
目次
東国の港に築かれた鹿島神宮
今日の鹿島は、人口7万人近くを擁する港町として知られ、そこには年間100万人以上もの参拝者が訪れる 鹿島神宮 の広大な森が広がっています。美しく整えられた境内は古代から人々の信仰を集め、遠方からも多くの参拝者が陸路や海路を通って訪れてきました。
鹿島は単なる港町として発展しただけではありません。古くから神が祀られ、東国を代表する由緒ある神社として鹿島神宮が建立されました。その祭神は、武神であり刀剣神としても知られる武甕槌神です。古代において武甕槌神は国家鎮護や東方守護とも深く結び付けられ、鹿島の地そのものが特別な聖域として認識されていたと考えられます。だからこそ、列島の東端とも言えるこの地に、大規模な神域と港町が築かれていったのでしょう。
なぜ鹿島の岬は聖地となったのか
ところが古代の鹿島周辺は、現在のような都市ではありませんでした。そこは岬の先端、もしくはその名のとおり「島」とも呼べる場所であり、一帯は海や川、湿地に囲まれた辺境の地だったのです。列島の中心部からは遠く離れ、交通の便にも恵まれていませんでした。霞ヶ浦の東方には広大な湿地帯が広がり、大規模な集落の形成に適した土地とは到底思えない環境が広がっていました。さらに鹿島へ向かうには、南西方向に位置する香取神宮周辺から、利根川や海を船で渡らなければならなかったのです。
それにもかかわらず、古代の人々はこの地に定住し、港を整備し、集落を発展させただけでなく、そこで神を祀ったのです。一般的な地の利だけを考えるならば、その必要性は乏しかったはずです。しかし彼らは、鹿島という場所に単なる土地条件を超えた価値を見出していたのでしょう。その背景には、鹿島で祀られていた神の存在と、この地を通過する特別な地理的配置、すなわちレイラインの思想が深く関係していたようです。
レイラインが示した鹿島神宮の位置
古代の識者は、今日「レイライン」と呼ばれている地理的思想を用いながら、日本列島各地に重要な拠点を定めていたと考えられます。淡路島、近畿地方、九州、四国などには、その思想に基づいて港や集落が築かれ、神を祀る聖所が造営されていきました。中でも鹿島は、関東の太平洋沿岸において極めて重要な位置を占めていました。複数の主要なレイラインが交差、あるいは通過する地点に位置していたため、古代の人々にとって特別な意味を持つ場所として認識されていたのでしょう。
しかも鹿島神宮は、刀剣神として祀られる武甕槌神と関わりを持つ由緒ある神社群と、レイライン上で結び付いていたと考えられます。つまり古代の人々は、神剣という共通の象徴を通して、祭神だけでなく、それぞれの聖地の位置関係にも重要な意味を見出していた可能性があります。
地の利に恵まれない辺境の地でありながら、レイラインによって選ばれた地点であったからこそ、鹿島は古代から重要な港町として発展したのでしょう。太平洋沿岸を往来した旅人たちは、鹿島を内陸への玄関口として重視し、そこを拠点に東国へと足を運んだのではないでしょうか。そして鹿島の地は、古くから神が鎮まる聖域として広く認知され、やがて壮大な鹿島神宮の建立へと繋がっていったのです。
鹿島神宮の由緒とは
鹿島神宮は、数多く存在する神社の中でも最古のひとつに数えられています。「鹿島神宮古記録」には、鹿島神宮の創始が神武天皇の勅令によるものであると明記されています。また、927年に編纂された「延喜式」と呼ばれる神名帳には、全国3132座の天神地祇が記載されていますが、伊勢神宮を除くと、鹿島神宮と香取神宮のみが神宮を称しています。こうしたことから、古代より鹿島神宮は特別な位置付けに置かれ、朝廷や識者から篤い尊崇を受けていたことがわかります。
鹿島神宮の要石
