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列島の中心点を貫く淡路島のレイライン

海上から眺める淡路島
海上から眺める淡路島
古代、島々を旅する民が日本列島を廻った際、列島の中心として注目されたのが淡路島と推定されます。琉球地域から大海原を南西諸島が並ぶ方向に沿って北東に航海すれば、四国、瀬戸内海へと繋がる一連の列島が本州に突き当たる所に、淡路島を見出すことができます。島の北側には大きな本州が東西と南北側に位置することから、ごく自然に四国南岸を通り過ぎて淡路島に到達できた訳です。そこは琉球から本州、北海道周辺の島々も含めて日本列島全体を見渡すと、緯度、経度共におよそ日本列島の中心と言える場所でもありました。また、淡路島は沖縄島から徳之島、奄美大島と続く南西諸島が並ぶ方向、およそ35度の角度となる一直線上にも位置しています。そして島の中心には神籬石と呼ばれる巨大な立石が存在したのです。

これらの理由をもって、アジア大陸からの渡来者は、古代より淡路島の存在に注目したことでしょう。淡路島は大陸の東方に並ぶ島々の中心となる目印として、絶好の場所にあったのです。

キプロスに類似した地形を持つ淡路島

淡路の地勢は、実は地中海に浮かぶキプロスに類似しています。新石器時代から集落が存在し、長い歴史を誇るキプロスは、アフリカ、ヨーロッパ、アジア3大陸の交差する場所に位置し、いつの時代でも重要な位置を占めていました。そのキプロスのミニチュア版が淡路島と考えられるのです。まず、キプロス島南端の緯度は34度36分ですが、淡路島の中心緯度もおよそ34度30分であり、ほぼ同じです。次に島の航空写真を比較してみれば一見して、島の形だけでなく、その地勢も類似していることがわかります。島の形は北東方向に細長く伸び、島の南側に集中する山間部の地勢にも共通点を見出すことができます。そしてキプロスが3大陸の交差点に存在するように、淡路も四国、山陽、近畿という3つの地域が交差する場所に位置しているのです。無論、キプロス島の面積が9251㎢であるのに対して、淡路島は595㎢ですから、15倍以上も面積に差があります。よってミニチュア版の様相ではありまが、キプロスを彷彿させる地勢だけに、渡来人にとって淡路島はとても魅力的に感じられた可能性があります。

淡路島の中心に立つ神籬石の指標

淡路島を見出した古代人は、島の地理を確認することができるような指標として、ピンスポットで中心地点を見極めることのできる指標を求めたのではないでしょうか。そして、くまなく島を探索した結果、ほぼ中央にあたる小高い山の上に、空に向けて突き出す巨石を見出したのです。そこには今日、岩上神社が建立され、その本殿裏には高さ約12m、周囲16mもある巨石が、神籬石として祀られています。このストーンサークルの中心によく見られる立石と酷似した様相をもつ巨石を、古代の渡来人は大陸の東に浮かぶ島々の基点とすべく、淡路島の中心点として認知したと考えられるのです。

 岩上神社の神籬石が古代人の一大指標になったと考えられる根拠として、3つの理由があります。まず、神籬石は34度26分の緯度に位置していることが挙げられます。大陸においては中国において、世界の中心となる「地中」として定められた陽城の存在があり、神籬石は陽城と同緯度線上に存在します。
小牧野遺跡の立石
小牧野遺跡の立石
岩上神社の神籬石
岩上神社の神籬石
よって、神籬石は古代人にとって探し易い位置にあったのです。神籬石はむしろ逆に、陽城の場所を定める為の指標として用いられた可能性さえ否定でいないことは、前述した通りです。
 また、神籬石から夏至の太陽が昇る30度ちょうどの方向に阿久遺跡が存在することに注目です。列島の中心点が淡路島の神籬石と定められたとするならば、初代の集落は、神籬石から見て、その太陽が昇る方向に結び付けることのできる場所に造営されたと推定できます。そして確かに、神籬石からおよそ30度を指す方角には、豊かな水源に恵まれた湖のそばという立地条件を満たす場所として諏訪盆地が存在し、そこには古代の集落として今日、最古の遺跡としても著名になった阿久遺跡があります。淡路島から見て、夏至の太陽が昇る方角の線上に造成されたと考えられる阿久遺跡の場所とその特定方法は、この神籬石の存在なくしては説明が困難です。更に神籬石の形状はストーンサークルの立石の形に類似し、その巨大バージョンとみなすことができることにも注目です。小牧野遺跡の立石と淡路島の神籬石を比較すると、大きさこそ違うものの、その形状は実に良く似ています。

