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2026/07/01

平仮名のルーツに迫る ‐総集編‐ ひらがなが創案された背景を検証

平安時代に創作された平仮名の歴史

現代の日本語は、漢字、平仮名、片仮名、そして時にはローマ字も含む複数の文字体系を組み合わせて表記されています。漢字は中国に由来する文字であり、ローマ字も海外から伝来した文字であることはよく知られています。これら2種類の外来文字に対し、平仮名と片仮名は漢字をもとに日本で創作された文字と考えられており、日本独自の文字として平安時代から存在したというのが通説です。しかし平仮名と片仮名は同じ発音の表音文字であるにもかかわらず、なぜ2種類の仮名が作られ、それぞれが今日まで漢字と併用され続けているのでしょうか。この点を不思議に思われる方も少なくないでしょう。しかも、これらの仮名文字は、時代の変遷とともにその用いられ方が大きく変化してきたのです。

平仮名は日本固有の文字として万葉仮名に取って代わり、広く普及していきました。平安時代には、和歌や歌謡、女流文学などにおいて広く用いられ、日本語を書き表すための重要な手段となりました。当初は漢文や漢字主体の文章を補うために使われていましたが、やがて作者たちは平仮名を漢字と組み合わせて、自由に文章を綴るようになります。平仮名が急速に普及した背景には、日本語の発音や文法をより自然に表記したいという長年の要望がありました。そして平仮名は単なる補助的な文字にとどまらず、単独でも文書を記すことのできる文字として受け入れられ、日本語表記を支える重要な文字体系として定着したのです。

平仮名は学校教育において、最初に学ぶ日本語の文字として重視されています。もともと字母表にまとめられた仮名の数は、「いろは」47字にヤ行の「え」を加えた48字で構成されていました。そのため、平仮名を「いろは」に基づいて学ぶ時代は長く続き、近年まで多くの辞書においても、仮名文字は「いろは」順で並べられていました。明治時代になると、小学校令施行細則においてヤ行の「え」が、「ん」に置き換えられて字母表として整理されました。さらに戦後は、五十音図による表記を用いて平仮名が学ばれるようになりました。

しかし、平仮名が日本語表記の中心となったのは比較的最近のことです。戦前の公文書や出版物を見ると、むしろ片仮名を漢字と併用する表記が広く用いられ、片仮名が日常的な文章表記において重要な役割を担っていました。当時の国語教育においても、片仮名の読み書きを基本としていたことが、教科書や教育資料からうかがえます。実際、明治時代に編纂された最初の国定国語教科書である「尋常小学読本」の編纂趣意書には、「児童ノ学習シ易キ片仮名ヨリ入リタリ」と記されており、日本語の読み書きは、まず片仮名から学ばせるという教育方針が示されていました。片仮名は直線的で簡潔な字形を持つことから、教育的な観点からも学習しやすい文字と考えられていました。実際、多くの子どもたちは最初に片仮名を学び、その後に平仮名を「いろは」に沿って習得していたと考えられます。

このような片仮名を主体とした日本語教育の流れは、戦後、大きく転換していきます。それまで主流となっていた片仮名主体による表記が、平仮名主体の表記へと置き換えられ、広く用いられるようになったのです。こうした変化の背景については、教育改革や国語政策の見直しをはじめ、さまざまな要因が指摘されています。そのひとつとして、戦時中の公文書や勅令などに片仮名が多用されたこととの関連を指摘する見方もあります。戦後社会が新たな時代への転換を模索するなかで、従来の表記慣習が見直されたのかもしれません。平仮名は曲線的な字形を持つことから、片仮名に比べて柔らかく親しみやすい印象を与える文字として受け止められるようになったとも考えられます。そのため、五十音図による平仮名教育の普及は、新しい時代の幕開けを象徴する役割も果たしたのです。

こうして時代の流れとともに、仮名文字の中心的な役割が片仮名から平仮名へと移り変わっていきました。それにしても、なぜ、日本には片仮名と平仮名という類似した2種類の表音文字が存在したのでしょうか。その謎を紐解くためにも、まず仮名文字のルーツとされる漢字文化が、どのように日本に伝わり、受容されていったのかについて、振り返っていきましょう。

