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2026/06/21

平仮名のルーツに迫る ‐総集編‐ ひらがなが草案された歴史的背景を詳しく検証

平安時代に創作された平仮名の歴史

高野切 第1巻 『古今和歌集』の現存最古の写本
高野切第1巻『古今和歌集』の現存最古の写本
現代の日本語は、漢字、平仮名、片仮名、そして時にはローマ字も含む複数の文字体系を組み合わせて表記されています。漢字は中国に由来する文字であり、ローマ字も海外から伝来した文字であることはよく知られています。これら2種類の外来文字に対し、平仮名と片仮名は漢字をもとに日本で創作された文字と考えられており、日本独自の文字として平安時代から存在したというのが通説です。しかし平仮名と片仮名は同じ発音の表音文字であるにもかかわらず、なぜ2種類の仮名が作られ、それぞれが今日まで漢字と併用され続けているのでしょうか。この点を不思議に思われる方も少なくないでしょう。しかも、これらの仮名文字は、時代の変遷とともにその用いられ方が大きく変化していくのです。

平仮名は日本固有の文字として万葉仮名に取って代わり、広く普及していきました。平安時代には、和歌や歌謡、女流文学などにおいて広く用いられ、日本語を書き表すための重要な手段となりました。当初は漢文や漢字主体の文章を補うために使われていましたが、やがて作者たちは平仮名を漢字と組み合わせて、自由に文章を綴るようになります。平仮名が急速に普及した背景には、日本語の発音や文法をより自然に表記したいという長年の要望がありました。そして平仮名は単なる補助的な文字にとどまらず、単独でも文書を表記できる文字として、日本語表記を支える大切な要素として定着したのです。

平仮名は現在の学校教育においても、最初に学ぶ日本語の文字として重視されています。もともと字母表にまとめられた仮名の数は、「いろは」47字にヤ行の「え」を加えた48字で構成されていました。そのため、平仮名を「いろは」に基づいて学ぶ時代は長く続き、近年まで多くの辞書においても、仮名文字は「いろは」順で並べられていました。明治時代になると、小学校令施行細則においてヤ行の「え」が、「ん」に置き換えられて字母表として整理されました。さらに戦後は、五十音図による表記を用いて平仮名が学ばれるようになりました。

しかし、平仮名が日本語表記の中心となったのは比較的最近のことです。戦前の公文書や出版物を見ると、むしろ片仮名を漢字と併用する表記が広く用いられ、片仮名が日常的な文章表記において重要な役割を担っていました。当時の国語教育においても、片仮名の読み書きを基本としていたことが、教科書や教育資料からうかがえます。実際、明治時代に編纂された最初の国定国語教科書である「尋常小学読本」の編纂趣意書には、「児童ノ学習シ易キ片仮名ヨリ入リタリ」、と記されており、日本語の読み書きを学ぶ際には、まず片仮名から指導する方針が示されていました。片仮名は直線的で簡潔な字形を持つことから、教育上の観点からも学習しやすい文字と考えられていました。そのため、多くの子どもたちは最初に片仮名を学び、その後に平仮名を「いろは」に沿って習得していたと考えられます。

このような片仮名を主体とした日本語教育の流れは、戦後、大きく転換していきます。それまで主流となっていた片仮名主体による表記が、平仮名主体の表記へと置き換えられ、広く用いられるようになったのです。こうした変化の背景については、教育改革や国語政策の見直しをはじめ、さまざまな要因が指摘されています。そのひとつとして、戦時中の公文書や勅令などに片仮名が多用されたこととの関連を指摘する見方もあります。戦後社会が新たな時代への転換を模索するなかで、従来の表記慣習が見直されたのかもしれません。平仮名は曲線的な字形を持つことから、片仮名に比べて柔らかく親しみやすい印象の文字として受け止められたことでしょう。そのため、五十音図による平仮名教育の普及は、新しい時代の幕開けを象徴する役割も果たしたのです。

こうして時代の流れとともに、仮名文字の中心的な役割が片仮名から平仮名へと移り変わっていきました。それにしても、なぜ、日本には片仮名と平仮名という類似した2種類の表音文字が存在したのでしょうか。その謎を紐解くためにも、まず仮名文字のルーツとされる漢字文化が、どのように日本に伝わり、受容されていったかについて、振り返る必要があります。

