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2014/02/22

出雲と石上布都魂神社のレイライン

童話として親しまれている八岐大蛇の物語は、実は単なる神話ではなく、建国の祖神であるスサノオが、大陸から到来する外敵より列島の住民を守る為に戦ったことについて書き綴られた可能性があります。史書の中でも特に神代に関わる記述には、抽象的な表現や比喩、そして現実離れした内容が多く含まれることから、ごく一般的には単なる神話として受け止められがちです。しかしながら、そのような安易な解釈には注意が必要です。記紀、古語拾遺など複数の史書に記載されている内容に照らし合わせて地図を検証すると、大半の地名は実存するだけでなく、そこには今日、神社や遺跡など歴史の痕跡を確認することができます。更に、史書の記述と並行して神社の御由緒記等からも、過去の背景を学ぶことができます。由緒が存在するということは、それなりの根拠に基づき、遠い昔の歴史が伝承されてきた訳ですから注視が必要です。更に、史書で用いられている言葉の中には、西アジアの言語がルーツと考えられる外来の言葉が多く見出されていることから、日本の建国に多くの渡来者が関わり、史書の執筆にも積極的に関与した可能性を窺うことができます。よって史書の記述が古代の歴史に基づくものか、その信ぴょう性については十分な検証が必要です。

また、史書の記述に含まれる神社や聖地等の重要拠点の中には、綿密に考え抜かれたレイラインのコンセプトに基づき、それらが同一線上に特定される事例が多く含まれていることにも注目です。このような聖地の位置付けや並び方は、単なる偶然では起こり得ないことから、明らかに古代の優れた地理感に基づき、それらの場所を特定する技量を持つ文明人が遠い昔に存在したのです。そのような高度な天文学や地理学を携えていた民は、どこから到来したのでしょうか。もし、史書に記載されている諸々の物語が事実に基づくものであり、建国の神々が実存した人であったとするならば、そしてアジア大陸より渡来した高度な文化を持つ民が、その宗教文化の礎を列島内に築き上げ、多くの聖地を見出して神を祀り、そこに社を造営したとするならば、日本の古代史に関する見識が一変します。

その可能性を検証することができるガイドラインの1つが、建国の祖神スサノオと八岐大蛇を退治した時に使われた十握剣です。何故ならば、スサノオが大切にした聖地や十握剣の収蔵場所等が、見事に一直線に並び、偶然とは考えられないからです。何らかの重大な史実が存在し、レイラインと呼ばれる直線上に関連する聖地を並べることを古代の民が目論んだとしか言いようがないのです。十握剣は当初、石上布都魂神社に収蔵されたことから、その場所を通り抜ける線は、石上布都魂神社のレイラインと呼ぶことができます。また、スサノオの拠点は出雲であり、スサノオが関わる聖地は明らかに出雲と繋がっていることから、そのレイラインはスサノオのレイラインと呼ぶこともできるでしょう。その古代レイラインの不思議を検証する前に、まず、スサノオの十握剣と、それを祀る石上布都魂神社の背景について考察してみます。

スサノオの十握剣と石上布都魂神社

スサノオの物語には草薙剣と十握剣と呼ばれる2つの重要な剣が登場します。前者はスサノオが退治した八岐大蛇の尾から発見された剣であり、最終的に熱田神宮に宝蔵されたと記紀には書かれています。その後、盗難の被害にもあったことから保管方法にも色々な工夫がなされ、最終的には人目のつかない安全な場所に安置されたことでしょう。今日まで、日本のどこかに草薙剣は保存されているはずですが、残念なことにその場所を特定することは極めて困難です。また、草薙剣はイスラエルの秘宝とも言われるアロンの杖ではないかという指摘もあります。八岐大蛇を大陸から到来した巨船の象徴とするならば、その船内に守護神として宝蔵されていた剣が見出された可能性も残されています。