仮名文字の土台となる漢字文化の発展

日本に漢字が紹介されたのは、古墳時代の中期にあたる5世紀から6世紀にかけてと言われています。しかし2~3世紀、邪馬台国の時代には、すでに中国からの使者が倭国を訪れていたことが中国史書に記載されています。実際にはそれ以前から、朝鮮半島を経由して多くの渡来者が日本に渡来していたと考えられており、その中には中国で教育を受けたとされる秦氏らも含まれていました。それゆえ、漢字そのものは、遅くとも1~2世紀頃には日本列島にもたらされていた可能性があります。いずれにしても漢字文化は徐々に古代の日本社会へ浸透し、飛鳥時代から奈良時代にかけては、「古事記」や「日本書紀」に見られるように、中国語の文法や表現を基礎とした漢文が日本における文字表記の主流となっていきます。高度な文明を有する中国の影響を受けることにより、漢文を学び、それを読み書きする文化が発展していったのです。

このような大陸由来の文字文化を日本へもたらす原動力となったのは、言うまでもなく中国大陸から朝鮮半島を経由して日本に渡来した人々でした。漢文が日本に導入される過程で、すでに漢字を自在に使いこなしていた渡来者の影響は大きく、渡来系の学者や書記官の存在は古代日本文化の発展において重要な役割を果たしました。それらの渡来者の中には、秦氏のように中国大陸で高度な教育を受けた人々も含まれていました。また、長い年月をかけて大陸を東へと移動し、日本へ渡来してきた西アジアからの移民も存在していたと考えられます。こうして大陸の文化が積極的に受容される中、それまで文字文化が十分に普及していなかった日本では、中国語を規範とする漢文を理解し活用するために、漢字を習得することが急務となったのです。そして、支配層においては漢文を習得した書記官や学識を備えた学者が重用され、彼らによって国家統治や文化形成に多大なる影響を与える文献が編纂されていくことになります。

また、漢字が日本に紹介されたのが4世紀前後という定説を前提として考えれば、それから仮名文字が成立した平安時代までに、少なくとも500年という長い年月が経っていることにも注目です。この長い年月こそが、漢字文化が日本に伝来した後、直ちに日本語に適した独自の文字体系に移行する必要がなかったことを示しています。長期間にわたり漢文が用いられ続けた背景には、漢字や漢文に精通した渡来系の学者や書記官の存在がありました。古代日本の文化形成や文書行政は、こうした知識層の担い手によって支えられていたと考えられます。

長期にわたる漢文文化の受容は、渡来者が古代日本社会の中で重要な役割を果たしていたこと、そして日本社会と渡来者との間に、単なる異文化接触を超えた人的・文化的な結び付きが存在していた可能性を示唆しています。少なくとも、漢字や漢文は外来文化として排斥されることなく、日本社会の中枢で受け入れられ、長い年月をかけて日本独自の文化へと昇華されていきました。その背景には、渡来者と在来社会との継続的な交流と融合があったと考えることもできるでしょう。

漢字を日本語に適応させ、日本語を表記するための文字体系として発展させる本格的な動きは、奈良時代から平安時代に至るまで顕著には見られません。このことからも当時の渡来者と倭人との間には、明確に区別できるような人種的・文化的な隔たりがそれほど存在しなかったのかもしれません。一方で、継続的に渡来者が流入する中で、漢文は次第に社会の中で重要な位置を占めるようになり、深く定着していったと推測されます。それは、漢字文化を持ち込んだ渡来者たちが古代文化の形成に貢献しながら列島社会へ同化していったことを意味します。渡来文化そのものが列島へ流入し、日本文化の一部として取り込まれていく過程は、日本語の文字の歴史からも読み取ることができます。

漢文で書かれた「日本書紀」と「古事記」

中国の漢字文化と古代日本の漢字文化が深く関わっていたことは、日本最古の文献として名高い「古事記」や「日本書紀」が漢文で記されていることから理解できます。「日本書紀」は720年、奈良時代に天皇の命を受けて編纂された日本最古の正史です。史書の記述によれば、これ以前にも聖徳太子が著したと伝えられる複数の文献が存在したとされています。しかし、これらの書物はすでに失われており、その内容は現在も明らかではありません。

