「かごめかごめ」の由来
「かごめ」の語源
日本では古くから多くの童謡が庶民の間で広まり、親しまれています。それらのわらべうたの中には、意味が不可解な歌詞も含まれています。中でも、最も不可解な歌詞を有するのが「カゴメの歌」、もしくは「かごめかごめ」といわれる歌です。このわらべうたに纏わる逸話は枚挙に暇がなく、テレビなどでもその不思議な言葉の背景や意味、歌の主旨などが、話題として取り上げられています。
子どもの頃、「かごめかごめ」と手をつないで歌いながら、目を塞いでしゃがんでいる友だちの周りを歩きまわり、最後に「後ろの正面、だーれ?」と歌って、後ろにいる人の名前を言い当てる遊びをしたことを覚えているでしょうか。鬼に選ばれた友だちを囲むというこの遊びから、「カゴメ」の語源は、「囲む」ではないかという説も生まれました。「囲む」の命令形にあたる「かこめ」は中世の時代、「かごむ」と濁音を入れて記載されることもあったことから、後に「カゴメ」と発音されるようになったとも考えられています。
不可解な「かごめかごめ」の歌詞
一見、もっともな説明に聞こえますが、「かごめかごめ」の歌詞全体を見ると、そこにはさらに、誰が歌っても首をかしげるような言葉が含まれています。「夜明けの晩」「鶴と亀」「後ろの正面」など、奇妙な表現ではないでしょうか。わらべうたとして口ずさむ歌詞として到底納得できるような内容ではなく、子どもたちに伝えたい大切な意味が込められているようにも思えません。
それでも、「かごめかごめ」のわらべうたは何故かしら、古くから歌われ続けてきたのです。そして歌詞の意味が不透明であるにも関わらず、昔から日本の学校教育に取り入れられ、大勢の人に親しまれてきました。このように不可解な歌詞のわらべうたが、長い歴史の中で何ら問題視されず教育の現場でも歌われ続けてきたことに、驚きを隠せません。
カゴメ印の由来
その謎を紐解くために、まず、カゴメ印の由来を理解することが重要です。「カゴメ」とは漢字で「籠目」とも書き、その言葉から三角形を二重に重ねた形をしたカゴメ印を想像する方も少なくありません。
カゴメ印の由来には定説はなく、一説には竹で編んだ籠に見られる格子状の籠目の形や、六角形をした亀(カメ) の甲羅模様から、これらが原型となり、最終的に六芒星の形になったのではないかと言われています。そしてカゴメ印は江戸時代、籠目紋として家紋にも使われるようになります。さらに大正時代では、ケチャップで有名なカゴメ株式会社の商標としても登録され、カゴメ印の形状は大衆に広く知れ渡ることとなりました。
一方、カゴメ印とイスラエルを関連付けた話題にも注視する必要があります。イスラエル国旗に描かれているダビデの紋は、カゴメ印と同じ三角形を二重に重ねた六芒星です。この特異な形状は「ダビデの紋」「ダビデの星」とも言われています。形状が全く同じことから、カゴメ印のルーツはイスラエルではないか、という説を支持する人も少なくないようです。
「かごめかごめ」に潜むイスラエルのルーツ
「籠の中の鳥」は契約の箱の象徴?
カゴメ印がイスラエルのダビデの星と同じであるため、いつしか「かごめかごめ」の歌詞にある「籠の中の鳥」という表現は、モーセの時代に作られた聖櫃とも呼ばれる「契約の箱」を意味しているという説も囁かれるようになりました。旧約聖書には、モーゼの時代に「契約の箱」と呼ばれる金箔に包まれた大きな箱が作られ、2本の棒の上に載せられて担がれる話が記録されています。その箱の中には神の息吹によって刻まれた聖なる十戒の板が保管されました。また、箱の上部にはケルビムと呼ばれる2羽の金の鳥が向かい合って添えられ、聖なる箱を守護する役目を果たしていました。よって、「かごめかごめ」の歌の「籠」と「鳥」は、「契約の箱」と「金の鳥」の象徴ではないかと考えられたのです。
「かごめかごめ」の歌では、「かごめ」と繰り返した後、「籠の中の鳥」が「いついつ出会う」と続きます。この「出会う」という言葉からも、2羽の鳥の存在が浮かび上がります。また「籠の中」という表現からは、何かが囲まれて、封じ込められているような気配を察することができます。果たしてこの2羽の鳥は、契約の箱の上に飾られた守護神の鳥、2羽のケルビムを指しているのでしょうか。
歌詞はヘブライ語で書かれているか?
ところが、これだけカゴメ印とダビデの紋との共通点が指摘され、「契約の箱」と「籠の中の鳥」の関連説が囁かれてきたにも関わらず、そのカゴメ印のわらべうたとなる「かごめかごめ」の歌詞がヘブライ語で書かれているということについて、これまで多くは語られてきませんでした。もし、カゴメ印のルーツがダビデの紋にあるならば、そして「籠の中の鳥」がイスラエルの「契約の箱」の上に飾られた金の鶏と結び付いていたとするならば、「かごめかごめ」の歌詞が、イスラエルの国語であるヘブライ語で書かれていたと考えても何ら不思議はありません。
果たして、日本語と思っていた「かごめかごめ」の歌詞は、ヘブライ語で読むことができるのでしょうか?そこには、日本語とは異なる意味が、原語に含まれているのでしょうか。そこでまず、ヘブライ語の辞書を片手に、「かごめかごめ」に含まれる日本語の発音に類似したヘブライ語の存在を確かめてみました。そして歌詞全体を通してヘブライ語で読めるだけでなく、前後の言葉の繋がりから、意味のある文脈を見出すことができるかを検証してみました。すると「かごめかごめ」の歌詞に含まれるヘブライ語は、「かごめ」という言葉だけにとどまらず、一貫してヘブライ語で読むことができると判明したのです。
これまで日本語の歌として考えられていた「かごめかごめ」の歌詞は、実はヘブライ語でも読めるのです。しかもヘブライ語で読む歌詞には、当時の緊迫した状況を垣間見られる内容が込められており、「かごめかごめ」の歌詞を通じて何か大切なことを訴えているように読み取れます。その衝撃のメッセージを解読していきましょう。
ヘブライ語で読む「かごめかごめ」
1. 「かごめ」とは大切なものを護衛すること
まず、「かごめ」という言葉に注目です。「かごめ」の「かご」は、「帯を締める」「ベルトをする」を意味するחגור(khagor、カゴ)が語源と考えられます。この言葉は「剣を身につけた状態」を指すこともあり、「武装する」という概念や大切なものを囲んで守るというニュアンスも含まれています。そこに接尾語として「誰」「何」を意味するמי(mi、ミ)、もしくは「何」の מה (mah、マ) を付けた言葉がחגור מי(khagormi、カゴミ)、חגור מה(khagormah、カゴマ)です。その発音は「かごめ」と類似した響きをもちます。
もし、ヘブライ語の「カゴミ」「カゴマ」が多少訛って「かごめ」になったと仮定するならば、その原語の直訳は「何を武装する?」「何を帯びている?」となり、「何を守るのか?」「誰を護衛するのか?」の意味に解釈できます。つまり「カゴメ」という言葉には何か大切なものを帯で囲んで守り、ベルトを締めて武装し、護衛するような意味合いが含まれていると考えられます。