鹿島神宮の社殿は、楼門をくぐった後、東西に延びる参道の右手に横向きに位置しています。つまり、社殿は珍しく北向きに建てられているのです。そして参道をさらに進むと、杉や椎の木で囲まれた並木道の先に、祭神である武甕槌神の荒御魂が祀られている奥宮があります。その50m先には、直径30cmほどの頭頂部だけが地表に露出している要石があります。水戸黄門仁徳録には、「七日七夜掘っても掘りきれず」と記されており、その不思議な巨石の存在が伝えられています。また、その場所に鹿島神宮の大神が降臨したのではないかとも言われています。元来、鹿島一帯は砂地であり、本来なら巨石が存在するはずがない場所であることから、要石は「その底は地球の中心まで続いている」という謂れを持つ霊石です。また、鹿島の神は遠い昔から三笠山とも呼ばれる鹿島山にて祀られ、そこには今日、鹿島神宮の重要な摂社のひとつである三笠神社があります。
鹿島神宮の社殿は、その内部構造において、出雲大社と類似点が多いことに注目です。どちらも住居のような建築様式であり、神座は奥の隅に横向き、そして大国柱をぐるりと回って奥の間に入る構造をとっています。また、屋根も切妻造りの妻入りという共通点があります。出雲大社と鹿島神宮を建設した人は同一人物であるという伝承に立てば、神社内陣の配置や意匠に共通点が見られるのも自然なことと言えるでしょう。出雲大社の最初の社殿は武甕槌神によって造られ、その建築思想が鹿島神宮でも取り入れられたのです。
鹿島の祭神は武甕槌神であることから、当初、祭祀活動を引き継いで執り行ったのは、武甕槌神の子孫であったと考えられます。その後「常陸国風土記」によると、崇神天皇の御代、大坂山に白い桙を手にした鹿島の大神が出現し、自らの住まいを整えて祀るよう告げました。そして、その神が香島の国に鎮座する天の大御神であることを中臣神聞勝命が解き明かしたと伝えられています。中臣神聞勝命の祖は、天の岩戸に天照大神がお隠れになった際に祝詞を唱えた天児屋根命です。そこで天皇は、大刀、ヤタノ鏡、 許呂等の神宝類など、多くの幣物を鹿島神宮に奉納しました。そして、それらの神宝を奉持した中臣神聞勝命は、鹿島神宮の祭祀を司ることとなりました。
奈良時代に編纂された「常陸国風土記」香島郡条に記されている「香島の天の大神」の記述からは、中臣部が古くから祭祀に深く関わり、占部氏が香島の大神の社の周辺に居住していたこともわかります。香島の社の実権は中臣部が握り、その祭祀活動においては中臣部が禰宜、そして占部が祝(ほふり)として職務を担っていたのです。
大宮司家の子孫である中臣鎌足
こうして鹿島神宮の大宮司家は、その後も中臣鹿島氏に引き継がれ、その子孫の中には7世紀飛鳥時代に一世を風靡した中臣鎌足(藤原氏)も歴史の表舞台に登場します。鎌足は鹿島神宮にて氏神を仰ぎました。その子である藤原不比等らは、平城京が710年、奈良に遷都されたことを機に、藤原氏の氏神である武甕槌命を奈良の御蓋山にて祀り、春日神と称したのです。そして768年、その藤原氏の氏神を大々的に祀り、藤原一族の政治的権威を象徴するべく、春日大社が造営されました。その後、鹿島神宮には祭祀料を支えるための荘園も寄進され、経済的基盤が整えられていきました。また、鹿島は藤原鎌足の出生地という説もあり、鹿島市内には鎌足神社が建立されています。
国譲りの背景と鹿島神宮の祭神
鹿島神宮の祭神は武甕槌神です。そして奥宮には、武甕槌神の荒御魂が祀られ、背後には鹿島の霊石とも言われる要石が存在します。武甕槌神は国譲りにおいて活躍された偉大な神でした。そのダイナミックな働きを理解するために、国譲りの歴史を簡単に振り返ってみることにします。
国譲りの歴史