仮名文字の土台となる漢字文化の発展

明恵上人歌集(1248年)
明恵上人歌集(1248年)
日本に漢字が紹介されたのは、古墳時代の中期にあたる5世紀から6世紀にかけてであると言われています。しかし2~3世紀、邪馬台国の時代には、すでに中国からの使者が倭国を訪れていたことが中国史書に記載されています。実際にはそれ以前から、朝鮮半島を経由して多くの渡来者が日本に渡来していたと考えられており、その中には中国で教育を受けたとされる秦氏らも含まれていました。それゆえ、漢字そのものは、遅くとも1~2世紀頃には日本列島にもたらされていた可能性があります。いずれにしても漢字文化は徐々に古代の日本社会へ浸透し、飛鳥時代から奈良時代にかけては、「古事記」や「日本書紀」に見られるように、中国語の文法や表現を基礎とした漢文が日本における文字表記の主流となりました。高度な文明を有する中国の影響を受けることにより、漢文を学び、それを読み書きする文化が発展していったのです。

このような大陸由来の文字文化を日本へもたらす原動力となったのは、言うまでもなく中国大陸から朝鮮半島を経由して日本に渡来した人々でした。漢文が日本に導入される過程で、すでに漢字を自在に使いこなしていた渡来者の影響は大きく、渡来系の学者や書記官の存在は古代日本文化の発展において重要な役割を果たしました。それらの渡来者の中には、秦氏のように中国大陸で高度な教育を受けた人々も含まれていました。また、長い年月をかけて大陸を東へと移動し、日本へ渡来してきた西アジアからの移民も存在していたと考えられます。こうして大陸の文化が積極的に受容される中、それまで文字の文化が十分に普及していなかった日本では、中国語を規範とする漢文を理解し活用するために、漢字を習得することが急務となったのです。そして、支配層においては漢文を習得した書記官や学識を備えた学者が重用され、彼らによって国家統治や文化形成に多大なる影響を与える文献が編纂されていくことになります。

また、漢字が日本に紹介されたのが4世紀前後という定説を前提として考えれば、それから仮名文字が成立した平安時代までには、少なくとも500年という長い年月が経っていることにも注目です。この長い年月こそが、漢字文化が日本に伝来した後、直ちに日本語に適した独自の文字体系に移行する必要がなかったことを示しています。長期間にわたり漢文が用いられ続けた背景には、漢字や漢文に精通した渡来系の学者や書記官の存在がありました。古代日本の文化形成や文書行政は、こうした知識層の担い手によって支えられていたと考えられます。

長期にわたる漢文文化の受容は、渡来者が古代日本社会の中で重要な役割を果たしていたこと、そして日本社会と渡来者との間に、単なる異文化接触を超えた人的・文化的な結び付きが存在していた可能性を示唆しています。少なくとも、漢字や漢文は外来文化として排斥されることなく、日本社会の中枢で受け入れられ、長い年月をかけて日本独自の文化へと昇華されていきました。その背景には、渡来者と在来社会との継続的な交流と融合があったと考えることもできるでしょう。

漢字を日本語化し、日本語を表記するための文字体系として発展させる動きは、奈良時代から平安時代に至るまでほとんど見当たりません。このことからも当時の渡来者と倭人との間には、明確に区別できるような人種的・文化的な隔たりがそれほど存在しなかったのかもしれません。一方で、継続的に渡来者が流入する中で、漢文は次第に社会の中で重要な位置を占めるようになり、深く定着していったと推測されます。それは、漢字文化を持ち込んだ渡来者たちが古代文化の形成に貢献しながら列島社会へ同化していったことを意味します。渡来文化そのものが列島へ流入し、日本文化の一部として取り込まれていく過程は、日本語の文字の歴史からも読み取ることができます。

漢文で書かれた「日本書紀」と「古事記」

真福寺収蔵の「古事記」(国宝)
真福寺収蔵の「古事記」
渡来者がもたらした中国の漢字文化と古代日本の漢字文化が近接した関係であったことは、日本最古の文献として名高い「古事記」と「日本書紀」から見て取ることができます。「日本書紀」は奈良時代の720年に完成した日本最古の正史です。史書の記述によれば、これ以前にも聖徳太子が著したと伝えられる「国記」や「天皇記」などの文献が存在したとされています。しかし、それらはすでに失われており、その内容や実態は不透明のまま今日に至っています。

