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アジア大陸と日本列島を結ぶ陽城レイライン

古事記や日本書紀に記載されている国生み神話によると、日本国家の起源は淡路島から始まっています。神話という言葉の通り、ごく一般的には史実として受け止められることなく、単なる昔話のような感覚で捉える方が多いようです。しかしながら、古代人の視点に立って日本列島の地勢を見つめ直していくうちに、何故、東アジアの海の向こうに浮かぶ島々が重要視され、中でも淡路島が国造りの原点として選ばれたのか、その理由が見えてきます。記紀に記された古代史における淡路島に纏わる話は、単なる神話として終始するような空想話ではなく、古代人の優れた地勢感の元に、特別な位置付けを持つ場所として選別された結果であり、日本列島各地には淡路島を基点として、そこに紐づけられた重要拠点が多々存在するのです。それらの中には古代の集落、主要港、名山、そして著名な神社等が含まれることからしても、淡路島が重要な指標となっていたことを知ることができます。

それら考察方法の根底に息吹く手法がレイラインです。一般的には、一直線上に並ぶ遺跡群を指すことが多く、その線の位置、角度に特異性を見出すことも少なくありません。古代日本のレイラインは、そのような直線的に並ぶ建造物、すなわち人間の手で造られた造作物だけでなく、山や岬、湖など、列島の地勢そのものに含まれる自然の姿そのものも含めて、レイラインを構成する拠点としています。その背景には、日本列島がアジア大陸の東方に結集しているだけでなく、その細長く繋がる島々の群れには、無数の際立つ大自然の美が宿っていることが挙げられます。それ故、自然の指標と、人間の手がかけられた造作物、双方を巧みに用い、列島の地勢を十分に踏まえながら、古代日本のレイラインが考察されたと推定されます。

古代日本のレイライン上には、高山や岬を含む多くの自然の地勢だけでなく、古代の民が神を礼拝する場所として聖地化した祭祀場や神社が多く含まれます。それらのレイラインは、それぞれが不思議な特異性に基づく繋がりを誇示し、更にレイライン同士が紐づけられて、連結しているのです。そしてそれら多くのレイラインが交差する中心点が淡路島でした。多くの古代日本のレイラインが淡路島を通過していることは注目に値します。それ故、淡路島を起源とする国生みの在り方を再考し、その背景に潜む古代日本レイラインと照らし合わせることにより、列島に渡来した古代人の渡航経路や地理感、神社や史跡同士の繋がりや、その由緒等を、理解するための手掛かりとなります。

そこで、日本列島にて育まれた古代社会の地理的な集落拠点の位置付けと重要性、そして古代人の目に映った日本列島の姿をより良く理解するために、まず、日本列島を目指してアジア大陸より渡来してきた古代人の渡航経路を、昨今のDNA研究の成果をベースに振り返りながら見直すこととします。そして、アジア大陸と日本列島の繋がりを古代の切り口から理解する切り札となる「陽城のレイライン」に注目し、更に日本列島でこれまで発見された古代のストーンサークルにも焦点を当てながら、古代の渡来者が持つ英知の一部を、これらの指標から浮かび上がってくるレイラインやストーンサークルの不思議から、考察してみましょう

DNA研究が証する古代人の渡航経路

日本列島には、世界でも屈指の長い歴史の痕跡が随所に刻まれています。しかし、その歴史の主人公である私たちの祖先が如何にして列島に渡来し、古代文化の礎を築いたのか、手掛かりとなるデータは多くは存在しません。それ故、ごく一般的には弥生人と、それに遡る縄文人の存在に至る時代について、およその定説が存在する程度であり、実際には弥生人の出自だけをとってみても、見解は様々に分かれます。また、それより遡る時代になると更に、学説は多種多様に異なり、これまで学校教育の場でも多くは語られずにきたのです。しかしながら昨今の遺跡の発掘調査やDNA研究の成果により、古代の民がいつ頃、どこから日本列島を訪れ、どの地域に定住したか、ある程度の目安をつけることができるようになりました。