かごめかごめの遊戯昔から子どもたちが「かごめかごめ」を歌う時、みんなで手をつないで輪になったのも、もしかして、大切な何かを「囲む」という意識が芽生えていた結果なのでしょうか。遊戯の要点は、目隠しされた鬼を子どもたちが「囲み」、鬼の背後にいる友達が誰であるかを言い当てることです。それ故、「カゴメ」という言葉に込められた、大切なものを囲み、それをみんなで守るというヘブライ語での意味が、いつしか遊戯の中に象徴されるようになったのかもしれません。
「かごめかごめ」の遊戯のもうひとつの大切なポイントは、囲まれている鬼の姿です。目隠しされて目が見えない鬼とは、囲まれて守られている中心的な存在が、いつの間にか人の目から隠されてしまうことを象徴しているとも考えられます。鬼は神仏に関わる存在ですから、鬼が目隠しされる姿とは、神格化された大切なものが隠されてしまうという、一種の神隠しのような状態を表現していたのでしょうか。「カゴメ」はヘブライ語で「何を武装する」という意味であるという前提で考えると、この目隠しの遊びの背景には、何か大切なものを守るため、みんながとり囲んで隠すような状況が背景にあったのかもしれません。
2. 清めと贖いの象徴となる「籠の中」
古代社会において最も大切なものが、神宝でした。日本の歴史においても三種の神器に代表される神宝は、歴史の流れに多大なる影響を与えたほど重要な位置を占めています。よって、大切なものを守る思いが込められている「かごめかごめ」の歌の背景に神宝の存在があったとしても、決して不思議ではありません。一歩踏み込んで、「かごめ」の後に続く歌詞をヘブライ語で読み続けると、そこには思いもよらぬメッセージが込められていたことに気付かされます。
まず、「籠の中の」は、「かご・の・なか・の」という4つのヘブライ語により形成された言葉と考えられます。「かごの」は、前述のとおり「帯を締める」「武装する」を意味するחגור(khagor、カゴー) に、願いや嘆願の気持ちを込めたנא(na、ナ)「お願いします!」という言葉を合わせたחגור נא(khagorna、カゴ-ナ) というヘブライ語です。それは「武装してください」「護衛してください」の意味になります。何か大切なものを必死に守ることを願い求める言葉のようです。
次に「なかの」をヘブライ語で読んでみます。「なかの」の「なか」は、「清める」「きれいにするを意味するנקה(naka、ナカ) です。この言葉には罪を贖い清められるニュアンスが込められています。そこに願いを込めた「な」נא(na、ナ) を付けるとנקה נא(nakhna、ナカナ) となります。その意味は「清めてください!」となります。
「籠の中の」は、ヘブライ語で「カゴナ」と「ナカナ」を合わせた言葉です。「カゴナ・ナカナ」は多少訛るだけで「かごのなかの」と聞こえます。それは「帯を締めて清めてください!」、すなわち、しっかり帯を締めて守りを固め、辺りを清めてください、という意味になります。これはまさに、大切なものを守護するため、それを囲んで封じた後、罪が贖われて清められることを示唆する言葉と考えられます。
3. 「鳥」の意味は高い所から降ろす
続く「鳥」はヘブライ語で「下げる」「降ろす」の意味を持つתוריד(toriyd、トリー) という言葉と、「そして」を意味する接続詞のו(va、ヴァ) を合わせたヘブライ語が語源であると考えられます。「トリー」は高い所にあるものを下ろす意味の言葉です。上から下に降ろすという主旨の言葉であるため、神棚のように高い所に祀られている神具や、人の手で簡単に届かないような高貴なものを降ろしたり移動するような場合に使われます。それ故、祭司が神聖な宝物を運んだりする際にも使うことができる言葉です。
また、高い所から引き下ろすという意味合いが込められているため、例えば王様を王座から引き下ろす、高慢な者を低くするような事例でも「トリー」を用いることができます。旧約聖書ではתוריד (toriyd、トリー)のルート語であるריד(riyd)を含む言葉は、裁きに関連する意味で用いられています。例えばサムエル記上2章6節では「陰府へ下らせ」としてמוֹרִיד(moriyd)が使われています。上から下へ降ろす力とは、時には神が裁きを行い、人間の地位を下げる象徴にもなります。つまりヘブライ語の「トリー」とは裁きや権威の失墜に結び付く言葉であり、王位を引き下げる際の言葉としても使われていたのです。
「かごめかごめ」の歌では「トリー」という言葉を神宝のような大切なものを神棚から降ろして運ぶ意味に捉えると、前後の歌詞と意味が繋がります。すると「籠の中の鳥は」をヘブライ語で読むと、「かごな・なかな・とり・は」となり、その意味は「帯を締めて守り、清めてください。降ろしてください!」という祈りの言葉として理解できます。言い換えれば、「護衛して周囲を清め、神聖なものを移動せよ」という意味になります。それ故、もし守護されている対象物が神宝と想定するならば、それが秘蔵されていた場所は標高の高い山上にあったかもしれません。大切な神宝が人目のつかぬ山奥に安置され、その場所が長らく守られてきたからこそ、高い山から取り出して降ろしてください、運び出してください、という思いが「かごめかごめ」の歌詞に込められていた可能性が浮かび上がってきます。
4. 火の手が上がる「いついつであう」
「かごめかごめ」の歌詞の解釈には、これまで怖いエピソードの噂話がつきものでした。何かしら恐ろしい事件が背後にあるような言い伝えが後を絶たず、さまざまな「怖い話」が囁かれてきました。これらの「恐ろしい話」は、実は根も葉もない訳ではないかもしれません。「かごめかごめ」の歌詞をヘブライ語で読むと、そこには確かに恐ろしいエピソードが繰り広げられていたのです。
「かごめかごめ」の真相を解明するキーワードが、歌詞の中に含まれている、「いついつ」という言葉です。「いつ」の語源をヘブライ語で「出る」を意味するיצו(yatsu、ヤツ)とする説があります。すると「いついつ」を「出た」「出ていった」と理解できます。つまり守るべきものが出されたことを指します。しかし、前後の文脈との繋がりからすると、「いついつ」の語源を「火をつける」を意味するהצית(hitsit、ヒィツィ) として読んだ方がわかりやすく、一貫したストーリー性に富んだ歌詞になります。
「いついつ」の表現は単に燃やすだけでなく、「ヒィツィ・ヒィツィ」と繰り返し語ることによって、燃やして焼き尽くさなければならなかった状況が強調されているようです。つまり「火を付けろ、焼き尽くせ!」という衝撃の言葉だったのです。では、何を燃やすのでしょうか?とてつもない規模の火入れによる山焼きや、大規模な山火事により、山そのものが燃えたことを指しているのでしょうか。または火による神の裁きを象徴する表現だったのでしょうか。その答えを、「いついつ」の後に続く「であう」の歌詞から見出せます。
