悟りを開いた後の空海の行方
平安京の遷都が実現した794年、都を離れて修行の道に入っていた空海は、四国の室戸岬へと向かい、御厨人窟と呼ばれる洞窟にて悟りを開きました。ちょうど空海が 20歳の時でした。その後、大日経の経典を手にして密教の奥義に触れ、中国語や梵字などを学び、24歳の頃、「三教指帰」の初稿本に当たる「聾瞽指帰」を書きあげました。
空海空海は、それから遣唐使として唐に旅立つまでの7年間、何をしていたのでしょうか。その空白の期間については空海の伝記にも一切記載がないため、多くの大師伝でも知られざる7年間として省略されています。また、たとえ説明があったにしても、大日経の経典を入手した後、その習得のために再び山奥にこもったとか、もしくは日本国内を旅しながら、遣唐使として入唐する準備をするために学問や語学に専念していたのではないかと推測されているにすぎません。果たして、空海はどこで何をしていたのでしょうか。
空海の身分に纏わる疑問
一説によると、空海の身分は低かったことから、唐に渡るための自己資金を蓄える必要があったと言われています。それ故、多くの苦労を重ねて各地を旅しながらお布施を募り、また、帰国した僧侶からも話を聞いて学んだであろうと考えられています。つまり一介の新米僧侶として、入唐するための準備に励んでいたというのが、ごく一般的な解釈のようですが、果たしてそうでしょうか?
西夏文字による華厳経疑問点は、まず、貧しいと言われた空海が、実は多額の金銭を携えて入唐していることです。空海は、当初予定されていた20年に渡る滞在期間に必要な資金を十分に携えていただけでなく、自らが欲する書籍は何でも手に入れることができたほど、ゆとりがあったようです。実際、空海は経典四百六十巻や両界曼荼羅だけでなく、数々の仏画まで買い求め、そのコレクションの質の高さが最澄の耳に入り、帰国後、最澄の申し入れに応じて「華厳経」などを貸し出しています。無論、恵果和尚からも多くの書籍や秘宝を譲り受けています。留学が短期間に終了する目安が付いたことから余剰資金が生まれたという見方もできますが、いずれにしても貧しい留学生の行動とは思えません。
また、消息を絶つ直前の797年に空海があらわした「三教指帰」には、空海が大学を離れて山や難所で修行を積んだことが書かれています。そして20歳にして室戸岬で求聞持法を成就し、悟りを開いた後、山岳宗教の行者となって、平安京の行く末にも深い関心を抱いていたはずの空海だけに、平安京遷都に関わる怨霊問題が公然と流布される国家の一大事の時と知りながら、お布施集めのために国内を行脚するような自らの利得のための行動をとるとは考えられません。しかも空海ほどの人物ですから、国内を旅したならば、必ずその地域に何らかの軌跡が残されているはずです。しかし、7年間何ら空海に関する情報が存在しないということは、例え旅をしていたとしても、公にはできない理由があったからではないでしょうか。また、さらなる修行を長い年月をかけて積むとも考え辛く、大日経を学ぶにしても、空海の才能からして7年という期間は余りに長すぎます。
朝廷との関わりが深い空海
「桓武天皇像」 延暦寺 蔵遣唐使として唐に向かった804年、空海は通訳者を必要としないほど、中国語を流暢に話せたことから、渡来人とも積極的な関わりを入唐前から持っていたと推測され、その人脈は幅広いものであったに違いありません。母方の叔父にあたる阿刀大足は桓武天皇の皇子の家庭教師であったことから、空海自身も15歳の時から阿刀大足から論語や史伝などを学ぶ機会に恵まれたのです。
また、空海は平安京の遷都における立役者であった和気清麻呂と面識があっただけでなく、深い交流を持っていったと想定されます。地学の達人であり、日本の地勢をくまなく調べ、理解していた和気清麻呂から、空海は学ぶことが多かったはずです。よって平安京に都が遷された後も、和気清麻呂と交流を持ち、いかにして聖地を見極め、それらの場所を紐づけることができるかを習得したと考えられます。その結果、再度山大龍寺の位置がとても重要であることを和気清麻呂から伝授された空海は、そこに磐座を祀り、自ら岩を削り、亀を彫ったのです。天皇の側近でもあった和気清麻呂と近い存在にあった空海だからこそ、より一層、朝廷との関わりが深まったことでしょう。
察するに空海が遣唐使となった背景には、明らかに朝廷、および秦氏の介入と手厚い援助があっただけでなく、そこに至るまでの間、長年に渡り、空海は密かに天皇に仕えていたとも考えられるのです。そして怨霊対策のために祈りを捧げ、かつ、国家を守護する神宝の処遇についても責任もって対応できる実力者であったと認められたが故に、桓武天皇の篤い信任を受けるようになったと推測されます。そして、朝廷の宗教行事に関する重要なプロジェクトを任されるようになったのではないでしょうか。
怨霊対策から姿を消す空海
