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伊勢神宮のレイライン

伊勢神宮 鳥居
伊勢神宮 鳥居
2013年、伊勢神宮は20年ごとに到来する式年遷宮の祭りに沸きました。式年とは定められた年のことであり、遷宮とは神社の正殿を造営・修理するために御神体を遷すことを意味します。よって、式年遷宮は社殿を造り替えるために執り行われる、20年に一度の大祭を指します。式年遷宮のしきたりは飛鳥時代に天武天皇が定め、7世紀後半、持統天皇の時代から始められました。そして古来より伊勢神宮では、内宮や外宮の正殿だけでなく、別宮も含む全ての社殿を造り替えてきたのです。その際、建物だけでなく、鳥居や御垣、殿内の装束や宇治橋、そして日用の調度品も含め、全てを新しくしたうえで、御神体を新宮へ遷してきました。その式年遷宮の年を迎えた2013年は、正に伊勢神宮の年であり、一生に幾度と見ることができない遷宮の優雅な式典を満喫できる天与の機会として、多くの参拝者で賑わいました。

日本国民に愛され、皇族が最重要視する神社のひとつとして名高い伊勢神宮の歴史は古く、日本書紀や古事記に含まれる様々な記述から、その由緒や造営された背景、場所などを知ることができます。そして地理的な事柄や史実に注視しながら、列島内に見出された重要な古代拠点の地理的な相互関係を確認し、できるだけ古代人の目線に立って列島の地勢を見渡すと、ふと、古代のレイラインが伊勢を中心として構成されていることに気が付きます。そこには思いのほか、伊勢神宮外宮 入口
伊勢神宮外宮 入口
伊勢神宮と、その遙宮である伊雑宮を中心とする複数のレイラインの存在が確認され、それに結び付く古代の聖地や列島内の目印となる大自然の指標との関連性が手に取るように見えてくるのです。これらの指標や拠点は、偶然一直線上に繋がっているとは到底思えず、むしろ意図的に選別された山々や岬との繋がりを大切にして厳選された拠点だからこそ、結果として地理的に一直線上の繋がりを持つようになったと考えられます。

伊勢神宮に絡む古代のレイライン上には、伊勢神宮と伊雑宮に紐付けられた列島内の指標や拠点となる聖地が複数存在します。それらの位置付けや意義を検証することにより、どのようにして伊勢の聖地が見出され、国内屈指の聖地として台頭することになったのか、その経緯が少しずつ理解できるようになります。レイラインの考察から、古代史の謎が解き明かされていきます。

海沿いに厳選された古代の聖地

古事記や日本書紀に記載されている国生み神話には、現存する多くの地名が登場します。伊耶那岐命に導かれた一行は、列島の隅々まで航海しながら島々の名前と位置を特定しました。その後、人々が集落を形成した海沿いの地名だけでなく、海峡の名前までも明記されています。例えば日本書紀の神代では、伊耶那岐命が葬られた場所である紀伊の熊野だけでなく、伊耶那岐命が穢れをすすいで禊をするために訪れた筑紫日向の地名も記されています。また、粟門と速吸名門を船で渡る記述も含まれています。潮流の速いことで知られるこれらの海峡は、前者は淡路島と阿波国の間にある鳴門海峡、後者は佐田岬と佐賀関の間の豊予海峡、もしくは明石海峡と言われています。つまり、瀬戸内海を中心に船で行き来していた地域が神代の舞台の中心であり、それだけに、古代社会は海人文化が主流であったと言えるのです。そのため、記紀の神代に関わる記述には、海峡をはじめ、海に関わる内容が複数含まれています。また、韓国(からくに)や新羅という朝鮮半島の地名も登場し、出雲との行き来も古代より頻繁にあったと想定され、大陸との交流も無視できません。古代の歴史は海人が立役者であったと言っても過言ではない理由を、記紀の記述から理解することができます。