天皇の命を受けて編纂された「日本書紀」は、おそらく当時の高度な漢字文化に通じた渡来系の書記官や学者らの手によって書き綴られたものでしょう。一般的には日本語に準じた漢文で書かれた史書として受け止められがちですが、実際は、ほぼ中国語として理解できる格調高い漢文体によって記されています。そこに用いられている語法や修辞上の対句などは中国の古典的な漢文に倣っており、倭習と呼ばれる日本語的な漢文表現は最小限に抑えられています。こうした特徴から、「日本書紀」は古代日本で編纂された史書でありながら、粋な漢文体に近い形で記された、中国の漢文文化の伝統を色濃く受け継いだ文献と言えます。

巻第十の写本(田中本)平安時代・9世紀 現存最古写本。
巻第十の写本(田中本)
平安時代・9世紀 現存最古写本
現存する日本最古の歴史書として知られる「古事記」は、712年に朝廷へ献上されています。「日本書紀」と並ぶ古代文献ですが、その文章表現には「日本書紀」とは異なる特徴が見られます。「古事記」も基本的には漢文で記されていますが、その文体には中国語的な要素と日本語的な要素が複雑に入り交じっています。特に日本語化された漢文表現である倭習の傾向が「日本書紀」よりも強く見られ、古代からの伝承と考えられる歌謡や固有名詞など、漢文での表記が難しい箇所においては、一字一音表記で記されている点が特徴です。

「古事記」の解釈が難しいことは、古代の編纂者である太安万侶が序文で述べた言葉からも窺えます。太安万侶は、訓によって述べても「詞不逮心」、つまり言葉が意図を十分に伝えきれず、また音訳で表記しても「事趣更長」、すなわち文章が長くなると記述しています。実際、「古事記」は中国語と日本語の要素が融合した独特の文献であり、その解釈は難しく、訓読みすることによって理解できる箇所がある一方で、音読みでしか理解できない歌謡などの表現も数多く含まれています。そのため、「古事記」を読み解く際には、さまざまな角度から解釈していく必要がありました。

このような「古事記」の存在は、古代日本において漢字文化が受容される過程を示す貴重な痕跡とも考えられます。すなわち、長い年月をかけて漢字本来の読みである音読みを基盤として、日本語本来の語彙や表現に対応する訓読みを交えながら、漢字の日本語化が進んでいった過程を示す証でもあるのです。

文字の日本語化を先駆した万葉仮名

元暦校本万葉集
“元暦校本万葉集”
licensed under CC BY-SA 3.0
その後、日本語での発音をわかりやすく表記する手段として、漢字そのものを音仮名として用いる試みが始まりました。それが後に万葉仮名と呼ばれる表記法の発端となります。漢字が日本列島に普及し始めてから長い年月を経た平安時代において、漢文を難なく読みこなすことができる学者は、多くは存在しなかったことでしょう。また、中国語を基盤にした漢文では、日本人の思いや感情を正確に伝えられないことは明らかでした。それゆえ、漢文を日本語として理解しやすくする努力がなされるにつれて、日本語の読みを明確にするため、万葉仮名という手法が用いられ始めたのです。万葉仮名の字形は、基本的に元来の漢字と同じではあるものの、文字を書き記す際の手間を減らすため、より速く簡潔にかけるよう工夫が重ねられました。その結果、万葉仮名の字形は少しずつ崩され、やがて平仮名へと発展していきます。こうして文字の日本語化としての創造性が徐々に形を表していったのです。

しかしながら、依然として漢文表記が主体であったため、万葉仮名の活用には限界がありました。特に、日本語の特色である活用語尾や、「いる」「ある」などの助動詞、また「てにをは」に代表される助詞を書き記す必要性にも迫られ、漢字の文章だけではどうしても日本人特有の感情や信条を十分に書き表すことが難しかったのです。「てにをは」の語源は、漢文を読む際の補助となる四隅に記載されたヲコト点(乎古止点)であることからしても、漢文を解釈する際の補助がいかに重要であったかがわかります。万葉仮名の普及は、漢字に付随する文字の活用法の限界や不便さを知らしめる結果となり、いつしか日本語を表記するに相応しい日本独自の文字創作の重要性が再認識されることになります。その結果、日本固有の文字として創作されたのが、平仮名です。