元来、日本人の祖先はアフリカで育まれた人類の集団の一部が、東南アジア周辺を経由して日本列島に渡ってきたと考えられています。それらの民は、北からはシベリア、樺太や朝鮮半島、南からは南西諸島など、複数の渡来航路を経由して、遅くとも3−5万年前には列島に移住し、縄文時代人の祖先になったとこれまで推定されてきました。全国4000ヶ所以上の場所から発見されている旧石器時代の遺物からも、先史時代における列島の住民が各地に散在していたことが窺えます。種子島の横峯遺跡からは、約3万年以上前の調理場跡も発見され、岩手県金取遺跡は5-9万年前、出雲の砂原遺跡はおよそ7-12万年前という推定の年代が公表されています。しかし原始時代の石器は自然石との見分けがつきにくく、それらの年代を特定することも容易ではないことから異論も多いようです。いずれにしても3-4万年前までの遺物は確認されており、旧石器時代には日本人の祖先となる人々が列島に存在していた史実を知ることができます。 しかし昨今のDNA研究の進化に伴い、南西諸島を経由する渡来経路が、より重要視されてきたのです。DNA分子人類学による検証からは、日本人のルーツをより良く理解するヒントが与えられ、人類学的にはモンゴロイドに分類される日本人の祖先となる集団ルーツについて、真相が序々に明らかにされていく過程にあります。まず、ミトコンドリアDNAによる系統分析からは、琉球諸島と北方のアイヌには多く見つかるものの、本州には少ないとされる、日本人特有のグループが見つかっています。このグループは、アジア大陸の北方から南下したのではなく、台湾付近、琉球界隈から日本列島を北上してアイヌまで至ったと考えられるのです。つまり、本州をおよそバイパスして北海道方面にまで北上し、琉球と相対するごとく、南北の二手に分かれたと推定されるのです。そのミトコンドリア母系の分析とは別に、父系Y染色体の系統分析の研究も進められています。その結果、Y染色体の中でも非常に古い系統であり、しかも地中海沿岸や中東に広く分布するグループのものと同じ染色体が、日本人の中には濃厚に存在することがわかってきたのです。このグループはYAPハプロタイプとも呼ばれるD系統に属し、中近東の人種と同じ仲間です。

これらの研究成果から、日本列島に渡来した古代人とは、アジア大陸の西端、地中海周辺にルーツを持つ人々であった可能性が指摘されるようになりました。その古代西アジアの民は大陸を東方面に移動し、台湾から更に海を渡り、琉球地方を訪れたと考えられるのです。そして、琉球地方から北方アイヌへ向けて移動を続ける民も存在し、いつしか琉球地域に残存する民と、アイヌに向かった民とに分かれるという特徴的な分布になったと推定されます。

日本は島々から成り立っていることから、大陸からの移民は、当然のことながら舟を用いて海を渡るしか術がありませんでした。果たして古代社会において、広大な海原を渡る航海術などあったのだろうかと疑問視する声もありますが、有史においても中国の春秋戦国時代前期では、既にアジア大陸の沿岸を倭国へと向かい、今日の北九州界隈まで到来することができる航海路が確立されていたのです。そして時代を遡り、殷の時代では大陸と台湾との行き来もあったことが知られています(香港博物館編製地図参照)。そして更に古代史を遡ると、高度な文明を持つシュメール文化や古代エジプトの文明に遭遇し、そのいずれもが優れた天文学と航海術を携えていました。それ故、日本では縄文時代と言われる原始的なイメージに映る時代であっても、アジア大陸や地中海周辺においては古代の民が舟で海を旅していたことから、これらの民が日本列島を訪れたと考えることに何ら不思議はありません。

古事記や日本書記に記載されている神々の旅も、舟で海を渡るイメージのストーリーが多い理由は、それが常道手段であった古代社会の実態を反映していると言えるでしょう。それ故、アジア大陸から列島に渡る航海路も古くから存在していたと考えて間違いないようです。

世界中心の緯度を示す陽城のレイライン

古代の民がアジア大陸の東方に浮かぶ日本列島まで到来するには、島々と大陸を結び付ける何らかの精神的な指標や思いが込められていたのではないでしょうか。やみくもに舟旅を続けるのではなく、古代人の優れた地理感をもって、できるだけ居住に適した優れた新天地を探すべく、地勢が考察されたと考えられるのです。特にアジア大陸の東に存在する日本列島の場合は、東南アジア方面から大陸の海岸沿いを北上するという地理的な要因があることから、旅の緯度が重要視されたことに違いはありません。よって、古代の民はいつも、太陽や天体全体を考察しながら、旅の目的地を見定めたことでしょう。その結果、中国の陽城と日本列島を同緯度で結ぶ緯度線の存在も、いつしか重要視されるようになったのです。

古代中国の世界観によると、大地には中心があると考えられていました。中国の古書である「周礼」の大司徒職の項には、「夏至の時に8尺の棒を立てて影の長さが1尺5寸になる所」と記載されています。地上に立てられた1本の棒にできる影から、方位、時間、季節などの情報を得ることのできる中心となる場所が存在したことがわかります。そこは世界の中心となるべく「地中」と呼ばれ、古代の天文学や地勢学に精通する学者にとっては、極めて重要な観測拠点でした。