その後、実際に神々が鎮められた場所として、沖津宮、中津宮、辺津宮からなる宗像、宇佐、紀伊の日前、出雲、尾張などの聖地の名前が記紀に名を連ねます。これらの地名は全て実存するだけでなく、海沿いや島に存在することに注目です。日本建国の民は大陸より海を渡って列島を訪れた訳ですから、最初に船を着岸させるに相応しい港の候補地を見つけることが重要でした。よって、神代に特定された古代拠点の中でも歴史の古い聖地の殆どが、海岸から近い場所に位置しているのです。例えば熊野においては複数の聖地が存在しますが、その中でも最も古い拠点は神倉山です。そこは古代、海岸線が隣接し、すぐそばに船を着岸させることができました。宗像や鹿島、出雲、日向などの拠点も、全て海沿いです。古代の渡来者は日本列島の海岸線沿いに拠点を見出した後、その拠点から徐々に、内陸に向けて足を運び始め、集落を形成したのでしょう。

古代における伊勢の発展は、伊勢神宮の周辺図
伊勢神宮の周辺図
神代における最古の港のひとつである伊雑宮の周辺の伊雑ノ浦から始まり、その後、長い年月を経て伊勢神宮が造営されたと考えられます。伊雑宮は伊勢神宮の内宮より11km程離れており、古代では伊雑ノ浦の海岸沿いに面したと推測されます。伊雑宮の創設に関する歴史的背景は不透明ではあるものの、後述するレイラインが証するように、列島内で際立つ自然の地勢のみを指標として結ばれるレイラインから見出された拠点であることから、その歴史は大変古いことがわかります。最古の拠点のひとつであるが故に、レイラインを構成する指標の中には人の手で造営された聖地が含まれず、自然界の地勢だけを頼りに、伊雑宮の場所が特定されたことは明らかだからです。

伊雑宮の歴史は伊勢神宮をはるかに遡り、熊野と共に紀伊半島における最古の聖地のひとつとして重要な位置を占めました。その伊雑宮の存在を背景に、複数の聖地と結びつく特別な場所が伊雑宮に隣接する伊勢に特定され、伊勢神宮は造営されました。そして伊勢神宮は伊雑宮にとって代わり、後世においてその名を知らしめることになります。そこでまず、伊勢という場所がなぜ、古代にて注視されたか、その背景に潜む伊雑宮の重要性と、その場所に紐付けられた地の力の意味を、レイラインから検証してみることにします。そのうえで、伊勢神宮の聖地が特定された根拠を、伊勢神宮を中心とするレイラインから考察してみましょう。

伊雑宮のレイライン

伊勢神宮のレイラインを考察するにあたり、まずその基となる古代の聖地、伊雑宮の地が、どのようにして見出されたかを理解することが不可欠です。そのためにまず、伊雑宮のレイラインを検証する必要があります。伊雑宮が位置する伊勢志摩の地域が重大な聖地として歴史の流れの中に台頭した理由は、レイラインの実態を見極めることにより、明確になります。

古代、南西諸島から九州、四国を経由して北上してきた渡来者の一行は、船を着岸させるために相応しい港の候補地を特定する必要がありました。その際、岬や山など、誰が見てもわかりやすい自然の地勢を見出し、渡航者の指標として定めながら、船を着岸させるための港を築いたのです。その結果、伊勢周辺の玄関として、伊雑ノ浦の沿岸が注目され、そこでは港が造られただけでなく、古代の祭祀活動も執り行われ、時代を経て近隣には伊雑宮が造営されました。こうして伊雑宮は、伊勢神宮の聖地が特定される基となったと考えられるのです。では、レイラインをどのように用いて、伊勢の原点となる伊雑宮の地を見出したのでしょうか。

南西諸島から船に乗って北上してきた古代の渡来者は、屋久島を超え、九州の南に到達した際、まず、九州の最南端に姿を現した佐多岬に注目したことでしょう。そこから日本最高峰、富士山に向かって進む道、すなわち佐多岬の先端より富士山に向けて一直線を引いた線上が、旅の指標として重要な役割を果たすことになります。その線は、紀伊半島の白浜から尾鷲、志摩を通り抜けて、富士山の頂上南側へ到達するからです。白浜、尾鷲と志摩は、どれも入江を含む自然の地形に恵まれていたことから、港を構築するに相応しい立地条件を備えていました。よって、これらの場所には人が早くから住み着き、集落を形成しながら発展していくことになります。