歴史に影を潜めた片仮名の存在

ごく一般的には、平安時代に平仮名が考案され、その後、漢字の一部をとって片仮名が作られたと考えられています。しかし漢字が日本列島に紹介されてから、仮名文字が草案されるまでの5世紀以上もの長い年月の間、果たして本当に漢字以外の文字が使われることはなかったのでしょうか。

古代日本において漢字が普及した理由は、次々と大陸から訪れる渡来者の多くが漢字文化圏の出身であり、流入する文化が中国大陸の影響を大きく受けていたからでしょう。そして、それらの多彩な大陸文化は早くから列島各地に紹介され、中国語による漢文は奈良時代から平安時代にかけて浸透していきました。また、公文書は漢文で書くことが慣例となっていたこともあり、支配階級にとって政治や文化を語る際には不可欠なコミュニケーションの手段となったのです。実際には当時の支配階級の多くが中国語を理解する渡来系の人々であったと想定されるため、政治に関わる書簡や記述、そして学問の修得などが全て漢文により執り行われることは、当たり前のように考えられていた時代でした。つまり、渡来者の影響を多大に受けた古代の日本社会では、漢文が一種のステータスシンボルとして定着し、日本語独自の表音文字を早急に考案する必要性に迫られることはなかったのです。

古代ヘブライ語 アレッポ写本(10世紀)のヨシュア記冒頭
古代ヘブライ語
アレッポ写本(10世紀)のヨシュア記冒頭
しかし、中国大陸から渡来者の波が押し寄せる以前から、列島内にはすでに独自の文字文化を培ってきたイスラエル系の人々が居住していたとする説があります。列島北部を中心に居住していたアイヌ系民族の存在は広く知られていますが、それら先住民族に加え、前7世紀頃に北イスラエル王国や南ユダ王国から渡来したヘブライ系民族も存在した可能性があります。こうした人々は、すでに優れた文字文化を携えており、西アジア由来の文化が列島内で開花するのは時間の問題ではなかったでしょう。もし、イスラエ系の渡来者が古代の日本社会に存在したと想定した場合、それらイスラエル人の間では、おそらく日本語をその発音どおりに表記できる文字文化が望まれ、自国で使い慣れていたヘブライ系文字の活用が考えられた可能性があります。なぜなら、子音と母音から成るヘブライ文字や古アラム文字を応用して日本語の発音をそのまま書き記すことは、決して難しいことではなかったからです。それが後世において片仮名の原型になったという説があります。実際に片仮名の文字形状とヘブライや古アラム文字を比較検証すると、多くの酷似点が見られることが、この説の根拠のひとつとされています。

アショーカ王の碑文 紀元前3世紀ギリシア文字とアラム文字による2言語併記
アショーカ王の碑文 紀元前3世紀
ギリシア文字と古アラム文字による2言語併記
一方で、中国大陸からの大勢の渡来者が朝鮮半島を経由して九州方面から列島に移住し、時代が大きく移り変わり始めた2~3世紀以降、漢字のみを活用した漢文が、渡来系の学者を介して支配階級層に急速に広まっていきました。そして朝鮮半島を経由して訪れる渡来者の数が急激に増加するにつれて、九州から四国、山陽地方、さらに近畿地方へとその影響力が拡大していきます。もし、それまで日本列島において、西アジアからイスラエル系の民が渡来していたと仮定しても、彼らの文化は圧倒的な存在感を見せ始めた中国大陸からの渡来者の影に隠れていくことになります。

怒涛のように流れ込む中国大陸由来の文化が列島全体に影響を及ぼし、漢文が普及し始めた結果、古代社会において育まれた可能性があるヘブライ文字や古アラム文字を参考に創作されたと考えられる文字の存在は、歴史の表舞台にその姿を現すことはありませんでした。しかしながら、前7世紀頃から始まった皇族の歴史が、イスラエルから渡来した王系の民と共にあったと考えるならば、その影響はイスラエルの宗教文化や文字文化も含めて列島に根付いていた可能性を否定できません。そして中国大陸から渡来者の波が押し寄せる中、イスラエルの南ユダ王国に同族のルーツを持つと考えられる秦氏なども朝鮮半島を経由して多数渡来し、大陸で培われた高度な知識や文化を日本にもたらし、歴史の歩みの中で開花させていくことになります。