「であう」は前後の文脈から察するに、収納庫、家、住まう場所を意味するדיור(diyur、ディユゥー) と考えられます。「知る」を意味するדעו(De’u、デウ) と解釈する説もありますが、前文の「火を付けろ」という言葉から、住まう場所の「ディユゥー」に分があります。「ディユゥー」の発音は、日本語の「出会う」と類似しているだけでなく、その意味には収納庫、もしくは箱のニュアンスが含まれています。すると「いついつであう」とはヘブライ語で、「家を焼き尽くせ」「住まいを燃やせ」の意味になります。さらに「ディユゥー」を神が住まわれる社とするならば、「神の社を燃やせ」と理解できます。つまり火を付けて燃やし尽くすことが、「いついつであう」「ヒィツィ・ヒィツィ・ディユゥー」というヘブライ語の意味に秘められていたと考えられるのです。
「いついつ出会う」とは、火による神の裁きを象徴する表現だったのでしょうか。家、社とは、大切な宝物が収蔵されていた場所であったかもしれません。果たして守られるべき神宝が祭壇から降ろされて取り出された後、その場所に火が入れられたのでしょうか。また、神宝が収蔵されていた場所を標高の高い山岳地帯と想定するならば、その頂上から降ろされて運ばれた後、とてつもない規模の火入れや、大規模な山火事が起きたとも考えられます。そのような緊迫した状況の結末が、「いついつであう」の後に綴られています。
5. 神の裁きを象徴する「夜明けの晩」
「かごめかごめ」の歌詞の中でも、不可解な表現の一つして知られるのが「夜明けの晩」です。「夜明け」 と「晩」は矛盾した表現であり、日本語では意味が通じません。しかしながらヘブライ語で読むと、「いついつであう」のヘブライ語の解釈に結び付けて理解できます。
「夜明け」の語源は、ヘブライ語で神を指すיה(ya、ヤ)と、「不毛になる」「根こそぎにする」「根元から抜く」を意味するעקר(akar、アカー) を合わせた言葉です。そして「ヤ」を接頭語にすると「ヤアカ」となり、「神が根こそぎにした」「神が不毛の地にした」という意味に理解できます。それは山や社に火が入れられた結果と考えられます。つまり神の裁きにより、大切な神宝が取り出された後、あたり一帯が燃やされ、不毛の地になったことを物語っているのです。
では、神の裁きにより不毛の地になった後、何が起きたのでしょうか。辺り一帯が焼かれてしまったという前提で歌詞を読み続けると、次の「晩に」の意味が浮かびあがってきます。「ばんに」は、ヘブライ語で「造る」「建てる」を意味するבנה(banah、バナ)の語尾が変化したבנהתי(banahti、バナティ)と考えられ、「造られた」を意味します。その発音が多少訛って「バンニ」となり、「かごめかごめ」の歌詞の中に用いられたようです。つまり、不毛の地となってしまった後に、何かが造られたようなのです。その出来事を、「夜明けの晩」に続く「鶴と亀が滑った」という歌詞が物語っています。
6. 「鶴と亀」とは「お守りの岩」?
その答えが「鶴と亀」です。「鶴」はヘブライ語のצור(tsur、ツ) であり、「岩」を意味します。イスラエル人にとって、「岩」は神と考えられていることから、「つ」は「岩なる神」を一文字で言い表しています。また、「亀」は「お守り」を意味するקמע(kamea、カメア) です。よって、「鶴」と「亀」を合わせると、「お守りの岩」となります。
このお守りとは原語の意味から察するに、大きな岩からなる建造物のようなものであり、巨石とも言える磐座のような存在ではなかったかと推測されます。すると、「ばんに・つると・かめ」、「晩に鶴と亀」とはヘブライ語で、「お守りの岩が造られた」と理解することができます。ところが、この「お守りの岩」が功を奏さなかったことが、次に綴られています。それが「すべった」という言葉です。
ヘブライ語で、「働きをやめた」、「ストライキ」は、שובתת(shovetet、ショーヴェッテ) と言います。これはイスラエルの民が古代から守り続けている安息日の綴りとも繋がる言葉です。せっかく造られた「お守りの岩」ですが、それが「ショーヴェッテ」、「スーベッテ」になったということは、お守りが機能せず、御利益がなくなったことを意味します。よって、「鶴と亀が滑った」とは、「お守りの岩は働きをやめ」、もしくは「お守りの岩は功を奏さず」、という意味に理解することができます。
7. 「後ろの正面」が証する悲劇の結末
「かごめかごめ」の歌の中で一番不可解な歌詞が、「後ろの正面、だーれ?」です。誰もが知っている歌詞でありながら、日本語での理解が困難な言葉です。そのまま読むと、後部と正面とが相まみえた支離滅裂な表現であるようにしか考えられないことから、この歌詞の解釈については、これまでもさまざまな憶測が飛び交ってきました。鬼の真後ろに誰がいるかを言い当てるための遊戯の歌詞であるとか、現世と神の、世界の目には見えない通り道であることを示唆する、または、お寺の正面の後ろに葬られた人物を指すとか、あげくの果てには遊女の次の相手を意味するだの、その解釈はさまざまです。しかしながら、どれも納得のいく説明ではありません。
「後ろの正面、だーれ」も、ヘブライ語として読むことにより、その意味だけでなく、「かごめかごめ」全体の文脈と主旨をまとめて理解することができます。ここまでの歌詞を振り返ると、大切な箱に収納されていた「神宝」が取り出された直後、周辺一帯が焼かれたことが言及されていたとわかります。そして、岩を切って造られた「お守りの岩」も、山焼きとも思われる膨大な火の海に対しては無力であり、功を奏さなかったのです。それが「滑った」という言葉に集約されています。お守りの岩は「働きをやめ」、付近一帯は焼かれる運命にあったのです。
その後の成り行きが、最後の一文、「後ろの正面だーれ」に記されています。まず、「後ろの」の意味は、場所や物が「取り残される」、「見捨てられる」、「放置される」を意味するהושאר(hushar、フーシャー) が語源と考えられます。次に「正面」は、ヘブライ語でשומם(Shomem、ショーメム) と書き、人の住まない僻地や荒地を指します。「だーれ」は、דלק(dalak、ダラッ) というヘブライ語と理解できます。その語源は「燃料」を指す言葉であり、動詞になると「焼かれた」という意味になります。これらの言葉の流れに沿って考えると、「後ろの正面、だーれ」とは、ヘブライ語で「焼かれた荒地は見放された」という意味になります。
「晩に鶴と亀が滑った。後ろの正面、だーれ」という、一見日本語と思われていた言葉をヘブライ語で読むと、「お守りの岩も造られたが功を奏さず、焼かれた荒地は見捨てられた」、という意味になります。「かごめかごめ」の歌詞には、日本語では考えつかないような全く別の意味のヘブライ語が秘められていたのです。
ヘブライ語で読む「かごめかごめ」の意味
「かごめかごめ」のヘブライ語訳
「かごめかごめ」の歌は、その歌詞を通して神の裁きの実態を詳細まで伝えていたのです。それは、神宝が秘蔵されていた場所から取り出された後、その地域を守るために造られた岩のお守りも功を奏さず、周辺一帯に火がつけられて、すべてが燃え尽きてしまうという悲劇のシナリオについての証でした。しかもその後、焼け野原はそのまま放置されてしまったのです。ヘブライ語で読む「かごめかごめ」の意味を集約すると、以下のとおりになります。
何を守るのか?何を武装するのか?
