
九州の離島、壱岐と鐘崎・宗像の間にある博多湾の沖に浮かぶ志賀島には、全国綿津見神社の総本宮であり、古来より「海の守護神」として篤く信仰されている志賀海神社があります。そこで例年催される山誉め祭りでは、ヘブライ語で神官を意味する禰宜(ネギ)と神主が行事を執り行い、「君が代」が歌われています。
我が君は 千代にやちよに さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで
あれはや あれこそは我君のめしのみふねかや
志賀の浜長きを見れば幾世経ぬらん
香椎路に向いたるあの吹上の浜千代に八千代に
今宵夜半につき給う御船こそ、たが御船になりにける
あれはやあれこそや安曇の君のめしたまふ御船になりけるよ
「安曇の君のめしたまふ御船」と歌われるとおり、この歌は安曇の君に対しての讃歌です。九州王朝の君主であった安曇の君にまつわる伝承を調べてみると、志賀海神社につながる対馬の和多津美神社の存在が浮かび上がってきます。対馬は古代、海人安曇氏が重要な拠点と位置づけた要地であり、その中心的存在が和多津美神社でした。
和多津美神社の参道沿いには「磯良」(いそら)と呼ばれる磐座が存在し、古い海神伝説のシンボルとなっています。御神体である「亀石」は、「磯良恵比須」と呼ばれ、周囲には三本足の鳥居が立ち、御社殿横の磐座とともに御神体石として祀られています。これらの名称は安曇氏の名前とともにすべて、ヘブライ語で理解することができることから、「安曇氏」の出自がイスラエルと深く結びついていることがわかります。
まず、「磯良」は海部の統率者として知られる海の神、「阿曇の磯良」(あづみのいそら)を指します。神功皇后が三韓出兵した際、皇后の働きが成功することに大きく貢献した安曇氏の祖先です。「磯良」(いそら)は発音が「イスラエル」の頭文字となる「イスラ」と酷似していることから元来、イスラエルの略称として使われた名称ではないかと考えられます。
同様に「亀石」と、「磯良恵比須」の「恵比須」もヘブライ語がルーツと考えられる言葉です。「亀石」の「かめ」は、お守りを意味するקמע(kamea、カメア)が語源です。また、「恵比須」(えびす)は、הביס(hevis、ヘビス)というヘブライ語を元に、日本語では「えびす」と発音するようになり、「打ち負かす」「打倒する」という意味で用いられています。よって「磯良恵比須」(いそらえびす)は、「イスラエルが打ち倒す!」、すなわちイスラエルの勝利を意味する言葉と考えられます。
「安曇」(阿曇)氏の名前の意味もヘブライ語で理解することができます。「安曇」はガード、守る、取り囲むを意味するאזר(azhar、アザー)と、水を意味するמימ(mayim,マイム)という2つのヘブライ語からできた言葉です。「マイム」「水」は複数形の単語であり、その単数形は、מי(mey、メイ、ミ)です。旧約聖書におけるノアの箱舟に関する記述においても、洪水によって「水」があふれた際にもמי(mey)が用いられています (旧約聖書 創世記7章7節)。これら2つの言葉を合わせると、אזר מי(azharmey,アザメイ、アザミ)という「水のガード」「海を守る」、すなわち「海の守護」を意味する言葉となります。海人豪族として名を馳せた安曇氏だからこそ、海の守護神となるべく「アズミ」という名で知られていたのでしょう。すると、「安曇磯良」は「海の守護神イスラエル」と解釈できます。
志賀島神社では綿津見三神が祀られ、これら三神は海神安曇氏の祖神でもあります。また「安曇磯良」は志賀島大明神とも呼ばれているのです。つまり志賀島大明神とは「海を守るイスラエルの神」であり、志賀島神社の創設者は綿津見神社と同族の安曇氏であったことがわかります。志賀島の祭りでは、古くから「君が代」が歌われ、「我が君」として安曇の君が讃えられてきました。それは安曇氏がイスラエル系の王族の出自であることをほのめかしているだけでなく、「君が代」がイスラエルの神、王を讃える歌であったことの証と考えられます。こうして志賀島神社と綿津見神社は、遠い昔から同じイスラエル民族の絆で繋がっていたのです。
長野県安曇野の穂高神社には大きな船が祭られています。諏訪大社のミイサクチ祭りはアブラハムによる息子イサクの生贄儀式を継承したものですね。安曇族と出雲族は同系でしょうか?
難しい質問ですね。というのも出雲族の定義、解釈がまばらであり、考え方が分かれるからです。出雲族を海を渡って渡来したスサノオ命の子孫、出雲の国造りに関わったスサノオの子、または孫である大国主神の家系とするか、国津神系に属するかなど、様々な見解があります。
イザヤの一行がイスラエルから渡来した、という前提で考えますと、王族と共に船で先行して渡来した民は、天孫族、すなわち王系ユダ族の人々を中心とした皇族のグループであったと考えられます。そして南西諸島、琉球に滞在している間、列島の調査や開拓を進めるために別のグループの民が先行して島々に渡ったようです。その中には朝鮮半島を経由して渡来してきた民もいました。それらの人々は、イスラエルのレビ族を中心とする民であり、王系ユダ族とは別のイスラエル人です。そして先行して国造りに携わったことから国津神と呼ばれたと考えることにより、歴史の流れが見えてきます。
すると、出雲の国造りには双方が関わっていることになり、出雲族のルーツには天津神と国津神の双方が存在することになります。それ故、出雲族は海洋豪族の流れを汲んでいるとも考えられのです。安曇族は海洋豪族の一つであることから、出雲族と血統の繋がりが多少なりともあると考えてよいのではないでしょうか。
古代と言うのは簡単では有りません。今伝わる都市伝説は違うのが正しいです。おそらく、あわとの関係から聞かれて居たり、ユダヤが関係するとされてますが、そこにも疑問が有ります。
エラム人が諏訪に渡った忌部氏等ではないでしょうか?又元々は出雲大社も別の場所に有りました。
イスラエルを結びつけたい思いは分かりますが、忌部氏、賀茂氏は同族で、ダビデにはいきつかないらしいですよ。アズミのワタツミが何処から繋がるかはまだまだ分からないですが、皇族等と山幸彦との中から関係が出来ます。これらはエジプトからイスラエル、新羅から日本へ渡ったダビデの子孫らしいです。なので、神武天皇まで辺りの系図に繋がる氏族はその子孫に値するでしょう。