斐伊川の川上の山 船通山の頂上
斐伊川の川上の山 船通山の頂上
草薙剣とは別に、スサノオが八岐大蛇と戦う為に最初から携えていたのが、十握剣と呼ばれる剣です。その行方はどうなったのでしょうか。日本書紀には、八岐大蛇との戦いの後、蛇の麁正(あらまさ)とも呼ばれる十握剣が、石上神宮に収蔵されたと書かれています。また、「スサノオが大蛇を斬られたその剣は、今は吉備の神職の許にある。出雲の斐伊川の川上の山がこれである」との記載もあります。スサノオは川上の鳥上峰にて大蛇と戦ったことから、斐伊川の川上とは大蛇との決戦が行われた場所に近く、草薙剣が大蛇の尾から発見された場所も、その周辺であったと考えられます。しかしながら、斐伊川の最上流とは船通山の近郊であり、吉備よりは若干の距離があるだけでなく、どちらかと言えば日本海側に位置しています。それ故、例え古代の海岸線が内陸側に入り組んでいたと想定しても、瀬戸内側に存在する吉備の神社を斐伊川の川上の周辺と考えるには、広範囲な地理的解釈が必要です。

その吉備の神社とは、岡山県赤磐市にある石上布都魂神社であるというのが定説です。その理由は記紀の記述に基づくだけでなく、石上布都魂神社の由緒にも、蛇の麁正と呼ばれるスサノオの十握剣が収蔵されていたことが明記されているからです。石上布都魂神社にて十握剣が収蔵されたと考えられるもう1つの理由が、神社が御神体とする裏山にある巨石の存在です。緑の木が茂る周辺の山々を横目に、その裏山だけは樹木がなく、磐座の巨石は今日まで大切に祀られています。磐座自体は今日でも禁足地とされ、何人も足を入れることが許されない聖地とされています。

レイラインの構築には、典型的な指標として山や巨石が用いられますが、正にこの事例が当てはまります。今日の岡山県赤磐市、吉備の山中に、低い山並みが何kmも続く中、周囲に何ら目印もなく、アクセスが良くないわかりづらい場所に孤立しています。それでもレイラインを構想したと考えられるスサノオの想いのとおり、重要拠点を結ぶ線上に存在するだけでなく、見事な磐座を伴う場所でした。何のゆかりも由縁もない吉備の山奥であっても、レイライン上に存在するという条件を兼ね備えた場所だからこそ、十握剣を収蔵する聖地として定められたのでしょう。こうして八岐大蛇との戦場の近郊に特定された吉備の神社の場所にて十握剣は保管され、その後、十握剣は大和国の石上神宮に遷されたのです。そこは奈良盆地の中ほどという位置付けであっただけに、神宝が盗難される危険性が極めて高く、周囲の攻撃からもおよそ無防備の地勢でした。よって最終的にスサノオの十握剣は石上神宮から取り出され、別の聖地に遷されて秘蔵されることになったと推定されます。

石上神宮 拝殿
石上神宮 拝殿
スサノオが八岐大蛇を退治した際に振るった十握剣は、備前国一宮、石上布都魂神社では、祭神として祀られたことは言うまでもありません。また「吉備温故秘録」によると、その剣は明治時代まで、布都御魂という名称でも伝えられてきました。その後、「神社明細帳」に記されている通り、祭神は元来の十握剣という名称となります。今日では石上布都魂神社の祭神は、民衆に分かりやすく親しまれやすい神であることが重要視されたからでしょうか、十握剣の使い手であったスサノオ自身が剣の代わりに祀られています。

石上神宮 楼門と回廊
石上神宮 楼門と回廊
大和国の石上神宮御由緒記にも、石上布都魂神社との関わりについての記述が見られます。そこには、十握剣のゆかりについて日本書紀や古語拾遺からの引用だけでなく、その剣は、「もと備前国赤坂宮にありしが、仁徳天皇の御代、霊夢の告によりて春日臣の族市川臣これを当神宮に遷し加え祭る」と書かれています。備前国赤坂宮とは石上布都魂神社のことでしょう。古語拾遺に記されている「石上の神宮」が、大和国の石上神宮、石上布都魂神社のどちらを指すか定かではありませんが、いずれにしても、斐伊川の川上近郊とされる吉備の神社、石上布都魂神社において、蛇の麁正である十握剣がまず収蔵されたことに違いはありません。その後、時代を経て、十握剣は奈良の石上神宮に遷されたと考えることにより、史書の記述と辻褄は合います。また、石上布都魂神社の由緒によると、その十握剣は、「崇神天皇の御宇、大和国山辺郡石上村へ移し奉る」ともあることから、十握の剣が当初、大和地方に遷されたのは前1世紀頃であり、その後、4世紀初頭、大和国にて病が蔓延した際、この剣の霊力をもって国家の安泰が祈願され、最終的に大和国の石上神社に十握剣が献上されたと考えられます。これが、石上布都魂神社が石上神宮の元社となった背景です。

