重要指標が一直線に並ぶ現象は偶然か
昨今では誰もが当たり前のように活用している地図や旅の情報などが存在しなかった古代、人々はどのようにして未知の地へと旅をしたのでしょうか。海の乗り物と言えば、木造の船しか存在せず、自分の居場所さえも科学的な根拠に基づいて特定することができなかった古代、多くの島々が連なる日本列島を旅することは困難を極めたに違いありません。ところが、古代の旅人が残してきた歴史の軌跡には、卓越した地理感に基づく人々の志向性と行動パターンを垣間見ることができます。
古代の識者が携えていた天文学や地勢学の知識は、今日の常識では計り知れないほど、高いレベルに達していた可能性があります。例えば、エジプトのピラミッドや、イギリスのストーンヘンジにある環状列石とも呼ばれるストーンサークルは、遠い昔、優れた天文学や方位学、地勢に関する様々な知識を持つ高度な文明が存在していたことの証として知られています。古代の識者は太陽や星を観測しながら、特定の場所同士の位置付けや方角、距離までも識別することができただけでなく、正確な暦の考察も行われていたことがわかってきたのです。古代社会は英知の宝庫であり、大自然の検証からさまざまな経験則と知識が培われ、文明の礎が築かれてきました。こうして人類は進化し続け、近代文明が開化するまでに至りました。
天体観測から地理感を極めた古代人
とてつもない天文学の知識と経験を持つ識者が存在したと想定される古代では、天体を観測しながら情報を取集し、それらを分析したうえで地理感を極めていくことは常套手段だったようです。未知の地を旅する際には天体観測のデータをベースに、旅する方向や、距離まで見極めていたのは言うまでもありません。太陽の動き、日射の影、日の出、日の入りの方角をはじめとし、月や星、昼夜の時間などの天体事象に目が留められ、古代の民は地球の在り方そのものを学び取っていました。そして長年にわたる言い伝えにも耳を傾け、時には簡単な地図までも描いたことでしょう。こうして天体観測を極めることにより、古代の人々は信じられないほどの地理感を養っていくことになります。
古代の旅において、必ずと言っていいほど重要視された情報が、同緯度線上における拠点や指標の確認です。太陽の動きを注視しながら、真東、真西の方角を見極めることは長旅の基本情報であり、方角を定める基準線ともなったのです。それ故、同緯度線上に複数の目印や要所を定め、そこに拠点を設けること自体は決して難しいことではなく、むしろ古代では必用不可欠な策でした。例えば、山や岬のような大自然の地勢を指標として、その場所と同緯度に神社のような要所を造営することにより、その位置付けと相互の関連性を明確にすることができました。
単に同緯度線上だけでなく、同一の方角に並ぶ位置関係も、古代では重要視されました。例えば夏至や冬至の日の出、日の入りの角度が東西の緯度線よりおよそ30度離れていることに古代の民は着眼し、その角度に連なる地の指標を重要視するようになりました。何故なら、夏至の日の出を拝することは、同じ方角に位置する指標も一緒に拝することになるからです。こうして太陽や星、月を観測することにより、夏至や冬至の太陽の動きに関わる方角だけでなく、あらゆる事象を通じて地理感が培われていくことになります。その結果、複数の指標や人工の造営物が単に同緯度線上だけでなく、あらゆる方向へ直線上に並ぶように工夫されることも珍しくありませんでした。
これら自然の指標や人工の社などの拠点を一直線上に並べることに、どのような意味があるのでしょうか。答えは簡単です。まず、現地点から、他の拠点を探しやすいという利点があります。真東、真西に進み続ければ、目的地に到達することができるという旅の安心感が大切にされた時代でした。また、同緯度線上でなくても、同じ方角に向かって一直線上に旅すれば、目的地に到達することもできたのです。そのため、標高の高い山々が指標にされることも少なくありませんでした。遠くに聳え立つ山の頂方向に向かっていけば、目的地に到達できるからです。