淡路島は日本書記や古事記に記されている通り、古代日本において国生みの島となった最初の基点です。そして、その中心点として定められた神籬石こそ、ピンポイントで列島の基点を定めた最も重要な指標であったと考えられます。その神籬石の指標を用いて、その後、列島内には港や祭祀場、集落を造成するにふさわしい場所が選別され、古代の民はそこにこぞって移住をするようになります。淡路島の自然石が、そのような重要な役目を果たし、陽城と同一線上に位置することを偶然の一致と見るか、それとも、それが計算づくめで特定された場所の連鎖と位置付けるべきか、今一度、検証してみましょう。

日本の中心となる淡路島の地勢

日本の標準時を定める子午線は東経135度であり、その線は兵庫県明石から淡路島の北淡を通ります。その事実から、淡路島の位置は地理的に見てほぼ、日本の中央に位置していることがわかります。日本列島を構成する6800余りの島々を囲う東西南北線の、ちょうど中心地に位置している訳です。

また、地勢学的にも淡路島は重要な位置付けを持っています。昨今の東京大学及び防災科学技術研究所の発表によると、巨大地震をもたらすフィリピン海プレートは、紀伊半島の西端から淡路島中心を通って鳥取市に抜けている可能性が高いことが報告されています。その裂け目は地下70qにも達し、その結果、地下プレートの西側、中国・四国地方の下には複数のプレートが存在し、それぞれが下から支えられているのに対して、近畿地方はプレートが深く沈んでいることから、支えが存在しない状態になっていることがわかりました。その為、淡路島の中心部を境目として、四国側は強い地震がおきてもおよそ安泰であるのに対し、東側は地盤が弱いのです。そして近畿地方周辺は地中の支えが欠乏していることから活断層が多くなり、海溝型巨大地震を引きおこす原因となりやすいことが指摘されています。淡路島は単に日本列島の中心に位置するだけでなく、地勢学的に見ても、重要な分岐点に位置していたのです。

神籬石に紐付く阿久遺跡のレイライン

淡路島は瀬戸内海の島々の中でも東方の最後に浮かぶ大きな島として近畿地方の曲がり角に位置し、四国とも隣接することから、古代社会では重要な役割を果たしていたに違いありません。その淡路島に、いつしか古代の民が到来し、中心に聳え立つ巨大な自然石が注目されました。神籬石とも呼ばれるその巨石は、列島の中心的な指標として認知されるようになり、そこから夏至の日の出を見る方角が重要視されたのではないでしょうか。そこには水源の豊な諏訪湖があり、湖畔の南方には縄文時代前期から大きな集落が造られ、今日、阿久遺跡と呼ばれています。その後、そこから東南方向に聳え立つ日本の最高峰、富士山の周辺にも集落は広がりをみせます。今からおよそ5000年から6500年前もの大昔、既に日本列島では渡来人により集落が築かれ始めていただけでなく、それら集落の存在を淡路島と紐付けることができる不思議に、歴史のロマンを感じないではいられません。

日本に到来した古代の民は、古くから語り継がれてきた淡路島の中心にある神籬石の存在にいち早く注目していたと考えられます。それ故、日本列島内に拠点を見出す際は、まず、淡路島を指標として周辺の島々を航海しながら、目的地を探し求めたのではないでしょうか。淡路島は古事記や日本書紀では、日本国家の起源となる国生み神話という大舞台で、島々の一番手として登場します。それは古代の渡来者が当初、淡路島を列島の中心として認識した上で、そこを基点として島々を巡った事を意味すると考えられます。そして国生みと呼ばれる島々の探索を続けながら、東の島々の全体像を早期に把握したのです。それ故、国生みの歴史は淡路島から始まったという古事記や日本書紀の記述は、あながち、おとぎ話ではなかったことがわかります。

その後、国生みと島々の見聞を終えた古代の民は、列島の内陸に目を向けることとなります。そして最初に注目した場所の一つが、淡路島の神籬石に紐付けられた諏訪湖畔と阿久遺跡の存在でした。何故ならばその地は、淡路島から見て、夏至の太陽が昇る、ちょうど日の出の位置の方向を示していたからです。その近郊には後世、祭祀場の一大拠点となる諏訪大社が、イスラエルの祭司らによって築かれることにもなります。

では海岸線からその諏訪湖畔まで辿り着くためには、本州のどこから上陸して向かえば良かったのでしょうか。交通の便に恵まれない古代では、陸路を用いた内陸へのアクセス条件が極めて重要でした。幸いにも諏訪湖の東方には秩父山脈を越えると平野部が広がり、太平洋沿岸までの陸路に適していました。それ故、古代の民は阿久遺跡の真東に向かって、ちょうど太平洋の海岸線に当たる場所を、阿久遺跡へと向かう玄関港として特定した可能性があります。