帯を締めて護衛し、清め、取り降ろしてください!
そして火をつけろ!社を燃やせ!
神が不毛の地とされ、造られた
お守りの岩は安息の時を迎え
荒れ地は支配され水が引かれる
חגור מי חגור מי
חגור נא נקה נא תוריד
ו הצית הצית דיור
יה עקר בנהתי
צור קמע שובתת
הושלט שומם דלה
焼かれた荒地は神の裁きの結末か?
「かごめかごめ」の歌については、その歌詞に呪いのような怖い意味が含まれているのではないかと、昨今のメディアでも特集されています。単に内容が謎めいているだけでなく、実際には人を震撼させるような恐怖のストーリーがその背後にあるというのです。根拠はともあれ、「かごめかごめ」の歌詞には、何かしら恐ろしい内容が含まれていることに違いはありません。

剣山の鶴石を見上げる!ヘブライ語による「かごめかごめ」の中核となるメッセージは神宝です。その大切な神宝が高山とも想定される高い頂きから取りだされた直後、神宝が安置されていた収納箱や、神の社となる建物一帯が火によって焼かれてしまったことを、「かごめかごめ」は証していた可能性があります。カゴメ印がイスラエルのダビデの星であることからして、この神宝の出所がイスラエルであり、その収納箱がイスラエルの契約の箱とは考えられないでしょうか。日本霊峰の中には四国剣山のように、古くからソロモンの秘宝、イスラエルの神宝がもたらされたという伝承が根強く残っている場所があります。よって「かごめかごめ」の舞台が剣山と想定してみることも大事でしょう。
いずれにしても、神の社と神宝の箱が焼かれるという背景には、その地域にて長年、不信仰な行いが蔓延し、神の怒りをかったことが原因ではないかと推測されます。神から裁きを受けて聖絶され、根絶やしになった町、村、都市の事例は、聖書にも数多く記載されています。最も有名な事例では、人々の淫行と罪のため、ソドムとゴモラが火で焼かれてしまった話があります。その他、不信仰の罪より、古代イスラエルにおいてもエルサレムの町に火が放たれ、国家が壊滅した歴史について多くの記録が残されているだけでなく、イスラエル周辺の国家でも、幾度となく不信仰な民は神の裁きにあい、滅ぼされたことが旧約聖書に記載されています。
同様の出来事が、「かごめかごめ」の背景に存在していたと考えられます。裁きの直前まで、人々が崇め祀った神宝は、山上国家の社に収蔵されていたと想定すると、話のつじつまが合います。古代のある日、裁きの時が定められ、神宝が持ち運ばれる命令が下ったのです。そして収蔵場所から取り出されて保護されるやいなや、その直後、「根絶やしにせよ!」という聖絶の命令が実行に移されたのです。そして神宝が置かれていた社を含む山頂一帯に火が付けられ、山上国家は丸ごと燃え尽きてしまうという一大事が起きました。それまで国家統治と権力のシンボルとして存在した山頂の聖地が、神の裁きを受けてもののみごとに消滅したことを、「かごめかごめ」は証していたのです。





天野橋立の北側にこの神社が有ります。
漢字は籠神社と書きます。
ここは元伊勢神社と言われています。
ガゴの中な鳥は、籠神社の中にアークが有ると信じています。
後ろの正面はユダヤです。
日本人の原点、YAPを持った本来のユダヤ人で日本人でも有ります。
東南アジア諸国に「因幡の白兎。」、「ソロモン伝説。」が在りますので、
是非、究明して戴きたい。
凄い考察が読めて嬉しい限りです。思うに、最初の解釈がかなり的を得とると思います。日本にユダヤ人が到来したというのは本当だと思います。日本語の最初の文字もカタカナだったと思います。私の父や母は、小学生の頃カタカナを最初に習ってますし、大正生まれの祖母はひらがなは使わずカタカナばかり使ってました。カタカナはヘブライ語の子音の文字と母音の文字の組み合わせで出来とるようです。それを調べられた人がWEB上で公開してます。
最初の解釈を私なりに考えたところ、以下のようになりました。
たぶん、古代イスラエルの地でとある地域に居住しとったユダヤ人の一派が、その居住地域を敵に取り囲まれた状況を説明しとるのが最初の一行ではないでしょうか。虚を突かれて、取り囲まれたということのように思えます。
次に、かなり危機的状況だから、大切な神宝を取り出し隠して町からなんとか脱出をしたのではないでしょうか。
そして、敵が町に火を掛けたか、自分達で脱出する際の敵への妨害工作として町に火をつけたかどちらかではないでしょうか。
最後に神の宿る岩の導きに従って、荒地となった居住地域を捨て移住する土地を探し求める決意をしたのではないでしょうか。
その時、そのユダヤ人一派は移住先を探すとき、東進を続け日本にたどり着いたと思います。
因みにアメリカのユダヤ人は、その当時のユダヤの民はイスラエルの8つの地域に分かれて居住しとったことを知っています。さらに、その8つのグループの内7つは、何処に移住したのかも把握しとるようです。そして、最後の一つは、逃げ延びられなかったのかと考えたときもあったそうですが、現在では実は日本に到達しとったと考えとるようです。
長いコメント失礼しました。
かごめ かごめ
籠✡️の中の 鳥は
いつ いつ 出やる
夜明けの 番人
鶴🇯🇵と亀👽が統べた
後ろ🌞の正面 だ〜あれ?八郎潟(八郎太郎=須佐之男命=Jesus Christ)
日本語、「ヘブライ語」、(ヘブライ語の意味)
かごめかごめ 「カゴ・メー カゴ・メー」 (誰が守る)
かごの中の鳥は 「カグ・ノェ・ナカノ・トリー」(硬く安置された物を取り出せ)
いついつでやる 「イツィ・イツィ・ディ・ユゥー」(契約の箱に納められた)
夜明けの番人
鶴と亀がすべった 「ツル・カメ・スーベシダ」(未開の地に水を沢山引いて)
後ろの正面誰?