同一線上に指標や拠点を並べるもうひとつの理由は、それらの指標を意図的にまとめ、相互を地の力という見えない力で結び付けることが重要視されたと考えられます。例えば神を祀る聖なる場所を建立するプランがあったとします。願わくは、その場所が霊山などの聖地と結び付き、地の力を受け継ぎたいものです。そのため、聖地同士を結び付けた線を複数見出し、それらが交差する地点に新しい拠点を見出すことが目論まれたと想定されます。よって、例え人気もなく、探すのにも難しい未開の山奥のような場所であったとしても、人々は既存指標の位置付けを確認しながら、それらを結ぶ仮想の線上に目的地を見出すことができたのです。大事なことは、重要視されている霊山や、他の聖地などの拠点同士を結ぶ直線上に、新しい目的地が存在することでした。その結果、著名な神社を通るレイライン上には霊山や、周囲を海で囲まれた岬などが名を連ねることになりました。
古代の日本社会では、主に大陸からの渡来者によって、国家の礎となる文明が築かれていきました。彼らこそ、これらレイラインの構築を多用して、古代より日本列島随所に次々と拠点を見出した主人公です。大陸の優れた天文学と地勢学を携えてきたからこそ、短期間で日本列島の地勢を網羅し、その中に多くの霊山や岬、地の指標を見出し、随所に神を祀る社を造営することができました。そのためには同緯度線上だけでなく、様々な角度においても指標が一直線に並ぶようにきめ細かく工夫されました。拠点を定めるための基準であり、時には旅の指標となり、また、地の力を結び付ける仮想の線引きが、レイラインの正体です。日本列島では古代、こうしてレイラインの構想が随所で用いられ、新しい拠点がピンポイントで見出され、そこに神の社や港、集落が形成され、国家の礎が築かれていきました。
未開の地へ旅する古代人の視点
レイラインの重要性を理解するために、今一度、古代社会の有様を想定し、如何にして当時、人々は未知の世界を旅していたかを考えてみます。ある日、未開の大きな島に船が漂流し、そこで暮らすことになったと想定してみましょう。どこに港の場所を定めて船を停泊させ、どこに住まいを構え、どこで神を拝するのでしょうか。どのようにして新たに造成する拠点を定め、それらの位置をそれぞれがわかるようにするでしょうか。
まず、島をくまなく散策し、山や川、岬、滝など、目立つ自然の地勢に注目するのではないでしょうか。海岸線を歩き回り、時には船から見る陸地の在り方も確認しながら、岬のような突出した地形や、大きな岩場などは、大切な目印としてすぐに覚えられたことでしょう。さらに平野部と山間部、随所に流れる川にも目を留めるはずです。海や川の近くに住むことは、魚を食するだけでなく、生活のための水を確保するためにも重要です。これらの周辺地域に関する下調べを終えた後、船や徒歩でのアクセスが良く、地域の安全が確保され、水はけがよく、日当たりの良い地勢を有する場所を見出して、そこを自らの居住地と定めるのではないでしょうか。こうして海へのゲートウェイとなる港に適した地勢を有する場所が特定され、漁労に出航するにも最適な地が厳選されたことでしょう。つまり、十分に周辺の地勢を検証したうえで、人間が住むにもっとも相応しく、安全でわかりやすい場所、エリアが厳選されたに違いないということです。
しかしながら大きな島では、港に適した場所が随所に存在するため、場所の特定には困惑することもあったはずです。そこで、誰もがわかりやすく港を見つけることができるように、その場所を例えば、島の最高峰と同緯度に設けたり、島の岬同士を結んだ線上に見出すような工夫が凝らされたのではないでしょうか。島の最高峰と同緯度線上に港を造成すれば、たとえ地図がなくても太陽の動きを見ながら、まっすぐに進むだけでその場所を見つけることができます。