「日本書紀」は、高度な漢字文化に通じた渡来系の書記官や学者らの手によって書き綴られたものと考えられています。一般には日本語要素を含む漢文で記された史書として受け止められがちですが、実際は、ほぼ中国語として理解できる格調高い漢文体によって記されていると評価されています。そこに用いられている語法や修辞上の対句などは中国の古典的な文章様式に忠実であり、倭習と呼ばれる日本語的な漢文表現は最小限に抑えられています。こうした特徴から、「日本書紀」は古代日本で編纂された史書でありながら、漢文文化の伝統を色濃く受け継ぎ、本格的な漢文体に近い形で記された文献と言えます。

現存する日本最古の歴史書として知られる「古事記」は、712年に朝廷へ献上されています。「日本書紀」と並ぶ古代文献ですが、その表現方法は「日本書紀」とは異なる特徴が見られます。「古事記」も「日本書紀」と同様に漢文で記されていますが、その文体は中国語的な要素と日本語的な要素が複雑に融合しています。

特に「古事記」では、日本語の影響を受けた漢文表現である倭習の傾向が「日本書紀」よりも強く見られます。古代からの伝承と考えられる歌謡や固有名詞など、漢文での表記が難しい箇所においては、一字一音の表記が用いられています。例えば、古事記では大和国を意味する「やまと」を「夜朝登」、「あめつち」は、「阿米都知」と表記されています。

「古事記」の解釈が難しいことは、編纂者である太安万侶が序文で述べている言葉からも窺えます。太安万侶は、意味を重視して訓で記せば「詞不逮心」、つまり言葉が意図を十分に伝えきれず、また、音をそのまま写せば「事趣更長」、すなわち文章が長くなると記しています。実際、「古事記」は中国語的要素と日本語的要素が融合した独特の文献であり、その解釈は容易ではなく、訓読みすることによって理解できる箇所がある一方で、音読みでしか理解できない歌謡などの表現も数多く含まれています。そのため、「古事記」を読み解く際には、さまざまな角度から解釈していく必要がありました。

このような「古事記」の存在は、古代日本において漢字文化が受容される過程を示す貴重な資料とも考えられます。すなわち、長い年月をかけて漢字本来の音読みを受け継ぎながら、日本語本来の語彙や表現に対応する訓読みを発達させ、漢字の日本語化が進められ、日本独自の文字体系が実現したことを示す証でもあるのです。

文字の日本語化を先駆した万葉仮名

その後、日本語での発音をわかりやすく表記する手段として、漢字そのものを音仮名として用いる試みが始まりました。それが遅くとも7世紀には用いられ始めた万葉仮名と呼ばれる表記法の発端となります。漢字が日本列島に普及し始めてから長い年月を経た平安時代において、漢文を難なく読みこなすことができる学者は、多くは存在しなかったことでしょう。また、中国語を基盤にした漢文では、日本人の思いや感情を正確に伝えられないことは明らかでした。それゆえ、漢文を日本語として理解しやすくする努力がなされるにつれて、日本語の読みを明確にするため、万葉仮名という手法が用いられ始めたのです。

しかし、依然として漢文表記が主体であったため、万葉仮名の活用には限界がありました。漢字と万葉仮名による文章を理解するためには、多くの漢字を習得しなければならず、しかも漢文の影響が強い文章ほど、その内容を理解することは容易ではなかったのです。また、万葉仮名は日本語を書き表すための補助表記として有効だったものの、漢文主体の文章構成と漢字の理解を前提とするものでした。そのため、万葉仮名を多用して日本語表記を補っても、それだけでは十分な日本語化を実現することは難しく、中国の文字文化に大きく依存した状況から脱することはできませんでした。このような状況の中で、日本独自の文字文化を確立する必要性が徐々に認識されるようになったのではないでしょうか。

特に、日本語の特色である活用語尾や、「いる」「ある」などの助動詞、また「てにをは」に代表される助詞を書き記す必要性にも迫られ、漢字の文章だけではどうしても日本人特有の感情や信条を十分に書き表すことが難しかったのです。「てにをは」の語源は、漢文を読む際の補助となる四隅に記載されたヲコト点(乎古止点)であることからしても、漢文を解釈する際の補助がいかに重要であったかがわかります。

万葉仮名の普及は、漢字に付随する文字の活用法の限界や不便さを知らしめる結果となり、いつしか日本語を表記するに相応しい日本独自の文字創作の重要性が再認識されることになります。万葉仮名の字形は、基本的に元来の漢字と同じではあるものの、文字を書き記す際の手間を減らすため、より速く簡潔に書けるよう工夫が重ねられました。その結果、万葉仮名の字形は少しずつ崩され、やがて日本固有の文字として徐々に形を表して創作されたのが仮名文字です。