富士山頂浅間大社奥宮
富士山頂浅間大社奥宮
中でも真っ先に注目されたのが、佐多岬と富士山を結ぶレイライン上に存在する志摩の伊雑ノ浦でした。そこは複数の重大なレイラインが交差する中心地点でもあり、列島の地の力を結集する聖地として、古くから祭祀活動が執り行われ、伊雑宮が造営されるに至ったと考えられます。その伊雑宮の場所を特定するために用いられたのが、四国の南方に際立つ足摺岬と室戸岬を結ぶ、2本目のレイラインです。太平洋沿岸を航海する民にとって、長く大きな岬は、重要な海の指標でした。ふたつの岬の頂点を結んだ延長線を九州方面、南東方向に伸ばすと、古代の日向、宮崎市の北方にあたります。そしてこの線を真っすぐ北東に伸ばすと、紀伊半島の伊雑ノ浦周辺で佐多岬と富士山を結ぶレイラインと交差し、それから鹿島を通り抜けます。これら2本のレイラインが交差する場所に伊雑宮が造営されているのは、単なる偶然ではないでしょう。

その証として、伊雑宮が聖地化された背景には、さらに2本のレイラインが存在します。まず、注目すべきは、紀伊半島最南端の紀伊大島の存在です。南方から航海すると、必ずその近海を通り抜けますが、その紀伊大島の最東端が重要であることは、その真北に大神神社と石上神宮が並ぶことからしても理解できます。その紀伊大島の拠点から、伊勢志摩の東方に浮かぶ神島を結ぶと、伊雑宮を通り抜けることがわかります。つまり、伊雑宮の聖地には、九州の最南端である佐多岬からも、四国の最南端である足摺岬からも、そして紀伊半島の最南端である紀伊大島からも、先の指標となる富士山や神島を視野に入れるだけで、ピンポイントで伊雑宮の場所に到達することができたのです。ナビゲーションのない時代だけに、この地理的な繋がりによるアクセスのわかりやすさが、古代においては極めて重要であったに違いありません。

さらに伊雑宮の聖地化を後押しするもうひとつのレイラインが存在します。国生みの原点となる淡路島に伊耶那岐命ら一行が到達する直前、広大な湿地帯の中に浮かぶ重要な島が目に留まり、そこに一時期滞在した可能性があります。この島の頂上からは、北は淡路島、西方は四国の剣山を眺めることができるだけでなく、阿波国も広範囲に見下ろし、東方には大阪から和歌山、そして南東方向には熊野の山々までも見渡すことができます。国生みの働きに携わった神々は、周辺の島々全てを眺めることのできるこの島を重宝し、そこから島々の位置や地勢を見極めた上で、淡路島へと渡ったのではないでしょうか。その島とは、徳島県小松島市の北方に位置する日峰山であり、今日、陸続きではありますが、元来、山全体が島であり、古代では周辺一帯が海に囲まれていたと想定されます。その山の頂上と、西日本最高峰の石鎚山の頂上である天狗岳を結ぶ線を東方に伸ばすと、ぴたりと伊雑宮を通り抜けるのです。

つまり伊雑宮とは、最高峰富士山と、九州、四国最南端の岬を一直線上に紐付けただけでなく、紀伊半島最南端の紀伊大島と伊勢湾の神島を結び、西日本最高峰の石鎚山をもレイライン上に並べ、それらレイラインが全て交差する中心点に造営されたのです。数多く存在するレイラインの中でも、これだけの自然の地勢を、ありのままに用いて見出された拠点は他に例がないだけに、いかに伊雑宮が重要な聖地であったかを知ることができます。

