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2013/09/02

アジアと日本を結ぶ陽城のレイライン

古事記や日本書紀に記載されている国生み神話によると、日本国家の起源は淡路島から始まっています。神話という言葉のとおり、ごく一般的には史実ではなく、単なる昔話のような感覚で捉える方が多いようです。しかしながら、古代人の視点に立って日本列島の地勢を見つめ直していくうちに、なぜ、東アジアの海の向こうに浮かぶ島々が重要視され、中でも淡路島が国造りの原点として選ばれたのか、その理由が見えてきます。記紀に記された淡路島に纏わる話は、単なる神話として終始するような空想話ではなく、古代人の優れた地勢感のもとに、特別な位置付けを持つ場所として選別された結果であり、日本列島各地には淡路島を基点として紐づけられた重要拠点が数多く存在するのです。それらの中には古代の集落、主要港、名山、そして著名な神社などが含まれることからしても、淡路島が重要な指標となっていたことを知ることができます。

こうした考察方法の根底にある手法がレイラインです。一般的には、一直線上に並ぶ遺跡群を指すことが多く、その線の位置、角度に特異性を見出すことも少なくありません。古代日本のレイラインは、そのような直線的に並ぶ建造物だけでなく、山や岬、湖など、列島の地勢そのものも含めて、レイラインを構成する拠点としています。その背景には、日本列島がアジア大陸の東方に連なり、その細長く続く島々の中には無数の際立った大自然の美が宿っていることが挙げられます。そのため、自然の指標と人の手による造作物の双方を巧みに活用し、用い、列島の地勢を十分に踏まえながら、古代日本のレイラインが形成されたと推定されます。

古代日本のレイライン上には、高山や岬を含む多くの自然の地形だけでなく、古代の人々が神を祀る場所として聖地化した祭祀場や神社が多く含まれます。それらのレイラインは、それぞれが不思議な特異性に基づく繋がりを誇示し、さらにレイライン同士が紐づけられて、ひとつの大きな体系を形成しているようにも見えます。そしてそれらレイラインが交差する中心に位置するのが淡路島でした。多くの古代日本のレイラインが淡路島を通過していることは注目に値します。だからこそ、淡路島を起源とする国生みの在り方を再考し、その背景に潜む古代日本レイラインと照らし合わせることにより、列島に渡来した古代人の渡航経路や地理感、神社や史跡同士の繋がりや、その由緒などを、理解するための手掛かりが得られるのです。

そこで本稿では、日本列島にて育まれた古代社会の地理的な集落拠点の位置付けと重要性、そして古代人の目に映った日本列島の姿をより良く理解するために、まず、日本列島を目指してアジア大陸より渡来してきた古代人の渡航経路を、昨今のDNA研究の成果をベースに振り返りながら見直すこととします。そして、アジア大陸と日本列島の繋がりを古代の切り口から理解する切り札となる「陽城のレイライン」に注目し、さらに日本列島でこれまで発見された古代のストーンサークルにも焦点を当てながら、古代の渡来者が持つ英知の一端を、これらの指標から浮かび上がってくるレイラインやストーンサークルの不思議から、考察してみましょう

DNA研究が証する古代人の渡航経路

日本列島には、世界でも屈指の長い歴史の痕跡が随所に刻まれています。しかし、その歴史の主人公である私たちの祖先が、如何にして列島に渡来し、古代文化の礎を築いたのかを示す手掛かりとなるデータは決して多くは存在しません。そのため、ごく一般的には弥生人と、それに先立つ縄文人に関するおおまかな定説が知られている程度であり、実際には弥生人の出自だけをとってみても見解はさまざまです。また、それ以前の時代になると、さらに学説は多岐にわたり、これまで学校教育の場でも多くは語られずにきたのです。しかしながら昨今の遺跡発掘調査やDNA研究の成果により、古代の民がいつ頃、どこから日本列島を訪れ、どの地域に定住したのについて、ある程度の見通しをつけることができるようになりました。

元来、日本人の祖先はアフリカで育まれた人類集団の一部が東南アジア周辺を経由して日本列島に渡ってきたと考えられています。それらの人々は、北方ではシベリアや樺太、朝鮮半島方面から南方では南西諸島方面からなど、複数の渡来航路を経て、遅くとも3-5万年前には列島に移住し、縄文人の祖先になったと推定されてきました。全国4000ヶ所以上の場所から発見されている旧石器時代の遺物からも、先史時代の列島各地に人々が暮らしていたことが窺えます。種子島の横峯遺跡からは、約3万年以上前の調理場跡が発見され、岩手県金取遺跡は5-9万年前、出雲の砂原遺跡はおよそ7-12万年前という推定の年代が公表されています。しかし原始時代の石器は自然石との見分けがつきにくく、それらの年代を特定することも容易ではないことから異論も少なくありません。いずれにしても3-4万年前までの遺物は確認されており、旧石器時代には日本人の祖先となる人々が列島に存在していたことを知ることができます。