古代日本に持ち込まれた異国の文字文化

古代社会において、日本固有の文字体系の誕生は、多くの識者たちの願いでした。やがて奈良時代から平安時代にかけて仮名文字が台頭し、日本の文字文化は大きな転換期を迎えます。一般的には、まず平安時代に平仮名が考案され、その後、漢字の一部をとって片仮名が作られたと考えられています。また、漢字が日本列島にもたらされてから、仮名文字が創案されるまでの5世紀以上に及ぶ長い年月の間には、漢字以外にも大陸由来の文字文化が紹介された可能性があります。弥生時代後期以降、膨大な数の渡来者が日本列島を訪れていたという史実を振り返るならば、中国由来の漢字だけでなく、それ以外の文字文化も日本列島に持ち込まれた可能性は十分に考えられるでしょう。

中国大陸から渡来者の波が押し寄せる以前から、日本列島にはすでに独自の文字文化を有するイスラエル系の人々が居住していたとする説があります。列島北部を中心に居住していたアイヌ系民族の存在は広く知られていますが、それらの先住民族に加え、前7世紀頃より北イスラエル王国や南ユダ王国からイスラエル系の人々も渡来してきた可能性が考えられます。当時のイスラエルでは、西アジアにおいて長年培われてきた高度な文明が発達していました。それゆえ、彼らの渡来とともに西アジア由来の文字文化が日本列島にもたらされ、日本語表記の礎になったと想定しても、何ら不思議はありません。

イスラエル系の渡来者が古代、日本列島に到来したと仮定するならば、日本の識者たちは彼らやその末裔が用いたと創案する施策が考えられたのではないでしょうか。実際に片仮名の文字形状とヘブライ文字や古アラム文字を比較検証すると、多くの類似点が認められ、このことが、本説を支持する根拠のひとつとされています。

子音と母音から成るヘブライ文字は、日本語の「アイウエオ」に類似する母音を持つため、日本語の発音をそのまま書き記すことのできる文字体系であったと考えられます。実際、ヘブライ文字や古アラム文字を用いれば、「アイウエオ」の母音を付加するだけで、日本語の発音に準じた表記を実現することが可能でした。それゆえ、日本語を比較的容易に表記できることに気付いた古代の識者たちは、それらの文字体系を日本語に応用し、仮名文字の創作を試みたのではないでしょうか。そして、漢文に代わる日本語表記のための新たな文字体系として、西アジア系の文字を応用した表記法が整えられ、やがて片仮名として知られるようになり、遅くとも平安時代には公的に活用されるようになった可能性が考えられます。

片仮名の誕生と普及した背景

中国大陸からの大勢の渡来者が朝鮮半島を経由して九州方面から列島に移住し、時代が大きく移り変わり始めた2~3世紀以降、漢字のみを活用した漢文が、渡来系の学者を介して支配階級層に急速に広まっていきました。古代日本において漢字が普及した理由は、次々と大陸から訪れる渡来者の多くが漢字文化圏の出身であり、流入する文化が中国大陸の影響を大きく受けていたからでしょう。そして、それらの多彩な大陸文化は早くから列島各地に紹介され、中国語による漢文は奈良時代から平安時代にかけて浸透していきました。

また、公文書は漢文で書くことが慣例となっていたこともあり、支配階級にとって政治や文化を語る際には不可欠なコミュニケーションの手段となったのです。実際には当時の支配階級の多くが中国語を理解する渡来系の人々であったと想定されるため、政治に関わる書簡や記述、そして学問の修得などが全て漢文により執り行われることは、当たり前のように考えられていた時代でした。つまり、渡来者の影響を多大に受けた古代の日本社会では、漢文が一種のステータスシンボルとして定着し、日本語独自の表音文字を早急に考案する必要性に迫られることはなかったのです。

このような背景の中、片仮名が誕生した背景は定かではありません。古代社会において、漢字の文字形を参考に創作されたと言われている片仮名は、ごく自然に読み書きできる文字であり、誰でも覚えやすいシンプルな文字形でした。しかしながら、漢文が普及し始めた結果、中国を超えてさらに西アジアの地域で育まれたヘブライ文字や古アラム文字を参考に創作されたと考えられる文字の存在は、歴史の表舞台にその姿を現すまでには時間を要しました。