片仮名と平仮名が創作された背景

飛鳥時代から奈良、平安時代では、大陸文化の影響を強く受け、中国大陸で学んだ識者や、彼らの末裔たちが、朝廷界隈で多数活躍していたと考えられます。彼らの多くは多様な文化が混在するアジア大陸で教育を受け、漢文を自在に理解していただけでなく、西アジアの高度な文字文明を携えてきたイスラエルからの渡来者が母国で用いていた文字文化にも触れていたのではないでしょうか。また、古代ではイスラエル系の渡来者が日本列島に訪れ、母国で用いられていたヘブライ文字文化がもたらされた可能性があります。

もし、古代社会においてヘブライ文字の存在が一部の識者の間で認知されていたとするならば、それらの文字体系が日本語を表記するための参考となり、実際の文字列に当てられて使われ始めた可能性があります。なぜなら、ヘブライ文字の母音は「アイウエオ」から成り立っており、ヘブライ文字に日本語の発音に準じた「アイウエオ」の母音を付加するだけで、比較的容易に日本語を表記できるからです。それゆえ、その利便性に気付いた識者らは、日本語を表記するため、ヘブライ文字や古アラム文字に類似した形状を持つ文字の創作を望んだのではないでしょうか。そして、漢文に変わる日本語化された新たな文字体系として、これら西アジア系の文字を応用した文字体系が整えられ、やがて片仮名として体系化され、遅くとも平安時代には公的に活用されるようになった可能性が考えられます。

片仮名が誕生した背景は定かではありません。古代社会において、漢字の文字形を参考に創作されたと言われている片仮名は、ごく自然に読み書きできる文字であり、誰でも覚えやすいシンプルな文字形であったことから、いつしか公の場で用いられ始めました。そして漢文訓読の補助的な役目を担う文字として、急速に普及していったのです。片仮名は日本語の表音文字として漢字表記に融合し、漢字だけでは成し遂げることのできなかった文章の日本語化をおおむね実現するようになります。その後、片仮名は公文書だけでなく、さらに、学問やさまざまな研究分野文献にも広く活用されました。こうして漢字に片仮名を交えた文章表記は日本語表記の基本として、平安時代から鎌倉、室町時代を経て、近代の明治時代、戦前にまで継承されていきます。

ところが、漢字と片仮名による文章を理解するためには、多くの漢字を習得しなければならず、しかも漢文の影響が強い文章ほど、その内容を理解することは容易ではなかったのです。また、遅くとも7世紀には用いられ始めた万葉仮名も、日本語を書き表すための補助表記としては有効だったものの、漢文主体の文章構成と漢字の理解を前提とするものでした。そのため、いくら万葉仮名を多用して文章の表記を補っても、このままでは中国の文字文化に日本が覆い尽くされてしまうのではないかという、一種の危機感が生じたのではないでしょうか。万葉仮名や漢字を簡略化したと考えられている片仮名を補助的に用いるだけでは、十分な日本語化を進められないことは明らかであり、日本独自の文字文化が望まれたことでしょう。

日本語のための文字を求めた空海

空海
空海
その問題を重要視した一人が、語学の達人として知られる空海、こと弘法大師です。空海はイスラエル系阿刀氏の出自という説もあり、幼少期を四国の香川で過ごした空海は、奈良で活躍する著名な僧侶らを親族に持ち、多くの経典を学ぶ機会に恵まれていました。伯父を通して皇族とのつながりも持ち、都を造成する際に手腕を振るった秦氏らとも交流があったと考えられます。

その後、遣唐使として中国を訪れた際、景教に触れた可能性が指摘されている空海は、「言葉は神」という聖書の思想に触れ、言葉には神の霊が宿るとの確信を抱くようになったのではないでしょうか。そしていつしか空海は、言葉は命そのものであり、まさに神そのものとして捉えるようになります。それは後に自身の宗派を真言宗と命名する根拠ともなりました。しかしながら当時の古代日本社会では、人々は日本語を話すものの、それを読み書きする手段を持たない者がほとんどでした。また、漢字の習得には多大な時間と労力を要するため、大衆の間に漢文を普及させるには大きな限界がありました。