伊雑宮のレイライン
伊雑宮のレイライン

伊雑宮が古代の聖地である理由

古代の聖地である伊雑宮
古代の聖地である伊雑宮
これまでのレイラインの検証から、伊雑宮が造営された場所の歴史は大変古く、国内最古の聖地のひとつであったことがわかります。また、その歴史はおそらく伊勢神宮のものを遥かに遡ると推測されます。それは一体、何を意味するのでしょうか。創始の順番からすると、伊雑宮が伊勢神宮の本宮と考えるべきでしょうか。実際問題として、伊雑宮と伊勢神宮との関係において、どちらが本宮であるかという激論が、江戸時代より宗教界に生じていたのです。そして伊雑宮を伊勢の内宮、外宮と並べて伊勢三宮とし、天照大神は元来、伊雑宮にて祀られていたとする「伊勢三宮説」が流布され、大きな論争を呼び起こしました。伊雑宮の再興を目論んだ伊雑の神人や宮人の働きはその後も続きますが、やがて偽作であるというレッテルを貼られ、一蹴されることになります。しかしながら、伊雑宮こそ伊勢神宮の本宮であるという説は今日でも根強く残っているだけに、レイラインの考察から推測できる見解も含め、今一度、見直しの必要に迫られています。

志摩国一宮である伊雑宮は、その由緒によると、垂仁天皇の時代に倭姫命が志摩国を巡行した際、出迎えた伊佐波登美命により創建されたと伝えられています。以来、伊雑宮では海人に纏わる信仰が篤く、今日まで漁師や海女らが伊雑宮から磯守を受け、それを身につけて海へ出る風習が続いています。また、伊雑宮は伊勢神宮の内宮である皇大神宮の別宮としても知られています。特筆すべきは伊勢神宮の別宮14社のうち、伊雑宮が唯一、伊勢以外の場所に存在するということです。伊勢から離れていても伊勢神宮の別宮になりうるということは、伊雑宮が伊勢神宮と何かしら深い絆で結び付いていることの証と言えます。また、「皇大神宮儀式帳」(804年)には伊雑宮が「称天照大神遙宮」と記され、皇大神宮から離れた志摩に存在する天照大神の遙宮として、大神宮の管轄下にて大切に取り計らわれていたことがわかります。

伊雑宮で祭祀を執り行う神官の多くは磯部氏を名乗る地方豪族の出であり、伊雑宮が文献上に初めて登場する「志摩国輪庸帳」(729年)によると、伊雑宮には既に伊雑神戸が置かれていました。また、「皇大神宮年中行事」には、伊雑宮に関わる伊雑浦七ヶ所が神領とされていることが明記され、大神宮の神戸が多数存在したと推測されます。こうして「伊雑神戸」という名称は、いつしか大神宮神戸の意味を持つ言葉としても使われるようになり、古代から伊雑宮は、別格の待遇を受けていたのではないでしょうか。

さらに、伊雑宮では20年に一度、式年遷宮のための、お木曳行事も伊勢神宮に準じて執り行われ、志摩一国の大社として多くの神財が調進されてきました。よって、遙宮でありながらも実際には大神宮と密接に繋がる祭祀活動の場として、三節祭と呼ばれる月次祭(つきなみさい)や神嘗祭では、朝廷の幣帛(へいはく)を献じ、本宮と同じ蓑笠を供える祭も執り行ってきたのです。伊雑宮の祭祀活動は元来、皇大神宮と類似点が多かったようです。そして伊雑宮が隣接する伊雑ノ浦は、古代の海上交通における要所であり、神嘗祭などの伊勢神宮で執り行われる年中行事に必須な物品の供給源となっていたことから、伊勢神宮にとって伊雑宮は陸海を通じた大切なアクセスポイントに造営された遙宮と考えられていたのです。また、伊雑宮周辺は志摩国でも水田耕作が可能だった数少ない土地のひとつとしても知られています。これらの史実から察するに、伊勢神宮にとって伊雑宮の存在そのものが、極めて重大な意味を持っていたに違いありません。

「伊雑宮」は「いぞうぐう」と読まれることもありますが、元来の正しい読み方は、「いざわぐう」です。なぜ「いざわ」と呼ばれるようになり、「伊雑」という漢字が当てられるようになったのか、定かではありません。しかしながら、古代の渡来者が日本列島の聖地のひとつとして古くから見極めた場所であり、初代の一行にはイスラエルからの預言者イザヤが関わっていた可能性があることから、その渡来者の群れのリーダーである「イザヤ」の名前にちなんで「イザワ」という地名になったと推測することも可能ではないでしょうか。伊勢神宮参道 石灯篭
伊勢神宮参道 石灯篭
伊雑宮の紋は今日まで、イスラエルのダビデの星を象っているだけでなく、伊勢神宮の参道沿いにも、同じ形の紋が石灯篭に彫られています。それ故、伊雑宮と深く結ばれる伊勢神宮の背景にも、イザヤとイスラエルの存在が見え隠れしているようです。後述するとおり、伊雑宮を通るレイライン上に位置し、元伊勢としても有名な籠神社の奥宮である真名井神社の紋も、同じくイスラエルを象徴するダビデの星でした。