後ろは太陽、前は秋田県、八郎湖
アーク契約の箱の場所・答えは八郎湖では有りません。
中島様の考察に感心させられます。本当にこの童謡が、古代のユダヤ(イスラエル)から伝わって来たものだとするなら、答えは聖書にあると思います。聖書では神の国家であったイスラエル国民が、神の警告を幾度も無視し続け神の預言者を退け、律法(契約の箱の中にあった石板に書かれた内容)を守らず、神が地上に使わしたイエス・キリストでさえも処刑したことにより、神から見離され西暦1世紀にローマ帝国によって滅びました。その際、契約の箱の中身も消失したようですが、神が制定された別のものに取って変わりました。聖書によると天の領域で天使として復活したイエスが、神の王国政府において全権を委ねられ、将来においてこの地上を統治するというのが聖書が伝えているものです。人間の指導者では人類を正しく導くことは不可能ですが、神の子イエスは指導者として最もふさわしいと言えます。それが完全なる人類の救済策です。四国や日本と言ったスケールではなく、世界の救済を伝えている内容が童謡として伝わって来ているのだとするなら本当に驚きですね。
契約の箱は剣山にはなく 空海さんが剣山と瓶ヶ森の中間で 八十八寺の真中の塩塚高原 別名『ドウメキ(アイヌ語で「峰に泉のある所」)』に移しています。
ここは大山さんとも呼ばれ 徳島と愛媛の県境の山ですが 周りは沢山の大山神社が取り囲んでいます。
カゴメ歌は人工池がり地下水脈がある 塩塚峰の歌ではないかと思います。
塩塚の頂上付近は葺石と版築で飾り作られた山で トレンチ棒で十ヵ所調べてみても すべてが深さ28センチでピタリと止まります。
塩塚はシオンの塚(神殿の丘)でどこの山からも見つけやすく 通信と水の神の龍神さん
大山祇神が祀られているのではないかと思います。
因みに頂上部分は裸足でも歩けます。
考察をありがとうございます。神宝を安置していた場所から取り出し、聖櫃(アーク)の中に入れて持ち出した後で、置いてあった場所に火を付けて燃やして、何があったか分からない様にしたのでしょう。
大切な神宝が入っている箱(アーク)を取り出す必要があった時とは・・・イスラエルの民が、その場所から離れなければいけない時=12支族中10支族が、出イスラエルの時の事ではないでしょうか。10支族の内、2支族が日本へ渡来したという説を信じています。
○素晴らしい記述に感謝致します。
より多くの人の目にとまり、広まることを希望して、拡散に協力いたします。
Amen!
伊の国(徳島)と予の国(愛媛)の県境がある塩塚は、大変不思議な山で、春先に広い面積を山焼きしますが、山から湧き出る水を溜めるだけでその火の消火が可能です(もちろん火道を切ったり迎え火もしますが)。しかし どうしても火が入らない湿地帯(トライアングルウエット)が中央部にあります(今年はグーグルマップで確認可能)。
もしかしたらその内部に オシリス・シャフトの様な、水を蓄えた場所があるのではないかと思います。
元々塩塚は海底が隆起した山で、宝石に準ずるものと称された蛇紋岩の、「紅新宮」が昔しは採れていたようなので、海水を抱きかかえたまま隆起した可能性もあります。
空海さんはそれらに気がつき、行者達とアークを移設したのではないかと考えます。
平安遷都に伴う災いから京の都を守る為、空海さんは徐福ゆかりの行者達と、聖櫃の移設をタガーマハランに行ったのではないかと思います。
そのうえで山彦(空)と海彦(海)の境に八十八カ寺を配し(元々あった神社の前に)、桓武天皇の意向に沿う形で結界線を引き直したのではと思います。
神武東征に伴い紀ノ國に移していた聖櫃を、何らかの理由で 元の四国へ戻す必要があったのではないかと思います。
秦の始皇帝やフビライハン、果ては吉備の国の桃太郎に至るまで、聖櫃はユダヤにルーツを持つ民に、虎視眈々と狙われていたのではと考えます。
四国吉野川の源流近くの高知県本山町に、「出雲願開舟の地」の看板と出雲大社遥拝所の碑があり、それなりの歴史は語られておりますが、物理的な解釈には無理があり、むしろ私は吉野川の下流に出雲と呼ばれる土地があり、そこへ舟下りする人たちの旅の安全を祈った場所ではないかと思います。
四国巡礼八十八寺の、一番札所から十八番札所の吉野川沿いに住む川彦さんが、ナイル川やチグリス・ユーフラテス川に起きた文明の様に、相次ぐ川の氾濫があっても、その肥沃な土のお蔭で、日本の古代史に繋がる文明を作り、高天原の山彦や村上海賊の先祖の海彦と力を合わせ、紀州に渡り奈良に入ったのではと思います。
※因みに本山町の隣 土佐町の伊勢川地区の山奥に大国主命神社があり、同じく出雲大社崇拝の歴史が語られておりますが、そこまで島根の出雲大社に、土佐人が傾倒したかは甚だ疑問に思い 後付けを感じます。
中島先生の博学ぶりと物事への柔軟な考え方、そして他者にも配慮して人を不快にさせない文章に、何時もながら感動させられております。
稚拙なコメントしか送れない自分が恥ずかしいですが、四国に住んでおりますと少なからず
歴史に置いていかれた感があり、そうではない事を証明したくてつい肩に力が入ります。
しかし、廃物希釈の時代やそれ以前からも、四国は歴史の死国にされていて、その原因が聖櫃にあるとすれば妙に納得がいくのも事実です。
見当違いをしているとすれば大変申し訳ないですが、これからもコメントを送らせて戴ければ有難いです。
何卒よろしくお願い致します。
四国には石鎚黒茶や碁石茶など、ルーツのハッキリしないお茶(飲んだり食べたりする後発酵茶)がありますが、基本的には山の民が作り海の民が消費したお茶で、私は雲南西双版納あたりの少数民族が、何らかの理由で漁労民・海洋漂流民となり「黒潮の民」として高知の海岸線に上陸し、四国の山間地で元の焼畑山岳民族にもどりながら、集団で住み着いた人達にそのルーツがあるのではと思います。
島嶼部や海岸淵の、塩基が少し混ざった井戸水で沸かして飲むと、夏の軽い熱中症には大変効果があり、黒茶は「昔のスポーツ飲料」だったのではと思います。
また、漁師さんにとっては遭難時の非常食(食べるビタミン)になり、海の民に「命の飲料」として愛用されていたもの考えます。
ユダヤルーツの人達に限らず、四国には様々な場所から移り住んだ、ある意味 人種のるつぼだったのではとさえ思います。
また、茶粥などの食文化に歴史の改ざんは無く、バタバタ茶・ブクブク茶のルーツにも興味がわきます。
※確認不足で誤字・脱字が多く申し訳ありません。
土佐に入った山内一豊侯が 最初に行った事は、地方豪族(一両具足)を集め種崎浜で相撲大会を開き、おおよそ侍の所行(戦時以外で)とは思えない 73名の虐殺を行ったところから、山内侯の治世が始まりますが、その後の上士と郷士の階級差別や、山内侯の影武者が十人以上いたとされる話を聞いても、新たな領主が如何に土佐豪族を恐れていたかが伺えます。
