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祭祀活動を担う阿刀氏の背景
阿刀神社 本殿阿刀氏は饒速日命を遠祖とする物部氏と同祖であるという伝承を有する古代氏族です。「先代旧事本紀」には、饒速日命の孫である味饒田命(うましにぎたのみこと)が、阿刀氏の祖であると記載されています。阿刀氏は石上(いわがみ)氏とも同祖であり、古くから祭りごとに携わり、平安時代に至っては、国家の祭祀活動を司るまでに至ったのです。また、阿刀氏からは多くの宗教学者が輩出され、空海の母方の叔父は皇族に仕える阿刀大足(あとのおおたり)という貴族の学者でした。
物部氏と同様に、祭祀活動に長けていた阿刀氏のルーツには、イスラエルにおいて祭祀を司っていたレビ族の存在が見え隠れします。神宝という貴重な国家の宝物を取り扱う祭司の働きを担った阿刀氏は、古代社会において何故、優れた宗教知識を携えていたのでしょうか。どこでその知識と経験を得ることができたのでしょうか。その答えは、旧約聖書の記述から垣間見ることができます。
イスラエル12部族の始まり
イスラエル12部族の歴史、特にレビ族とイスラエルの神宝との関わり、そしてユダ族の役割にも注目してみましょう。イスラエルという名前は、建国の父であるヤコブの別名であり、ヤコブには12人の子供がいました。その子供たちがイスラエル12部族のルーツです。それから族長時代を経て一時、イスラエルの民はエジプトにて奴隷の時代を過ごします。その後、エジプトを脱出し、約束の地カナンに向かう途中、イスラエルの子供たちは神の命によって氏族ごとに戸籍登録を行い、約束の地に到達して国家を樹立します。
しかしながらイスラエル王国は分裂してしまうのです。その結果、北王国イスラエルの10部族と南王国のユダ族とベニヤミン族の2部族に分かれることとなりました。その際、12人の子供の一人であるヨセフの代わりに、彼の子供であるエフライムとマナセがヤコブの養子として北イスラエル10部族の内の2部族となりました。そのため、当初12人の中に含まれていたレビ族が除外されてしまったのです。何故でしょうか。
神殿の管理を任されたレビ族
答えは聖書の「民数記」に明記されています。レビ族には、神から「幕屋とすべての祭具の運搬と管理をさせる」という特殊な任務が与えられたため、戸籍登録の対象外となり、イスラエルの部族として土地を所有することが許されなかったのです。ここで語られている幕屋とは、イスラエルの民が神の住まわれる聖なる場所として崇めた、移動式テント型の神殿のことです。
幕屋この幕屋と呼ばれた聖所を守るため、レビ族は神殿の周囲に居住しながら、ひたすら神に仕える祭司となりました。それ故、エルサレムにイスラエル神殿が建てられた後も、レビ族は神殿の周囲に居住し、ほかの部族のように土地を割り当てられることはなく、家畜の放牧地のみが与えられました。つまりレビ族は神に仕えた優秀な民でありながら、神宝を取り扱う聖職という立場に置かれたため、資産を持てなかったのです。ここに阿刀氏の家系との共通点があるように思えてなりません。
イスラエルの歴史を動かしたケハト氏