十握剣の由来とその意味

日本書紀によれば、十握剣と呼ばれる剣を最初に手にしたのは伊弉諾尊です。そして身に帯びた剣をもって伊弉諾尊は、自らの子である火の神、軻遇突智(カグツチ)を3つに斬り、そこから更に神々が生まれたのです。その後、伊弉諾尊の十握剣がどうなったかは定かではありません。当初、スサノオが手にしていた十握剣は、父、伊弉諾尊から譲り受けた剣である可能性はありますが、その剣は天照大神により3つに打ち折られ、噛み砕かれて無くなったことから、スサノオが八岐大蛇を斬った際に用いた「蛇の麁正」とは別物です。

「十握剣」の言葉の意味は、束(ツカ)が長さの単位であり、中国では元来、握り拳の人差し指と小指の幅、もしくは一握りの幅で束の寸法が定められ、おそらく8cmから10cm程度であることから、「トツカ」は1m弱の長さと考えられます。日本書紀には十握剣だけでなく、九握剣、八握剣という名称も使われていることから、「ツカ」という言葉が長さの単位として用いられていたことがわかります。

一般的には剣の長さを測る言葉として知られる十握剣ですが、「トツカ」と発音されるこの言葉の語源はヘブライ語であり、元来は別の意味を持つ言葉であったと考えられます。ヘブライ語にはtotkhan、トトゥカン(totkhan、トトゥカン)という言葉があり、TOTUKAという発音に聞こえます。砲手、射撃手、砲兵を意味するこの言葉は、戦場で敵に向かって打撃を与える役目を担う勇士を指します。「トツカ剣」とは単に当て字から解することのできる剣の長さだけでなく、敵を斬る戦士の意味を持つ言葉だったのです。それ故、史書の随所で十握剣が用いられる場面では、必然的に戦いや斬殺のシーンが多く含まれるのです。それ故、伊弉諾尊が軻遇突智を斬る時や、スサノオが八岐大蛇を斬殺する際にも十握剣が用いられ、神武天皇の東征においては、建御雷神に由来する十握剣は敵対する土着の神々を一掃するほどの霊力を誇ったのです。

十握剣はヘブライ語で「戦士の剣」、「武士の剣」と解することができますが、その意味は歴史の中で見失われ、これまで十握剣以外の様々な名称でも呼ばれてきました。十握剣は古事記では「十拳剣」、日本書紀では「蛇の麁正」「韓鋤の剣」「天蠅斫」と記載され、「布都御魂」とも呼ばれています。また、古語拾遺には「天の羽羽斬」とも記載されています。ところが、これらの名前の意味はわかりづらい説明が多いようです。例えば「蛇の麁正」(おろちのあらまさ)の「麁正」は、「あら」が荒く、「まさ」は「まさかり」であり、それ故、大蛇を斬った「荒々しい剣」の意になるという説や、「麁正」の語源を、その読み方に類似点が見られる「韓鋤(からさひ)の剣」とし、朝鮮半島からもたらされた剣とする説もあります。いずれにしても、「韓」という漢字が含まれていることは、十握剣が韓に由来する刀である可能性が高いことを示唆しています。