また その意味では、その人達をそれまで取り纏めていた長曾我部一族も、凄い人達であったように思います。
土佐に限らず阿波の三好氏や伊予の河野氏など、四国にも有力豪族が群雄割拠(跳梁跋扈)、していた時代があったことは事実で、古代においても同じように、魏志倭人伝に出てくるような小国が、小競り合いや融和を繰り返していた時代があるのではと、勝手に想像しております。
繰り返される争いや大きな地震や津波がある毎に、下に置かれる人が生まれ、貢物にされたり卑弥呼と殉死した階級の人達が生まれたのかも知れません。
歴代の天皇も四国のそのような状況を良しとせず、神道や仏教の力を借りて、民が平和で平等な世の中を作ろうとしていたのではと想像しております。
話を元に戻しますが、塩塚高原が愛媛では塩塚と呼ばれていたのに、徳島では何故「ドウメキ」と呼ばれていたのかを知りたくて、徳島県三好市山城町にお住いの、歴史に詳しい古老にお話を伺いに行くと、性に開放的だった昔は、塩塚は若い男女が出合う場所で、畑に敷き込む茅を刈りに行くだけでなく、茅に隠れて男女が結ばれる場所だったと、驚きの話をお聞きしました。
数年前にテレビで見た、中国の少数民族が高原で歌を唄いながら、相手を探し自由恋愛に至る事を話題にしていたのを、その時思い出しました。
その後「ドウメキ」とは「峰に泉がある所」の意味のアイヌ語で、塩塚高原周辺には「ドンドロの滝」「ウトキ谷」「ミツ足(ピツアシ)」「カガマシ山」「サラント」など、アイヌ語ゆかりと思われるカタカナ文字の地名が多い事にも気がつきました。
また塩塚山からは、徳島の阿南市、愛媛の今治市の山が見え、瀬戸大橋まで見渡せますが、
逆に周辺の山を軽登山に登る人達のブログには、「塩塚峰が見えました。」「塩塚高原が見えました。」のコメントが必ずと言っていいほどあり、私は見えるのではなく 人工的に見えるようにしている山だと、今は理解しています。
塩塚のヤマント族は、周辺の祖谷族など他の部族と狼煙で通信をして、敵の侵入を警戒しながら、山焼きのタイミングを計りソバや古代米を栽培していたのではと思います。
また、塩塚の頂上付近には天王さん(素鵞神社)の土地があり、室町時代には山車に変わっていますが、昔は剣山のような神輿で、頂上の御旅所に運ばれていたと思います。
先にも書きましたが、イスラエルのシオンの丘・剣山・亀ケ森・塩塚は頂上部分に神の住む場所があり、失礼のないように裸足で歩けるようにしていると思います。
これらのことから、剣山と亀ケ森の中央にあり、四国巡礼八十八ヶ寺の真ん中にある塩塚は普通の山ではないと推測し、高天原の可能性が高いと考えます。
愛媛側に「大森さん」徳島側に「半田岩」と、岩屋戸(石棺の蓋)を切り出したと思われる場所があり、塩塚から地下水脈で大森さんに、また 谷となり半田岩に流れています。
特に大森さんには岩屋戸を抜き出した奥に、部屋が二つあり(一部屋は2009年に地元CATVと確認済み)もう一部屋は未確認で、中に穴があり そこから石を投げ込むと、「しばらくコロコロと音がして最後にチャポンと水の音がする。」と 土地所有者の方にお聞きしました。
私はそこの場所の元岩がそびえたつ風貌から、もしかしたら「天の岩屋戸」ではないかと、これも勝手に想像しております。
どちらの岩戸の切り出し口も45センチ幅(ひと一人がどうにか通れる幅)で、塩塚高原の頂上付近の10ヵ所が、トレンチ棒で深さ28センチでピタリと止まる点と鑑みても、どちらも自然に出来たものとは到底思えません。
塩塚のオシリスシャフトの上部に石室があり、そこに岩屋戸(石室の屋根)として その岩がのっかっているように思います。
また、私宅の庭石にも磁石が付く黒石があり、ピツアシ(アイヌ語で石神)から川沿いに流れてきた、中央構造線沿い「鉄の道」の鉄鉱石を拾ったり掘り出し、タタラで赤く顔焼けした天狗が、ドウメキ音をたてながら製鉄し,剣を作って何らかの理由で 阿波に下って行ったのではと思います。
ドウメキ(塩塚)はどこまでも怪しい山です。
四国の寺社を語るとき 欠かせないのが金毘羅さん(クンピーラ)です。
森の石松が清水次郎長の代参で 金毘羅参りに出た折に、船上で発した「すし食いねぇ。」の言葉でも有名ですが(戯曲ですが)、次郎長さんが住んだ 静岡県など東海地方のご高齢の方は、四国と聞くと まず金毘羅さんが思い浮かぶぐらしく、お伊勢参りと同様に 金毘羅さんにも多くの方が参拝されていることに驚かされます。
空海さんの産まれた善通寺市と金毘羅さんのある琴平町はお隣同士ですが、八十八ケ寺には必ずと言って良いほど 近くに神社(熊野神社など)があります。
また、塩塚の麓の熊野神社は、四国第一霊験所熊野大権現であり、塩塚山を中心に 四国の山間部の半分以上を(個人的には旧邪馬台国でないかと疑っております)、を勢力下にしていた時期もあると聞いております。
平安初期に紀州熊野から勧請されておりますが、八十八ケ寺の四国総奥の院仙龍寺と、先を争う様に勘定されてきたことは(八年の差)、ただの偶然ではないように思えます。
金毘羅さんは海の神なので、山の神の熊野神社とは関係性はないかもしれませんが、明治の廃仏毀釈に繋がる何かが、この時代に あったように思えます。
塩塚が「シオンの塚」との解釈を個人的はにしておりますが、塩分を含むトライアングル・ウエットに生えている灌木を、焼いて炭にして それを土器で煮詰め、「良い塩梅」の塩を採った可能性もあり、それが塩塚の名前の語源になったのかもしれませんが、いずれにせよ 周りに人工池(峰に泉のある所)を造り陸稲を栽培していたものと思います。
山城側にオオゲツヒメ神社があることから、その他の作物も栽培されていたかも知れません。
また、鉄の神の「五十鈴神社」がある場所や、「天狗の庭」と呼ばれる場所は、急峻な山の中にあるにしてはフラットな土地になっていることから、タタラは行われていたと思います(実際に他の場所ですが鉄滓が残っています)。
ユダヤにせよ他の民族にせよ、大坂夏の陣の後の庶民の悲惨(戦国のゲルニカ)な状況を作らないように、リーダーが民族(部族)の移動を考えたのは当然かもしれません。
中央構造線沿いに鉄と安住の地を求めながら、吉野川を下って行った山彦は、下流で川の民となり、ナイルや黄河の民と同様に、繰り返される川の氾濫と戦いながらも、肥沃な土のお蔭で文明の礎を造り出したのではと想像します。
因みに川の民は山の民を「空」とよび、海の民を「海(あま)」と呼んでいたそうなので、そこから空海さんの名前が生まれたのかもしれませ。
