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鹿島神宮のレイライン

古代の識者はレイラインと呼ばれている手法を用いながら、日本列島内の重要拠点を特定し、そこに港や集落を築いたり、神を祀る聖所を造営したりしました。その結果、多くの由緒ある名所が、淡路島や近畿地方、九州、四国など、日本列島各地に見出されたのです。しかしながら、東北や北海道など日本列島の北方に至ると、レイライン上に存在する主要拠点の数は極端に少なくなります。実際、東北地方より以北では、青森の八戸以外に古代レイラインの拠点を見出すことは難しく、関東周辺でもごく僅かしか存在しません。それだけに関東以北の拠点は、ひと際目立った存在ともなります。

中でも茨城県の鹿島は、太平洋沿岸に存在する関東唯一のレイラインの拠点であり、しかも複数の主要レイラインが通り抜けることから、極めて重要な位置付けを占めてきました。地の利に恵まれない僻地でありながらも、レイライン上でピンポイントに示された大事な地点であったからこそ、鹿島は古代から有無を問わず、港町として発展したのです。船で太平洋沿岸を行き来した旅人は、内陸への玄関である鹿島港を重要視し、そこを基点として内陸へと足を運びました。そして鹿島の地では、古くから神が祀られ、聖なる宮が存在する場所としても認知されるようになりました。

辺鄙な岬が古代の聖地となった理由

今日、鹿島は7万人近くの人口を持つ港町として知られ、そこには年間100万人以上もの参拝者が訪れる鹿島神宮の緑が広がっています。その境内は美しく、かつ広大であり、それだけに、遠い昔からも人々が陸路を通って参拝に訪れていたと考えられがちです。ところが古代、鹿島周辺は岬の端、もしくは名前の通り島であり、地域一帯は海や川、湿地に囲まれた辺鄙な場所でした。その南西方向には利根川を越えて、香取神宮が存在します。古代の民は、鹿島へ向かう為には香取や潮来から船を用いて川や海を渡る必要があったのです。

列島の中心からは遥か遠く、交通にも大変不便な場所であり、集落が発展するような要素は到底見当たらないような湿地帯が広がる霞ヶ浦東方の僻地に、何故、港町をわざわざ造成する必要があったのでしょうか。そのような場所に集落を構える必要性は、一般的常識からすると乏しかったはずです。しかしながら古代の民は鹿島に住みつき、そこに集落が発展し、見事な港町が出来上がりました。それは、鹿島という場所に何かしらの重要な意味を見出したからに他なりません。

鹿島の地域柄と、その特異な位置付けを知る鍵は、そこで祀られている神の存在と、鹿島を通るレイラインに秘められています。鹿島は港町として発展しただけでなく、古くから神が祀られ、由緒ある鹿島神宮が建立されました。その御祭神は刀剣神として知られる武甕槌神です。また、鹿島神宮は古代の由緒ある聖地とレイライン上にて結び付いていますが、他の拠点も鹿島と同様に、刀剣神の存在をそれらの歴史の背景に確認することができます。つまり、古代の民が鹿島の地を特別視した理由は、神剣という共通のモチーフによって繋がる聖地をレイライン上で確認し、それらの由緒と御祭神、及び地理的な位置付け等を探ることにより、推察することができます。

鹿島神宮の由緒とは

鹿島神宮は、数多く存在する神社の中でも最古の1つに数えられています。「鹿島神宮古記録」には、鹿島神宮の創始が神武天皇の勅令によるものであると明記されています。また、927年に編纂された「延喜式」と呼ばれる卅神名帳には全国3132座の天神地祇が記載されていますが、伊勢神宮を除いては、鹿島神宮と香取神宮のみが神宮を称しています。よって、古代から鹿島神宮は特別な位置付けに置かれ、朝廷や識者の尊崇を受けていたことがわかります。