平安時代、平仮名の体系が考案されて普及されるにつれて、いつしか同等の体系を持つ片仮名も公の場で用いられ始めるようになります。そして当初は漢文訓読の補助的な役目を担う文字として、急速に普及していったのです。片仮名は日本語の表音文字として漢字表記に融合し、漢字だけでは成し遂げることのできなかった文章の日本語化をおおむね実現するようになります。その後、片仮名は公文書だけでなく、さらに、学問やさまざまな研究分野文献にも広く活用されました。こうして漢字に片仮名を交えた文章表記は日本語表記の基本として、平安時代から鎌倉、室町時代を経て、近代の明治時代、戦前にまで継承されていきます。

平仮名の創作手順とは

平仮名のルーツとなる古ヘブライ・アラム文字
(表1) 片仮名のルーツとなるヘブライ・古アラム文字
※片仮名が創案された時代に用いられていたと考えられる
ヘブライ文字、古アラム文字を網掛けで表記しています。

ではどのようにして平仮名が創作されたのか、具体的にその過程を想定してみましょう。平仮名は、片仮名との差別化を図り、日本に土着する文字として独自性を打ち出すことを目標とした文字です。一方、片仮名は日本語の発音を表記する必要性から生まれた文字であり、ヘブライ文字や古アラム文字を参考にして、その文字形が考案されたと考えられます。文字の形状からして、片仮名がこれら西アジア系の文字をベースにして考案されていることは明白ですが、それだけに、不必要な民族的感情を煽る危険さえ孕んでいました。

それゆえ平安時代初期、平仮名を創作するにあたっては、文字ルーツが表立ってわからないような工夫が施されたことでしょう。そして片仮名とは一線を引くために、同じ西アジア系の文字でも、当時の世代により近い前1世紀の死海文字や、その数世紀後に古アラム文字が進化して普及したパルミラ文字も参照されたと推測されます。これらの文字は、それまでのヘブライ文字や古アラム系文字とはその形状が若干異なり、特にパルミラ文字は大胆な曲線が印象深く目に映ります。こうしたさまざまな文字形状を参考にして、その母音と子音を組み合わせるなどの工夫を加えることで、片仮名よりも丸みを帯びた、流線型の文字を象ることができたと考えられます。

このようにして完成した平仮名は、片仮名の文字形状を参考にしながら外来の子音文字を日本語の発音に応じて選択し、その文字の角度や大きさを変えたり、位置をずらしたり、また時にはそれらの文字を重ね合わせたりしながら創作されました。すると最終的な仮名文字の形状は、片仮名の形状が面影として残る文字も見られるものの、大半は、かつて類を見ない独特なものとなり、原型とされた西アジア系の文字とは、大きく異なる文字形となったのです。卓越した文字デザインの工夫を凝らし、草仮名も参照して考案されたと考えられる平仮名は、一見、万葉仮名を崩して創作されたように見えます。しかしその実態は、片仮名の形状と見比べながら、ヘブライ文字と古パルミラ文字の要素を取り入れて作りあげられた文字体系の結晶だったのです。

平仮名成立過程の推測 ※子音と母音は古ヘブライ文字とパルミア文字から選別
平仮名成立過程の推測
※子音と母音はヘブライ文字とパルミア文字から選別

平仮名と片仮名が共存する理由

片仮名と平仮名、そして漢字が古くから共存し、その利用価値において競合することがなかったのは、それぞれが異なる目的を持ち、用途が明確に分かれていただけでなく、それらの文字を利用する文才家の出自や性別も異なっていたからと考えられます。和の柔らかいイメージを持つ丸みを帯びた平仮名は、日本独自の優しい表記方法を目指し、特に漢文とは縁の薄い非支配階級や一般の知識層、及び女性に多く用いられました。そして多少の漢字を交えながら、日本固有の和文で書かれた日記や和歌、物語などに積極的に用いられ、手紙などの私的な文章にも広く用いられました。こうして平仮名は、漢字の存在に制約されることなく、日本語を美しく、繊細な感情までも直接的に表現して書き綴る手段として発展し、日本語の文字文化の在り方を一変させることになりました。やがて平仮名は、日本固有の文字として文学や庶民の世界で自由に用いられていくことになります。