布都御魂は物を切断する「フツ」という音が語源であるという見解もありますが、これも根拠に乏しいものです。刀に関連する「フツ」という名称は、漢字では経津、布都と書きますが、その語源はヘブライ語で説明することができます。「フツ」と発音する言葉はヘブライ語でhootsar、フツァ(hootsar、フツァ)と書きます。その意味は、「細く、真っすぐにされた」です。銅や鉄を鋳て、金物で叩きながら、真っすぐに研がれた剣だからこそ、剣はヘブライ語で「フツ」と呼ばれたのです。こうして古代の神剣は、経津、布都という名称で呼ばれるようになり、また、実際に剣が使われて人や獣が斬られるという力を象徴する場面に関わる際には、「フツ」が戦士の意味を持つ「十握」という名称にとって変えられ、「十握剣」の言葉が用いられたと考えられます。

古語拾遺に記載されている「天の羽羽斬」という名称も注目です。古事記では、「天之尾羽張」、「伊都之尾羽張」とも記載され、大蛇を天の恐ろしい神、天蠅として、その蛇を斫る剣の意味と解することができる「天蠅斫」と、その読みは同じです。どちらも「あまのははぎり」と読むことから、2つの名称は同じ語源を持つ可能性があります。古語では大蛇を羽羽(はは)と呼びます。よって「天の羽羽斬」とは、大蛇を斬る刀と解釈することができます。また、蠅も「はは」と読み、蠅の字は蛇の原型であり、中国語の発音も蛇と一緒であることから、「天蠅斫」の意味は「天の羽羽斬」と同じく、大蛇を斬る刀となります。

時と状況に応じて異なる名称が用いられたスサノオの十握剣でありますが、多様の霊力に満ちた宝の剣であったと考えられるだけに、多くの名称で親しまれていたとしても決して不思議ではありません。スサノオとスサノオの剣には、それだけの魅力が秘められていたと言えるでしょう。

スサノオが目論んだレイライン

日本を守護する為に戦った神々の中でも、スサノオの存在は際立っています。今日でも多くの神社や史跡等ではスサノオが手厚く祀られ、史書における記述の量も群を抜いています。スサノオの影響力と建国への貢献度は計り知れません。古代の日本列島において神社が創設された背景には、特定の場所を厳選して祭壇を作り、神を祀った民の存在があります。そして最終的にはその創始者の名前はいつしか神と同一視され、祭神として祀られるようになったのでしょう。後の時代においては、他の地域でも分社化などを経て、同じ祭神が祀られるようになります。多くの聖地にてスサノオが祀られているということは、それだけスサノオの行動範囲が広く、偉大なリーダーとして強い影響力を持っていたことの証であると考えられます。

さて、スサノオ自身が足を踏み入れた古代の聖地は多々ある中、八岐大蛇と十握剣に関わる石上布都魂神社と伊弉諾神宮、スサノオの母である伊弉冉尊が葬られた花窟が、スサノオの拠点である出雲を基点とする直線上にピタリと並んでいます。明らかにレイライン特有の思考を、スサノオが絡む聖地で確認することができるのは何故でしょうか。一直線上に並んでいることが偶然でないことは、これら聖地の周辺に目立った拠点や指標が存在しないことからしても明らかです。例えば石上布都魂神社は、何の目印もない人里離れた山の中腹に造営されており、レイラインの手法無くしては、その場所を特定する術を全く見失うことになります。

日本列島内の古代聖地がレイラインと呼ばれる直線上に並ぶということは、相互間の地の利を結び付け、創案者の意図や目的さえも共有する象徴として重要視することを目論んだ結果と言えます。日本書記に記載されている聖地の中でも、スサノオが関与した場所が実際に存在するだけでなく、それらの多くが一直線上に並んでいることには重要な意味が込められているだけに、その背景を理解することは極めて重要です。それは遥か遠い昔、神代とも呼ばれる時代に、聖地を特定する手段としてレイラインの考え方が積極的に用いられたことの証でもあり、スサノオ自身が拠点として構えた出雲を他の聖地と結び付け、スサノオの想いを後世に残すことを目論んだ結果とも考えられます。また、スサノオが大切にした聖地を結ぶ線上に石上布都魂神社が存在することは、スサノオの十握剣である蛇の麁正を収蔵することが極めて重要視されていたからに他なりません。