次に、島の最高峰となる高山の位置も確認したことでしょう。そこからは360度、島の周囲を一望できるだけでなく、島の中心的な存在として、誰でも簡単に見出すことができるからです。海から距離を置いて山間にも集落を造成することも、時には重要でした。山の中では狩猟を行うことができるだけでなく、住居の建造に必要な木材を確保することができるからです。また、山には神が宿るという山岳信仰も古代では根強く普及していたことから、山々の要所には神を祀る祭祀場が設けられ、季節に応じてお祭りをすることもありました。実際、多くの神社は当初、道も無い山奥に建立されました。しかしながら、霊峰や岬、巨石などの自然の指標を結ぶ線上や、既存の神社と同緯度線上、または夏至の日の出を拝む方向にそれらの聖地が定められたことから、たとえ人気のない山の中でも、神社の場所を見出すことができたのです。
現代のような地理情報や先端技術が存在しなかった古代、未知の島に到達し、様々な目的に応じた拠点を見出すことは、極めて困難であったと考えられます。そのために、時には太陽と天地を見据え、ある時は島内の地勢に目を留めて、その中から特異な地勢の情報を確認しながら、指標となる場所が並ぶ直線上に、新しい拠点を見出していく方法が模索されたのではないでしょうか。
聖地や霊峰、神社、重要拠点が同一線上に名を連ねることは、偶然の一致ではなかったのです。その仮想線となるレイラインは、古代人の英知を結集した結果、ごく自然に生まれた拠点や聖地を見定めるための考察ツールだったのです。そしてレイラインの視点から古代史を見直すと、単なる神話と考えられていたような場所でさえも、思いもよらず実在していた可能性が見えてくるのです。
偶然の一致か?我が社と富士山が一直線上に!
レイラインに纏わる興味深い体験談をひとつ紹介します。2014年に、筆者が経営に関わる会社の本社を、千葉県成田市から徳島県小松島市に移転することになりました。徳島で本社移転の場所を探している最中、たまたま安価に取得できる物件が、願ってもない海沿いに見つかったのです。そして本社移転の手続きが完了したある時、ふと気になり、小松島市の新社屋がレイライン上でどこに結び付いているか、地図で確認することにしました。すると驚いたことに、小松島の本社と富士山の山頂を結ぶ延長線上に、成田の下総松崎にある「大和の湯」という天然温泉の存在が確認できたのです。「大和の湯」と言えば、筆者が関与する事業の中でも、成田で最初に立ち上げた温浴施設であり、今日でも自社の重要な位置を占めています。その「大和の湯」が小松島の本社と富士山の山頂を介して一直線に連なっているということは、単なる偶然として片づけるべきでしょうか。それとも運命のいたずらというべきものなのでしょうか。
一直線上に並ぶ我が社と富士山の不思議
本件の場合、意図的に拠点を一直線上に並べた訳ではないことから、レイラインの主旨とは大きくずれていることは明らかです。しかしながら、ぴたりと一直線上に並んでいることから偶然とも思えず、不思議な思いに浸ることがあります。少なくとも、自らが関わる会社の拠点同士が、富士山を介して一直線上に結ばれている、ということを知ること自体に何らかの意味があるようにも感じられ、いずれにしても、単なる偶然にしては、あまりにでき過ぎているレイラインとの遭遇に心が弾むこの頃です。
現代では多くの地理情報が地図上に散在していることから、複数の拠点が一直線に並ぶという現象を簡単に確認することができます。中には、偶然に並んでいるようなものも、多々存在します。だからと言って、全部が偶然の一致と言い切れないのも事実です。実際、古代に建立された神社の位置付けを精査していくと、何もない森林の真ん中に場所が特定された聖地も少なくはなく、偶然、その場所を見つけたとは信じがたいのです。そのような辺鄙な場所に建立された多くの神社や聖地がレイライン上に一直線に並ぶことも、レイラインの構想が実は妄想ではなく、極めて現実的なものであったことの証ではないでしょうか。そして日本列島に潜む多くのレイラインの実態を調べていくと、そこは古代史に関するとてつもない情報の宝庫であることに気が付きます。
どれほどの精度で位置を確認できる
のか、知りたいです。