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石上神宮のレイライン

日本を代表する神社の1つが奈良県天理市の石上神宮です。古墳が密集する地帯としても知られる大和盆地のほぼ中央東寄りに建立された「いそのかみ」と呼ばれるこの神宮は、日本最古の社の1つとして、伊勢神宮、出雲大社や宗像大社と並び、日本書紀にその歴史的背景に関する記述が見られます。「石上振神宮(いそのかみふるじんぐう)」「石上坐布都御魂神社(いそのかみにますふつのみたまじんじゃ)」等と記された神宮は、古代の豪族である物部氏が祭祀を務め、神宝や武器の宝庫としても重要な役割を果たしました。そして、そこは重要なレイラインが交差する場所でもあったことから、日本の古代史において大きな影響力を持つようになりました。

日本書紀に見られる石上神宮の記述

石上神宮 石碑
石上神宮 石碑
石上神宮の由緒を理解する上で、日本書紀は多くの貴重な記述を提供しています。まず、スサノオと八岐大蛇の戦いに注目です。スサノオが頭と尾が8つある大蛇と戦い、十握剣を抜いて大蛇を斬り裂くという話は有名であり、史実と結び付いた戦いのストーリーが、敵を大蛇に見立てて神話化された可能性があります。そしてスサノオが大蛇の尾を裂いた時に見つけたのが、草薙剣です。スサノオはそれを「神の剣」と見なし、すぐに天神に献上しました。神代上第8段のあらふみには、「草薙の剣は熱田の祝部が守護する尾張国にあり」、また「大蛇を斬った剣は石上に在る」と明記されています。つまりスサノオと大蛇の衝撃的な戦いの後、2つの剣は時代を経て、違う場所に保管されることになったのです。

草薙の剣が宝蔵された熱田神宮の由緒によると、第12代景行天皇の御代、日本武尊がこの神の剣を尾張の火上山に置いたまま三重県で亡くなられた、その後、尊のお妃である宮簀媛命が日本武尊を偲ばれ、草薙剣を熱田の地で祀ったということです。しかしなぜ、突如として熱田という尾張の地が、神剣を宝蔵する場所として選ばれたのでしょうか。その理由は、後述するレイラインの存在から理解することができます。

また、スサノオが所有し、八岐大蛇を斬った十握剣は蛇の麁正(あらまさ)、もしくは、天羽々斬(あめのはばきり)とも呼ばれています。スサノオは斐伊川の川上にある鳥上峰にて大蛇と戦い、その後、その川上の山にある吉備の神社にて剣が宝蔵されたという記述が日本書紀のあらふみに見られます。斐伊川の最上流は日本海側の船通山であり、吉備の地域からは距離がありますが、スサノオが大蛇と戦った直後、その川上の山から吉備の神社へ向かったとも考えられます。それ故、吉備の神社は岡山県赤磐市にある石上布都魂神社ではないかという説も、神社の由緒からしてその可能性があります。いずれにしても、最終的に蛇の麁正は、石上神宮にて宝蔵されたのです。

石上神宮 鳥居
石上神宮 鳥居
日本書紀において、石上神宮に関する次の記述は、神武東征の時代、天皇軍の力が奮わなかった際に、熊野の高倉下が夢の中で、建御雷神(たけみかずちのかみ)が布都御魂剣を用いて国を平定することを悟り、果たして目が覚めた時にその剣を見つけ、天皇に献上する話です。その結果、天皇軍は与えられた布都御魂剣と、頭八咫烏の導きによって見事に戦争に勝利することができたのです。その後、物部氏の祖である宇摩志麻治命により、布都御魂剣は宮中で祀られ、最終的には「この刀は石上神宮に座すなり」と日本書紀に記されているとおり、石上神宮で宝蔵されることとなりました。