言葉そのものを大切に考えた空海は、魂に潤いを与える命の言葉を多くの人々の心に宿すために、日本固有の文字体系から成る新たな文字を創作することを天命と心得、文字の創作に着手したと考えられます。漢字習得の困難さを熟知していた空海は、漢字と片仮名の併用による漢文の普及に見切りをつけ、表音文字だけで日本語表記を完結させる構想を抱いたことでしょう。

当時、学者の家計に生まれた者や優れた文才に恵まれた人々、さらには高い教養を持つ女性も少なくなかったことから、学びへの潜在的な需要は十分にありました。そのため、「魂が宿る言葉」をできるだけ短期間に世に広く普及させるためには、誰もが容易く読み書きできる文字の創作が不可欠となったのです。その結果、空海が創作したのが平仮名であったと考えられます。平仮名とは難しい漢字を学ばなくても、日本語の発音に基づいて誰もが文章を読み書きできることを目指して創作された、日本独自の文字形だったのです。それは、片仮名とも共存することができる、新たな仮名文字の誕生を意味していました。

平仮名の創作手順とは

平仮名のルーツとなる古ヘブライ・アラム文字
(表1) 片仮名のルーツとなるヘブライ・古アラム文字
※片仮名が草案された時代に用いられていたと考えられる
ヘブライ文字、古アラム文字を網掛けで表記しています。
ではどのようにして平仮名が創作されたのか、具体的にその過程を想定してみましょう。平仮名は、片仮名との差別化を図り、日本に土着する文字として独自性を打ち出すことを目標とした文字です。一方、片仮名は日本語の発音を表記する必要性から生まれた文字であり、ヘブライ文字や古アラム文字を参考にして、その文字形が考案されたと考えられます。文字の形状からして、片仮名がこれら西アジア系の文字をベースにして考案されていることは明白ですが、それだけに、不必要な民族的感情を煽る危険さえ孕んでいました。

それゆえ平安時代初期、平仮名を創作するにあたっては、文字ルーツが表立ってわからないような工夫が施されたことでしょう。そして片仮名とは一線を引くために、同じ西アジア系の文字でも、当時の世代により近い前1世紀の死海文字や、その数世紀後に古アラム文字が進化して普及したパルミラ文字も参照されたと推測されます。これらの文字は、それまでのヘブライ文字や古アラム系文字とはその形状が若干異なり、特にパルミラ文字は大胆な曲線が印象深く目に映ります。こうしたさまざまな文字形状を参考にして、その母音と子音を組み合わせるなどの工夫を加えることで、片仮名よりも丸みを帯びた、流線型の文字を象ることができたと考えられます。

このようにして完成した平仮名は、片仮名の文字形状を参考にしながら外来の子音文字を日本語の発音に応じて選択し、その文字の角度や大きさを変えたり、位置をずらしたり、また時にはそれらの文字を重ね合わせたりしながら創作されました。すると最終的な仮名文字の形状は、片仮名の形状が面影として残る文字も見られるものの、大半は、かつて類を見ない独特なものとなり、原型とされた西アジア系の文字とは、大きく異なる文字形となったのです。卓越した文字デザインの工夫を凝らし、草仮名も参照して考案されたと考えられる平仮名は、一見、万葉仮名を崩して創作されたように見えます。しかしその実態は、片仮名の形状と見比べながら、ヘブライ文字と古パルミラ文字の要素を取り入れて作りあげられた文字体系の結晶だったのです。

平仮名成立過程の推測 ※子音と母音は古ヘブライ文字とパルミア文字から選別
平仮名成立過程の推測
※子音と母音はヘブライ文字とパルミア文字から選別

平仮名と片仮名が共存する理由

片仮名と平仮名、そして漢字が古くから共存し、その利用価値において競合することがなかったのは、それぞれが異なる目的を持ち、用途が明確に分かれていただけでなく、それらの文字を利用する文才家の出自や性別も異なっていたからと考えられます。和の柔らかいイメージを持つ丸みを帯びた平仮名は、日本独自の優しい表記方法を目指し、特に漢文とは縁の薄い非支配階級や一般の知識層、及び女性に多く用いられました。そして多少の漢字を交えながら、日本固有の和文で書かれた日記や和歌、物語などに積極的に用いられ、手紙などの私的な文章にも広く用いられました。こうして平仮名は、漢字の存在に制約されることなく、日本語を美しく、繊細な感情までも直接的に表現して書き綴る手段として発展し、日本語の文字文化の在り方を一変させることになりました。やがて平仮名は、日本固有の文字として文学や庶民の世界で自由に用いられていくことになります。