もしも万が一 塩塚にアークが隠されているとすれば、一日も早く取り出し、その力を使い世界の争い事を納めて、第三次世界大戦の火ぶたが切られないように、日本人のリーダー達に貢献してもらいたいと思います。
前回のコメントで 山城側にオオゲツヒメ神社と書きましたが、昨日確認に行くと「おおひるめ神社」の間違いでした。 訂正致します 申し訳ございません。
また、前々回コメント致しました 四国第一霊験所熊野大権現と四国総奥の院仙龍寺は、どちらも四国中央市新宮町にございます。
新宮町出身の偉大な先輩に真鍋淑郎先生がおいでますが、ノーベル賞受賞のインタビューの中で、標準語なら「それで…」のところを「ほんで…」とおっしゃっていて、直接お会いしたことはない先生ですが、その言葉とイントネーションに大変親しみを感じました。
私がまだ幼い頃 祖母に子守がてら連れて行かれて、先生のお宅へは何度かおじゃましましたが、やさしい先生のお母様にジュースやお菓子を戴いたのを覚えていますが、同時に壁に掛かっていた怖い般若の面も覚えております。
食の歴史や方言には改ざんが効かないので、前から気になっている事を書きますと、松山市と松江市に共通する「だんだん。」の言葉があります。
お国替えの歴史があれば別ですが、大変不思議に思います。
また、香川県高松市周辺で使われる「まんでがん」の言葉も、意味は教わりましたが不思議な響きの言葉だなと思います。
高知県の「よさこい」も 通い婚を思わせる「夜に来い」、を意味すると言葉と解釈する人もいます。
徳島県においても、徳島の地名が関西地域にも共通する例が多いと聞きます。
これらは直接歴史に関わるものではありませんが、太古の四国の歴史を 今に伝えているのかもと想像します。
塩塚高原の東側には、平家の落人伝説がのこる祖谷地域があり、いざという時 敵の侵入を防ぐ為、橋を切り落とし易いように、カズラで作られた「祖谷のかずら橋」もございます。
源平の合戦後には当然「落ち武者刈り」が行われて、かずら橋も切られたものと思いましたが、そもそも祖谷地域周辺には、落ち武者刈りが行われたと言う話は伝わっておらず、地元の人達にかくまわれながら、祖谷に溶け込んでいったものと思います。
私は以前から気になっていた事に、祖谷の隣 三好市山城町には以前「山岳武士発祥の地」の看板が塩塚にありました(今は長曾我部軍と一戦交えた古戦場田尾城にあります)。
そのことから、これもあくまでも私の個人的な見解ですが、源氏も平氏も元は山岳武士(野武士)が起源で、平氏は先祖の地(谷) 祖谷に逃げ帰ってきたのではないかと思います。
その為、先祖の地では源氏も手を出さす(出せず)、争いを避け 事無きを得たのではと考えます。
独特な自給自足の文化を守りながらも、かずら橋を作る程 警戒心の強い祖谷の民が、何故 大きなリスクを冒し、平家の落人を受け入れたのか。また 逃げ込む者たちも、なぜ山の民を頼ったのか。が分かれば、四国の別の歴史が見えてくるような気がします。
塩塚高原の南側は高知県大豊町になりますが、新宮町や山城町と同様に、急峻な山の斜面と吉野川の川沿いに家々が点在し、行基が創立したとされる 日本三大薬師寺である国宝「豊楽寺薬師堂」やハスでも有名な「定福寺」があり、国の重要文化財や県の指定文化財の像が中に並んでおります。
その他、大豊町の随所に残る神楽や百手の文化は、四国の山奥にあっても決して後進地域ではなかったことを思わせます。
むしろ私は、行基さんは大仏や大仏殿建立に当たって、こちらから奈良へ ある種の技術者集団を連れて行ったのではと想像します。
行基さんの産まれた河内の国と高知には、なにかしら繋がるものを感じます。
昔 新宮町の高知県境に近い山の奥に、木地師の方が住んでおり、村人も病気で体調が悪くなると、それに効く薬草の話を聞きに、手土産を持って訪ねて行ったりしたそうです。
また、私の母方の祖父は、塩塚の麓に住んでおりましたが、年に一二度訪れては 数日間 家に泊まり込んで、穴の開いた鍋や刃の欠けた鎌を直したりしてくれる、放浪職人のような方がいて、親しくしていたようですが、早くに妻(私の祖母)を亡くし、一人で生活をしている祖父の身を案じてか、物騒だからと巻物(トーラースクロール?)を出してきて、祖父に「金縛りの術」を教えようとしたのですが、祖父の覚えが悪かったのか途中で喧嘩になり、「それ以降来てくれなくなった。」と語っていたそうです。
私は子供の頃、春先に徳島から訪れる「おいべっさん」と呼ばれた、人形遣いの方の デコマワシが楽しみで、十体近くもあった人形を操る おいべっさんを待ち焦がれていました。
本当は怖い人形もあった(突然鬼の顔に変わる人形)ので、小さなときは怖かったのですが、なかに子供の頭を軽く叩く人形があり、この人形に叩いてもらうと頭が良くなると教わり、おいべっさんの手の届きやすい場所に陣取り、その時を待ちました。
後から、農閑期のお百姓さんの副業と知りました。
私は当然存じ上げないのですが、砂金採りを生業とする方や、肩を冷やさないように懐手で歩く博徒の方もおいでたようで、旅籠や茶店があり、高知に通じる太政官道(紀貫之が通過)や、土佐街道(坂本龍馬も脱藩前に三回通っています。)が通るこの地域も、昔はそれなりに賑わっていたようです。
新宮町と大豊町の県境に、ブナの原生林(100ha)がある橡尾山があります。
おそらく山を耕していた縄文人が、毒(アク)の成分がなく栄養価の高いブナの実に目を付けて、栽培をしていたのではと思います(それらに吊られてやって来る動物も捕獲したかも?)。
その 橡尾山と塩塚山の間を高知側に下って行くと、アイヌ語で集落を意味する「アナナイ」の言葉が使われる土讃線の「土佐穴内駅」があります。
また、徳島県三好市の黒沢湿原(私は讃岐の満濃池より歴史の古い 塩塚周辺にあるような人工の池と思いますが。)の周辺にも、アイヌの地名ではと想像される場所が多くあります。
このように 塩塚を取り囲む三県に共通する、カタカナ文字もしくは,漢字を当てても不自然さがのこる、アイヌ語の由来と思われる地名が、やたらと多い事を大変不思議に思います。
当然 鎌倉時代に北海道に南下してきたアイヌの方とは流れの違う、縄文系のアイヌの人達が住んで居たのではと 私は考えます。
四国八十八ケ寺の結界線は、内側に住むの縄文人と 外側に住むの渡来系弥生人の境となり、寺社を挟んで 無用な争いを起こさなかった、融和の歴史を刻むものなのかも知れません。
ただ 不思議なのは、塩塚を挟んで愛媛・徳島の両県の大西神社で行われる「金踊り」(徳島では「鉦おどり」)では、ヘブライ語では?。と疑われる囃子言葉で使われているのに、中島先生の歴史観をリスペクトする者にとっては、それらが たかだか200年の歴史と伝わっている事には とても違和感を感じ、もっと奥深い歴史を感じます。