さて、時代は第10代崇神天皇の治世に移り代わり、崇神6年、天皇は国内の疫病と治世の難しさに悩み、天皇の御殿内にて祀ってきた天照大神と倭大国魂の2神を皇女に託して大和笠縫邑、今日の奈良県桜井市周辺に移設することを許したのです。翌年、神武天皇は物部氏の祖である宇摩志麻治命の貢献に報いるため、布都御魂剣の神剣を下賜して、それを宇摩志麻治命の6世孫、伊香色男命に託しました。そして宮中から大倭国の石上に遷された神剣は崇神7年、石上大神として石上布留(ふる)の高庭(たかにわ)に祀られたのです。直後より、伊香色男命は物部氏らに命じて多くの祭具を作り、それをもって80万の神々を祀り、石上神宮だけでなく、他の天社や国社を神の聖地を定め、多くの神宝を宝蔵することとしました。その結果、物部氏は石上神宮を氏神として仰ぐようになったのです。

石上神宮 楼門と回廊
石上神宮 楼門と回廊
これらの史実からして、崇神天皇が即位した前90年から前30年の時代、神宝の取り扱いについて転機が訪れたと言えるでしょう。八咫鏡は宮内から奈良の桜井市周辺とされる大和笠縫邑に、そして布都御魂剣は奈良の石上神宮に遷されたのです。また、草薙剣は景行天皇の時代、日本武尊の妃である宮簀媛命により熱田神宮に宝蔵されました。これらは、神宝の管理が天皇の住まわれる宮から、祭司らが管轄する神宮に移行され、神宝の管理体制そのものが抜本的に変わったことを意味します。

また、神武天皇の時代より崇神天皇の時代まで、神宝の記述は神剣と鏡に関するものが大半を占め、勾玉の記述が殆ど見られません。しかしながら勾玉については、スサノオと天照大神とのやり取りが中心となる神代においては、八坂瓊の勾玉が噛み切って噴き出されることにより、宗像大社の沖津宮、中津宮、辺津宮で祀られる宗像3女の神々が生まれたと記載されています。八坂瓊の勾玉は、古代3社の1つである宗像大社に纏わる神宝として重要な役割を果たしていただけでなく、その後も貴重な神宝の1つとして重要視されていたことを記紀の記述から知ることができます。

石上神宮 楼門
石上神宮 楼門
さて、崇神天皇の時代では「国内は平安」であり、また、初めて戸籍調査も行われ、「家々には物が満ち足り、人々は満足して天下は大いに平穏となった」と記に書かれています。崇神天皇が御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)とも呼ばれたのは、神宝の取り扱いに大きな改革が見られ、それは新しい時代の始まりを意味していたからではないでしょうか。そして崇神6年より倭姫命に託されて始まった天照大神の新しい鎮座地探しは、垂仁天皇の時代(前29年から後70年)まで続き、およそ60年とも言える長い年月を経て伊勢に到達し、皇大神宮を創建します。伊勢に到達するまで、途中に一時滞在した祭祀場は、その後、元伊勢と呼ばれるようになりました。また、垂仁39年には五十瓊敷命が剣を1000刀作り、それらは石上神宮に収められました。そして石上神宮に保存されている神宝の管理責任は五十瓊敷命から妹の大中姫に委ねられ、最終的に物部連が全て治めることとなったのです。先代の崇神天皇が天神地祇の祭祀を大切にしていたことに習い、垂仁天皇も天下の平安のために国家をあげての祭祀を願っていたことがわかります。

その後、景行天皇の時代(71-130年)に入ると、崇神天皇の時代より急増し始めた移民の流れが加速し続けただけでなく、国内でも熊襲や東方の内乱、反乱が頻繁に起こり始め、国家の統制に歪みが生じ始めます。そして成務天皇(131-190年)の時代では、国や郡に長が任命され、それぞれの境界が定められ、仲哀天皇の時代からは神功皇后の摂政に入ります。

時を同じくして、2世紀後半からは邪馬台国と呼ばれる国家が、国内の混乱や宮廷の影響力のなさを尻目に、四国剣山の山麓を中心とする広大な集落を基盤として影響力を現し始め、統治国家の様相を呈し、政治力だけでなく、霊力をも誇示しながら、民衆を魅了し始めるのです。神宝が存在しない御殿に住まわれる皇族や、霊力が鈍り、神の声を聞くことさえできなくなった祭司らが、かろうじて世俗的な影響力を振るいながら国家を統治しようと努めていた既存の政権勢力に対して、霊力と民を統制する知恵に長けた卑弥呼のリーダーシップの元に、四国の山上にて巨大な集落を造成しながら一大国家の様相を持ち始めた邪馬台国との戦いが、幕を開けようとしていました。

