再度山に思いを寄せた空海
空海は青年時代から和気清麻呂と接触を持っていただけでなく、20歳にて悟りを得て奈良に戻った後も、和気清麻呂とともに重要なプロジェクトに関わり、さまざまな情報を共有しながら天皇に仕えていたと考えられます。その根拠のひとつとして挙げられるのが、現在の神戸北方に位置する再度山(ふたたびさん)の存在です。
遣唐使として中国に渡る803年頃、和気清麻呂が観音霊場を創建した多々部山(たたべやま)、後に大龍寺が建立される再度山を空海も重要な拠点と位置付け、そこに何日も滞在しました。さらに空海は、遣唐使として出発する直前のみならず、帰国後にも再びこの山を訪れています。空海が2度訪れたということから、多々部山はいつしか再度山と呼ばれるようになりました。空海が魅了してやまない、何か特別な理由があったのでしょうか。
空海が亀の像を彫った謎
空海が再度山を重要視したことは明らかです。その証拠に、空海はその大龍寺が建立された再度山の頂上近くにある岩場を見定め、そこで岩を削り、垂直かつ平らな岩の壁を作っただけでなく、そのすぐそばにある巨石の上に、自らの手で亀の像を彫り上げたのです。甲羅の形や亀の頭までも含めて長さ40㎝以上にもなるこの像は、現在でもその原型を留めています。
特別な思い入れがなければ、このような作品を手掛けることはなかったでしょう。しかも、その傑作を完成させたのは、遣唐使として中国に渡る前後であり、時間的余裕もあまりなかった頃と推測されます。それでもあえて空海は再度山に赴き、時間をかけて亀の像を完成させました。そこまで空海が心を動かされた理由は、いったい何だったのでしょうか。なぜ、重要な時間を割いてまで岩を削り、亀を彫る必要があったのでしょうか。
確かなことは、再度山を拠点とし霊場を創建した和気清麻呂から、周辺に関する貴重な知識を空海が学んでいた可能性が高いという点です。清麻呂がこの地を重視した理由を知り、再度山に関わる位置や意味が極めて重要であると認識した空海は、自らの思いを形として残すことを決意し、2度にわたって再度山を訪れ、亀の像を彫ったのです。
多忙を極めた空海だけに、単に再度山が地理的に重要な意味を持つスポットであるというだけで、その山に籠って岩を削り、時間をかけながら、そこに自らの手で亀の像を作るということは考えられません。空海が彫った亀には、何らかの大切なメッセージが込められ、それを後世に伝えることを目論んだからこそ、この貴重な作品が残されたと見るべきでしょう。その亀の姿に込められた空海の思いとは、いかなるものだったのでしょうか。
古代聖地を見出すレイラインの手法
古代の識者たちは、霊場や聖地を見定める際、他の著名な神社や霊場、霊峰との位置関係を重視し、それらが一直線上に並ぶ配置に特別な意味を見出していたと考えられています。こうした、神社や霊峰などの聖地が一直線上に並ぶ状態は「レイライン」と呼ばれることがあります。また、新たに神社を建立する際には、複数のレイラインや、同緯度・同経度の線が交差する地点が選ばれることもありました。
和気清麻呂も「レイライン」の構想に基づいて、日本列島内に聖地を見出していたのではないでしょうか。再度山が霊場と定められ、重要視された背景には「レイライン」の存在があり、その場所の特異性は今日でも、地図上で確認することができます。
当時、この「レイライン」の重要性については、空海もまた認識していたと考えられます。実際、空海が修行の場とした大峯山は、四国の剣山と伊勢神宮を結ぶ一直線上に位置しており、山上からは東に伊勢神宮、西に高野山を望むことができます。なお、大峯山は高野山と同様、単独の山を指す名称ではなく、吉野から熊野へと連なる山岳地帯全体を指します。その中心には山上ヶ岳が聳え、頂上には修験道の根本道場である大峯山寺が建立されています。こうした点を踏まえると、空海は自らの修行の場についても、伊勢神宮や剣山との位置関係を重視し、それらと結び付く場所を選定していた可能性があると考えられます。
レイラインから浮かび上がる再度山
レイラインの検証によって極めて重要な地点が浮かび上がり、その結果として聖地化されたと考えられる事例の一つが再度山です。「日本書紀」や「古事記」にも記された由緒ある神社として知られる伊勢神宮と石上神宮を結ぶ線上に、再度山は位置します。これら2社は、神宝の歴史とも深くかかわる重要な存在です。
さらに、この線を西へ延長すると、「石の宝殿」で知られる古代史跡、生石神社(おうしこじんじゃ)があります。すなわち、伊勢神宮と石上神宮、再度山、生石神社は、すべて一直線上に連なっているのです。このことから再度山は、これら複数の聖地から地の力を受け継ぐ場所として認識されていた可能性があると考えられます。
それだけではありません。再度山から南西方向に四国の剣山を望むと、その延長線上には、淡路島の名所であり古代の聖地とされる伊弉諾神宮と石上神社が位置しています。2つの神社と再度山、そして剣山という4つの地点が一直線上に並ぶという事実は、単なる偶然とは考えにくい現象です。
特筆すべきは、石上神社の緯度が奈良の三輪山と一致する点です。淡路島の山奥に石上神社が建立された背景には船木一族の存在があり、その地まで巨石を運び、御神体として祀ったことに由来すると考えられています。そして、この地域一帯はやがて「舟木」と呼ばれるようになりました。すなわち、伊勢神宮と石上神宮を結ぶ線と、石上神社の磐座から伊弉諾神宮、さらに剣山へと至る線は再度山で交差し、見事な2本のレイラインを形成しているのです。このことから、古代において再度山は極めて重要な地として認識されていた可能性があると考えられます。