スサノオが活躍した舞台となった出雲は、国譲りが執り行われた聖地です。スサノオの子孫である大己貴命(おおなむちのみこと)は、少彦名命と協力して天下を経営し、国土を平定します。そして大己貴命は葦原中国の主となり、後に出雲大社の祭神として祀られることになります。大己貴命には多くの別名があり、大穴牟遅神、大穴持命、八千矛神、大汝命、大名持神などが知られています。また、「日本書紀」には大己貴命がスサノオの子であると記されていますが、一書にはスサノオの6代後が大国主神であるとも、また別の一書にはスサノオの6代後が大己貴命であるとも記されています。さらに、大国主神は大物主神、及び国作大己貴命と同一神であるとも記されています。いずれにしても大己貴命は大国主神や大物主神と同一視される存在であり、初代神武天皇が即位する前に栄えた一大勢力の象徴だったのです。
スサノオの娘を娶り、国造りに努めた大己貴神は、病気を治療する方法や呪術により鎮めることなどを人々に教え、文化面において大きく貢献しました。そして少彦名神の協力を得て、二神で国造りを推し進めました。やがて少彦名神が熊野で亡くなった後、大己貴神は国造りを完成させるため、その最終段階において出雲に辿り着いたのです。すると、幸魂と奇魂と呼ばれる神が海原を照らしながら現れ、大己貴命に語りかけたのです。そして神託により、神が住まわれる場所が大和国の御諸山(三輪山)であることを知り、歴史は急展開します。その後、大己貴命は御諸山に神の宮を造営し、神を中心とする国家の土台が築き上げられました。
大己貴命の国譲り
その国造りの主人公である大己貴命と直接談判し、葦原中国を平定するために高天原から遣わされたのが、経津主神と武甕槌神です。この二神は刀剣神とも呼ばれる剣の神です。なぜなら、二神は剣によって生まれた神だからです。伊弉諾尊が十握剣をもって火の神である軻遇突智を3つに斬った際、剣の刃から滴る血が岩石となって経津主神の祖となり、また剣の鍔から滴る血からは熯速日神が生まれ、武甕槌神の祖となりました。二神は国譲りの交渉をするために出雲国へと向かい、そこで武甕槌神は十握剣を大地に突き立て、刀剣神としての威厳を示しながら大己貴命との談判に臨んだのです。その結果、大己貴命は子である事代主神の承諾を得て国を譲る決断をし、自らが国土平定の際に用いた広矛を献上します。そして「その矛を用いて国家を治めるならば必ず平安な国になる」と伝えた後、表舞台から退いたのです。また、国を譲る代償として、大国主命は高天原にある天日隅宮に似た壮大な宮殿を出雲に建立することを条件としました。こうして出雲大社が造営され、そこで大己貴命は祀られると同時に、天孫に帰順したのです。
その際、武甕槌神は大己貴命から矛を譲り受け、未だに帰順しない民を誅伐するためにその剣を振るうことになります。時に、地上では最も力の強い神として知られていた建御名方神は武甕槌神に力比べを挑んできましたが、追いつめられて科野の諏訪に逃れた末に敗れました。その後、建御名方神は高天原の意向に服従することを約束し、信濃国の開拓にあたり、諏訪で祀られることになります。こうして日本建国の基礎は固められ、葦原中国は平定されました。
神武東征の陰に武甕槌神