レイラインの存在は、スサノオ自身がそれら聖地を特定するための作業に直接関わり、地の力を一直線上に紐付けながら、自らの願いや、父母への想いをそれらの場所に込めて、そこで神を祀った証とも言えるでしょう。伊弉諾尊、伊弉冉尊を想うからこそ、レイラインの拠点は父母に思い入れがある場所を厳選したのです。そこから浮かび上がるスサノオのイメージとは、もはや天照大神を悩ませた暴れん坊の若者という姿ではなく、八岐大蛇を十握剣をもって退治したことに象徴される強く逞しい神でありながら、意外にも、父母に対する深い哀愁の想いに満ちた、優しい心を持つ神であったのです。

石上布都魂神社と出雲のレイライン

スサノオに関連するレイラインの背景をより良く理解する為に、今一度、スサノオの生い立ちを振り返ってみましょう。伊弉諾尊と伊弉冉尊の間には、三柱の神とも呼ばれる天照大神、月読尊、そしてスサノオが生まれ、スサノオはその末子にあたります。日本書紀によると、スサノオは伊弉諾尊より根国、大海原を含む天下を治めよと命ぜられるのですが、当初それをスサノオは拒み、様々な問題を起こしていきます。スサノオの役割に関する記紀の内容については多少の相違が見られ、様々な解釈があります。しかしながら天下に広がる大海原を日本海とし、大陸から日本海を船で渡り、列島に到来する敵から人々を守る役目をスサノオが担っていたと解釈することにより、概ね矛盾なく、記紀の話を理解することができます。

スサノオの姉である天照大神は、スサノオが治める大海原とは相対する天の上、高天原を統治する任務を負いました。高天原の場所とは、その名のごとく、夏至の日に太陽が天空の最も高い位置を昇り降りする地域にあると想定されます。天空の頂点を通る太陽を見ることができる地域は、日本列島の中でも、より赤道に近い南西諸島、沖縄の周辺に存在します。それ故、これまで神話の世界における架空の聖地、高天原と呼ばれる神々が集まった場所は、実は古代の沖縄周辺に存在した可能性があるのです。その前提でスサノオの役割を見直すと、南西諸島側の沖縄諸島周辺は天照大神が、そしてその反対の北側にあたる日本海側の大海原はスサノオによって統治されることとなり、その中間、つまり南西諸島の高天原と日本海の間に葦原中国があったと考えられます。よって、スサノオに託された天下とは、高天原とは反対に緯度が高く、そこは太陽の昇る位置が低い地域でもありました。スサノオが統治する拠点が日本列島の北側にあたる日本海という前提で記紀を読むと、何故スサノオが朝鮮半島、新羅と頻繁に行き来していたのか、また、ソシモリに居住したこともあったのか、その背景さえも明確になってきます。

さて、大海原を統治して周辺地域を管理することを嫌ったスサノオは、伊弉諾尊が在命中の時でも散々な不品行や暴言を繰り返し、多くの人を困らせました。そして根の国を訪ねる直前に姉の天照大神に会いに高天原まで出向きますが、そこでも素行の悪さが際立ち、天照大神が天の岩屋に隠れてしまうという一大事件にまで発展します。その後、スサノオは高天原から追放され、日本書紀によると、スサノオは朝鮮半島の新羅国ソシモリにて暫く滞在したのです。元々、スサノオは根の国に行く予定であり、その直前に高天原を訪れ、それから朝鮮半島に向かったことから、根の国とは大陸に繋がる朝鮮半島のことを意味していたのではないでしょうか。大陸から根っこのような形で朝鮮半島が飛び出している地形そのものが、その語源である可能性があります。その後、スサノオはソシモリに滞在することを好まず、すぐに日本列島に戻ってくることとなりました。

日本に帰国したスサノオは、自らの本拠地を日本海に面する出雲としました。それは、スサノオが日本海という大海原を管理し、大陸と列島を行き来する人々を統治する重要性にやっと目覚めたからではないでしょうか。スサノオは両親に散々な迷惑をかけ、何一つ親孝行らしいことができないまま、両親はこの世を去ってしまいました。ソシモリという異国の地を訪れ、自身の人生を振り返ったスサノオの心の中には、きっと、父母に対して悔いる思いが込み上げてきたに違いありません。そして出雲という場所を特定し、そこを生涯の一大拠点としたのです。しかし何故、出雲という場所が選ばれたのでしょうか。その理由をレイラインから見出すことができます。

