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「かごめかごめ」の真相にせまる Part II 「カゴメの歌」の舞台となる四国の剣山

「かごめかごめ」の歌詞をヘブライ語で読むと、そこには神宝が取り出された後、地域一帯が焼かれたことが記されていました。その歌詞から伝わる恐ろしいほどリアルなメッセージは、フィクションのようなおとぎ話ではなく、実際に起こった出来事を、後世に伝承するために書かれているようなニュアンスが込められています。もし、「かごめかごめ」が過去の史実を証していたとするならば、その場所が日本のどこかに存在したはずです。

神宝を証する「かごめの歌」

「かごめかごめ」の舞台となった場所を探る前に、まず、そのテーマとなる神宝について考えてみましょう。日本書紀や古事記の記述に見られるとおり、皇室の権威を象徴するかけがえのない神宝の存在は、古代の日本社会においても極めて重要な意味を持っていました。国家の創始から隣国との戦い、皇居での祀りごと、そして地域の平和と民の祝福などに絡み、いつの時代でも神宝は、人々の生活と密接に結び付いていたのです。よって、神宝を外敵から守り、安全な場所に秘蔵することは、国家が担う重大な責務でした。

その事例として歴史に名を残す国家レベルの施策が、元伊勢の御巡幸です。大陸からの不穏なニュースが飛び交い、国内の治安が不安定になる最中、1世紀近くの年月をかけて各地を転々と移動した御巡幸の目的は、神宝を護衛しながらその遷座地を探し続け、最終的に安全な場所にて祀ることでした。その結果、多くの元伊勢の地が誕生し、それら御巡幸地では皇族や役人だけでなく、多くの一般庶民が神宝の存在を肌で感じることができたことでしょう。そして最終的に伊勢の皇大神宮にて神の象徴である鏡が祀られて、御巡幸の旅路は終結します。

しかしながら、外敵の侵入や攻撃に対してほぼ無防備な伊勢の地において、果たして本物の神宝が安置され続けたかどうかは定かではありません。特に、元伊勢の御巡幸が完結した直後、国家体制は更に不安定になり、大陸からの渡来者の波も押し寄せ続ける最中、内乱の噂が飛び交うほど治安が大きく乱れたという国内情勢がありました。それ故、レプリカとすり替えられ、本物の神宝は伊勢から遷されて、どこか人の手の届かない安全な場所に保管されたと考えるのが自然でしょう。

そのような歴史的背景の中で、いつしか邪馬台国が産声を上げ、元伊勢御巡幸が終焉した2世紀後には、海外にまで名が知れ渡る大きな統治国家となっていたのです。そのような歴史の流れから察するに、天皇家の権威を象徴する神宝は、邪馬台国の舞台となる新天地に遷されていた可能性が見えてきます。神宝の存在があったからこそ、その権威を誇示しつつ、女王なる卑弥呼が邪馬台国で頭角を現したのではないでしょうか。大切な神宝を守るためには、いかなる手段も問わなかった時代でした。それ故、元伊勢御巡幸のような一見、訳のわからない奇想天外な策略がめぐらされ、奇跡のミッションとも言えるほど綿密に仕組まれた遷座プロジェクトによって、神宝は外敵から守られたのです。

元伊勢御巡幸の結果、安全な場所に一旦は秘蔵された神宝ですが、それも長続きはしなかったようです。その神宝の行く末に絡む話が、「かごめかごめ」の歌詞の中に潜んでいたのです。「かごめかごめ」をヘブライ語で読むと、以下の意味になります。

何が守られているのか? 誰が守られているのか?

守護されて封印し、安置して 閉ざされた神宝を取り出せ!

そして火を付けろ!燃やせ! 神の社を根絶せよ!

水が湧く岩のお守りを造り、 荒れ地に水を引いて支配せよ

ここで守護されている神宝とは、元伊勢の御巡幸後、密かに邪馬台国の舞台となる聖地にて安置されたものであるという前提で読み直すと、わかりやすく解釈できます。ある時、神宝を収蔵されていた場所から「取り出せ」、という命令が突如として下りました。神宝の収蔵場所には火が付けられ、あたり一帯は火の海と化してしまうのです。同時にその神宝を祀っていた神社も炎上したのです。そして直前に取り出された神宝は、水が湧き出でる磐座に囲まれた新たな遷座地へと遷されたことを、ヘブライ語で読む「かごめかごめ」は証していたのです。

では、焼かれた神宝の収蔵場所は、どこにあったのでしょうか?その神宝を祀る社はどこに存在したのでしょうか。元伊勢御巡幸が終結した直後の時代でもあり、その後に台頭する邪馬台国の存在を振り返るならば、神宝は邪馬台国にまで持ち運ばれたと考えるのが自然です。魏志倭人伝などの中国の史書に記載されている数々の証言や、それに伴う地勢や文化に関わる数々の状況証拠から察するに、「かごめかごめ」の歌詞の内容に適うだけでなく、元伊勢御巡幸の歴史の流れにも合致する要素を兼ね備えている場所が、国内でただひとつ存在します。それが四国の剣山です。「かごめかごめ」の舞台を剣山と想定することにより、元伊勢御巡幸の終結から神宝の秘蔵とその後の行く末まで、古代史の流れを一貫して見据えることができるようになります。「かごめかごめ」の歌により、その歴史の謎が紐解かれるのです。

四国の剣山が歌の舞台である理由

1.元伊勢御巡幸と結び付く邪馬台国の存在

「かごめかごめ」は神宝の行く末について、ヘブライ語で証しています。その内容は、神宝が突如として持ち出され、その後、秘蔵されていた場所が焼き払われてしまうというものです。果たして、このような歌詞の背景となった場所が、どこかに存在していたのでしょうか。