そして昨今のDNA研究の進展に伴い、南西諸島を経由する渡来経路がより注目されるようになってきたのです。DNA分子人類学による研究は、日本人のルーツを理解するための新たな手掛かりを提供しており、人類学的にはモンゴロイドに分類される日本人の祖先となる集団ルーツについても、真相が徐々に明らかにされていく過程にあります。

まず、ミトコンドリアDNAによる系統分析からは、琉球諸島と北方のアイヌには多く見つかるものの、本州には少ないとされる日本人特有の系統が確認されています。この系統は、アジア大陸の北方から南下したのではなく、台湾付近から琉球諸島を経て日本列島を北上し、北海道まで至ったと考えられるのです。つまり、本州では比較的少ないまま、琉球と北海道の双方に特徴的に残る分布を示しているのです。また、母系を示すミトコンドリアDNAとは別に、父系を示すY染色体の系統分析の研究も進められています。その結果、Y染色体の中でも非常に古い系統であり、しかも地中海沿岸や中東に広く分布するグループのものと共通する染色体が、日本人にも比較的高い頻度で存在することがわかってきたのです。この系統はYAPハプロタイプとも呼ばれるD系統に属し、中近東の人種と同じ仲間です。

これらの研究成果から、日本列島に渡来した古代人の一部には、アジア大陸の西端、地中海周辺にルーツを持つ人々であった可能性が指摘されるようになりました。そうした人々は長い年月をかけてアジア大陸を東方面に移動し、台湾や琉球諸島を経由して日本列島へ到達したと考えられるのです。そして、その後も北方へ移動を続けた人々が存在し、結果として琉球地域と北海道方面に特徴的な遺伝的痕跡が残されたと推定されます。

日本は島々から成り立っていることから、大陸からの移民は、当然のことながら船を用いて海を渡るしか術がありませんでした。果たして古代社会において、広大な海原を渡る航海術などあったのだろうかと疑問視する声もありますが、有史時代に入ると、中国の春秋戦国時代前期では、既にアジア大陸の沿岸を倭国へと向かい、今日の北九州界隈まで到来することができる航海路が確立されていたのです。そして時代を遡り、殷の時代では大陸と台湾との行き来もあったことが知られています(香港博物館編製地図参照)。さらに古代史を遡ると、高度な文明を持つシュメール文化や古代エジプトの文明に行きつきます。そのいずれもが優れた天文学と航海術を携えていました。それゆえ、日本では縄文時代と言われる原始的なイメージに映る時代であっても、アジア大陸や地中海周辺において古代の民は船に乗って海を旅していたことから、日本列島を訪れたとしても何ら不思議はありません。

古事記や日本書記に記載されている神々の旅も、船で海を渡る場面が数多い理由は、それが常道手段であった古代社会の実態を反映していると言えるでしょう。したがって、アジア大陸から列島に渡る航海路も古くから存在していたと考えられます。

世界中心の緯度を示す陽城のレイライン

古代の人々がアジア大陸の東方に浮かぶ日本列島まで到来するには、島々と大陸を結び付ける何らかの精神的な指標や理念が存在したのではないでしょうか。やみくもに船旅を続けるのではなく、古代人の優れた地理感をもって、できるだけ居住に適した優れた新天地を探すべく、地勢が考察されたと考えられるのです。特にアジア大陸の東に存在する日本列島の場合は、東南アジア方面から大陸の海岸沿いを北上するという地理的な要因があることから、旅の緯度が重要視されたことに違いはありません。そのため、古代の人々は常に太陽や天体全体を観察しながら、旅の目的地を見定めたことでしょう。その結果、中国の陽城と日本列島を同緯度で結ぶ緯度線の存在も、いつしか重要な意味を持つようになったのです。

古代中国の世界観によると、大地には中心があると考えられていました。中国の古書である「周礼」の大司徒職の項には、「夏至の時に8尺の棒を立てて影の長さが1尺5寸になる所」と記載されています。地上に立てられた1本の棒にできる影から、方位、時間、季節などの情報を得ることのできる中心となる場所が存在したことがわかります。そこは世界の中心となるべく「地中」と呼ばれ、古代の天文学や地勢学に精通する学者にとっては、極めて重要な観測拠点でした。

古くから「地中」は、今日の河南省登封市、古代では陽城と呼ばれた場所に比定され、北緯34度26分に位置します。そこには今日、周公観景台と書かれた石碑があり、古代中国の天文観測が行われた場所としても知られています。また、元朝の時代においても授時歴の編纂をする際に、40尺もある高さの高表が建造され、学者らによって天文学的に観測データの再検証が行われました。このような史実が残されていることからも、「地中」が時代を超えて中国の天文観測の中心地として重要な位置付けを保っていたことが窺えます。

