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2023/05/25

和気清麻呂が見出した平安京のレイライン 伊勢神宮、石上神宮、剣山に結び付く平安京の謎

長岡京が短命に終わった理由

古代都城位置図
古代都城位置図
画像出典:古代都城位置図
長岡京市公式ホームページ
(https://www.city.nagaokakyo.lg.jp/)
10年という短い期間で、長岡京の時代は終焉し、急遽、平安京へ遷都する必要が生じました。その背景には、桓武天皇の弟である早良親王の変死により、怨霊への恐れや政治情勢に暗雲が立ち込めたこと、中国古代の思想である四神相応との兼ね合いがとれない場所に長岡京が位置していたこと、そして792年には大洪水がおきたことなどが関連しているのではないかと推測されます。その結果、都の位置付けが根本的に間違っていたのではないかと考えられるようになったのです。

奈良時代、怨霊の厄払いは重要な儀式であり、国家の安泰を揺るがす疫病の蔓延に多くの人々が恐れおののいていました。それ故、都が聖なる場所にあり、そこに神宝が祀られ、祭祀活動が執り行われて神を祀ることが不可欠であると考えられていました。社会情勢が悪化する最中、どこで神々を祀るか、そのためにはどういう地勢が必要か、また、天皇の象徴でもある神器をどこで祀り、どこで祈りを捧げるか、などの祭祀活動を再検証する必要に迫られ、その結果、早急に遷都することが決められたのです。

平安遷都の地はレイラインから特定?

しかしながら、何故、長岡京から今日の京都に位置する平安京に遷都する必要があったのでしょうか。また、一概に京都と言っても広大なエリアを指します。奈良時代において、その後、日本の中心地となる平安京の場所は、如何にして特定されたのでしょうか。どのような考察のプロセスを踏まえたうえで、都の場所が特定されたのでしょうか。広大な平地を有する今日の京都周辺の平地において、都の場所をピンポイントで見出すことは容易ではなかったはずです。

新しい都の場所を探し求めるにあたり、古代の識者は、地域の地勢や水源、港からのアクセス、周辺地域の農作物など、あらゆる側面から検証したと推測されます。しかしそれだけでは、おおまかなエリアしか見定めることができないはずです。都の場所をピンポイントで特定するためには、他の手法も必要でした。もしかするとレイラインと呼ばれる考察方法も参考にされた可能性があります。

レイラインとは、目印となるような大切な場所、聖地などが、一直線上に並ぶことを指します。レイラインの直線に並ぶ拠点同士の距離間も、何かしら重要な意味を持っていることがあります。距離の数字が一致するというような現象が、度々レイラインの検証から浮かび上がることがあるからです。また、複数のレイラインが存在する際、それらのレイラインが交差する箇所が、極めて重要な場所となるケースもあります。それらの交差地点は新たなる拠点となり、そこで祭祀活動が行われ、神社が造成されるなど聖地化する事例が少なくありません。

果たして、平安京の地は、このようなレイラインの考察を用いて見定められたのでしょうか。古代の英知を結集して、平安京の場所をレイライン上に見出したとするならば、地図上において今日でも、それらレイラインの存在を確認できるはずです。そのようなレイラインの考察方法を用いて平安京の場所が見出されたか、早速検証してみましょう。

伊勢神宮と石上神宮に結び付く平安京

そこで日本書紀古事記にも登場する2つの由緒ある古代の神社、伊勢神宮と、奈良の石上神宮に注目してみました。何故ならこれらの神社は、当時、神宝が保存されている由緒ある神社として知られていたからです。この2つの神社に都を結び付くことができるならば、怨霊の問題からも解放されると考えられたのではないでしょうか。よって、遷都する場所は、これらの聖地と紐づく場所になければならなかったのです。

では、どうやって伊勢神宮石上神宮に結び付く場所を探し出すことができるのでしょうか。レイラインと呼ばれる手法を使うことにより、これらの神社に紐づける都の場所を特定することが可能になります。まず基準となる中心線は、伊勢神宮を基点として奈良の石上神宮を結ぶ線です。古代社会において重要度の極めて高い2つの神社の延長線上には、後に空海の大切な拠点となる神戸の再度山、および和気清麻呂がその山に建立した大龍寺があります。その中心線とは別に、今度は伊勢神宮から四国の剣山へと線を引きます。そして中心線の逆、すなわち北側にその線と対称となる線を、伊勢神宮から北西の方向に引きます。すると、その線はちょうど今の平安神宮周辺を通ります。

神宝が収蔵されている古代の神社に新しい都を紐づけるためには、伊勢神宮と石上神宮だけでなく、建国の時代より先代の賢人より崇められてきた四国の剣山をも結び付けることが大事であったと推測されます。よって、伊勢神宮と石上神宮を結ぶ線を中心として、剣山と対称の位置に平安京の場所を見出したのです。すなわち、四神相応に合致する京都盆地の中でも、伊勢神宮からのレイラインが線引きされるその地点こそ、新しい都の地と考えられます。

伊勢神宮と結びつく平安京、高野山、再度山と剣山
伊勢神宮と結びつく平安京、高野山、再度山と剣山
平安京の場所は、伊勢神宮と石上神宮を結ぶ線を中心として、伊勢神宮と四国の剣山を結ぶ線とは対称となる北方に向けた線上に存在します。四神相応の教えに従って選ばれた山城国において、伊勢神宮と結びつく線上が行き交う場所の中心が、平安の都として選別したと考えられます。このようなレイラインの考察方法を、空海は和気清麻呂から学んだのではないでしょうか。

空海が修行の際に時を過ごした大峯山も四国剣山と伊勢神宮を結んだ一直線上に存在し、頂上からは東に伊勢神宮、西には高野山を見渡すことができます。大峯山も実は、高野山と同様に固有の山を指す名称ではなく、吉野山から熊野へ続く山岳地域を意味しています。丁度その中心に山上岳がそびえ立ち、頂上には修験道の根本道場となった“大峯山寺”があります。こうして空海は自らが修行する場所も、伊勢神宮と剣山に紐づけることを重要視したと想定されます。

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