日本一美しいとも言われる鹿島神宮の楼門
日本一美しいとも言われる鹿島神宮の楼門
鹿島神宮の社殿は、楼門をくぐった後、東西に延びる参道のすぐ右側に、横向きに位置しています。つまり社殿は、不思議と北向きに建てられているのです。そして参道を更に進むと、杉や椎の木で囲まれた並木道の先には、御祭神である武甕槌神の荒御魂が祀られている奥宮があります。その50m先には、直径30cm程の頭頂部だけが露出している要石があります。水戸黄門仁徳録には、「七日七夜掘っても掘りきれず」と記述されているとおり、不思議な巨石であることが確認され、その場所に鹿島神宮の大神が降臨したのではないかとも言われています。元来、鹿島神宮の底地は砂地であり、巨石など、あるはずがない場所に存在することから、その根底は地球の中心まで続いているという言われを持つ霊石です。また、鹿島の神は遠い昔から三笠山とも呼ばれる鹿島山にて祀られ、そこには今日、鹿島神宮の重要な摂社の1つである三笠神社があります。

鹿島神宮の社殿は、その内部構造において出雲大社のものと、類似点が多いことに注目です。どちらも住居のような建て方をしており、神座は奥の角に横向き、そして大国柱をぐるりと回って奥の間に入る形をとっています。また、屋根は切妻造りの妻入りです。出雲大社と鹿島神宮を建設した人は同一人物であることから、神社内陣の配置構造やデザインには共通点が存在して当然でしょう。出雲大社の最初の社殿は武甕槌神によって造られ、同様のデザインが鹿島神宮でも取り入れられたのです。

鹿島の御祭神は武甕槌神であることから、当初、祭祀活動を引き継いで執り行ったのは、武甕槌神の子孫であったと想定できます。その後「常陸国風土記」によると、崇神天皇代の御代、大坂山に白い桙を手にした鹿島の大神が出現し、自らの住まいを治めて祭れと語り、その神が香島の国に座している天の大御神であることを中臣神聞勝命が解き明かしました。中臣神聞勝命の祖は、天の岩戸に天照大神がお隠れに成った際に祝詞を唱えた天児屋根命です。そこで天皇は、大刀、ヤタノ鏡、 許呂等の神宝類など、大量の幣物を鹿島神宮に捧げ、それらの神宝を奉持した中臣神聞勝命は、鹿島神宮の祭祀を司ることとなりました。

奈良時代に編纂された「常陸国風土記」香島郡の条に記載されている「香島の天の大神」からは、中臣部がそれまで祭祀に深く関わり、占部氏が香島の大神の社の周囲に居住していたこともわかります。香島の社の実権は中臣部が握り、その祭祀活動においては中臣部が禰宜、そして占部が祝(ほふり)として職務を分担していたのです。

こうして鹿島神宮の大宮司家は、その後も中臣鹿島氏に引き継がれ、その子孫の中には7世紀飛鳥時代に一世を風靡した中臣鎌足(藤原氏)も歴史に姿を現します。鎌足は鹿島神宮にて氏神を仰ぎました。その子である藤原不比等は、平城京が710年、奈良に遷都されたことを機に、藤原氏の氏神である武甕槌命を奈良の御蓋山にて祀り、春日神と称したのです。そして768年、その藤原氏の氏神を大々的に祀り、藤原一族の政治的権威を象徴するべく、春日大社が造営されました。その後、鹿島神宮は祭祀料となる荘園としても位置付けられることになります。鹿島は藤原鎌足の出生地という説もあり、鹿島市内には鎌足神社が建立されています。

国譲りの背景と鹿島神宮の御祭神

鹿島神宮の奥宮
鹿島神宮の奥宮
鹿島神宮の御祭神は武甕槌神です。そして奥宮には、武甕槌神の荒御魂が祀られ、背後には鹿島の霊石とも言われる要石が存在します。武甕槌神は国譲りにおいて活躍された偉大な神でした。そのダイナミックな働きを理解する為に、国譲りの歴史を簡単に振り返ってみることにします。
 スサノオが活躍した舞台となった出雲は、国譲りが執り行われた聖地です。スサノオの子孫である大己貴命(おおなむちのみこと)は、少彦名命と協力して天下を経営し、国を平定します。そして大己貴命は葦原中国の主となり、出雲大社の御祭神でもあります。大己貴命の名前はいくつもあり、大穴牟遅神、大穴持命、八千矛神、大汝命、大名持神などが知られています。また、日本書紀には大己貴命がスサノオの子であると記されていますが、あるふみにはスサノオの6代後が大国主神、また別の書ではスサノオの6代後が大己貴命、また、大国主神は大物主神、及び国作大己貴命であると書かれています。いずれにしても大己貴命は、大国主神や大物主神と同一視することができ、初代神武天皇が即位する前に栄えた一大勢力だったのです。