スサノオの心の中には亡くなられた母が最終的に葬られた熊野にある花窟の巨石と、父の墓が存在する淡路島の地が、いつも心の中に残っていたのではないでしょうか。その想いを心に大切にしまっていたスサノオは、自らの拠点を、父と母への想いと繋げることができる場所として、父母の墓を結ぶ線上に特定したのです。それは、熊野の花窟神社と淡路の伊弉諾神宮を結ぶ線上を意味し、そのラインは日本海側の海岸では出雲の日御碕にあたります。日御碕と同緯度上には、対馬から朝鮮半島へ向かう際の大陸の玄関であったと考えられる巨済島が存在します。父母の墓地とレイライン上に結び付く出雲の地は古代、スサノオの拠点として重要視されました。日御碕の海底には、参道や祭祀跡が残されており、今日でも確認することができます。また、その直線上を日御碕から内陸に向けて7.7km程入ると、そこには弥山(みせん)と呼ばれる山が聳え立ち、その近隣には八雲山があります。後世では、その山の麓に出雲大社が造営されることとなります。

さて、スサノオは八岐大蛇を退治した後、その剣を収蔵する場所を探す必要性に迫られました。そこでスサノオは、父母が眠る墓地を思い起こしたのではないでしょうか。そして大切な十握剣を秘蔵する場所を、自らの生命線ともいえる線上に見つけることにしたのです。つまり、母が眠る熊野の花窟神社と父の墓がある淡路島、今日の伊弉諾神宮の場所を結ぶ線上に、自らの命を託した十握剣を宝蔵することを目論んだのです。唯一の課題は、その長いレイライン上のどこを聖地として定め、十握剣を収蔵するかということです。

岩壁に作られた驚異の投入堂
岩壁に作られた驚異の投入堂
十握剣を収納する場所を、父母の墓地を結ぶレイライン上にピンポイントで探す為に、2つの方法が考えられたことでしょう。まず、目的地となる新しい聖地の南北に、目印となる山を見出すことでした。出雲の基点を弥山とすると、そこから真東に向かうと三徳山にあたり、そのすぐそばには今日、投入堂として知られる奇跡の拝殿が絶壁に作られている姿を見ることができます。ほぼ垂直な山の岸壁に、いつ、だれが、なぜ、拝殿を作ったのか、知る由もありません。もしかするとスサノオの時代、レイライン上の地点を定める為に投入堂の地点がピンポイントで特定され、その山の壁面が削られて、そこに有無を問わず拝殿が作られたのではないでしょうか。

また、花窟神社から西方向に向かうと、西日本で2番目の高山である剣山の頂上付近を通り過ぎ、その西方に聳え立つ三嶺にぶつかります。そして三嶺と三徳山が見事に南北に並んでいるのです。三嶺という名前はヘブライ語で「殉教者」を意味し、その言葉の背景にはスサノオの母に対する想いが込められているのかもしれません。三嶺の山頂付近には大きな水ためが造成されたと考えられ、山頂にお墓が作られた可能性もあります。更に大事なことは、スサノオに関わる「3」という数字の大切さです。出雲の拠点は弥山(みせん、三セン)であり、そこから真東には三徳山、更に真南には三嶺、と「み」が3つ並びます。無論、スサノオの兄弟は3人、母である伊弉冉尊を祀る熊野三山はその言葉のとおり3つの聖地からなり、熊野の三神は熊野三所権現とも呼ばれています。これ程までに3という数字が並ぶのは、もはや偶然とは言えません。

