点は、ヘブライ語が読めるイスラエル系渡来人が見て、一目で識別できるように子音もしくは母音の原型を残しながら、文字形を工夫することです。その主だった事例を幾つか挙げてみましょう。まず「イ」、「コ」、「ノ」や「レ」のように、子音の字体をほぼ、そのまま流用できる場合があります。次に母音を足して合作する方法ですが、「ク」、「ケ」、「ソ」、「ル」のように左側に足す方法や、「セ」のように右に足す方法、「シ」、「チ」、「ミ」や「ラ」のように上部に足す方法、「ニ」や「ユ」のように子音を横にして下部に足す方法、「ホ」のように文字の中心を上下に母音を交差させる方法、「ヌ」や「メ」のように斜めに交差して足す方法、「オ」のように斜めに母音を足す方法があります。また、「タ」、「ネ」や「ワ」のように母音を子音の上にそのままかぶせる方法もあります。特殊な事例としては、子音を横にして、その下に母音を付加した「サ」や、「ヒ」、「モ」のように子音そのものを反転した状態で文字形成したもの、そして「ロ」のように子音と母音を左右に並べて囲ったものもあります。

全ての片仮名が、ヘブライ語やアラム語の文字と母音を合作した文字の形状に酷似していることは、一覧表を見れば明らかです。こうして片仮名とヘブライ語は、元来、相互関係があったことを確認することができます。しかしながら、片仮名はヘブライ文字やアラム文字をそのまま流用したために、文字の形状があまりにも似すぎてしまったのです。そのため、片仮名のルーツがあからさまに公開されてしまい、非イスラエル系の民の反発を買う危険性を秘めていました。それゆえ、そのヘブライルーツを隠蔽するために、漢字から創られたように見せかける必要があったのかもしれません。そして最終的にはヘブライルーツがわかりづらく、日本固有の独創性がより顕著な文字の創作が望まれた結果、平仮名が考案されることになります。そして片仮名はいつしか、漢字ベースの創作文字として長年にわたり謳われることにより、そのヘブライルーツの実態が今日まで忘れ去られることになりました。