平安宮(大内裏)付近794年に平安京遷都が実現しましたが、あらゆる怨霊対策がとられたにも関わらず、問題は解決することはなく、依然として桓武天皇を悩ませ続けていました。そして既に悟りを開いていた空海は、遷都が実現した直後より、南都六宗の本拠地奈良での2年間、学びのときを持ちながら、国家の安泰を願い、怨霊対策を熟慮したのではないえしょうか。都の行く末についても深い関心を抱いていただけに、朝廷の周辺に不幸と災難が連続して起きていることは、由々しき事態だったのです。
矢先の797年、空海は何故か歴史から忽然と姿を消してしまったのです。そして密教の経典に触れ、「聾瞽指帰」を書き下ろした直後、797年より入唐するまでの7年間、消息を絶ちます。その間、空海は何をしていたのでしょうか。国家を守護し、天皇に寄り添い、怨霊対策の結果を出すために、何かしら思いが込められていたに違いありません。
怨霊対策から姿を消す空海
ちょうどその当時、怨霊対策で躍起になっていた朝廷において、誰も対処できずに放置されている難しい問題がありました。それが、怨霊対策の切り札とも言える「神宝の移設」です。天皇と都を守護し、国家の安泰を実現するために、新都に神宝を移設することが不可欠でしたが、当時、朝廷にはそれを実行できる者がいなかったのです。なぜなら、太古の時代から誰もが祟りを怖れるあまり、朝廷内でさえ神宝を触ることはおろか、探したり見たりすることさえも拒まれ、何処にどんな神宝が秘蔵されているのかさえも分からない状況にあったと推測されます。
「契約の箱」と宝蔵された「三種の神器」平安京の原型であると考えられるイスラエルのエルサレム神殿では、神殿が建築された直後に、王の命によって神殿に「主の契約の箱」と「神の聖なる祭具」が運びこまれました(歴代誌上22章)。また、日本書紀や古事記にも記載されているとおり、都にも神宝が祀られることが重要視されたことでしょう。例えそれが神宝のレプリカであったとしても、平安京においても神宝が宝蔵されることが強く望まれ、それが怨霊対策の中でも一番、大切なポイントになったと想定されます。
空海の消息が途絶えたのが平安京の遷都直後ということもあり、朝廷が怨霊対策に取り組んでいる真最中というタイミングから察しても、空白の7年間は神宝絡んでいたことでしょう。阿刀氏の家系から輩出された有能な宗教家であっただけに、空海にとって神宝が収蔵されている場所を確認し、それらを正しく祀ることは極めて重要だったに違いありません。ましてや、空海の故郷、四国においては、剣山の周辺にイスラエルの集落が存在し、そこにはソロモンの神宝が秘蔵されているという言い伝えが古くから残されていただけに、空海も深い関心を持って取り組んだことでしょう。
さらに空海の母方である阿刀氏のルーツを遡っていくと、単に秦氏らとともに大陸系の渡来民族に繋がっていたことがわかるだけでなく、阿刀氏と呼ばれる一族そのものが、神宝の取り扱いと深く関わりを待つという歴史が存在していたのです。もしかすると、秦氏と同様に阿刀氏の出自も西アジアのイスラエルに由来するのかもしれません。それゆえ、阿刀氏の家系に属する者として、空海も神宝の取り扱いに興味を持っていただけでなく、実際に代々から伝承されてきた言い伝えも含めて、さまざまな知識を既に得ていた可能性が高いのです。こうして空海は、神宝問題を解決するための第一人者として、朝廷より召されたと考えられます。
空海の知られざる7年の正体
これらの背景から、空海の知られざる7年間を解明するためには、単に空海の文献を検証するだけでなく、空海をとりまく政治と宗教の環境を見直しながら、文化交流の裏に潜む権力闘争や、怨霊対策に取り組む宗教家らの働き、また知識階級の人脈と相互関係などにも目を留め、それらがどのように空海の生涯に影響を与えたかを探る必要があります。そして、当時の凄まじい権力闘争と怨霊問題を肌で受け止めた空海が、自ら察した天命をどう捉え、どのように行動したであろうかと推測することが重要ではないでしょうか。
そして空海が消息を絶つ前と、その後、再度姿を現した時を比較し、それらの共通点から空海が歩んだと思われる軌跡を辿りながら、どこで何をしていたか、どういう人々と面識があったかということを見極めることが大事です。また、平安初期の時代において、神宝を誰が、どのように管理するものであったか、ということにも注視する必要があります。すると、そこには空海と渡来人、特に阿刀氏との関わりや、秦氏の存在、そして和気清麻呂など、多くの識者が怨霊からの解放を願い、共に尽力していた時代の姿が浮かび上がってきます。
その結果、神宝の再発見と宝蔵場所が最重要視されたと推測されます。怨霊対策に不可欠な神宝の行方こそ、空海の失われた7年間の真相に迫る鍵と言えます。その鍵を握った空海は、時代の壁を乗り越えて、国家のために真なる神宝を守護し、秘蔵場所にて祀ることをひたすら願い、全身全霊を注いで取り組んだのです。
中島先生 アーク は剣山では無く「ドウメキ」塩塚高原の頂上の愛媛と徳島の県境部にあると思います。
伊予之二名島の真ん中で 八十ハヶ所の結界の中心部です。