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南ユダ王国を脱出した根拠

イザヤはおよそ前765年にエルサレムで生まれ、前740年より半世紀以上にわたり、神の預言者として活躍した、最も著名なヘブライ人預言者です。しかしイザヤの晩年については定説がなく、一説ではマナセ王の許のもと、鋸で処刑され、水路のそばにある樫の木の下に葬られたと言い伝えられています。この伝承はおそらく、元来ヘブライ語で語られたメッセージが後1世紀前後にギリシャ語訳として著され、それが後三世紀以降のギリシャ語の写本として残された後、聖書の外典となる儀典に含まれたものです。しかし内容には疑問点も多く、特に国をあげての宗教改革の直後、その先導者であり、自国民の信望が厚かった偉大なる預言者イザヤを、ヘゼキヤ王の子や周囲の役人らが一変して処刑するということは考えづらいことです。よってキリスト教の視点から、新訳聖書の記述にある「のこぎりで引かれた」預言者(ヘブル書11章)をイザヤに結びつけて美化した物語とも考えられ、信ぴょう性には乏しいものです。

イザヤの生涯を理解するために、まずヘゼキヤの宗教改革を振り返ってみましょう。南ユダ王国のヘゼキヤ王は前739ごろに生まれ、前728年に即位しています。実際には父であるアハズ王と共に王権を担ったようであり、ヘゼキヤが単独で王となったのは前715年とも言われています。前728年の時点では既にダマスコは陥落し(前731年)、前722年に北イスラエル王国はイザヤの預言どおり滅亡していたのです。神の偉大なる預言者としてイスラエル全土にその名声を博していたイザヤは、南ユダ王国のエルサレム神殿においてヘゼキヤ王に仕え、一大宗教改革の波をもたらします。旧約聖書には以下の記述が見られます。

「こうして、ユダヤの全会衆、祭司たちとレビ人、イスラエルから来た全会衆、イスラエルの地から来た寄留者、ユダに住む者が共に喜び祝った. . .イスラエルの王ダビデの子ソロモンの時代以来、このようなことがエルサレムで行われたことはなかった。祭司とレビ人は立ち上がって、民を祝福した。」(歴代誌下30章)

イザヤが語る神の言葉を忠実に聞き届け、モーセの律法に従って国家レベルでの宗教改革をもたらし、「心を尽くして進め、成し遂げた」ヘゼキヤ王ですが、前701年、アッシリアとの戦いに勝利した直後、重病にかかって死に直面します。そしてイザヤの仲介による祈りの結果、神から15年もの延命を与えられました。しかし、その恵みと不思議な印にも関わらず、ヒゼキヤ王の晩年(前687年死去)には、神から受けた恵みにふさわしくこたえず、「思いあがり、自分とユダ、エルサレムの上に怒りを招いた」と聖書に記録されているのです。とても不可思議なことの成り行きではないでしょうか。もし、神の預言者であるイザヤがヒゼキヤ王の晩年まで、王のそばで仕えていたとするならば、大宗教改革の余韻もあることから、ヒゼキヤ王がその言葉に逆らって晩年という人生を締めくくる最も大事な時期に、神の恩恵を忘れて罪を犯すとは思えないのです。しかもその直前までイザヤは神に祈り、天に助けを求めてアッシリアの軍隊を全滅させています(歴代誌下32章)。

ヒゼキヤの不信仰による神の怒りの原因は何でしょうか。その理由は、ヒゼキヤの晩年に、突如としてイザヤが王宮を去り、南ユダ王国から姿を消したからと考えられます。ヒゼキヤ王が神から延命の恵みを得た後、イザヤに関わる聖書の記述がないことからしても、イザヤが不在となったことが伺えます。南ユダ王国を旅立ったイザヤは、おそらくヒゼキヤ王に隠れて国を去ったのではなく、むしろ、ヒゼキヤ王の同意を得て、王の子を同伴し、かつ神殿から契約の箱と神宝を持ち出して新天地を目指し、国を去ったはずです。その理由は、神から与えられた預言のとおり、ダビデ王の王系を継ぐ子孫による王国を継続し、新しいエルサレムという平安の都を造営するためにほかなりません。ダビデ王系の約束は永遠であり、決して途切れることがないと信じられていたのです。