伊雑宮が伊勢神宮の本宮であるという根拠は、それを立証するまでには至らないでしょう。しかしながら、その可能性を払拭することはできず、これからも伊雑宮を伊勢の本宮として心から大事に考える人々は絶えないことでしょう。いずれにしても大切なことは、宗教家の議論はさておき、伊勢の地、全体が神の祝福を受けた古代の聖地であると理解することではないでしょうか。

伊勢神宮のレイライン

伊勢神宮には天照大神を祀る皇大神宮と、衣食住の守り神である豊受大御神を祀る豊受大神宮のふたつの正宮があり、前者は内宮、後者は外宮と呼ばれています。内宮で祀られている天照大神は、三種神器のひとつである八咫鏡を指しています。天照大神が語られた「宝鏡を視まさむこと、吾を視るがごとくすべし」、そして「与に床を同じくして殿を共にして斎鏡と為すべし」という教えに従い、日向に天孫降臨した瓊瓊杵尊をはじめとし、初代神武天皇の時代より第10代崇神天皇に至るまで天皇はみな、天照大神を宮中に置き、日々、観察することを皇室の務めとしたのです。

その後、崇神天皇の時代、天照大神は豊鍬入姫命に託され、宮中から大和の笠縫邑に遷されます。そして各地を移動しながら、1世紀近くの年月をかけて垂仁天皇の時代、倭姫命により天照大海神は、最終的に伊勢の度会の地である宇治の五十鈴川の川上に至られ、そこが今日、伊勢神宮として知られるようになります。今からおよそ2000年前のことでした。その途中、一時的に鎮座された場所は、元伊勢と呼ばれるようになります。五十鈴川の川上のほとりに鎮まったとされる天照大神ですが、古事記には「伊須受の宮」とも記されている内宮が造営されたのは、7世紀、持統天皇の時代です。倭姫命が伊勢の地に来られてからおよそ6世紀の年月が経ち、それまでの間、天照大神は伊勢国のどこかで祀られていたことになります。

ではどのようにして、最終的な伊勢の到達地点が見出されたのでしょうか。伊勢を回りまわっているうちに、偶然、その場所に辿り着いたのでしょうか。一般論としては、伊勢は尾張や三河方面との繋がりに優れている交通の要所であるだけでなく、大和朝廷から東方経略を推し進めるためではないかと言われています。

つまり、大和朝廷の東方への発展に向けて、陸海の交通の便にも優れた伊勢の地が、大御神を祀る場所として特定されたというのです。しかし実際の地勢を見ると、伊勢の東方は海であり、陸路の視点からはむしろ孤立しているように見受けられ、優位性を見出せません。また、海路については前述した通り、伊雑宮がある熊野灘に面した伊雑ノ浦が古代の重要港であり、伊勢湾側に流れる五十鈴川の周辺に港を作ったとしても、大きな利点はないようです。さらに、東方との行き来を考えるならば、尾張の方が陸海の交通に圧倒的な優位性があり、しかも崇神天皇の妃である尾張大海媛は尾張連の祖であることから、なぜ、尾張が選ばれなかったのか、疑問に思えます。

ありきたりの考察では、伊勢神宮の地を選ぶ明確な理由は見あたりません。それ故、新しい切り口から、なぜ、伊勢神宮の場所でなければならなかったのかを考える必要があります。どのようにして古代人が、天照大神を鎮座させるに相応しい聖地をピンポイントで見出すことができたのでしょうか。その答えも、レイラインの考察から見出すことができます。