陽城のレイライン -アジア大陸と日本列島を結ぶ東西の基準線-
陽城のレイライン -アジア大陸と日本列島を結ぶ東西の基準線-

陽城が「地中」という考え方は殷の時代まで遡ることができ、その後、晋書、宋書、隋書などのさまざまな古代中国史書の天文誌にも紹介されています。そして唐や宋の時代に至るまで、中国の首都は北緯34度26分を中心として、その南北に10分少々の誤差で収まるように「地中」を意識したかのごとく、その緯度の範疇内で首都の場所は移動を繰り返しました。例えば洛陽は、「東都賦」によれば「即土之中」に位置するからこそ、前14世紀、殷の盤庚や前11世紀に周の成王が、そこに都を置いたとしています。

しかしながら、陽城の場所が特定された背景は全くわかっていません。そもそも「影の長さが1尺5寸になる所」という基準で考えるならば、その緯度にある線上のどこでもよい、ということになってしまうのです。しかも陽城周辺には何ら目印となるような地点があるわけでもなく、単に古代中国において山岳信仰が盛んであった地域の山麓に位置しているに過ぎません。その信仰の山は嵩山と呼ばれ、殷の時代では既に山上に祭祀場が設けられ、王朝のための儀式が執り行われていました。後世においては王都の山として揺るぎない定評を博し、周代に至っては神の昇降する場所として人々から篤く尊崇されたのです。そして陽城が「地中」と呼ばれ、世界の中心は天の中心とも考えられたことから、近隣の嵩山は天帝の下りる「降神」の場所として崇拝されるようになったようです。それゆえ、陽城と嵩山とは深い繋がりによって結ばれ、「後漢書」や「東観記」の記述からも、嵩山と陽城が「地中」であるという観念が、後漢代までも受け継がれていたことがわかります。

ではなぜ、広大な中国大陸の中で、特異な地勢もなく、単に山麓に囲まれる陽城の場所が地中として選ばれたのでしょうか。大胆な仮説にはなりますが、「地中」が位置する北緯34度26分は淡路島の神籬石とちょうど並ぶことから、淡路島の中心と「地中」が何らかの理由で結び付いている可能性について考えてみました。淡路島の神籬石は、アジア大陸の東方に浮かぶ日本列島のおよそ中心に位置し、淡路島そのものが、船で海を渡る際にも航海路において極めて認識しやすい場所にあります。四国と本州近畿地方の間に浮かぶ淡路島は、瀬戸内海の東の端にあり、南方から北上してくる際にも、島々の終点にあたることから、島々の中でも指標として位置付けるには絶好の場所に在りました。それゆえ、最初に淡路島が大陸の要所を見極める上での指標として見定められた可能性があります。

中国大陸にて陽城が「地中」として特定された背景には、淡路島の神籬石を基準点とし、それと同じ34度26分の線上に、観測の中心点が探し求められたという経緯があるのではないでしょうか。縄文時代前期、日本列島に渡来した古代の民が、列島の中心地を淡路島の神籬石と定め、そこを基点として、夏至の日の出の方向に阿久遺跡の場所を定めたと考えられるように、その神籬石を基点として、アジア大陸の「地中」を同じ緯度上に見出した可能性があります。自然の地勢と天体、特に太陽や月を大切にした古代の人々にとって、大陸や島々は一つの巨大な「地」として考えられていた時代と推定されるだけに、淡路島がアジア大陸に結び付く指標として用いられたとしても、何ら不思議はありません。その結果、陽城のレイラインが浮かび上がってきたのではないでしょうか。この34度26分の緯度線こそが、「地」の指標を定めるレイラインの基線となったのです。

ここで注意しなければならないことは、本考察では古代における日本の歴史的優位性を全く視野に入れていないということです。あくまで淡路島の神籬石は、古代の知者らがアジア大陸と日本列島をひとつつの地として見渡しながら、大陸の東の端にわかりやすい指標を見出したにすぎません。そして、淡路島をひとつの指標として認識したのは、まぎれもなく大陸からの渡来者であり、それは列島が大陸の延長線上に存在する重要な結節点として、古代から認識されていたことを意味しています。

コメント
  1. 匿名 より:

    縄文時代約1万年、多く様々な血が混ざり合って日本民族・日本人ができた。但し、アイヌと言われる人々は、狩猟採集により生計を営み、鎌倉時代末期にオホーツク沿岸地域に渡り、住み着いた一部族が日本人となったものです。従って、米大陸インディアンの「先住民族」と同列に扱う事は、全ての面で歴史事実に著しく反し不適切です。

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