古くから「地中」は、今日の河南省登封市、古代では陽城と呼ばれた場所に比定され、北緯34度26分に位置します。そこには今日、周公観景台と書かれた石碑があり、古代中国の天文観測が行われた場所としても知られています。元朝においても授時歴の編纂をする際に、40尺もある高さの高表が建造され、学者らが天文学的にデータを見直したとことが史実として残されているように、いつの時代でも中国の天文台として、「地中」は重要な位置付けを保っていたのです。

陽城のレイライン
陽城のレイライン -アジア大陸と日本列島を結ぶ東西の基準線-

陽城が「地中」という教えは殷の時代まで遡ることができ、その後、晋書、宋書、隋書などの様々な古代中国史書の天文誌にも紹介されています。そして唐や宋の時代に至るまで、中国の首都は北緯34度26分を中心として、その南北に10分少々の誤差で収まるように「地中」を意識したかのごとく、その緯度の範疇内で首都の場所は移動を繰り返しました。例えば洛陽は、「東都賦」によれば「即土之中」に位置するからこそ、前14世紀、殷の盤庚や前11世紀に周の成王が、そこに都を置いたとしています。

しかしながら、陽城の場所が特定された背景は全くわかっていません。そもそも「影の長さが1尺5寸になる所」という基準で考えるならば、その緯度にある線上のどこでも良い、ということになってしまうのです。しかも陽城周辺には何ら目印となるような地点があるわけでもなく、単に古代中国において山岳信仰が盛んであった地域の山麓に位置します。その信仰の山は嵩山と呼ばれ、殷の時代では既に山上に祭祀場が設けられ、王朝の為の儀式が執り行われていました。後世においては王都の山として揺るぎない定評を博し、周代に至っては神の昇降する場所として民から篤く尊崇されたのです。そして陽城が「地中」と呼ばれ、世界の中心は天の中心とも考えられたことから、近隣の嵩山は天帝の下りる「降神」の場所として崇拝されるようになったようです。それ故、陽城と嵩山とは深い繋がりによって結ばれ、「後漢書」や「東観記」の記述からも、嵩山と陽城が「地中」であるという観念が、後漢代までも続いていたことがわかります。

ではなぜ、広大な中国大陸の中で、特異な地勢もなく、単に山麓に囲まれる陽城の場所が地中として選ばれたのでしょうか。大胆な発想にはなりますが、「地中」が位置する北緯34度26分は淡路島の神籬石とちょうど並ぶことから、淡路島の中心と「地中」が何らかの理由で結び付いている可能性について考えてみました。淡路島の神籬石は、アジア大陸の東方に浮かぶ日本列島のおよそ中心に位置し、淡路島そのものが、舟で海を渡る際にも航海路に見出しやすい場所にあります。四国と本州近畿地方の間に浮かぶ淡路島は、瀬戸内海の東の端にあり、また、南方から北上してくる際にも、島々の終点にあたることから、島々の中でも指標として位置付けるには絶好の場所に在りました。それ故、最初に淡路島が大陸の要所を見極める上での指標として見定められた可能性があります。

中国大陸にて陽城が「地中」として特定された背景には、淡路島の神籬石を指標とし、それと同じ34度26分の線上に、観測の中心点が探し求められたという経緯があるのではないでしょうか。縄文時代前期、日本列島に渡来した古代の民が、列島の中心地を淡路島の神籬石と定め、そこを基点として、夏至の日の出の方向に阿久遺跡の場所を定めたと考えられるように、その神籬石を基点として、アジア大陸の「地中」を同じ緯度上に見出した可能性があります。自然の地勢と天体、特に太陽や月を大切にした古代の民であり、大陸や島々は一つの巨大な「地」として考えられていた時代と推定されるだけに、淡路島がアジア大陸に結び付く指標として用いられたとしても、何ら遜色はありません。その結果、陽城のレイラインが浮かび上がってきたのではないでしょうか。この34度26分の緯度線が、「地」の指標を定めるレイラインの基線となったのです。

注意しなければならないことは、ここでは古代における日本の歴史的優位性など、全く視野に入っていないということです。あくまで淡路島の神籬石は、古代の知者らがアジア大陸と日本列島を1つの地として見渡しながら、大陸の東の端にわかりやすい指標を見出したにすぎません。淡路島を1つの指標として見出したのは、まぎれもなく大陸からの渡来者であり、それは列島が大陸の延長線に存在する絆の一部として、古代から重要視されていたことを意味しています。