大西神社と同じく塩塚高原を取り囲む、大山神社・稲茎神社・大和神社との関係性も謎です
し、さらに アイヌ語とヘブライ語との関係にも興味が湧きます。
塩塚高原は数十年前からパラグライダー愛好者のメッカとなりましたが、長年 麓の少年自然の家から登ってきてはキャンプをする、小中学生の野外活動の場でもありました。
最近は軽登山やスカイランニングの場としての人気も高まっております。
さらに 霧の森のコテージやオートキャンプ場、新しくグランピングの施設も出来て、自然を求める一般宿泊者の数も増えて、人気の観光地となっております。
また 三好市は、自然植物の豊富な山城町周辺をジオパークとして登録を致しました。
私もテントを設営して 幾度かキャンプファイヤーを行いましたが、今思うと その時謳った『遠き山に日は落ちて』の歌詞に出てくる「いざや」や「まどいせん」の言葉に、なぜか神聖で神秘的な歌とのイメージを持っておりましたが、もう一度歌詞を確認すると、「安き御手に守らて」の言葉は正に宗教観にあふれており、この大山神の眠る山にふさわしい歌詞ではないかと、改めて驚かされました。
これまでも中島先生の「カゴメ歌」のヘブライ語解釈に、一部を除いてピタリの当てはまる点に驚いておりましたが、今回 裏塩塚(陽射しの強い塩塚南側斜面)の版築が剥がれた部分に、大きな岩が重なり見えるのを再発見し、すべての条件に一致する事を確認致しました。
これまでに香川大学の地質学の先生(ブラタモリに四度出演)や、愛媛県教育委員会に勤められ、伊予市の塩塚古墳を調査された先生(この方にトレンチ棒を戴きました)、青学で三笠宮にヘブライ語を習った方(本をお借りしております)のご協力を戴いておりますが、今だに調査の道筋が見えず残念です。
私自身の目標(目的)が「高天原」なのか「アーク」なのか、天照大神や須佐之男命につながる「大山神の眠る塚」なのかがはっきり定まっていないのが原因かもしれませんが、出来れば電磁波レーダーなどをお借りして調査ができたらと、私と同じ塩塚に対する考えをお持ちの、おとなり山城町のカフェのご主人(女性の方)と話をしております。
今年のユネスコ無形文化遺産に、香川県綾川町の「滝宮の念仏踊」が登録されましたが、隣接する まんのう町でも「綾子踊」がすでに登録されており、誠に同慶の至りです。
ただ気になるのは、鉦や太鼓を叩く音調が、前々回コメントに書きました、塩塚周辺の徳島県山城町や愛媛県新宮町の大西神社で行われている「鉦おどり」「鐘踊り」とほぼ同じで、前者は『風流踊』の一種で雨乞いが目的、後者は大西備中守(長宗我部元親さんに轟城で討たれた)の遺徳を偲んで行われているとの事ですが、山城や新宮のお囃子には、「ヤッポミドーバ」や「オミドーバ」、新宮だけですが「ヤレトウ」などの歌詞が出てきます。
念仏踊ですので当然なのかもしれませんが、梵語(サンスクリット語)?と思われる歌詞で謳われているのは不思議に思います。
「たかだか200年の歴史とは思えない。」と前々回大口を叩きましたが、それには理由がありまして、西祖谷の「神代踊(私はこれも同系統の踊りと考えます。)」は菅原道真が讃岐の守であった時代(千年以上前)の、雨乞いが起源と知っていたからで、枝分かれした文化としても元を辿っての考察が必要と思っているからです。
また 一つ触れておきたいのは、新宮町の鐘踊りには、名前を出せば歴史好きの方ならだれでも知っている、日本人でエジプトのピラミッド研究の第一人者 の方が訪れています(2015年8月30日)。
徳島市の「八倉比売神社(亀石も立派です。)」や「忌部神社」、美馬市の「磐境神明神社」や あらたえで有名な「三木家」など、徳島は歴史のロマンを感じさせる場所に事欠きませんが、すべての道は、伊の国と予の国の県境、塩塚高原(高天原)に繋がると私は思っています。
さらに 東部東征を感じさせますが、「知りたいのは、徳島の祖谷と和歌山の熊野(舟下りのある熊野川など)をどちらも「イヤ」と読ませる理由です。」
かごめうたを調べていたらたどりつきました。
最近YouTube動画で雑誌ムーの三上さんと山口智子さんが
徳島巡ってるので見てみると面白いと思います。
かごめかごめ(籠目、籠目🇮🇱)
かごのなかのとりは(要塞で籠城している人々は)
いついつでやる(いつ出られる)
よあけのばんに(終戦の前夜に)
つるとかめがすべった(不幸な事がおきた、血液でつるっと滑った)
うしろのしょうめんだれ(次は誰の番ですか)
イスラエルのマサダ要塞の中で集団自決があった事が詳細に書かれた記事を読んでいる時、私の頭の中に童謡のかごめかごめ〜が流れ、全身に鳥肌と悪寒が走りました。
他の方も同じでしょうか。私だけでしょうか。
諸兄の皆様は、博識過ぎですね。
年代も、作者も不明で、何故か古来から歌い継がれてきた詩に、捏ねくり回した解釈はやめましょう。
六芒星の紋章は伊勢神宮の裏紋章です。
長野県松代にある皆神山神社の紋章でもあります。
この歌の最大のポイントは、「鶴と亀がすべった」です。
これは滑るではなく、「統べる」で、天空の象徴「鶴」大地と海の象徴「亀」、つまり天地が混沌とした状態になる「天変地異」なる事象を言います。
しかもその「時」が「夜明けの晩」、つまり「新しい一日が始まる前夜→新しい時代への突入前夜」となります。
巨大天変地異で地上のほぼ全てが「海の藻屑」と消えますが、次元を超えられた人達のみが新しい時代を迎えることが出来ます、とこの歌は日本人に教えています。
「後ろの正面」はあなたを導く「後背霊」、「籠の中の鳥」は「56億7千万年後」に人々を新しい時代に導く「弥勒菩薩」であると、私は解釈しております。
追伸です。
六芒星ですが、次の図形の組み袷ですので最強にして不滅のパワーを有しています。
しかし、これが瓦解・もしくは分裂したときは、極めて危険です。
具体的には、「天」を現す△と、「地」を現す▽の結合体で、△は右回り▽は左回りの普遍的性向を持つ宇宙的原理・原則です。
つまり、螺子と同様に作用します。
なお、物理的作用だけではなく、人間に対しては精神的影響を発現します。
光を表す輝きマーク「✨」、この十字の右回り残像が「卍」、左回りの残像が「逆卍」となりご存じのマークとなります。
光は啓示ツールの一つで強いパワーが有りますので、人心をコントロールする所以です。
著名な気功師が、掌を回して様々な作業療法を行っているのは、左右の回転エネルギーの違いを体験しているからです。
20数年前でしたが、ナノレベルの卍スリットと逆卍スリットに光を通したら、到達時間に差が出たと新聞の科学欄に掲載されていましたが、根源的理由は説明されていません。
何れに致しましても、六芒星は「天地合体」の永遠のマークと云えます。
感動しました。インターネットの深淵を除いているような感じがして。(笑)