モーセの時代、イスラエルの民はエジプトから旅立ちました。そしてレビ族の家長であるレビには、ゲルション、ケハト、メラリの3人の子供が与えられ、それぞれに幕屋の勤めが告げられたのです(民数記3章)。中でもケハト氏の役目は「聖所を警護」し、「契約の箱、供え物の机、燭台、祭壇、それらに用いられる聖なる祭具、幕、およびそれらにかかわる仕事」に専念するという重要なものでした。そしてケハト氏以外は、決してこれらの神宝に触ることができないという掟が定められました。
イスラエルの民の中で唯一、神宝を取り扱うことが許されたのが、レビ族のケハト氏でした。よって神の命に従うイスラエルの国家にとって、ケハト氏は不可欠な存在となったのです。「ケハトの諸氏族をレビ人の中から断やしてはならない」、と神が告げられたのは、そのためです。ケハト氏の出自はイスラエルの歴史を大きく動かすこととなり、その一族からモーセとアロンが輩出されました。レビから26代目のヨザダク(紀元前586年頃)まで、一族の系図は明確に聖書に記されています。
歴史から姿を消したレビ族
ところが、神殿と神宝の管理を任されたはずのレビ族のほとんどがある時、歴史から姿を消してしまったのです。統一イスラエル国家が分裂した後、紀元前721年には北王国イスラエルが、そして紀元前586年には南王国ユダも滅亡しました。国家の崩壊後、北王国の10部族は離散して行方がわからなくなり、南王国のユダは、捕囚の民としてバビロンに連れていかれ、それからおよそ50年後の紀元前538年、ペルシャ王の命令により捕囚の民は祖国の地に帰還することになります。
ところがエズラ書2章40節によると、帰還した南王国ユダの民の数は部族、氏ごとに数百人から数千人の規模であったのに対し、レビ族は74人、詠唱者は128人、そして門衛は139人しかいなかったのです。歴代誌上9章によると、詠唱者と門衛はレビ族でなければならず、特に門衛は「神殿の祭司室と、宝物庫の責任」という重責を背負わされたため、神殿が建設された際には4,000人が任命されたとあります。神殿を司るレビ族は、どこへ行ってしまったのでしょうか。
国家を脱出して東方へ向かったレビ族
捕囚後に帰還したレビ人の数は思いのほか少なく、旧約聖書の歴史書によると、レビ族全体でも341人しかいなかったようです。その理由について、一般的には祖国におけるレビ族の社会的待遇が良くなかったからと言われています。しかしそれだけでは、この少人数の説明がつきません。別の理由があったはずです。
もしかしてレビ族の多くは国家が崩壊する直前に、新天地を求めて契約の箱とともに、アジア大陸を横断する一行と東の島々を目指したとは考えられないでしょうか。紀元前721年に北イスラエル王国が崩壊した際、その当時にイスラエル神殿にて国王に仕えていた預言者イザヤには、さまざまな神の言葉が告げられていました。中でも「東方の海に浮かぶ島々で神を崇めよ
」(イザヤ24章15節)という預言は、イザヤの心を大きく動かしたに違いありません。神から後押しされたイザヤは、祖国を去る決断をします。
契約の箱イザヤがイスラエルを脱出する際、必ず携えていかなければならなかったのが聖櫃とも呼ばれる契約の箱と、諸々の神宝です。それらは新しい国家を造るために不可欠な、神の存在を象徴する聖なる宝だったのです。そして神聖な祭具に触れることが許されたのはレビ族のケハト氏だけでした。また、神殿にて仕える多くの門衛、詠唱者もレビ族でした。それ故、預言者イザヤの言葉を信じて大陸を横断した大勢の民と共に、契約の箱や神聖な祭具を運搬する役目を果たすために、多くのレビ族が同行したことでしょう。
レビ族のアテル氏が阿刀氏のルーツか?
