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預言者イザヤとは?
古代イスラエルで活躍し、預言者として知られるイザヤは、およそ前765年にエルサレムで生まれました。前740年頃、神のメッセンジャーとして召命を授かったイザヤは、イスラエルの南ユダ王国における預言者として国王に仕えはじめ、それから40年ほどの長い年月をかけて、国家の発展と安泰に貢献し、国王が執り行った宗教改革を導きました。
イザヤ書1章1節には、南ユダ王国、ウジヤ王、ヨタム王、アハズ王、そしてヒゼキヤ王の治世において、イザヤが国王の預言者として活躍したことが記載されています。ウジヤ王の治世は前780年頃から740年頃まで続きましたが、晩年には重病を患ったことから、前750年頃から息子のヨタムが代わりに王となりました。そしてウジヤ王が亡くなられた前740年頃、イザヤは神殿において幻を見て、預言者として人生の大きな転換期を迎えることになります。その幻については、イザヤ書6章以降に記載されているとおりです。前735年にはアハズ王が王位を継承しますが、直後より、国家は動乱に直面し、国内外で争いが勃発します。
前734年にはアラムのレツィン王とイスラエルのペカ王が南ユダ王国を攻撃し始め、直後、イザヤはまだ幼子であった息子のシェアル・ヤシュブと共にアハズ王に面会しています。それからすぐに、ダマスコとサマリア、すなわち兄弟国である北イスラエル王国がアッシリアによって滅ぼされることが預言されました。その時期は間近にせまっていて、イザヤと女預言者との間に生まれたマヘル・シャラル・ハシュ・バズという名の男の子がまだ赤ん坊であるうちに、これら2つの都市が崩壊することが語られたのです。つまり、イザヤは北イスラエル王国の崩壊を知ることとなります。
その予言通り、前732年、アッシリアのティグラト・ビレセル三世はダマスコを征服し、前722年には北イスラエル王国の首都、サマリアは陥落します。よって、イザヤの男の子が生まれたのは、北イスラエルが滅びる直前の、すなわち前723-4年ではなかったかと考えられます。イザヤの子は救世主となる役目を授かることが預言されていたため、子供が生まれた年も重要です。そして北イスラエル王国の民はアッシリアの捕囚となり、一部の民は捕虜として国外に連れていかれ、残りの民はアジア大陸各地へと離散することになります。
その後、イザヤはヒゼキヤ王の元で国家に仕え、王のアドバイザーとして活躍します。イザヤが活躍している間、南ユダ王国ではヒゼキヤ王の勅令による宗教改革が積極的に実践され、国家はそれまでに類をみないほどの繁栄を遂げます。そのような安泰の日々も束の間、ヒゼキヤ王の晩年、王が重病に伏してしまうのです。それでもイザヤは王のために神に祈った結果、ヒゼキヤ王の病気は奇跡的に癒され、15年もの延命を王自身が授かることとなります。
すべてがハッピーエンドに見えた矢先、なぜかしらイザヤは歴史から姿を消してしまいます。そして信仰熱心だった国王はまたたく間に悪の道に走りはじめ、ヒゼキヤ王の晩年は宗教改革を指導した王とは思えないほどの不信仰な悪事の連続となり、哀れな余生を過ごすことになります。
定説がないイザヤの晩年
イザヤの晩年については定説がなく、一説ではマナセ王の許のもと、鋸で処刑され、水路のそばにある樫の木の下に葬られたと言い伝えられています。この伝承はおそらく、元来ヘブライ語で語られたメッセージが後1世紀前後にギリシャ語訳として著され、それが後3世紀以降のギリシャ語の写本として残された後、聖書の外典となる儀典に含まれたものです。
しかし内容には疑問点も多く、特に国をあげての宗教改革の直後、その先導者であり、自国民の信望が厚かった偉大なる預言者イザヤを、ヒゼキヤ王の子や周囲の役人らが一変して処刑するということは考えづらいことです。また、新訳聖書には「のこぎりで引かれた」預言者(ヘブル書11章)という記述があることから、それをイザヤに結びつけ、キリスト教の視点において美化した物語とも考えられ、信ぴょう性には乏しいものです。
ヒゼキヤ王の宗教改革
イザヤの生涯を理解するために、ヒゼキヤ王の宗教改革を今一度、振り返ってみましょう。南ユダ王国のヒゼキヤ王は前739年頃に生まれ、前728年に即位しています。当時、ヒゼキヤ王はまだ11歳でした。実際には父であるアハズ王と共に王権を担ったようであり、ヒゼキヤ王が単独で王となったのは前715年、24歳の時とも言われています。ヒゼキヤ王が即位した前728年の時点では既にダマスコは陥落し(前731年)、前722年に北イスラエル王国は、イザヤの預言どおり滅亡します。