スサノオの娘を娶り、国造りに努めた大己貴神は、病気を治療する方法や呪術により鎮めること等を人々に教え、文化面において大きく貢献しながら、少彦名神の協力を得て、2神で国造りを推し進めました。そして少彦名神が熊野で亡くなった後、大己貴神は国造りを完成させる為、その最終段において出雲に辿り着いたのです。すると、幸魂と奇魂と呼ばれた神が海原を照らしながら現れ、大己貴命に語りかけられたのです。そして天からの御告げにより、神が住まわれる場所が大和国の御諸山(三輪山)であることを知り、歴史は急展開します。その後、大己貴命は御諸山にて神が住まわれる宮を造営し、神を中心とする国家の土台が築き上げられました。

その国造りの主人公である大己貴命と直接談判し、葦原中国を平定する為に国を譲り受けるべく高天原から遣わされたのが、経津主神と武甕槌神です。この2神は刀剣神とも呼ばれる剣の神です。何故なら、2神は剣によって生まれた神だからです。伊弉諾尊が十握剣をもって火の神である軻遇突智を3つに斬った際、剣の刃から滴る血は岩石となって経津主神の祖となり、剣の鍔から滴る血からは熯速日神が成り、武甕槌神の祖となりました。2神は国譲りの交渉をするために出雲国へと向かい、そこで武甕槌神は十握剣を大地に突き刺して刀剣神の出現を誇示し、大己貴命との談判に臨んだのです。その結果、大己貴命は、子である事代主の承諾をもって国を譲る決断をし、自らが国を平定する際に用いた広矛を献上し、「その矛を用いて国家を治めるならば必ず平安な国になる」と伝えた後、退いたのです。また、国を譲る代償として、大国主命は高天原にある天日隅宮に類似した形状で出雲に巨大な宮殿を建立することを条件としました。こうして出雲大社が造営され、そこで大己貴命は祀られると同時に、天孫に帰順したのです。

その際、武甕槌神は大己貴命から矛を譲り受け、未だに帰順しない民を誅伐するためにその剣を振るうことになります。時に、地上では最も力の強い神として知られていた武甕槌神は力比べを挑んできましたが、武甕槌神に追いつめられ、科野の諏訪に逃れた末に敗れました。その後、建御名方神は高天原の意向に服従することを約束し、信濃国の開拓に当られ、諏訪で祀られることになります。こうして日本建国の基礎は固められ、葦原中国は平定されました。

それから後、刀剣神として文武両方に優れた力を発揮した武甕槌神は、関東地域の開拓と鎮撫に専念し、その最東端である太平洋沿いの鹿島を本源とされました。直後、天照大神は皇孫、瓊瓊杵尊を降臨させることを決め、3種の神器を授けて日向の高千穂に向かい、時代が大きく変わっていくことになります。神武天皇が東征する途中、窮地に陥った際に、武甕槌神は神剣韴霊剣を天皇に献上し、その神威により、熊野の連山を越えて大和に入国した一行は長髄彦を討つことができました。武甕槌神の協力により、建国の第一歩を記すことができた神武天皇は、武甕槌神を鹿島の大神として勅祭し、以降、武甕槌神は鹿島の神として不動の位置を占めることになります。また、神剣韴霊剣はその後、久しく宮中に祀られましたが、それは、神剣の存在が守護神として大和政権により重要視されたからに他なりません。そして崇神天皇の御代、奈良の石上神宮に移設されることになります。共に高天原を旅立ち、武甕槌神と共に国譲りで活躍した経津主神は、その後、香取の神となったと古語拾遺には記載されています。

神剣を共通点とする3つの聖地

これまでの国譲りの話の流れから、当時、神剣が極めて重要な存在であったことがわかります。実際に神剣が用いられただけでなく、それを振るった刀剣神の働きは目覚ましいものがありました。また、国譲りの舞台は国を平定した大己貴命の本拠地である出雲だけでなく、その後、反旗を翻した建御名方神が長野県の諏訪湖まで追われたことから舞台は諏訪に移行し、最終的に武甕槌神が諏訪の真東にあたる鹿島を自らの拠点とすることにより、出雲、諏訪、鹿島という3つの聖地が歴史の流れのなかで深く絡むようになることに注視する必要があります。いずれの場所においても、武甕槌神が大活躍した場所であるだけに、古代から「剣」に纏わる伝承が残り、その地域には歴史に名を残す著名な神社が建立されることとなります。神剣というモチーフを古代社会において共有する由緒ある聖地として名高い出雲と諏訪、そして鹿島では、武甕槌神の足取と共に神剣の伝承が残され、それぞれの地において、神が手厚く祀られたのです。