しかしながら、平仮名が創案されたからといって漢字を不要とする理由はなく、それに取って代わる文字が望まれた訳でもありませんでした。漢字は日本と中国を結ぶ文化交流の基盤であり、漢文による文字文化から始まった日本の文明の中核として、大陸文化の象徴でもありました。そのため、漢字は捨て切ることができない貴重な存在となっていたのです。しかも古代社会においては、仮名文字が普及する以前の長い期間、文書そのものが公用語である漢文中心に形成され続けてきました。その結果、漢文の伝統を踏襲することが、政治や学問の世界では不可欠なものとなっていました。つまり、漢字はすでに日本の文字文化に深く根付いていただけでなく、その利便性ゆえに執筆者が大きく依存する存在になっていたと考えられます。

漢字の重要性については、片仮名と併用された歴史を振り返ってみても理解することができます。古代より、片仮名を使用する際には漢字を尊び、漢文の流れに制約されながらも、漢字と片仮名を交えながら文章形成に用いられ続けました。そして漢字と片仮名を併用する書き方が普及した結果、それがいつしか公文書の形式として定着し、長年にわたり広められていったのです。片仮名は、その力強い文字形の印象もあって、特に学問や政治の世界で頻繁に使われるようになり、公文書においては戦時中まで広く使用されることになります。

戦後になると、1946年(昭和21年)には現代仮名遣いの前身となる1850字の当用漢字表が交布され、1948年(昭和23年)には当用漢字音訓表が制定されました。漢字文化が日本に紹介された古代からの歴史の流れの中で2000年近くの年月が経ち、今日私たちが理解する日本語表記の基礎が、初めて国家により体系的に整備されたのです。

仮名文字のルーツを再検証する

平仮名は、漢字に由来する万葉仮名が長い年月をかけて崩されながら成立した文字である、というのが現在の定説です。しかし、漢字由来説だけでは説明しきれない部分も残されています。平仮名の字形を古代西アジア系の文字形を比較、検証すると、類似する文字が数多く見受けられるため、新たな視点として検討してみました。すると、ヘブライ文字や古アラム文字を組み合わせたり重ね合わせたりすると、不思議なことに平仮名に酷似する事例が少なくないことがわかってきたのです。こうした類似性を偶然の一致としてみなすこともできますが、一方で、平仮名の成立過程において、西アジアの文字体系が何らかの影響を与えた可能性について検討する余地がありそうです。

この仮説は、平仮名が漢字を用いた万葉仮名から草仮名を経て、自然に成立したとする従来の定説とは異なる視点を提示するものです。しかし、それは漢字との関係を否定するものではありません。むしろ、漢字を崩しながら草書体が形成される過程において、ヘブライ文字を中心とする西アジア系の文字体系が参考にされ、その相互作用の中で最終的な字形が整えられた可能性を考えるものです。こうして、平仮名のルーツには漢字だけでなく、ヘブライ文字や古アラム文字なども関わっていたと想定することにより、これまで説明が難しかった文字形の成り立ちに新たな解釈が可能となり、平仮名成立の歴史を捉える視点が大きく広がります。

奈良、平安時代には、大陸との文化交流も活発になり、漢字による文献が知識や文化の中心を占めるようになりました。しかし、漢字は本来、中国語を表記するために発達した文字であり、日本語を表すには必ずしも適した文字体系ではありませんでした。そのため、日本語の音韻に即した、より実用的な表記法への需要が高まっていたと考えられます。こうした時代背景のもとで新たに整えられた仮名文字は、日本語の音声を表記しやすく、習得もしやすかったことから、比較的短期間のうちに広く普及していきました。もし、平仮名成立に西アジア系文字の影響が存在したとすれば、その成り立ちは従来考えられてきた以上に国際的で、奈良、平安時代における多様な文化交流の産物であったことになります。平仮名の字形を創案するに当たり、漢字だけでなく、西アジア系文字の要素も取り入れられていたと想定することにより、仮名文字は東アジアと西アジアの文字文化が融合して生まれた文字であるという、新たな歴史像が浮かび上がってきます。