それから後、刀剣神として文武両方に優れた力を発揮した武甕槌神は、関東地域の開拓と鎮撫に専念し、その最東端である太平洋沿いの鹿島を本拠としました。直後、天照大神は皇孫、瓊瓊杵尊を降臨させることを決め、三種の神器を授けて日向の高千穂に向かい、時代が大きく変わっていくことになります。神武天皇が東征する途中、窮地に陥った際に、武甕槌神は神剣韴霊剣を天皇に献上し、その神威により、熊野の連山を越えて大和に入国した一行は長髄彦を討つことができました。武甕槌神の協力により、建国の第一歩を記すことができた神武天皇は、武甕槌神を鹿島の大神として勅祭し、以降、武甕槌神は鹿島の神として不動の位置を占めることになります。また、神剣韴霊剣はその後、久しく宮中に祀られました。それは、神剣の存在が守護神として大和政権により重要視されたからに他なりません。そして崇神天皇の御代、奈良の石上神宮に移設されることになります。一方、高天原を共に旅立ち、武甕槌神と国譲りで活躍した経津主神は、その後、香取の神となったと「古語拾遺」には記載されています。
神剣を共通点とする3つの聖地
これまでの国譲りの話の流れから、当時、神剣が極めて重要な存在であったことがわかります。実際に神剣が用いられただけでなく、それを振るった刀剣神の働きも目覚ましいものがありました。また、国譲りの舞台は国を平定した大己貴命の本拠地である出雲だけではありません。その後、反旗を翻した建御名方神が長野県の諏訪湖まで追われたことから舞台は諏訪に移り、さらに武甕槌神が諏訪の真東にあたる鹿島を自らの拠点としたことにより、出雲、諏訪、鹿島という3つの聖地が歴史の流れの中で深く結びつくことになります。いずれの場所においても、武甕槌神が大活躍した場所であるだけに、古代から「剣」に纏わる伝承が残され、その地域には歴史に名を残す著名な神社が建立されました。神剣というモチーフを共有する由緒ある聖地として名高い出雲、諏訪、そして鹿島には、武甕槌神の足取りとともに神剣の伝承が受け継がれ、それぞれの地で神が篤く祀られたのです。
諏訪に逃げ延びた建御名方神
なぜ、建御名方神が出雲から追われた際に、諏訪までの長距離を逃げようとしたのか、今日では知る由もありません。しかし、国譲りの歴史が出雲にて始まった時点において、すでに諏訪湖周辺には大きな集落が存在し、双方を行き来する道が整えられていた可能性が高いと考えられます。
日本列島の中でも、最も古い集落のひとつとして知られているのが長野県、諏訪湖畔にある阿久遺跡です。昨今の発掘調査から、縄文時代前期、今から5000年から6500年も遡る時代に発展した集落の規模は極めて大きいことがわかっています。本州内陸部ではありながら古代から集落が造成されていたのです。
また、阿久遺跡の近くには諏訪大社が鎮座し、遠い昔から祭祀活動が執り行われていました。その背後には守屋山が聳え立ち、中腹には守屋神社があります。守屋山は諏訪大社の御神体とも伝えられ、諏訪大社、守屋山、そして守屋神社は、その由緒からも、「神剣」と深い関わりを持っていることがわかります。
出雲と諏訪という2つの古代集落は重要な位置を占めていたのかもしれません。出雲の地ではスサノオが十握剣を振るって八岐大蛇を退治し、草薙剣を大蛇の尾から発見しました。また、武甕槌神が十握剣を大地に逆さに突き刺した場所としても有名であり、まさに出雲は剣の存在なくして歴史を語れない場所と言えます。そして、建御名方神が逃げ延びた諏訪の地にも、剣に纏わる貴重な伝承が残されています。建御名方神が自らの敗北の後、率先して信濃国の開拓に着手したことからしても、人々の往来によって既に陸路が広く周知されていたことが窺えます。
神剣が保管されていた守屋神社
守屋神社については、「復刻諏訪史料叢書」に含まれる「諏訪かのこ」に、「守矢が嶽には守矢大臣の宮あり。石匣に神劍を納む」と記載されています。つまり、守屋神社では古代、神剣が納められていた時代があったことを示しているのです。その神剣は今日、守屋神社から失われてしまったようです。しかしながら、守屋神社の境内裏、階段の最上段には竪穴式石室のような細長い収納場所が残されており、その周囲は造作物によって守られています。この場所に遠い昔、神剣が保存されていた時代があったからこそ、それが失われた後も、守屋神社では祭祀活動が続けられてきたのではないかと推測されます。