何故、建御名方神が出雲から追われた際に、諏訪までの長距離を逃げようとしたのか、今日では知る由もありません。はっきりしていることは、国譲りの歴史が出雲にて始まった時点においては既に、諏訪湖の周辺には大きな集落が存在し、双方を行き来する道ができていたに違いないことです。そして建御名方神が自らの敗北の後、率先して信濃国の開拓に着手したことからしても、建御名方神は諏訪周辺の地理に詳しかったと考えられます。近隣にある阿久遺跡の発掘調査からもわかるとおり、確かに諏訪湖周辺には、日本列島の中でも最も古い歴史を誇る集落が存在しました。よって、出雲と諏訪という2つの古代集落は、大変重要な位置を占めていたに違いなく、人々の行き来があったことから陸路がおよそ周知され、建御名方神は逃げ伸びる道を心得ていたのではないでしょうか。出雲の地ではスサノオも活躍し、十握剣を振るって八岐大蛇を退治したスサノオは、草薙剣を大蛇の尾から発見しました。また、出雲は武甕槌神が十握剣を大地に逆さに突き刺した場所としても有名であり、まさに剣の存在なくして歴史を語れない場所と言えます。建御名方神が逃げ伸びた諏訪の地にも、剣に纏わる貴重な伝承が残されています。日本列島の中でも、最も古い集落の1つとして知られているのが長野県、諏訪湖のそばにある阿久遺跡です。縄文時代前期、今から5000年から6500年も遡る時代に発展した集落の規模は極めて大きく、本州の奥地ではありながら、諏訪湖の近郊に古代から集落が造成されたのです。また、阿久遺跡のそばには諏訪大社が存在し、遠い昔から祭祀活動が執り行われていました。その背後には守屋山が聳え立ち、山の中腹には守屋神社があります。守屋山は諏訪大社の御神体という噂も絶えず、諏訪大社と守屋山、及び守屋神社は、その由緒からも、「神剣」と深い関わりを持っていることがわかります。

守屋神社の境内に繋がる鳥居
守屋神社の境内に繋がる鳥居
守屋神社については、「復刻諏訪史料叢書」に含まれる「諏訪かのこ」に、「守矢が嶽には守矢大臣の宮あり。石匣に神劍を納む。」と記載されています。つまり、守屋神社では古代、神剣が納められていた時代があったことが記されているのです。その神剣は今日、守屋神社からどこかへ持ち去られてしまったようです。しかしながら、守屋神社の境内裏、階段の最上段には竪穴式石室のような細長い収納場所が残されており、その周囲は造作物によって守られています。この場所に遠い昔、神剣が保存されていた時代があったからこそ、それが持ち去られた後も、守屋神社では祭祀活動が続けられてきたのではないかと推測されます。

その守屋山の麓に諏訪大社の本宮と前宮が存在します。「諏訪上社物忌令」によると、本宮と前宮の周辺には諏訪七石が存在し、それらは御座石、御沓石、硯石、蛙石、小袋石、小玉石、亀石と呼ばれています。その御沓石のすぐそばにある石棒が、天逆鉾です。そこには「諏訪明神を尊崇した琉球国王」とも記載され、諏訪大社と沖縄とは古くから交流を持っていたことがわかります。天逆鉾と言えば、前述したとおり、国譲りの時代において武甕槌神が出雲国五十田狭の小浜に到来した際に、十握剣を地に突き立てた話を想い浮かべるのではないでしょうか。諏訪大社には、まさに剣が地面を突き刺しているような石棒が御沓石の前に存在し、天逆鉾と呼ばれているのです。これらの伝承から諏訪大社と出雲が神剣と言う共通のモチーフによって結び付いていることがわかります。

