シルクロードの終点となる奈良の都
シルクロードのルート(1世紀ごろ)日本列島はシルクロードの最終地点として知られています。古代からアジア大陸を横断し、海を渡って東の島々に渡来した民にとって、奈良の盆地は、長旅の終点だったのです。それ以東は山々が聳え立ち、100㎞先には伊吹山、そしてその先にはアルプス山脈が行く手を阻みます。よって、シルクロードの終点が奈良となり、そこにアジアからの渡来者が大勢集まり、古代社会において大陸文化のメルティングポットとなったことは、想像に難くありません。
その奈良に都が造営されたのが710年です。地勢に恵まれた奈良の盆地に、中国、唐の長安城を模倣して、奈良時代の象徴となる平城京が建設されました。そして奈良は、それから70余年の間、日本の政治経済の中心地となったのです。
長岡京遷都と祟りの噂

長岡京市公式ホームページ
奈良時代も終焉を迎えようとしていた八世紀後半、桓武天皇が即位された直後の784年、都は平城京から京都の長岡京へ遷都されました。長岡京からは京都盆地を見渡すことができるだけでなく、南方には淀川が流れていることから水上交通の便においても優れた地勢を有していたのです。そこに広大な長岡京を造成し、東西につながる大路を造ったことから、長岡京は一躍、日本の政治経済、そして文化の中心地となりました。
長岡京へ遷都した現実的な理由は、政治的な要因が多分に絡んでいました。南都六宗の仏教勢力の肥大化を嫌った桓武天皇は、敵対する勢力の不穏な動きを避けるため、中国の長安をモデルとした長岡京の造営を決意したのです。その背景には、天智天皇系と天武天皇系の派閥争いがあり、天武天皇系の支配が強い奈良の平城京を離れることが望まれたとも言われています。そして遷都することにより、天皇家の血統としては弱い立場にあった自らの境遇を強固なものにし、その上で平城京の地理的弱点を、新しい都の地にて克服しようとしました。
ところが784年に都が長岡京へ遷都されてからというもの、国内では災難が続きました。思いもよらぬ飢饉の到来、河川の氾濫、疫病の流行だけでなく、桓武天皇の身内にも病が続いたのです。これらの出来事は、不幸な運命を遂げた早良親王の祟りであると陰陽師らが占ったこともあり、まさしく祟りではないかという風評が世間一般にまで流布され、国家情勢は深刻な状態に陥っていました。
そこで模索されたのが、長岡京を離れて再び遷都するという大胆な計画です。そして当時の社会情勢の背景に潜んでいた、怨霊による祟りの噂を払拭し、問題の根源を解決する糸口をつかむために、桓武天皇は和気清麻呂らと共に新しい都の地を見出すことに集中します。天皇家一族にとって怨霊の問題はまさに死活問題であり、早急に遷都することが望まれたのです。そして794年3月、平安京への遷都が実現します。
四神相応に合致した山城国
怨霊の祟りから解放されるための決め手と考えられたのが、四神相応の教えにふさわしい新しい都の地の選定でした。当時、都の四方を司る神々によって守られるためには、それにふさわしい地勢を備えた場所に新しい都を造営することが不可欠と考えられたのです。中国の四神相応に基づくと、最善の場所は東方に豊かな水源があり、北方には高い山、西方にはなだらかな道が続き、南は開けた土地があることが重要でした。
ところが長岡京は、大阪湾と日本海側の若狭湾、双方から60㎞ほど内陸で、三方が山々に囲まれた盆地に位置し、琵琶湖からは距離があるだけでなく、湖の方角も北東にずれています。また、西方は山が聳え立ち、北方の山までは10㎞ほど、距離があります。また南方は平野となる前に淀川が東西を横切っていることから四神相応のイメージとは異なります。つまり長岡京は、四神相応との兼ね合いがとれない場所に位置していたのです。
長岡京の地勢から見出された多くの課題を参考に、新しい都は、四神相応の考え方に合致した理想郷であることが求められたことでしょう。日本列島の中心となる都の場所として、そのような条件にあてはまる場所は限られています。求められた都の場所とは、陸と海、川の交通の便が良いだけでなく、東方に水源があり、北方には高い山が聳え立ち、南方には平地が広がり、西方には大きな道が続く場所です。
長岡京と平安京の位置図よって遷都の候補地を検討するにあたり、当時の学者らは、山城国にて広大な土地を保有する秦氏らと共に、四神相応の教えに準じて、日本の国土をくまなく調査したことでしょう。その結果、見出されたのが山城国の一角にある、今日の京都の地でした。その東方には「流水」にふさわしい琵琶湖という清い水があり、北方は丘陵に合致する標高の高い山々が連なります。また、西方は「大道」となるべく嵐山の方へ向かって長い大道が続き、南方は窪地を印象付ける「朱雀」のイメージに合致する淀川と、宇治川に挟まれた鴨川が南北に流れ、広い湿地帯になっていたのです。よって山城国の地は、正に四神相応の教えに合致した理想郷とも言える場所として、いち早く認知されたのです。
その理想郷となる遷都の地、山城国を所有していたのが秦氏であったことから、平安京への遷都において、秦氏はさらに大きな影響力を持つことになります。秦氏にとって、自らの影響力下である山城国周辺に遷都を実現させることは長年の夢でした。また、その場所以外に都にふさわしい候補地が存在しなかったこともあり、短期間で平安京の新天地となる場所が特定されることになりました。
平安京遷都の立役者、和気清麻呂
和気清麻呂
(『皇国二十四功』より)「怨霊からの解放」という天皇の切なる願いをもって、平安京への遷都案が着々と具現化する最中、天皇家に寄り添いながら平安京の場所を特定し、そこに新しい都を造営するためのマスターマインドとして活躍したのが地理学の天才、和気清麻呂でした。日本の地理を熟知していた地政学の天才であると同時に、灌漑工事を含む土木工事の達人としても知られていた和気清麻呂の右に出るものは誰もいませんでした。その驚異的な洞察力に基づく先見の明を確信した桓武天皇は、和気清麻呂に平安京の造営を一手に任すことになります。
日本の国土をくまなく歩き回りながら培われてきた優れた土地勘と卓越した方位学を兼ね備えた和気清麻呂は、遷都する候補地を探し求めた結果、ある日、小高い山の上から遷都先となる未来の聖地を、桓武天皇にご披露することになります。古代のさまざまな測量技術を駆使し、伊勢神宮や石上神宮などの神宝が祀られている重要な社の位置や、神宝に絡む古代の霊峰である剣山の位置づけなどに目を配り、それらの聖地に関連付けながら、和気清麻呂は平安京の場所を特定することができたと推測されます。ライフワークとして日本の国土をくまなく調査してきた和気清麻呂だからこそ、次の都が造営されるべき場所さえも、ピンポイントで見据えることができたのです。
遷都地が短期間で特定された背景には、山城国界隈の領地を多く保有していた秦氏の手厚い支援がありました。そして、平安京となる土地の所有者である秦氏と和気清麻呂との密接なコラボレーションがあったからこそ、平安京への遷都は短期間で実現することができました。