東の地へと向かった民とは別に、バビロンに捕囚の民として連れ去られた多くのイスラエルの民も存在しました。そして長い年月にわたるバビロンの捕囚後、イスラエルのエルサレムに帰還することとなります。その捕囚の民の中に、レビ人として門衛の役割を授かったアテル氏がいました(エズラ2章42節)。しかしながら、実際に祖国の地に帰還したアテル氏は数十人にも満たなかったようです。つまり、アテル氏の多くも、どこか違う場所へと移住したと考えられるのです。
ヘブライ語ではאתר(アタ、Ater) と書くアテル氏には、捕囚後に祖国へ帰還する際、ネヘミヤらとともに主の契約に調印した神のかしらが存在しました(ネヘミヤ10章17節)。アテル氏は、レビ族の中でも極めて重要な職務を授かっていたことがわかります。このアテル氏の中に、東方の海の島々に向かって旅立った人々がいたと考えられます。
ヘブライ語でאתר(アタ、アテ) の発音は、日本語の「アト」とも聞こえます。もしかして、イスラエルのレビ族、アテル氏が、阿刀氏のルーツではないでしょうか。その前提で歴史を振り返ると、何故、阿刀氏から多くの優れた宗教家や学者が輩出されたのか、その理由が見えてきます。それ以外に阿刀氏が古代社会において、きわめて高度な教育を必要とする祭祀活動を司るようになった理由を見出すことは容易ではありません。
アテル氏に託された祭祀活動とは
阿刀氏の出自がイスラエルレビ族のアタ氏、アテル氏に結ぶついていたという前提で、今一度、アテル氏の祭祀活動を振り返ってみましょう。旧約聖書の歴代誌上9章に詳細が記載されています。
アテル氏はレビ族として門衛を任されていた一族です。彼らとその子孫が、幕屋である神殿、門の警備を託されたのです(23節)。そして神殿の祭祀室と宝物庫の責任を負っていました(26節)。神殿の周囲で夜を過ごし、毎朝その扉を開くことが彼らの責任でした(27節)。さらには祭儀用具の責任も持ち、数を確かめて出し入れをしました。つまり聖なる祭具のすべての責任を持っていたのが、アテル氏だったのです(29節)。
空海が阿刀氏の出自であることの重要性
これらの背景からしても、阿刀氏からは宗教学者が多く輩出され、博学であったにも関わらず、経済的にはさほど恵まれることがなかった理由が見えてきます。レビ族の中でも生粋のアテル氏の出自であったが故に、阿刀氏の祖先は、元来、土地や財産を所有することが許されておらず、神殿の近くに住まい、神殿を管理する役目を授かっていたのでしょう。
阿刀氏の先祖である饒速日命は、「先代旧事本紀」に記載されているとおり、アマテラスより10種の神宝、「瑞宝十種(みずのたからとくさ)」を授かり、神に仕えることを職務としてまっとうしたと考えられます。つまり饒速日命も、イスラエルのレビ族の出として、神殿を管理する責任を担い、その責務はイスラエルから遠く離れた日本の地においても阿刀氏に継承され、そして平安初期においては空海へと引き継がれていったと考えられます。
空海そしていつしか空海の心の奥には、イスラエルの歴史に内在する神宝への強い崇敬の想いと憧れが湧き上がってきたのではないでしょうか。平安京を救い、桓武天皇を助けるため、そして神からの祝福をすべての民が得ることができるように、阿刀氏である母親を持つ空海は、いつも祈っていたことでしょう。そして祭司の任務を与えられたレビ人の血統をくむ神の民、イスラエルの末裔として、空海は大祭司の働きを成し遂げていくことになります。
非常に興味深い内容で、愉しく拝見致しました。
私の地元である京都市の京北には、古来より真言宗の僧侶たちの宿坊であった普門院があり、そこから20km程度進んだ日吉という地域に、これまた真言宗の普門院があります。
伝承では、高野山の普門院より以前、推古天皇の時代に建立されたものとされています。
普門院という名称の寺院は、近畿県内では5つしかありませんが、外部から隔絶された山間の山村に、そのうち2つも存在しているのです。
そして興味深いことに、京北の普門院の住職は阿刀姓でした。地元はおろか周辺地域でさえ阿刀姓の方はおらず、京北との地縁や赴任の経緯は不明です。
更に、寺院を囲むように、数件だけ佐伯姓が存在しており、伝承によれば、沢尻の佐伯氏の先祖は朝廷に仕える侍女であり、その後は京北に移り住んで普門院の傍で宿坊の運営を支えていたようです。
これが本当だとすれば、空海聖人あるいはその関係者との何かしらの繋がりがあるのではないかと勘ぐってしまいます。
また、日吉の普門院の周辺地域には、秦、大秦、川勝など、ユダヤ人関連の苗字が多数存在することも興味深いです。