剣の神と霊威が祀られる石上神宮の主祭神

物部氏の総氏神を祀る石上神宮の主祭神は、布都御魂大神(ふつのみたま)、布留御魂大神(ふるのみたま)、布都斯魂大神(ふつしみたま)です。これらの祭神は、崇神天皇7年に物部氏の祖 伊香色雄命の尽力により、石上布留にて祀られたと石上神宮の由緒には記載されています。まず、主祭神は布都御魂大神であり、国譲りの神話に登場する武甕雷神が所有する神剣の霊威を称えたものです。神武天皇が東征の途中、危機に陥った際に助けの手を差し伸べたのが武甕雷神であり、その救いの剣は韴霊(ふつのみたま)とも呼ばれています。

石上神宮 拝殿
石上神宮 拝殿
次の祭神は、布留御魂大神と呼ばれ、十種神宝に宿る霊威です。十種神宝とは、饒速日命が天津神から授けられた神宝で、鎮魂の力を持つとされています。韴霊と共に宮中で祀られていた十種神宝は、共に石上に遷されたのです。また、布都斯魂大神は、素戔嗚尊が八岐大蛇を斬ったときに用いた十握剣の霊威とされています。「蛇の麁正」とも呼ばれ、八岐大蛇でさえも退治する霊威を持つこの剣は、日本書紀には「今し石上に在り」と明記されています。おそらく八岐大蛇が退治された後、暫くの間は石上布都魂神社に奉納され、その後、石上神宮に遷されたと考えられます。神剣としての霊威が際立つ布都御魂剣、鎮魂の象徴でもある十種神宝の霊力を持つ布留御魂大神、そして大蛇にまで打ち勝つ布都斯魂大神、これら3つの主祭神は石上神宮にて祀られ、総して石上大神と称されたのです。

これらの主祭神には、一般的に知られる著名神社の祭神には見られない特異性があります。それは主祭神が人物ではなく、神の権威を備え持つ剣や神宝であることです。日本最古の神社の1つでありながら、当初より本殿もなく、主祭神は拝殿後方の禁足地の中央に埋斎されていました。しかも氏神は名だたる武門の物部氏ということで、石上神宮の背景には明らかに一線を画した宗教戦略的な構想が見え隠れしているようです。そしてその謎を解くヒントが、石上神宮を中心として構成されるレイラインに秘められているようです。

レイラインが構成される目的を見極める

古代、アジア大陸から渡来者が列島を訪れた時、最初のチャレンジは、島々全体の地勢を早急に把握し、港を作るにふさわしい好立地条件の土地を探すことでした。その目的を達成するために、島々の周辺を舟で回り、また列島間を行き来しながら、山々や岬、湖、湾岸、岩石、そして大きな河川の河口など、様々な地勢の在り方が検証されたのです。そして列島の沿岸全体を網羅するように港が随所に見出され、そばには祭祀場が造られました。そして港探しのリサーチが一巡すると、次のステップとして、島の内陸に目が向けられたのです。

内陸の拠点探しでも港探しと同様に、基本的には地勢をしっかりと検証しながら、各地に指標を見出していくことが不可欠です。そしてレイラインの原則に従い、指標同士を結ぶ線を想定し、その線上に新たなる拠点を見出しながら、それらの指標と交差する次のレイラインの線引きを試み、随所に拠点を見出していくのです。

レイラインを想定した拠点探しの目的は、およそ3種類に分けられたことでしょう。まず、内陸でも居住に適した最善の土地を見出し、地の利に恵まれた場所を選別するためにレイラインの手法が用いられました。集落ができる所には祭祀場も必然的に造営されるわけですから、この2つは一心同体です。神を崇める場所を見出して祭祀場を造ることは、その近郊に集落が形成されることを通常は意味します。よって、集落の場所を見出すためには、祭祀の場所を確定するレイラインの存在も重要でした。