古代人が天照大神を祀る聖地を探すにあたり、重要視した立地条件を考えてみましょう。当然のことながら、その場所は津波や地震の危険が少なく、盗難防止にも対処しやすい安全な場所であることが望まれたことでしょう。その前提で考えられた条件のひとつが、建国の父である天照大神の父、伊耶那岐命と結び付く土地柄であるということではないでしょうか。伊耶那岐命は既に日本列島の中心となる淡路島に葬られていたことから、その場所に紐付けられる土地であることが望まれたのです。次に検討されたのは、列島の地の力と結び付くために、聖なる高山の中でも最も高い富士山との繋がりを持つことです。また、既に見出されている列島内の聖地との繋がりも重要視されたことでしょう。特に、古代の聖地としてレイライン上でも明らかに地の力を結集したと考えられる伊雑宮の聖地は重要視されたのではないでしょうか。そのうえで、大陸から渡来してきたイスラエルの先祖との繋がりを持つことができる土地であることが望まれたことでしょう。これらすべての要望を叶えることができる場所を、レイラインを用いて見出すことができたのです。

まず、伊耶那岐命と地の繋がりを持つためには、伊耶那岐命が永眠された墓が建立された場所と同じ緯度線が想定されます。その東西に渡る緯度線は、西は対馬の海神神社から、東は志摩を越え伊勢湾まで至ります。この緯度線上に聖地を見出すことができれば、伊耶那岐命と繋がりをレイライン上で保つことができるのです。次なる目標は、日本の最高峰、富士山と紐付けることです。そのためには淡路島を通る伊耶那岐命のレイライン上から、富士山頂に夏至の日の出が見える場所を探し求めることになります。すると、五十鈴川の川上にある伊勢神宮の場所が、ぴたりと見つかります。

また、列島内の他の聖地同士を結ぶレイラインの存在にも注視する必要があります。中でも、元伊勢の存在は重要です。まず、元伊勢の中でも著名な籠神社に注目してみましょう。籠神社の背景には丹後国の海部宮司家による由緒ある歴史があり、お伊勢様と呼ばれる伊勢神宮と深い繋がりを持っています。籠神社では豊受大神、天照大神、海神が祀られているだけでなく、「丹後国式社證実考」によると伊耶那岐命も、祭神として記載されています。つまり、籠神社は国生みの一環として伊耶那岐命が創設に深く関わり、海の神とも結び付いていたのです。また、籠神社の奥宮は真名井神社であり、伊勢神宮や伊雑宮と、ダビデの星と呼ばれる六芒星が神紋となっていました。伊耶那岐命の出自がイスラエルとするならば、その子である天照大神も同じであり、天照大神を祀る元伊勢の神紋が六芒星であることは当然の結果でしょう。この籠神社と、宮で奉仕する斎王の御所となった斎宮は、共に元伊勢として知られており、それらを結ぶ線上に、伊勢神宮の場所があるのです。つまり伊勢神宮の地は、籠神社と斎宮を同一線上に並べて、元伊勢のレイラインも構成していたのです。

さらに淡路島を通る伊耶那岐命のレイライン上に存在する海神神社と籠神社を結ぶレイラインも重要な意味を持っています。海神神社はその名のとおり海の神を祀り、海上安全を祈願することを重要視した神社です。そして、籠神社を結ぶ線上の東方には諏訪大社があります。諏訪大社も海神神社と海の守り神と深く関わり持ち、水信仰の御利益が謳われています。それゆえ、列島各地の港のそばには古代から、随所にお諏訪様が祀られるようになりました。そして、この諏訪大社から冬至の日の入りが見られる南西方向に向けた線上には、伊耶那岐命の墓がある淡路島が存在しその先端にはエルサレムと同緯度のヒラバイ山があるのです。

伊勢神宮のレイラインで結ばれた聖地は、すべてイスラエルのエルサレムに紐付けられ、その地の力を誇示する象徴の場所となります。レイライン上での繋がりは決して偶然ではなく、古代の英知を結集して計算づくめで構築した結果ではないでしょうか。富士山頂から昇る夏至の日の出を拝する地の利に恵まれ、大自然の地勢と、数々の聖地に結び付けられた伊勢神宮は、こうして日本屈指の聖なる宮として、いつの日も国民の篤い信望を集めることとなりました。

伊勢神宮のレイライン
伊勢神宮のレイライン