その守屋山の麓に諏訪大社の本宮と前宮が存在します。「諏訪上社物忌令」によると、本宮と前宮の周辺には諏訪七石が存在し、それらは御座石、御沓石、硯石、蛙石、小袋石、小玉石、亀石と呼ばれています。その御沓石のすぐそばにある石棒が、天逆鉾です。そこには「諏訪明神を尊崇した琉球国王」とも記載され、諏訪大社と沖縄とは古くから交流を持っていたことがわかります。天逆鉾と言えば、国譲りの時代において武甕槌神が出雲国五十田狭の小浜に到来した際に、十握剣を地に突き立てた話を想起するのではないでしょうか。諏訪大社には、まさに剣が地面を突き刺しているような石棒が御沓石の前に存在し、天逆鉾と呼ばれているのです。これらの伝承から諏訪大社と出雲が神剣という共通のモチーフによって結び付いていることがわかります。
弥勒の船が着く鹿島
諏訪湖での誅伐を終え、国を平定した武甕槌神は、その後さらに東方へと向かい、鹿島を本拠地とします。遠い昔から、鹿島は[日本の国の東の果て]と言われていたのも、武甕槌神が西は出雲から東は関東の地域まで広く国を平定しようとしたことと無関係ではないかもしれません。鹿島は日の昇る東方の地であり、事始めの地ともされます。そのため「1日の始まりは鹿島から」とも言われ、旅立ちや門出を祝福する言葉として「鹿島立ち」という言葉も知られるようになりました。また、鹿島は太平洋に面していることから、そこには人々を救う「弥勒の船」が着く港としても語り継がれてきたのです。
鹿島を制することは、日本の未来を制し、人を救うことを意味していたのです。このように武甕槌神の足取りを辿ると、その活動の舞台は出雲から諏訪、そして最終的に鹿島へと移動したことがわかります。鹿島神宮は諏訪湖及び近郊に聳え立つ守屋山とほぼ同緯度に存在します。これは偶然ではなく、古代集落の中心地であった諏訪湖周辺にて誅伐を終えた武甕槌神が、その場所に紐づく東方の聖地、すなわち新たな拠点となる場所を、真東の方向にある鹿島に見出した結果ではないでしょうか。武甕槌神は刀剣神であるがゆえ、鹿島の聖地でも必然的に神剣が大切に扱われ、その信仰は今日まで受け継がれています。
鹿島(カグシマ)神宮の意味
ここで今一度、鹿島という名前の由来について考察してみましょう。奈良時代に編纂された「常陸国風土記」には、武甕槌神が香嶋天之大神と記され、古くから「鹿島」は「香島」と記載されていたことがわかります。そして8世紀以降は「鹿嶋」と書き改められるようになりました。江戸時代以前までは、「鹿嶋」の表記が一般的でしたが、近代以降は「鹿島」という漢字表記が定着するようになりました。
「鹿島」の名の由来には定説がありません。それゆえ、香しい島という意味で「香島」の「香」が「鹿」に転化したという説、武甕槌神の「甕」という字から「甕島(みかしま)」が「鹿島」になったという説、神が鎮まる場所ということで「神島」が「鹿島」になったという説、さらには神の住む所の意で「カスミ」が転訛したという説などさまざまです。また、船を停泊させるための杭が打たれている島は「カシシマ」と呼び、それが常陸国では「カシマ」に転訛したという説もあります。鹿島周辺には良港が存在し、杭を打てる場所が多いことから、この説も注目されています。