平仮名が、ヘブライ文字、古アラム文字、及びパルミラ文字などの西アジアの文字文化を参考に考案されたという説の利点は、文字形成の過程を無理なく、ごく自然に説明できる点にあります。これらのアルファベットの字形と、母音の形状を組み合わせて文字を創生することで、現在の平仮名に極めて近い形へと自然にたどり着くことができます。一方、漢字ルーツ説では、原型とされる漢字と平仮名の字形に大きな隔たりがあり、その変化の過程を説明するためには、複雑な文字加工を想定しなければならない事例が少なくありません。また、同じ発音と類似した形状を持つ漢字が複数存在することから、漢字の選択基準も曖昧になりがちです。

これまで平仮名は、漢字を崩して作られたことがあたかも通説であるかのごとく語られてきましたが、西アジア系文字との比較検討を進めると、実はその根底には、ヘブライ語をはじめとする西アジアの文字文化が息吹いていたと可能性が浮かび上がってきます。この仮説が妥当であるならば、平仮名の起源を理解する視点は大きく広がり、日本の文字文化の形成過程を新たな角度から捉え直すことができるでしょう。

日本語のための文字を求めた空海

もし、平安時代に創案されたと言われる平仮名の文字創生が、ヘブライ文字、古アラム文字、あるいはパルミラ文字に起因しているとするならば、それは古代日本に、それらの文字体系に精通した学者が存在していたことを意味します。遣唐使も盛んに往来した時代であり、大陸を通じて西方の知識に触れる機会は皆無ではありませんでした。また、日本国内においても、古代イスラエル系集団の存在を想定するならば、ヘブライ語の知識が一部の家系に継承されていた可能性も考えられます。

さらに、平仮名の創作者と「いろは歌」の作者が同一人物であった可能性も否定できません。「いろは歌」に込められたとされる折句や暗号的構造は、平仮名の体系そのものに深く通じた人物でなければ構築し得なかったはずです。しかも、その折句の中には、聖書に書かれている内容を知らなければ綴ることのできない、大切な宗教的なメッセージも含まれていたのです。それゆえ、「いろは歌」と平仮名の背景には、同じ大陸文化の源流が存在していたと考えられます。

こうした歴史的背景を踏まえるならば、平仮名創作の背後にいた「マスターマインド」として、まず想起される人物が弘法大師、空海です。空海は遣唐使として大陸に渡り、広範な言語知識と宗教思想を学びました。また、ネストリウス派のキリスト教である景教に接して聖書を学んだ機会があったと考えられ、阿刀氏の出自であったことから、もし同氏族に古代イスラエル系の伝承が存在したとすれば、ヘブライ文字や古アラム文字、パルミラ文字などの文字体系に接していた可能性も想定できます。それらを習得した後、平仮名を創作し、それらは「いろは歌」にまとめられ、そこに信仰に纏わる折句さえも含めることができたのではないでしょうか。

今日、空海が創作者であるという説は、平仮名、「いろは歌」ともに、多くの学者によって否定されています。しかし、もし平仮名の字形の背後にヘブライ文字やアラム文字との対応関係が存在するのであれば、古来より伝承されてきた「空海創作説」を再検討する余地が生じるかもしれません。

平仮名は空海によって、ヘブライ語、アラム語やパルミラ語のアルファベットから、日本固有の表音文字群となるべく創作され、主に詩や歌などの文献を書き綴り、後世へさまざまなメッセージを書き残し、継承するために、漢字と併用しながら普及されることが願われたのでしょう。その目的を達成する手段の一つとして、空海は「いろは歌」を創作し、その歌の中に暗号文として、信仰の道に通じる折句を込めたのです。つまり、全ての日本人が平仮名を学ぶ際に「いろは歌」を口ずさむことにより、知らずと神を誉め称えるように仕向けたのです。平仮名と「いろは歌」の背景には、日本固有の文化を愛し、神への信仰をまっとうせんがための、空海特有の美学を窺うことができます。

コメント
  1. 鈴木 通晃 より:

    大変興味深く拝読いたしました。
    これまで読んだ中でも、もっとも分かりやすく信憑性と根拠を明確に示されていて、勉強になりました。
    京都在住ですが、ユダヤ系の痕跡がたくさんあり、なぜここまで伏せられているのか疑念が深まります。
    ぜひ一度情報交換させていただけると幸甚です。

  2. 天久清栄 より:

    素晴らしいですね、できましたら、一般販売はあるのでしょうか。よかったら買いたいと思います。いろはにほへと、ひらがなの成り立ち。

  3. 小栗判官 より:

    素晴らしい論文で心から尊敬の念を抱きます。益々頑張って下さい。お疲れ様でした。

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