また、諏訪湖で誅伐を終え、国を平定した武甕槌神は、その後、更に東方へと向かい、鹿島を本拠地とします。遠い昔から、鹿島は[日本の国の東の果て]と言われていたのも、武甕槌神が西は出雲から東は関東の地域までを網羅して、国を平定しようと目論んだからではないでしょうか。鹿島は日の登る最東端の地でもあり、事始めの地でもあることから、「1日の始まりは鹿島から」とも言われ、前途を幸わう言葉として「鹿島立ち」という言葉も知られるようになりました。そして鹿島は太平洋に面していることから、そこには民衆を救う「弥勒の船」が着く港としても語られてきたのです。

神剣が宝蔵されていたと考えられる石棺
神剣が宝蔵されていたと考えられる石棺
鹿島を制することは、日本の未来を制し、救うことを意味していたのです。よって、武甕槌神の足取りを辿ると、出雲から諏訪、そして最終的に鹿島へと移動したことがわかります。鹿島神宮は諏訪湖、及び近郊に聳え立つ守屋山と同緯度に存在しますが、これは偶然ではなく、古代集落の名所であった諏訪湖周辺にて誅伐を終えた武甕槌神が、その場所に紐づく東の聖地、自身の新しい拠点となる場所を、真東の方向にある鹿島にて見出した結果ではないでしょうか。武甕槌神は刀剣神であるが故、鹿島の聖地でも必然的に神剣の存在が古代より大切に扱われ、今日まで至っています。

鹿島(カグシマ)神宮の意味

ここで今一度、鹿島という名前の由来について考察してみましょう。奈良時代に編纂された「常陸国風土記」には、武甕槌神が香嶋天之大神と記され、古くから「鹿島」は「香島」と記載されていたことがわかります。そして8世紀以降は「鹿嶋」と書き改められるようになりました。江戸時代以前までは、鹿島は山鳥の鹿嶋と書かれていましたが、その後、近代では「鹿島」という漢字表記が定着するようになりました。

鹿島の名前の由来には定説がありません。それ故、香しい島という意味で香島の香が鹿に転化したという説、武甕槌神の甕という字から甕島(みかしま)が鹿島になったという説、神が鎮まる場所ということで神島が鹿島になったという説、そして神の住む所の意でカスミが転訛したという説等、様々です。また、船を停泊させるための杭が打たれている島はカシシマと呼ばれ、それが常陸国ではカシマに転訛したという説もあり、鹿島周辺には現実的に良港が存在し、杭を打てる場所が多いことから注目されています。

鹿島の読みにも注視する必要があります。鹿島は元来、「かしま」ではなく、「かぐしま」と呼んでいた可能性が高いのです。常陸国風土記に記載されている高天原より降臨した香嶋天の神をあげ、その香島という名前は、元来「かぐしま」という読みが正しく、常陸国でも同様に読まれたと考えられることが挙げられています。また、古事記では鹿の神を天迦久神(あまの「かく」のかみ)と呼び、鹿の愛称は「かご」であったこと、武甕槌神が天香山近郊の出身であること、また、鹿嶋は香しい島であることから「かぐしま」と呼ばれるようになった可能性があることも考慮する必要があります。もしかすると鹿児島という読みの由来も、元来は香島という綴りに関連し、いつしか香の読みに鹿児があてられたのかもしれません。

また、「かぐしま」という読みの語源が、ヘブライ語であるという説にも注目です。「カグ」という言葉はヘブライ語で、カグー(khagur、カグー)、体に巻く、身にまとう、締める、用意をする、等を意味します。次に「シマ」はシムー(shimur、シムー)は、保護、管理、保存を意味する言葉です。それ故、2つの言葉を合わせると、「カグシムー」となり、直訳では「保護を身にまとう」、つまり「保護管理体制を敷く」という意味になります。日本列島の東海岸沿いにある最重要拠点として、列島の保護管理体制を固めるための監視塔となる拠点が鹿島でした。それ故、古代の民は鹿島を当初、「カグシムー」と呼び、その名前に香島という漢字が当てられ、「かぐしま」と読まれるようになった可能性があります。