次の目的は、神宝の保管や移動、祭祀活動の管理の場として、聖地を特定するためにレイラインを用い、ピンポイントでその場所を探し出すということです。古代社会では神宝が大切に取り扱われ、それらを外敵から守り、安全に保管し、時には移動することもあった訳です。また、神宝に限っては必ずしも民衆が集まりやすい場所である必要はなく、時には人里離れた山奥も、その選択肢に入ったことでしょう。よって、その聖地を探し当てる目的で、レイラインの考え方が導入されたことでしょう。3番目の目的は、国の都となるべく場所を見出すために、レイラインの線引きを試みるということです。この場合、目的地は1つの拠点のみとなり、地の利に関わる様々なデータを見ながら、極めて慎重にレイラインを構成しながら、目的地となる都の地を探し求めるわけです。これら3つの目的の共通点は、それぞれの指標に由来する地の利を互いに分かち合うという前提でレイラインの線引きをし、短期間で目標に見合った拠点を探し出すことを試みるということです。石上神宮のレイラインは明らかに前述した2の目的、すなわち、神宝の保管と移動に関わる拠点を見出すことに関係している可能性が高いと言えます。また、神宝の中でも剣という存在に、レイライン上のこだわりや共通点を見出すことができることは、注目に値します。

石上神宮の摂社 出雲建雄神社 拝殿
石上神宮の摂社 出雲建雄神社 拝殿
日本書紀を参照すると崇神6-7年、神宝を宮中から手放す必要性に迫られた天皇は、神宝の移設を宣言しました。西暦前90年頃の話であり、邪馬台国が台頭する日が刻々と迫っている時でもありました。よって、天皇が住まわれる御殿の場所の如何に関わらず、神宝を安全に保管し、防御できる聖地を早急に厳選する必要があったことでしょう。それ故、布都御魂剣は崇神7年、石上神社に遷された話が日本書紀には記載されています。それから32年後の崇神39年には、戦争の予感でもあったのでしょうか。五十瓊敷命により、1000刀の剣が作られ、石上神宮に保管されることとなりました。また、崇神6年には天照大神の八咫鏡も宮中を離れ、一時的にまず倭の笠縫邑に祀られたのです。その後、長い年月を経て数々の聖地を巡り回った後、崇神65年、伊勢国の磯宮まで到達しました。この一連の神宝の滞在地は元伊勢と呼ばれています。

これらの史実を振り返るならば、石上神宮が伊勢神宮と共に創立当初より、神宝の存在と深く絡みながら、その保管維持に関わっていたことがわかります。特に石上神宮は、貴重な神剣の宝蔵に特化した役割を果たすこととなり、その存在そのものが重要であったと考えられます。よって、石上神宮のレイラインの構想が持ち上がった際には、そのレイラインは神宝の行く末を占い、国宝なるものをしっかりと宝蔵して守護するための拠点探しのために用いられたはずです。それ故、そのレイライン上に置かれた指標も重要視され、神宝との関わり合いなど同類の背景を持つ場所が多々含まれることが目論まれたことでしょう。それらの相互関係により、互いが紐付けられて、最終的には大きな地の力となって、天皇に導かれる国家が安泰することが望まれたのです。

神宝の行方に絡む石上神宮のレイライン

伊弉諾神宮の石碑指標図
伊弉諾神宮の石碑指標図
石上神宮のレイラインは、神宝を念頭に置いて考えられたものであることは明確です。その構成手法を振り返りながら、指標同士の繋がりを検証してみましょう。まず、石上神宮のレイラインの原点には、既に見出されている淡路島の伊弉諾神宮の存在があります。記紀にも記されている通り、淡路島は国生みの中心であり、その中心点に紐付けられることは、あらゆる拠点にとって大切なことでした。また、日本列島を訪れたイスラエルの渡来者は、国生みの原点を淡路島として、そこから見える最高峰の剣山を聖山としたことが想定されます。剣山は人里離れた山奥の地であり、淡路島から見える最高峰です。よって、安心して先祖代々の宝物さえも温存することができる聖山と考えられたのではないでしょうか。そしていつしか剣山は、神宝のシンボルとしても考えられるようになり、その名称も剣の神宝そのものを意味する「剣」となった可能性があります。