ヒゼキヤ王が在位した時点では、神の偉大なる預言者として既にイザヤは、イスラエル全土にその名声を博していました。北イスラエル王国が壊滅する直前の危機に面していたにも関わらず、南ユダ王国は意外にも栄えていたのです。そしてイザヤは南ユダ王国のエルサレム神殿において常にヒゼキヤ王に仕え、一大宗教改革の波をもたらします。旧約聖書には以下の記述が見られます。
「こうして、ユダヤの全会衆、祭司たちとレビ人、イスラエルから来た全会衆、イスラエルの地から来た寄留者、ユダに住む者が共に喜び祝った. . .イスラエルの王ダビデの子ソロモンの時代以来、このようなことがエルサレムで行われたことはなかった。祭司とレビ人は立ち上がって、民を祝福した。」
歴代誌下30章
預言者イザヤの存在がいかに重要であったかを、宗教改革の結果から垣間見ることができます。
イザヤの祈りによるヒゼキヤ王の15年延命
イザヤが語る神の言葉を忠実に聞き届け、モーセの律法に従って国家レベルでの宗教改革をもたらし、「心を尽くして進め、成し遂げた」ヒゼキヤ王ですが、前701年頃、アッシリアとの戦いに勝利した直後、重病にかかって死に直面します。王が38歳の時でした。しかしながら、イザヤの仲介による祈りの結果、奇跡的に神から15年の延命が与えられることになります。それが歴史書に記されているヒゼキヤ王とイザヤとの最後のやりとりです。
それ以降、聖書の記述からはイザヤの名前が見当たらなくなります。また、神殿の中に安置されていたはずの契約の箱に記述も、どこにもありません。いつの間にか持ち去られたと推測されます。ヒゼキヤ王の子、マナセ王の時代から神殿内が荒らされ、中で偶像が祀られたという史実が書き残されていることからしても、契約の箱はその時点で、既に神殿内には存在しなかったことがわかります。
イザヤは北イスラエル王国に続き、自らが宗教改革を導いてきた南ユダ王国も滅亡することを知っていました。しかも契約の箱が安置されている神殿も破壊されることがわかっていたのです。それでも神が約束されたダビデ王朝の存続を信じたイザヤは、国家の存続を願いつつ、契約の箱をひそかに神殿から持ち出し、国外に脱出したと考えるのが自然ではないでしょうか。そのまま国内に残り、契約の箱が無残に踏みにじられ、神殿が壊されるのを目の当たりにすることを見過ごすような消極的な思いはイザヤにはなかったはずです。
南ユダ王国を旅立ったイザヤは、おそらくヒゼキヤ王に隠れて国を去ったのではなく、むしろ、ヒゼキヤ王の同意を得たうえで王系一族の子孫を連れ出し、かつ神殿から契約の箱を持ち出して新天地を目指したはずです。その理由は、神から与えられた預言のとおり、ダビデ王の王系を継ぐ子孫による王国を継続し、新しいエルサレムという平安の都を造営するためにほかなりません。ダビデ王系の約束は永遠であり、決して途切れることがないと信じられていたのです。
ヒゼキヤ王の後継者マナセ王の破壊活動
あれほどまで信仰熱心であり、歴史に残る宗教革命を起こし、神に仕えたヒゼキヤ王の最後の15年は、不信仰と自らの思い上がりによる罪の連続となり、神からの怒りを招いたことが歴代誌下に記されています。病気から快復したヒゼキヤ王が激変し、神を信じなくなったのはなぜでしょうか。答えは明らかです。ヒゼキヤの晩年に、突如としてイザヤが王宮を去って南ユダ王国から姿を消し、信頼できる国家のアドバイザーが不在となったからに他なりません。ヒゼキヤ王が神から延命の恵みを得た後、イザヤに関わる聖書の記述は全くないことからしても、イザヤが不在となったことが窺えます。しかも神殿からは契約の箱が持ち去られ、空洞ができてしまったのです。その影響は思ったよりも大きく、ヒゼキヤ王は失意の挙句、不信仰に陥ったのです。
その哀れな父親の姿を見たマナセ王子は、自らの即位とともに、南ユダ王国の歴史で例を見ないほどの偶像礼拝と暴挙、殺戮の事件を繰り返す悪徳の王となってしまいました。ヒゼキヤ王の後継者として前709年に生まれています。12歳で国王となったマナセは大人になるにつれて、父の不幸な姿だけでなく、エルサレム神殿から契約の箱や神宝が持ち出されたことを知って激怒したことでしょう。そしてイザヤ及びその一行の国外脱出を国家に対する背信行為とみなしたのではないでしょうか。よって、イザヤが処刑されたとされるような悪質なうわさも流布された可能性があります。そして神への不信仰と嫌悪感をつのらせたマナセ王は、神殿の中に禁断のアシュラ像やバアルの祭壇、異教徒の高台さえも平気で作り、「主の目に悪とされることを数々行って主の怒りを招いた」のです。