再度山の位置が重要である理由
和気清麻呂はレイラインの考察を通じて、伊勢神宮と石上神宮を結ぶ線と、剣山と伊弉諾神宮、石上神社磐座を結ぶ線とが交差する地点が、再度山の山麓に位置することを見出したと考えられます。言い方を変えれば、その場所は、剣山と伊弉諾神宮、石上神社の巨石、そして伊勢神宮や石上神宮などの古代聖地全部を紐づけた、極めて重要な位置にあったのです。それ故、その岩場は聖なる霊場と定められ、神を祀る磐座として特別な意味を持つようになったと推測されます。
これらの背景を学んだ空海にとって、大龍寺の奥宮裏に祀られている磐座は、思い入れの深い場所になったことでしょう。何故なら、空海の故郷である讃岐の地から崇めつつ仰ぎ見ていた剣山をはじめ、国生みの原点となる伊弉諾神宮、神宝が収蔵されている伊勢神宮と石上神宮など、自身が深く敬愛した数々の聖地も、この再度山の磐座と地理的に紐付けられていることを見出したからです。
再度山は複数の聖地が持つ「地の力」を結集する、極めて重要な地点だったのです。だからこそ空海は、そこに亀の像を彫り、後世に何かしらメッセージを残そうとしたのではないでしょうか。そして、その亀に込められた意味を解き明かすことにより、歴史の奥に潜む謎が紐解かれることになります。

太龍寺 大師堂
大龍寺奥の院の磐座



石上神宮の本殿
伊弉諾神宮の本殿
秦氏は何族?
秦氏はおそらくユダ族と考えられます。ユダ族はヘブライ語で「イェフダ」、יהודה、といいます。「ヤフダ」とも聞こえ、その発音は「ヤハタ」とほぼ同一であることから、秦氏が建立した八幡神社の語源と推測されます。また、 ユダの民は「イェフディ」、 יהודי、yehudi、とも言います。それ故、「ヤハタ」とは、イスラエルの王系、ユダ族を指していると考えられます。秦氏が秦の始皇帝との姻戚があるならば、なおさらのことです。これまで学者らが秦氏はユダ族、と声をあげて言えなかった理由は、日本に渡来したのは失われた10部族であり、ユダ族、ベニヤ民族は含まれてないという説が、広く流布されてきたからに他なりません。ユダヤ系学者にとって、日本に渡来したのはその10部族のみ、という強い信念は古くからあり、これまで議論の余地もなかったのです。よってそれらの学者は「ヤハタ」の語源を、ヘブライ語で「ヤー・エハッド」、「唯一の神」と解釈し、その説を広めてきたのです。自分たちがユダ族の末裔であり、日本にはその末裔はいない、という気持ちは察することはできます。しかしながら「ヤハタ」はユダ族を意味する「ヤフダ」が普通に訛ったものと考えるのが自然です。つまり、南ユダ王国の民も日本に渡来してきており、秦氏がユダ族であっても、また、皇族がユダ族であっても何ら不思議はないのです。よって、神社にはユダ族の象徴である獅子が置かれているのです。