しかしながら、平仮名が創案されたからといって漢字を不要とする理由はなく、それに取って代わる文字が望まれた訳でもありませんでした。漢字は日本と中国を結ぶ文化交流の基盤であり、漢文による文字文化から始まった日本の文明の中核として、大陸文化の象徴でもありました。そのため、漢字は捨て切ることができない貴重な存在となっていたのです。しかも古代社会においては、仮名文字が普及する以前の長い期間、文書そのものが公用語である漢文中心に形成され続けてきました。その結果、漢文の伝統を踏襲することが、政治や学問の世界では不可欠なものとなっていました。つまり、漢字はすでに日本の文字文化に深く根付いていただけでなく、その利便性ゆえに執筆者が大きく依存する存在になっていたと考えられます。

漢字の重要性については、片仮名と併用された歴史を振り返ってみても理解することができます。古代より、片仮名を使用する際には漢字を尊び、漢文の流れに制約されながらも、漢字と片仮名を交えながら文章形成に用いられ続けました。そして漢字と片仮名を併用する書き方が普及した結果、それがいつしか公文書の形式として定着し、長年にわたり広められていったのです。片仮名は、その力強い文字形の印象もあって、特に学問や政治の世界で頻繁に使われるようになり、公文書においては戦時中まで広く使用されることになります。

戦後になると、昭和21年には現代仮名遣いの前身となる新しい仮名遣いが交付され、昭和48年には当用漢字音訓表が制定されました。漢字が日本に持ち込まれた古代からの歴史の流れの中で2000年近くの年月が経ち、今日私たちが理解する日本語表記の基礎が、初めて国家により体系的に整備されたのです。

仮名文字のルーツを再検証する

パルミラ文字が刻まれた粘土板
パルミラ文字が刻まれた粘土板
平仮名は、漢字に由来する万葉仮名が長い年月をかけて崩されながら成立した文字である、というのが現在の定説です。しかし、平仮名が最終的に現在の字形へと至った過程については、必ずしも十分に解明されているわけではありません。漢字由来説だけでは説明しきれない部分について、古代西アジア系の文字であるヘブライ文字や古アラム文字との関連性を検討すると、新たな視点が見えてきます。

ヘブライ文字や古アラム文字、さらにはパルミラ文字などを含む古代文字体系を検証すると、平仮名の字形と類似する文字が数多く見受けられます。それらの文字を組み合わせたり重ね合わせたりすると、不思議なことに平仮名に近い形が浮かび上がる例も存在します。こうした事実は偶然の一致として片付けられるかもしれませんが、一方で、仮名文字の成立過程にこれらの文字体系が何らかの影響を与えた可能性を示唆しているとも考えられます。

この仮説は、片仮名が漢字の一部を取り出して作られ、平仮名は万葉仮名から草仮名を経て自然に成立したとする従来の定説とは異なる視点を提示するものです。しかし、それは漢字との関係を否定するものではありません。むしろ、漢字を崩しながら草書体が形成される過程において、別の文字体系が参考にされ、最終的な字形の決定に影響を与えた可能性を探る試みといえます。

もし仮名文字の成立に西アジア系文字の影響が存在したとすれば、平仮名の成り立ちは従来考えられてきた以上に国際的で、多様な文化交流の産物であったことになります。もちろん、これは今後さらに検証を重ねるべき仮説に過ぎません。しかし、仮名文字のルーツを改めて見つめ直すことは、日本文化の形成過程をより広い視野から理解するきっかけとなるのではないでしょうか。

コメント
  1. 鈴木 通晃 より:

    大変興味深く拝読いたしました。
    これまで読んだ中でも、もっとも分かりやすく信憑性と根拠を明確に示されていて、勉強になりました。
    京都在住ですが、ユダヤ系の痕跡がたくさんあり、なぜここまで伏せられているのか疑念が深まります。
    ぜひ一度情報交換させていただけると幸甚です。

  2. 天久清栄 より:

    素晴らしいですね、できましたら、一般販売はあるのでしょうか。よかったら買いたいと思います。いろはにほへと、ひらがなの成り立ち。

  3. 小栗判官 より:

    素晴らしい論文で心から尊敬の念を抱きます。益々頑張って下さい。お疲れ様でした。

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