無論、宗教改革の直後にこのような邪悪な異教風習の横行がまかり通るということ自体、マナセ王の周辺には神の声を聞き、王を戒めることのできる宗教リーダーが不在であったことを物語っています。それはいつの間にか、イザヤをはじめとする信心深い祭司、レビ人らが南ユダ王国から消えてしまった証といえます。マナセ王の暴挙が放置されたことは、イザヤが既に国外に脱出していたことを意味します。
モーセ律法によるヨシヤ王の宗教改革
さらに注目すべきは、マナセ王が即位してからおよそ40数年後、マナセ王の孫であるヨシヤが王となったときのエルサレム神殿の状況です。ヨシヤ王は、それまでの悪政を改め、今一度、宗教改革の実践に努めたのです。しかしながら、国家のリーダー的存在であった有力な預言者や、神宝を守り、神殿を司る祭司らレビ人の多くが国家を脱出してから長い年月が経っていることもあり、主の神殿は「ユダの王たちが荒れるにまかせていた建物」と化していたのです。
そのため、神殿を補修し、神殿の中まで一掃して片付けをすることになるのですが、その際に、祭司ヒルキヤがモーセによる律法の書を見つけます(歴代誌下34章)。40数年ぶりに、王の前で読まれた律法の言葉を聞いて、ヨシヤ王は衣を裂いて悔いることになります。そして主の神殿に仕えることの大事さを律法から学んだヨシヤ王は、祭司たちを選りすぐり、神殿の奉仕をあらためて行わせ、「イスラエルの王ダビデの子ソロモンが建てた神殿に、聖なる箱を納めよ。あなたたちはもはやそれを担う必要がない。」と宣言したのです。主の神殿には既に契約の箱が存在しなかったため、そこに「聖なる箱を納めよ」と命じたのです。その安置場所は、神殿でしかないからです。果たして、契約の箱はどこにいってしまったのでしょうか。
日本列島の国生みの始まり
もし、イザヤの召命が740年とし、当時のイザヤの歳を20才と仮定するならば、ヒゼキヤ王が重病から奇跡の快復をした前701年頃、イザヤはおよそ60歳となります。その時点でイザヤと女預言者との間にできた子供は、おそらく20歳を過ぎた好青年になっていたはずです。この男の子が救世主となることがイザヤには告げられていました。それ故、国家が破滅する前に、イザヤは自分の子供と共に契約の箱を運搬するレビ族の祭司ら一行を引き連れて、東方の島々へと船で旅立つ決意をしたに違いありません。そして神宝なる「契約の箱」を携えて海を渡ったと考えられます。
それからしばらくして、日本列島では国生みが始まりました。その主人公がイザヤと想定するならば、歴史の流れが明確に見えてきます。日本語では伊耶那岐神(いざなぎのみこと)という名前の「いざなぎ」は、ヘブライ語で「イザヤ王子」を意味します。イザヤが王系の継承者と共に国外に脱出し、東の島々を目指し、最終的に日本列島に漂着したと想定することにより、その後の歴史のパズルが紐解かれていきます。イザヤとイザヤの子、王系一族、同行したレビ族を中心とする精鋭部隊がイスラエルの神宝を携え、海を渡って日本の地までたどり着いたからこそ、古代の日本社会では国家の創始から、優れた西アジアの文化が根付いたのです。そのイスラエル民族の宗教文化の影響と面影は、今日でも日本の社会の随所に見出すことができます。
救世主、素戔嗚尊はイザヤの子?
ヒゼキヤ王の病気が癒され、イザヤがエルサレムから姿を消した前701年頃、イザヤは既に65歳になっていました。そしてイザヤが国を離れたのは、ヒゼキヤ王の病に冒された前701年から、マナセ王が即位する前697年の間ではないかと考えられます。それからおよそ40年という時を経て、日本では神武天皇の即位とともに、新しい国造りがはじまりました。こうしてイスラエル国家の崩壊と南ユダ王国の歴史を日本の国生みに結びつけて振り返ると、これらの年代の流れに何ら矛盾はなく、かつ、歴史の重大イベントの経緯と流れのつじつまが、うまく組み合わさってくることに気が付きます。
もしイザヤが日本の国生みに関わったとするならば、年齢的にみて、10年から20年、長くても30年ほどの歳月がかけられた可能性が見えてきます。特に、イザヤに与えられた男の子が、救い主して大きな働きを成し遂げるという聖書の記録は重要です。イザヤが伊耶那岐神であると仮定するならば、その救世主は素戔嗚尊になるからです。イザヤが国を脱出した時、北イスラエル王国が崩壊する直前に生まれたその子どもは、二十歳を過ぎる好青年に成長していました。
西アジアからの日本列島までの船旅にどれだけの日数を要したかは定かではありませんが、長くても1-2年の歳月を要したと推測されます。すると前690年代後半には、イザヤの一行が日本列島を訪れたことになります。日本の神輿に酷似するイスラエルの契約の箱と共に、イザヤが船で日本列島まで到達し、島々を巡り、国生みを完結した後に淡路島に落ち着き、子供の素戔嗚尊らに国造りを託したと考えると、神話から蘇る史実の流れが見えてくるようです。