その港が今日の鹿島です。自然の地の利と豊かな水源を求めた古代の民が、神籬石を指標にして阿久遺跡の地を諏訪湖畔に探し出したのと同様に、今度は阿久遺跡を指標として、その港となるべく場所を同緯度線上に探し求めたのです。今日、鹿島は海岸沿いの港町としてだけでなく、鹿島神宮が造営された場所としても有名です。神籬石から見て、夏至の日の出方向およそ30度5分の方角に在る阿久遺跡と鹿島は、レイライン上にて同緯度で結び付き、それが古代の港町として栄えた理由ではないでしょうか。こうして古代の民は、淡路島の神籬石を中心的な指標として諏訪湖近郊に集落を造成しただけでなく、驚異の精度をもって、港の地までも、レイラインに準じて見出したと考えられます。

沖縄と八戸を結ぶ南北の基準線

日本列島には西アジアからイスラエル系の渡来者が古代から訪れていたようです。ソロモン王の時代でもタルシシュ船は到来し、その後、前7世紀に至ると渡来者の数が増加することとなりました。淡路島に到来したイスラエルからの民は、淡路島や神籬石の存在、そして今日、阿久遺跡と呼ばれる諏訪湖近郊の古代集落だけでなく、列島の北の端、十和田湖周辺に存在した集落群についても、長い歴史における数々の伝承から理解していたことでしょう。諏訪湖と同様に、内陸の高原にて豊かな水源を提供する湖は注目を浴びることとなり、十和田湖もその例にもれませんでした。そして一行は、「東の島々」の全体像を把握しながら内陸の随所に足を運び、集落を造成するに適した地と港の場所を特定していったのです。

その結果、諏訪湖畔の阿久遺跡に紐付けられて鹿島が見出されたように、本州北端の拠点となる港の候補地として、早くから十和田湖の東方に八戸が特定されたのです。沖縄の那覇から2000km以上も離れている八戸は、那覇と淡路島の神籬石を結ぶレイライン上に存在します。その線は南西から北東にむけて右肩上がりとなっていることから、そのレイラインが三陸の海岸線と交差する場所が港の候補地として選別され、後の八戸港になったと考えることができます。周辺の海域は、黒潮と日本海流がぶつかる絶好の漁撈地でもあり、港町としては最適の環境を有していました。そしていつしか、琉球の八重山列島に相対する最北端の拠点として、イスラエル系の渡来者によって八重山と同様に神を意味する「ヤーウェー」と命名され、そこに「八戸」という漢字が当てられるようになったのではないでしょうか。そしていつしか、「はちのへ」とも読まれるようになり、それが今日では定着した町の名前になったのです。

十和田湖周辺の集落の歴史は、イスラエルからの渡来者が日本列島に到達する時代よりも遥かに古く、その歴史は縄文時代の中期まで遡ります。複数の古代集落が十和田湖を中心として四方に形成されていたことは環状列石の存在からも知られ、諏訪湖に続く、一大集落の様相を呈していたと考えられます。それらの集落は、目印となる大きな山や湖、岬などを指標に位置付けられたと考えられ、海岸からアクセスする際でも、およそわかりやすい目印が存在したようです。それ故、ごく自然の成り行きとして、十和田湖の東方には八戸と呼ばれる港が発展したと推察されます。

八戸の港は、那覇と淡路島の神籬石を結ぶレイライン上に位置しています。八戸と那覇という南北に遠く離れた古代集落の拠点を、淡路島を中心点として一直線に結び付けることができることは、これらの場所が古代、意図的に選別され、それらを紐付けることが意識された結果と言えるかもしれません。そして、この沖縄の那覇から淡路島、更には八戸を結ぶ直線こそ、古代日本列島の地勢を理解する上で、重要な基準線となるのです。

日本列島における古代の集落や港、聖地等、多くの拠点は、このような相互関係による地理的な繋がりを持つレイライン上に見出されたと考えられます。それ故、指標となる地点の位置関係とレイラインの存在を正しく把握し、それらの相互関係を検証することにより、古代の民がどのような指針をもって諸々の拠点を選別したか、その想いを多少なりとも理解することができるのではないでしょうか。沖縄の那覇、神籬石と八戸、そして神籬石と阿久遺跡、及び鹿島を結ぶレイラインは、その後、驚異的な展開をもって日本全土を網羅すべく、多くの新しいレイラインへと発展していくのです。

淡路島のレイライン -列島の中心点を通る基準線-
淡路島のレイライン -列島の中心点を通る基準線-