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空海の知られざる七年間の意味

二十三歳にして大日経の経典を手にし、密教の奥義に触れた空海は、それから遣唐使として唐に旅立つまでの七年間、何をしていたのでしょうか。その空白の期間については空海の伝記にも一切記載が無いため、多くの大師伝でも知られざる七年間として省略されています。また、例え説明があったにしても、大日経の経典を入手した後、その習得のために山奥にこもったとか、もしくは日本国内を旅しながら、遣唐使として入唐する準備をするために学問や語学に専念していたとのではないかと推測されているにすぎません。その前提が空海の低い身分であり、唐に渡るための自己資金を蓄えるため、多くの苦労を重ねて各地を旅しながらお布施を募り、また、帰国した僧侶からも話を聞いて学んだであろうと考えられています。つまり一介の新米僧侶として、空海は入唐するための準備に励んでいたというのが定説ですが、果たしてそうでしょうか?

疑問点は、まず、貧しいと言われた空海が、実は多額の金銭を携えて入唐していることです。空海は、当初予定されていた二十年に渡る滞在期間に必要な資金を十分に携えていただけでなく、自らが欲する書籍は何でも手に入れることができたほど、ゆとりがあったようです。実際、空海は経典四百六十巻や両界曼荼羅だけでなく、数々の仏画まで買い求め、そのコレクションの質の高さが最澄の耳に入り、帰国後、最澄の申し入れに応じて「華厳経」などを貸し出しています。無論、恵果和尚からも多くの書籍や秘宝を譲り受け、留学が短期間に終了する目安が付いたことから余剰資金が生まれたという見方もできますが、いずれにしても貧しい留学生の行動とは思えません。

また、消息を絶つ直前の797年に空海があらわした「三教指帰」には、空海が大学を離れて山や難所で修行を積んだことが書かれています。そして20歳にして室戸岬で求聞持法を成就し、悟りを開いた後、山岳宗教の行者となって、平安京の行く末にも深い関心を抱いていたはずの空海だけに、平安京遷都に関わる怨霊問題が公然と流布される国家の一大事の時と知りながら、お布施集めのために国内を行脚するような自らの利得のための行動をとるとは考えられません。しかも空海ほどの人物ですから、国内を旅したならば、必ずその地域に何らかの軌跡が残されているはずです。しかし、7年間何ら空海に関する情報が存在しないということは、例え旅をしていたとしても、公にはできない理由があったからではないでしょうか。また、さらなる修行を長い年月をかけて積むとも考え辛く、大日経を学ぶにしても、空海の才能からして七年という期間は余りに長すぎます。

遣唐使として唐に向かった804年、空海は通訳者を必要としないほど、中国語を流暢に話せたことから、空海は渡来人とも積極的な係わりを入唐前から持っていたと推測され、その人脈は幅広いものであったに違いありません。察するに空海が遣唐使となった背景には、明らかに朝廷、および秦氏の介入と手厚い援助があっただけでなく、そこに至るまでの間、長年に渡り、空海は密かに天皇に仕えていたと考えられるのです。そして怨霊対策に貢献し、神宝の処遇についても責任もって対応できる実力者であったがゆえに、桓武天皇の篤い信任を受けることとなり、その後、朝廷の宗教行事に関する重大なプロジェクトの責任を任されるようになったのではないでしょうか。

794年に平安京遷都が実現しましたが、あらゆる怨霊対策がとられたにも関わらず、問題は解決することはなく依然として桓武天皇を悩ませ続けていました。そして既に悟りを開いていた空海は、遷都が実現した直後より、南都六宗の本拠地奈良で二年間、学びのときを持ちながら調査に時間を費やします。都の行く末についても深い関心を抱いていたであろうと考えられるだけに、朝廷の周辺に不幸と災難が連続して起きている矢先の797年、空海は何らかの重要な役目を朝廷から授かり、それから7年間、全身全霊をかけて取り組むことになったことから歴史から忽然と姿を消してしまったとは考えられないでしょうか。しかもそのプロジェクトは極秘であったため、公にすることができず、記録にも残らないほど密かに7年の時を過ごさなければならなかったのです。そして密教の経典を発見した797年より入唐するまでの七年間、空海は消息を絶ちます。

ちょうどその当時、怨霊対策で躍起になっていた朝廷において、誰も対処できずに放置されている難しい問題がありました。それが、怨霊対策の切り札とも言える「神宝の移設」です。天皇と都を守護し、国家の安泰を実現するために、新都に神宝を移設することが不可欠でしたが、当時、朝廷にはそれを実行できる者がいなかったのです。なぜなら、太古の時代から誰もが祟りを怖れるあまり、朝廷内でさえ神宝を触ることはおろか、探したり見ることさえも拒まれ、何処にどんな神宝が秘蔵されているのかさえも分からない状況にあったのではないでしょうか。

平安京の原型であると考えられるイスラエルのエルサレム神殿では、神殿が建築された直後に、王の命によって神殿に「主の契約の箱」と「神の聖なる祭具」が運びこまれました(歴代誌上22章)。同様に、平安京においても神宝の移設が強く望まれ、それが怨霊対策の中でも一番、大切なポイントだったのです。空海の消息が途絶えたのが平安京の遷都直後ということもあり、朝廷が怨霊対策に取り組んでいる真最中というタイミングから察しても、空白の7年間は神宝に関係している可能性が高いと考えるのが妥当です。阿刀氏の家系から輩出された有能な宗教家であっただけに、空海にとってイスラエルの神宝を探索することは決して人ごとではなかったはずです。ましてや、故郷の四国においては、剣山の周辺にイスラエルの集落が存在し、そこには神宝が秘蔵されているという言い伝えが古くから残されていただけに、空海も深い関心を持っていたに違いありません。

さらに空海の母方である阿刀氏のルーツを遡っていくと、単に秦氏らと共にイスラエルの起源で繋がっているだけでなく、阿刀氏と呼ばれる一族そのものが、神宝の取り扱いと深く関わりを待つという歴史が存在していたのです。それゆえ、空海が阿刀氏の家系に属する者として、神宝の取り扱いに興味を持っていただけでなく、実際に代々から伝承されてきた言い伝えも含めて、さまざまな知識を既に得ていた可能性が高いのです。こうして空海は、神宝問題を解決するための第一人者として、朝廷より召されたと考えられます。

これらの背景から、空海の知られざる7年間を解明するためには、単に空海の文献を検証するだけでなく、空海をとりまく政治と宗教の環境を見直しながら、文化交流の裏に潜む権力闘争や、怨霊対策に取り組む宗教家らの働き、また知識階級の人脈と相互関係などにも目を留め、それらがどのように空海の生涯に影響を与えたかを探る必要があります。そして平安初期の時代において、神宝を誰が、どのように管理するものであったか、ということをまず理解する必要があります。そして、当時の凄まじい権力闘争と怨霊問題を肌で受け止めた空海が自ら察した天命をどう捉え、どのように行動したであろうかと推測するのです。そして空海が消息を絶つ前と、その後、再度姿を現した時を比較し、それらの共通点から空海が歩んだと思われる軌跡を辿りながら、どこで何をしていたか、どういう人々と面識があったかということを見極めることが大事です。すると、そこには、空海と渡来人、特に阿刀氏との関わりや、怨霊からの解放、そして神宝の行方などのテーマが見え隠れすることがわかります。これらをひとつひとつ検証することにより、失われた七年間の真相が見えてきます。