ヒゼキヤ王の後継者であり、王の跡を12歳で継いだマナセは、前709年に生まれています。そして倭国の初代天皇である神武天皇は前711年の生まれです。もしかして、イザヤの一行は、ヘゼキヤ王の承認の元、王の長男をダビデ王系の後継者として選び、東への旅へ同行させたと考えられないでしょうか。イザヤを信任していたヘゼキヤ王だけに、十分その可能性はあります。そしてイザヤが国を離れたのは、ヘゼキヤ王の病に冒された前701年から、マナセ王が即位する前697年の間ではないかと考えられます。そのとき、神武天皇はちょうど、10歳前後でした。

だからこそ、12歳でヒゼキヤ王の後継者となったマナセは、大人になるにつれて自分がダビデ王朝の後継者として選ばれなかったことを悟り、しかも兄弟が既に南ユダ王国を離れ、さらにエルサレム神殿から契約の箱や神宝さえも取り去られていたことを知って激怒し、イザヤ、及び自分の兄弟の国外脱出を国家に対する背信行為とみなしたのではないでしょうか。そして嫌悪感をつのらせたマナセ王は神に敵対し、禁断のアシュラ像やバアルの祭壇、異教徒の高台も平気で再建し、「主の目に悪とされることを数々行って主の怒りを招いた」のです。無論、宗教改革の直後にこのような邪悪な異教風習の横行がまかり通るということ自体、マナセ王の周辺には神の声を聞き、王を戒めることのできる宗教リーダーが不在であったことを物語っています。それはいつの間にか、イザヤをはじめとする信心深い祭司、レビ人らが南ユダ王国から消えてしまった証といえます。

さらに注目すべきは、マナセ王が即位してからおよそ40数年後、マナセ王の孫であるヨシヤが王となったときのエルサレム神殿の状況です。ヨシヤ王は、それまでの悪政を改め、今一度、宗教改革の実践に努めたのです。しかしながら、国家のリーダー的存在であった著名な預言者や、神宝を守り、神殿を司る祭司、レビ人が国家を脱出してから長い年月が経っていることもあり、主の神殿は「ユダの王たちが荒れるにまかせていた建物」と化していたのです。そのため、神殿を補修し、神殿の中まで一掃して片付けをすることになるのですが、その際に、祭司ヒルキヤがモーセによる律法の書を見つけたのです(歴代誌下34章)。40数年ぶりに、王の前で読まれた律法の言葉を聞いて、ヨシヤ王は衣を裂いて悔いることになります。そして主の神殿に仕えることの大事さを律法から学んだヨシヤ王は、祭司たちを選りすぐり、神殿の奉仕をあらためて行わせ、「イスラエルの王ダビデの子ソロモンが建てた神殿に、聖なる箱を納めよ。あなたたちはもはやそれを担う必要がない。」と宣言したのです。主の神殿には既に契約の箱が存在しなかったため、そこに「聖なる箱を納めよ」と命じたのであり、律法の書に基づき、新たに契約の箱が造られたとも考えられます。しかもその中に神宝が納められることはなかったからこそ、その聖なる箱を神殿に一旦納めた後は、「もはや担う必要がない」と語ったのではないでしょうか。

こうしてイスラエルの歴史を振り返ると、イザヤが王系の継承者と共に国外に脱出して東の島々を目指し、最終的に日本列島に漂着した可能性が十分に残されていることがわかります。そしてイザヤと家族一行、同行したレビ族を中心とする精鋭部隊がイスラエルの神宝を携えて事実、日本の地までたどり着いたからこそ、古代の日本社会に溶け込んだイスラエル民族の宗教文化の影響と、その面影を、今日でも日本の社会に見いだすことができるのではないでしょうか。しかもイザヤの一行が、神宝を密かに携えて国を去ったということを裏づける記述を旧約聖書に見いだすことができます。