レイラインから見出された鹿島の聖地

古代の民は日本列島の島々を見いだし、そこに拠点を築くためにレイラインと呼ばれる拠点同士を結ぶ線を複数、活用しました。天体を主な指標としながら自らの位置付けと地勢の在り方を理解したと考えられる古代の民は、いつしか、一定の緯度間にその行動範囲を留めることになります。それは、単に新天地における気候に適応するだけでなく、天体観測をするにあたり、慣れという課題もあったからではないでしょうか。特に古代の民は9緯度を重視していました。西アジアから渡来したイスラエルの民にとって、その緯度の範囲に収まる日本列島の場所は、最南端が九州の鹿児島、北の境界は関東北部の群馬や茨城、そして長野県などです。数多く存在する列島内の拠点の中でも、鹿島神宮の存在は緯度の北限に近く、しかも列島の最北端にあたることから、極めて重要です。では、その場所をどのように特定できたのでしょうか。

日本列島には縄文時代前期には諏訪湖周辺に大きな集落が造成されていました。列島の中心にある淡路島から見て、夏至の太陽が昇る方向にピタリと位置し、諏訪湖という水源と温暖な盆地の気候から察するに、古代の民はその場所を好んだと考えられます。その後、伊弉諾尊による国生みの時代では、列島の島々が特定され、淡路島がその中心の置かれました。伊弉諾尊が自らの墓地として厳選した伊弉諾神宮の場所は、レイラインを理解する上で、最も重要な拠点の1つです。また、イスラエルの民は、エルサレム神殿と同緯度の場所を重要な指標としたのではではないでしょうか。それが、中甑島のヒラバイ山です。

本州の太平洋側に船を着岸させて、港町を構築するための拠点を見つける為に用いた指標となる拠点が、このヒラバイ山と、日本最高峰の富士山です。その2つの拠点を結ぶ線を北東方向に伸ばすと、鹿島を通り過ぎます。そのレイラインと鹿島の沿岸がぶつかる場所が、特定されたのです。これも偶然なのでしょうか。その場所は、古代集落が造成されていた阿久遺跡に隣接する諏訪大社前宮と全く同じ緯度に存在します。また、伊弉諾神宮から見て、夏至の太陽が沈む方向の先にある出雲の地も重要でした。何故なら、伊弉諾神宮を中心として、出雲大社と諏訪大社が夏至の太陽によって結び付けられるだけでなく、諏訪大社と同緯度にある鹿島神宮も、そのレイラインの仲間に入れることができるからです。実際、鹿島神宮、諏訪大社、出雲大社の著名な神社は、神剣という深い歴史の絆を共有していたのです。

また、石上布都魂神社の拠点も重要です。武甕槌神が天皇に献上した神剣韴霊剣は、鹿島に戻ることなく久しく宮中に保存され、その後、石上神宮に移設されます。石上布都魂神社と石上神宮を結ぶレイラインは、伊勢の猿田彦神社の上をピタリと通り抜けることから、これらの拠点同士が重要な意味を持っていると考えられます。石上神宮の境内には摂社の1つとして猿田彦神社が祀られているのも偶然ではありません。猿田彦の背長は7尺と言われ、巨人でした。武甕槌神の神剣韴霊剣は実物こそ行方はわかりませんが、鹿島神宮に保存されているレプリカの国宝は3m近くもの長さになります。もしかすると、猿田彦が一度は手にした剣であったかもしれません。また、石上布都魂神社は、四国剣山ともレイラインで結び付き、剣山は伊弉諾神宮を通じて神宝と深い関わりのある六甲山と繋がっています。

日本の中心地とされた淡路島や、イスラエルの首都、エルサレムに結び付くレイライン上に位置する諏訪大社や守屋山、阿久遺跡と同じ緯度に鹿島が存在することは、偶然とは言えません。古代の民は海を渡って諏訪湖周辺に到達する為に、内地への入り口となる港を必要とし、目的地と同じ緯度にある海岸沿いに、島の入り口となる岬を見出したのです。天体を観測しながら旅をしていた古代の民にとって、同緯度の場所を行き来することはわかりやすく、鹿島に到達し、そこから真西に進むことにより、迷うことなく諏訪湖周辺の集落に辿り着くことができたのです。こうして鹿島は、内地へと繋がる列島の港玄関として発展し続け、武甕槌神の本拠地として、そこに鹿島神宮が建立されるに至りました。

鹿島神宮のレイライン
鹿島神宮のレイライン