天皇より信任を受けた空海の役割
平安京への遷都が実現した後も、社会情勢は大変不安定であり、多くの人々が疫病の蔓延や怨霊の噂に不安な日々を送っていました。そのため、怨霊を祓って国家体制を強固にし、天皇家の安泰を実現することが急務でした。その結果、天皇からの篤い信望を受けた空海は立ち上がり、遷都の立役者でもあった和気清麻呂とも深く関わることになります。
『桓武天皇像』延暦寺 蔵平安京への遷都にあたり、秦氏の役割が経済的支援とするならば、和気清麻呂には建築土木技術における活躍が求められ、桓武天皇が最も恐れた怨霊を退治するための宗教アドバイザーとしては、平安京が遷都された年に悟りを開き、宗教心に関する洞察力と語学力、文才において既に比類なき名声を得ていた空海が天皇の側近となるべく、天皇との距離を縮めていくことになります。
こうして、秦氏、和気清麻呂、空海の三者のコラボレーションにより、平安京の造営後も、桓武天皇は優れたアドバイザーの存在に恵まれることになります。特に空海への信望は篤く、その結果、天皇が一番求めていた怨霊対策について、空海はその重責を担い、生涯をかけて取り組むことになったのです。悟りを開いた後の空海の足取りを振り返ると、空海の思いが見えてきます。
悟りを開いた空海の足取り
国家に貢献することを願った空海は、平安京の遷都が実現した直後、正式に僧侶となることを願いました。そして剃髪得度の式を受けるため一旦、奈良に戻り、当時の規定に従って国家試験を受けたのです。奈良仏教に失望し、大学を中退してまで山中で修行を積み、その後、悟りを開いた空海が、再び奈良に戻ることになった理由は定かではありません。皇族からの奨励があったか、和気清麻呂のような卓越した技術知識をもった博学な方々と接したかったか、または、経典を深く学び、神宝の処遇についても知識を得て、自らが率先して怨霊対策に貢献することを願っていたからとも考えられます。
空海が20歳の時に学んだ奈良の大安寺奈良に戻った空海は2年間、奈良大安寺の住僧として、南都六宗の経典などの研究に徹します。その間、神宝の歴史とその処遇、収蔵場所などについても、さまざまな資料を読み比べて研究したに違いありません。そして796年、22歳にして唐より来朝していた泰信和上より具足戒を授かります。ところが空海は、庶民の救済を忘れて無益な宗教哲学や立身出世を目指すことに終始する南都六宗を嫌い、「あらゆる僧尼は頭を剃って欲を剃らず」と、痛烈に批判したのです。そして具足戒を授かっても僧侶のコミュニティーに染まることはなく、むしろ自らの信念を貫き、再び旅立つ空海の姿を目の当たりにします。
天皇に招集される空海
遷都した直後の平安京は、四神に守られているにも関わらず、不穏な空気が漂っていました。そして怨霊に対する不安をぬぐい去ることができなかった桓武天皇は、宗教アドバイザーを必要としていました。空海は既に悟りを開いていたことから、その名声は天皇の耳にも入っていたことでしょう。そこで天皇より招集されたのが、空海でした。
大安寺中門跡奈良で勉学に励み、当時、奈良仏教界においても最も勢力のある法相宗の僧侶らと縁故関係を持っていた空海は、奈良の宗教文化にも精通していました。また、仏教思想や日本古来の宗教を熟知し、しかも大陸通として梵語や中国語などの外国語にも長けていたのです。しかも空海の出身は讃岐、今日の香川県であり、身内の阿刀大足は皇室との付き合いも深く、天皇の皇子らを教えていました。それ故、桓武天皇にとって空海は、願ってもない人材だったのです。必然的に、空海は桓武天皇の篤い信頼を受けることになります。
空海に引き継がれた和気清麻呂の思い
平安京への遷都が実現した時点で、和気清麻呂は61歳であり、5年後の799年に亡くなられます。当時の国家情勢は、長岡京の時代と変わらず災害や疫病が続いており、天皇をはじめとする多くの人々が不安な日々を送っていました。その為、怨霊を祓って国家体制を強固にし、天皇家の安泰を実現することが急務でした。
余命を数える年頃であった和気清麻呂は、自らやり残したことを、後継者に託す必要に迫られていました。既に遷都が実現し、怨霊の働きから天皇、しいては平安京と国家を守る為に、平安京の四方には四神が祀られました。そして最終段のステップとして、天皇家の象徴である神宝を、外敵からの略奪から守護して安全な場所に収蔵し、祀ることが最重要視されたのです。
そのタスクを担うことができる人物として、和気清麻呂は、空海に未来を託すことになります。悟りを開いた空海も和気清麻呂と同様に、桓武天皇をはじめ皇族や庶民一同が、長岡京の呪縛や怨霊から解き放たれ、国家が守護されることを願い求めていました。空海にとって、国家の安泰と神宝の守護に関わる思いを共有する和気清麻呂との出会いは極めて重要であり、2人は意気投合したことでしょう。そして天皇からの篤い信望を受けた空海は立ち上がり、遷都の立役者でもあった和気清麻呂と共に、天皇の側近として活躍することになります。
余生わずかな限られた期間であっても、和気清麻呂は空海に対し、特に日本国家の怨霊対策に不可欠な神宝の取り扱いと聖地の選別について、さまざまな情報を提供しただけでなく、日本の地勢を見極める方法まで伝授したと考えられます。その結果、若くして博学であった空海は、日本の地勢を確かめるために、自らの足で全国各地を巡り歩いただけでなく、土地の選別方法や有効活用の事例、灌漑工事に至るまで、和気清麻呂から直接教えを請うことができました。特にレイラインの手法に基づき、聖地同士が一直線につながるという見方と、その場所を識別する手法は、その後の空海の人生に大きな影響を及ぼすことになります。
私は和気町在住で、和気清麻呂公を知らべている者です。大変勉強になりました。
現在、和気町民は清麻呂公の偉業を詳しく知
らずに、弓削道鏡事件のみが語られるのみです。
勿論、自称歴史研究者は最澄、空海と関わっていたのは息子の広世だと思っていますし、
秦氏との関係も否定する人が多いです。
霊峰熊山遺跡を見ても秦氏との関係は明らかで平安京のモデルの条里制後も有ります。
宇佐神宮までの道中助けた猪も秦氏だと思っています。
今後も投稿を楽しみにしてます。
しかし私達は熊山を挟んで、香登を拠点とする大勢力の秦氏と和気氏の合作で
霊峰熊山の熊山遺跡も秦氏と境で共同の遺物と考えています。
貴重なご指摘ありがとうございます。熊山遺跡、以前からチェックはしていたのですが、まだ現地を見てなかったので近日中に自分の目で確かめてみたいと思います。そばに和気町が隣接しているだけでなく、周辺には多くの遺跡があることから、明らかに古代、和気氏が重要視した場所であることが見てとれます。そして古代では、近隣の山にて霊峰剣山に結び付く場所を特定し、そこに熊山遺跡となる聖地を造ったのではないでしょうか。熊山遺跡は見事に剣山と南北線をひとつにしています。元伊勢のレイラインでも記載したとおり、元伊勢とはすべて剣山に結び付いており、よって、伊勢に結び付けられた京都御所も剣山と関連する存在になるかと考えています。つまり和気清麻呂の構想の中には剣山が存在したことに違いありません。その一例が再度山です。同様に空海も同じ思いで剣山を思い、再度山の存在を知ったからこそ、そこに2度も滞在することになったのでしょう。こうして剣山を中心に考えると、和気氏とのつながりも見えてくるような気がします。