次に剣山と伊弉諾神宮を結び、その北方に見える六甲山地に目を留めます。すると、剣山と伊弉諾神宮、六甲山の3点が一直線に連なり、レイラインを構成することがわかります。注目すべきは、これら全てが神宝と剣に絡んでいる場所であるということです。伊弉諾自身、十握剣を用いた聖人であり、生存中にそれらの神宝を子孫に委ねています。剣山はその名前の通り剣と呼ばれる山であり、古くから神宝が山に秘蔵されているのではないかという噂が絶たず、また、イスラエルの契約の箱を思い起こす金の鳥が埋蔵されたという言い伝えのある社さえ、剣山に近い山麓に存在します。

四国剣山の頂上風景
四国剣山の頂上風景
その剣山のシンボルは鶴と亀です。その頂上近くには亀岩があり、特にヘブライ語で「お守り」を意味する亀(カメ)という発音に注目です。剣山の神宝が亀によって守られているとするならば、そのレイラインの北方にある六甲山地も、亀の甲羅を象徴する「六甲」という名前がつけられているだけに、同じ亀によって守られているということではないでしょうか。すなわち、剣山と六甲のレイラインは、淡路島の伊弉諾神宮を中心として、それに結び付く拠点をしっかりとお守りする神宝のラインであったと考えられます。

六甲山地の中でも1番の聖地が摩耶山です。そして不思議なことに、摩耶山も剣山と伊弉諾神宮を結ぶレイライン上に存在する山なのです。それ故、空海が最も注目した山の1つとなり、空海ゆかりの場所が複数存在します。その摩耶山をレイラインの指標として、今度はそこから真北に線引きし、その線と、諏訪大社と海神神社を結ぶレイラインが交差する所に注目します。そこには籠神社とその奥宮である真名井神社があります。籠神社の奥宮である真名井神社の祭神は伊弉諾神宮を建立した伊弉諾命であり、それだけをとっても、剣山から石上神宮へと繋がるレイラインとの相関性が見えてきます。

また、剣山の頂上近くには亀岩が、伊弉諾神宮とを結ぶレイラインの北方には亀印を意味する六甲山地があり、その摩耶山から真北には6つ目編みが亀の甲羅の形、六甲となる籠目の最初の「籠」文字をそのまま名称として用いた籠神社が存在します。この六甲の印は籠目(カゴメ)のマークとも言われ、イスラエルのシンボルであるダビデの星と同じ六芒星の形をしていることから、イスラエルやその神宝と絡んでいる可能性も考えられます。更に籠神社の祭神が彦火明命、または別名饒速日命ということは、その末裔が物部氏であり、石上神宮の祭神を氏神とする物部氏と同じなのです。これらはすべて偶然の一致と言えるでしょうか。

さて、真名井神社と籠神社を拠点とするレイラインから奈良盆地の周辺に拠点を見出すためには、レイラインが交差する地点を東方へとずらす必要がありました。そこで神社から真東にある三方五湖の湖畔へと線を引き、その緯度線と交差するもう1つのレイラインを見据えることとします。それが諏訪大社と沖ノ島を結ぶ貴重なレイラインです。沖ノ島は別名「海の正倉院」とも呼ばれ、玄界灘のほぼ真ん中に浮かぶ絶海の孤島です。島は、その全部が境内地として女人禁制であり、男性でも年に1回しか行くことが許されていません。沖ノ島は神宝の宝庫として名高く、宗像大社の本宮である沖津宮がある場所として、今日まで守られてきました。

諏訪大社 上社前宮本殿鳥居
諏訪大社 上社前宮本殿鳥居
沖の島のレイラインは、その東の端に諏訪大社前宮本殿があります。諏訪大社は石上神宮と同じく、物部氏の最重要拠点の一つであり、神宝や刀に纏わる言い伝えが多く残されています。物部氏は饒速日命の末裔であり、籠神社の海部氏と、そのルーツは重なります。どちらもイスラエルのレビ族の出自であるからこそ、先祖代々、祭祀活動や神宝の管理など、神の祭事に関わる仕事は何でもこなしてきた部族集団であり、古代日本社会にておいても、大きな影響力を持っていました。