鹿島の読みにも注視する必要があります。鹿島は元来、「かしま」ではなく、「かぐしま」と呼んでいた可能性が高いのです。「常陸国風土記」に記載されている高天原から降臨した香島天之神をあげ、その「香島」という名は、元来「かぐしま」という読みが正しく、常陸国でも同様に読まれたと考えられることが挙げられています。また、「古事記」では鹿の神を天迦久神(あまの「かく」のかみ)と呼び、鹿の愛称は「かご」であったこと、武甕槌神が天香山近郊にゆかりがあること、また、鹿嶋は「香しい島」と解釈できることなどから「かぐしま」と呼ばれるようになった可能性も考えられます。もしかすると「鹿児島」という読みの由来も、元来は「香島」という表記に関連し、いつしか「香」の読みに「鹿児」があてられたのかもしれません。
鹿島をヘブライ語で読む
また、「かぐしま」という読みの語源が、ヘブライ語であるという説にも注目です。「カグ」という言葉はヘブライ語で、חגור(khagur、カグー)、体に巻く、身にまとう、締める、用意をする、などを意味します。次に「シマ」はשימור(shimur、シムー)は、保護、管理、保存を意味する言葉です。2つの言葉を合わせると、「カグシムー」となり、直訳では「保護を身にまとう」、つまり「保護管理体制を敷く」という意味になります。日本列島の東海岸沿いにある最重要拠点として、列島の保護管理体制を固めるための監視塔となる拠点が鹿島でした。それゆえ、古代の民は鹿島を当初、「カグシムー」と呼び、その名に「香島」という漢字が当てられ、「かぐしま」と読まれるようになった可能性があります。
レイラインから見出された鹿島の聖地
古代の民は日本列島の島々を見出し、そこに拠点を築くためにレイラインと呼ばれる拠点同士を結ぶ線を活用しました。天体を主な指標としながら自らの位置や地勢を把握していたと考えられる古代の人々は、やがて一定の緯度帯にその行動範囲を留めることになったのではないでしょうか。それは、単に新天地における気候に適応するだけでなく、天体観測をするにあたり、慣れ親しんだ環境を維持する必要があったためとも考えられます。特に古代の人々は北緯39度付近の緯度帯を重視していたようです。西アジアから渡来したイスラエルの人々にとって、その緯度の範囲に収まる日本列島の場所は、最南端が九州の鹿児島、北の境界は関東北部の群馬や茨城、そして長野県などです。数多く存在する列島内の拠点の中でも、鹿島神宮の存在は緯度の北限に近く、しかも列島の最北端にあたることから、極めて重要です。では、その場所をどのように特定できたのでしょうか。
日本列島には縄文時代前期にはすでに諏訪湖周辺に大きな集落が造成されていました。列島の中心に位置する淡路島から見て、諏訪湖は夏至の太陽が昇る方向にほぼ位置し、水源に恵まれた湖と温暖な盆地の気候から察するに、古代の人々はその場所を好んだと考えられます。その後、伊弉諾尊による国生みの時代では、列島の島々が特定され、淡路島がその中心に置かれました。伊弉諾尊が自らの墓地として厳選した伊弉諾神宮の場所は、レイラインを理解する上で、最も重要な拠点のひとつです。また、イスラエルの人々は、エルサレム神殿と同緯度の場所を重要な指標としたのではではないでしょうか。それが、中甑島のヒラバイ山です。
神剣で結びついていたレイライン
本州の太平洋側に船を着岸させて、港町を構築するための拠点を見つけるために用いた指標となる拠点が、このヒラバイ山と日本最高峰の富士山です。その2つの拠点を結ぶ線を北東方向に伸ばすと、鹿島を通過します。そのレイラインと鹿島の沿岸が交わる地点が、特定されたのです。これも偶然なのでしょうか。その場所は、古代集落が造成されていた阿久遺跡に隣接する諏訪大社前宮とほぼ同緯度に位置しています。また、伊弉諾神宮から見て、夏至の太陽が沈む方向の先にある出雲の地も重要でした。なぜなら、伊弉諾神宮を中心として、出雲大社と諏訪大社が夏至の太陽によって結び付けられるだけでなく、諏訪大社と同緯度にある鹿島神宮も、そのレイラインの仲間に入れることができるからです。実際、鹿島神宮、諏訪大社、出雲大社の著名な神社は、神剣という深い歴史の絆を共有していたのです。