この三徳山投入堂と三嶺を結ぶ南北の線上と、出雲と伊弉諾神宮、花窟神社を結ぶレイラインが交差する場所に、ピンポイントで石上布都魂神社が存在します。その境内の裏、高台には聖なる磐座が禁足地として今日まで守られていますが、その場所が出雲と淡路島、そして熊野の聖地である花窟神社を結ぶレイライン上に位置していることは重要です。何故ならそれは、吉備の石上布都魂神社の山地が、聖なる十握剣を収蔵する場所として選ばれた根拠を示していると考えられるからです。石上布都魂神社は、スサノオが拠点とした出雲と父母の墓の場所を結ぶ線上だけでなく、剣山に近い三嶺と、その北方には三徳山投入堂という場所を結ぶ線と交差する場所に存在するのです。それ故、石上布都魂神社の地は、これらのレイラインが交差する場所に意図的に見出され、その小高い山の頂上にて樹木が伐採されて岩場が露わになり、それがいつしか聖地として崇拝されるようになったと考えられます。

更に石上布都魂神社の地を通り抜ける、もう1つの重要なレイラインが存在します。それが、高天原のレイラインです。前述した通り、高天原とは沖縄諸島周辺に存在した可能性があり、その中心地となる那覇は、古代の重要な集落の拠点でもありました。神々が結集し、天照大神が統治した高天原の比定地を沖縄という前提で考えると、スサノオにとってはそこが、先祖の故郷の地へと繋がる場所であり、自らの親族も大勢居住していたと考えられることから、重大な意味を持っていたことでしょう。そこで、十握剣を宝蔵する社の場所を定めるにあたり、スサノオはその聖地を何とかして、高天原と結び付けることを目論んだに違いありません。

その結果、生まれたのが高天原のレイラインです。沖縄の那覇から船で北上すると、次の拠点は九州でも最高峰を誇る屋久島です。小さな島でありながら、屋久島の中心に聳え立つ宮之浦岳は標高1,936mを誇り、西日本最高峰の石鎚山に匹敵します。その屋久島の頂上と、四国石鎚山を結ぶ線が驚くことに、那覇を通り抜けているのです。これは偶然の一致というよりもむしろ、石鎚山と屋久島の位置付けから、沖縄諸島の中でも今日那覇と呼ばれる場所がピンポイントで選ばれ、お互いがレイラインの地の力によって結び付けられるようになったと考えられます。そしてこの高天原のレイラインとも呼べる、那覇、屋久島、石鎚山を一直線に通り抜ける線が、花窟神社、淡路伊弉諾神宮、及び出雲を通る線と交差するその場所に、十握剣が宝蔵された石上布都魂神社があるのです。これがレイラインの不思議であり、また、今日でも検証できる地理上の真実です。

こうして十握剣は、スサノオの本拠地である出雲と、その父母を祀る淡路島と熊野に繋がるレイラインに加え、四国の三嶺と驚異的な信仰の象徴である投入堂等を結ぶ南北の線、そして沖縄の那覇から一直線に屋久島、石鎚山を通り抜ける聖地を象徴した3本のレイラインが見事に交差する地点に宝蔵され、これらの聖地に紐づけられたのです。そして、後世においては石上布都魂神社と呼ばれるようになりました。地の力が結集されるレイラインが複数、交差する場所であるだけに、十握剣の収蔵場所としては山の中にありながら、これ以上の最適な場所はなかったのです。

一般的にはあまり知られず、今日でも参拝者が少ない石上布都魂神社ではありますが、実は古代より大変重要な位置付けを占めたレイライン上の聖地だったのです。そして出雲から熊野に通じるレイラインや、沖縄と石鎚山を通るレイラインを見つめていると、ふと、スサノオの想いが心に響いてくるような気がしてなりません。これらのレイラインは、父母のお墓だけでなく、スサノオの思い出の場所を、幾つも通り抜けているのです。いつの日も、スサノオは父母のことを想い、生涯忘れることはなかったのでしょう。古代のレイラインは、スサノオの温かい想いを映し出していたのです。

石上布都魂神社とスサノオ、出雲のレイライン
石上布都魂神社とスサノオ、出雲のレイライン
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中島尚彦

中島 尚彦

南カリフォルニア大学、ペンシルベニア大学ウォートン校、フラー神学大学院卒。音楽系ネット通販会社サウンドハウスの創業者。古代史と日本古来の歌、日ユ同祖論の研究に取り組むとともに、全国の霊峰を登山し、古代遺跡や磐座の調査に本腰を入れている。

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