守屋山麓の守屋神社
守屋山麓の守屋神社
諏訪大社本殿の裏山には標高1650mを誇る守屋山が聳え立ち、「磐座の博物館」と呼ばれる名のごとく、山の中腹には多くの巨大な磐座が存在します。守屋山が諏訪大社の御神体であるという噂は昔から絶えず、また、守屋山の山麓には守屋神社があります。神社には古くから剣が保管され、その境内にて奉じられていたと言われています。石段の最上階には剣が保管されていたと考えられる石窟が今でも残されています。守屋神社と諏訪大社にとって、神剣という存在は極めて重要であったのです。その結果、沖ノ島と諏訪大社を結ぶレイラインは、神宝に関与する最重要ラインの1つであったと言えます。

その沖ノ島のレイラインが三方五湖の湖畔で交差する所から、紀伊半島の最南端、紀伊大島に向けて、南北を貫くレイラインを想定するのです。南北の線だけ定まれば、後はそれと交差するレイラインを見出すことによって、奈良盆地界隈に拠点を特定することができます。ではどのように交差するレイラインを見出せるのでしょうか。

石上神宮の摂社 天神社
石上神宮の摂社 天神社
大和という新天地において聖地を特定するにあたり、最も大切なことは、日本列島の力、地の利を象徴する他の聖地と、レイライン上にてしっかりと紐付ける場所を選ぶことでした。その列島最大の力の象徴が、日本最高峰の富士山と、西日本最高峰の石鎚山です。この2つの高山を直結するレイラインこそ、最大の地の力を象徴するものです。富士山と石鎚山を結ぶレイラインは奈良盆地の中心近く、今日の天理市を通り抜けます。そして実際に、これら2つの最高峰を結んだ線と、三方五湖湖畔の基点から真南に引いた線が交差する場所が、新たなる神の宝庫となる中心地として特定されたのです。それが石上神宮です。しかもその場所は、伊勢神宮の奥宮である伊雑宮と、六甲山地の摩耶山を結ぶ線が交差する場所でもあったのです。富士山と石鎚山のレイラインだけでなく、伊雑宮と摩耶山のレイラインも石上神宮の真上を通り抜けるということは、もはや偶然とは言えず、それは古代人の英知が結集された結果ではないかと考えられます。当初から三方五湖の南北線と交差する場所を想定し、複数のレイラインを同一地点で交差させるためには、計り知れぬ英知と、難しい検証作業を必要とします。古代の識者はそれを偶然でないものとしたのです。

石上神宮の摂社 七座社
石上神宮の摂社 七座社
更に、3種の神器の1つである草薙神剣を御霊代として祀る熱田神宮も、イスラエルのエルサレムに紐付く鹿児島のヒラバイ山と、四国剣山を結ぶレイライン上に存在します。南北のレイラインは伊雑宮のある伊雑ノ浦から的矢湾を出て、最南端の岬である大王崎を指標とした可能性があります。そこから真北に引く線は、熱田神宮の場所にて、ヒラバイ山と剣山を結ぶレイラインと交差するのです。石上神宮と同様に、剣山と絡むレイラインが存在する神の宮は、神宝の存在に深く関わっている可能性があり、熱田神宮の場合は、当初から目論まれていたと考えられます。石上神宮も、熱田神宮も、神宝と絡むレイライン上に位置付けられた重要な拠点であり、神宝を保管する場所選びには、細心の注意が払われていたことがわかります。

大和の新天地となった石上神宮の聖地はレイライン上で富士山に直結するだけでなく、北は三方五湖を介して真名井神社や籠神社、更には沖ノ島や剣山とも紐付けられていたのです。そして古代の民にとって信仰の聖地である伊雑宮と、神宝の行く末に絡む重要な拠点となった六甲山地の摩耶山とも直結していたのです。石上神宮のレイラインは、その背景に潜む古代人の英知を象徴しています。

石上神宮のレイライン
石上神宮のレイライン

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