また、石上布都魂神社の存在も重要です。武甕槌神が天皇に献上した神剣韴霊剣は、鹿島に戻ることなく長らく宮中に保存され、その後、石上神宮に移設されます。石上布都魂神社と石上神宮を結ぶレイラインは、伊勢の猿田彦神社の上をピタリと通り抜けることから、これらの拠点同士が重要な意味を持っていると考えられます。石上神宮の境内には摂社として猿田彦神社が祀られているのも単なる偶然ではありません。猿田彦の背長は7尺と言われ、巨人として語られています。一方、武甕槌神の神剣韴霊剣は実物こそ行方はわかりませんが、鹿島神宮に保存されているレプリカの国宝は3m近くにも及びます。もしかすると、猿田彦が一度は手にした剣であったかもしれません。また、石上布都魂神社は、四国の剣山ともレイラインで結び付き、剣山は伊弉諾神宮を通じて神宝と深い関わりのある六甲山と繋がっています。
内地へと繋がる鹿島神宮
日本の中心地とされた淡路島や、イスラエルの首都、エルサレムに結び付くレイライン上に位置する諏訪大社、守屋山、阿久遺跡と同緯度に鹿島が存在することは、偶然とは考えにくいものです。古代の人々は海を渡って諏訪湖周辺に到達するために、内地への入口となる港を必要とし、目的地と同緯度上に位置する海岸線に、列島の入口となる岬を見出したのです。天体を観測しながら旅をしていた古代の人々にとって、同緯度上の地点を行き来することはわかりやすい航法でした。鹿島に到達し、そこから真西に進むことにより、迷うことなく諏訪湖周辺の集落へ辿り着くことができたのでしょう。こうして鹿島は、内地へと繋がる列島東部の玄関港として発展し続け、やがて武甕槌神の本拠地として、そこに鹿島神宮が建立されるに至りました。

画像ギャラリー:鹿島神宮 / 阿久遺跡 / 出雲大社 / 石上布都魂神社 / 伊弉諾神宮 / 要石(鹿島神宮) / 守屋神社 / 諏訪大社 / 猿田彦神社(伊勢) / 中甑島












鹿島神宮の大鳥居から楼門に向けての参道は、夏至の日の出方向のようで、東西南北とはいっても、30度の傾きがあります。
香取神宮は旧参道がそのようです。因みに伊勢神宮内宮の宇治橋は、冬至の日の出方向に架かっています。
話を戻しまして、阿久遺跡には環状列石、また香坂山遺跡からは、日本最古の3万38000年前の石器が発見されています。
関東を中心に人類がここを目指したということなのか、とても不思議な繋がりを感じています。
日本を目指したユダヤの人々は、近畿地方にて基盤を築いていくわけですが、関東は既に人口も多く、不必要な争いを避けるために、其処に留まったのか、関わりや位置付けはどのようなものだったのでしょうか。
昨日 鹿嶋神宮に御参拝しました。幾度も参拝しておりますが 年々霊力が落ちているように感じます。畏れ多いことですが。個人的には 渡来人中臣氏にとって タケミカヅチノカミが 今後日本で勢力を伸ばすために必要だったのだ と思います。そして 鹿嶋神宮は諏訪の抑えとして 神宮なのあろうと。元々 清らかな聖地であったことは間違いありませんが 蝦夷討伐の拠点として使われたことで 変質してしまったように感じます。原発をパワースポットの周辺に建てるのと同じ 隠された作為を感じるのです。東北三社のうち 息栖神社だけ クナド大神 古来の神を祀っている バランスが おかしい。元々は 三社とも古の神を 祀った 清い場であった と感じます。以上 語り部の直感から…..
鹿島神宮と富士山とのレイラインに千葉県佐倉市の長嶋茂雄生家があります。びっくりです。