古来より日本では、神宝の存在が大切に取り扱われてきたことから、「かごめかごめ」が、どの時代について歌っているかは、わかるはずがないように思われがちです。しかしながら、ヘブライ語で読む歌詞の中に含まれる「神宝」、「遷座」、「焼」というテーマに焦点を当てて古代史を振り返ると、そこには「元伊勢御巡幸」と「邪馬台国」という、ふたつの重大な歴史的イベントが浮かび上がってきます。そして、元伊勢の御巡幸に絡む神宝が、「かごめかごめ」の歌が証する神宝と同一であるという前提で、ふたつの時代の繋がりを検証し直すと、元伊勢から邪馬台国へと発展するきっかけだけでなく、邪馬台国が崩壊した後の神宝の行く末まで見えてきます。

元伊勢御巡幸の年代は、崇神天皇から垂仁天皇の時代、紀元前1世紀から元年の頃にあたります。それからおよそ200年隔てた3世紀の初め、日本国の歴史に邪馬台国が登場します。中国の史書には、邪馬台国が台頭する直前、倭国では70〜80年間、男王が国家を統治していたものの、戦乱があり、その結果、女王卑弥呼が治めるようになったと記載されています。よって、元伊勢の御巡幸が完結した後、徐々に内政が乱れていく最中、邪馬台国の種は播かれて育ち始め、その国家形成におよそ2世紀の時間を要した後、大きな産声を上げたのです。その背景には、元伊勢の御巡幸によって遷座された神宝が存在し、それが邪馬台国の創始と関わっていたと想定されます。その神宝が、最終的には邪馬台国の原点となる山上の聖地へ遷され、周辺一帯に集落が造られ、時が満ちるとともに国家体制が整うまでに成長したとするならば、正にそのタイミングはぴたりと合っています。

元伊勢御巡幸の本来の目的は、外敵から神宝を守護し、安全な場所に秘蔵することでした。そのために各地を転々とし、神宝のレプリカも鋳造しながら、本物の神宝がどこに収められているか、わからないように周囲の目をくらますことが目論まれたようです。そして表向きには神宝は伊勢の皇大神宮に祀られて、御巡幸が完結したという形をとりながらも、実際には、全く違う場所に遷されていたという、奇想天外な構想が実現した可能性を否定できません。本物の神宝は伊勢の聖地ではなく、最終的には邪馬台国となる新天地にて秘蔵されたと想定することにより、歴史の流れが見えてきます。

神宝が最終的に遷座した邪馬台国は、外敵の侵入から守られる地勢を有する場所であったに違いありません。魏志倭人伝の記述内容に基づき、邪馬台国の道のりを辿ると、その到達点は意外にも、四国の剣山周辺であったことがわかります(詳細については「邪馬台国への道のり」参照)。魏志倭人伝を含む史書の記述には、様々な地域における距離の詳細までもが記され、剣山頂上のしめ縄
剣山頂上のしめ縄
それらを日本列島の地勢と照らし合わせて読みながら地図を辿ると、その終点が四国の山奥、剣山の頂上周辺であることに気が付きます。つまり、元伊勢御巡幸のゴール地点は実は伊勢ではなく、人里から離れた四国剣山の頂上であり、そこに神宝は秘蔵されることになったのです。安易に足を運ぶことができない、遠い山奥の新しい聖地にて、天皇の権威を象徴する神宝が遷座して祀られたからこそ、神宝は安全に守られ続け、時が経つにつれて邪馬台国は倭国を制する統治力を、国々に対して誇示するようになったのです。

さらに邪馬台国には不思議な霊力が存在していたことも、史書には記されています。神宝の存在と共に霊力を増し加えた女王となる卑弥呼は、鬼道とも呼ばれた不思議な力をもって大衆を惑わし、国家を導いたのです。元伊勢御巡幸の後、邪馬台国に神宝が秘蔵されて祀られた結果、祭祀活動が積極的に執り行われたことでしょう。そしていつしか女王は霊力を身に纏うようになり、国家体制の権威が誇示されるとともに邪馬台国は脚光を浴び、歴史に名を連ねることになったのです。その一大国家の台頭を陰で支えていたのは、不思議な霊力に勝る神宝の存在に他なりません。

しかしながら、邪馬台国の歴史は短命に終わりました。女王卑弥呼が死去した後、崩壊の一途をたどり、3世紀の半ば、266年に卑弥呼の娘である倭の女王の使者が朝貢したことを最後に歴史から消え去ります。そして日本は「空白の4世紀」と呼ばれる時代に突入し、5世紀初頭まで何ら史料が残されてないという、正に歴史の空白に突入するのです。いったい邪馬台国に何が起こったのでしょうか。何故、いとも簡単に邪馬台国は崩壊してしまったのでしょうか。そこに秘蔵されていた神宝は、どうなってしまったのでしょうか。

女王国とも呼ばれた邪馬台国では、多くの偶像礼拝が執り行われ、自らを神とした暴君の高慢な罪は、目に余るものがあったようです。また、邪馬台国の在り方そのものは天皇を君主とする従来の国家体制とはそぐわないものであり、国生みの時代から続く神々への信仰を否定するものでもありました。その結末が周辺国からの攻撃と、火による裁きです。旧約聖書にも記されているとおり、古代では偶像礼拝や不信仰などの罪が深い町々は、神の裁きによって敵国から攻め入られ、焼かれてしまうという事例が少なくありません。同様に、神宝の遷座と共に発展した邪馬台国も周辺国の攻撃を受けて国家が壊滅し、その後、周辺一帯は罪から清めるために焼き打ちにあったと考えられます。結果、邪馬台国は跡形もなく消え去ってしまったのです。その際、天皇の権威を象徴する大切な神宝は、未然に取り出されたことでしょう。神宝の到来により始まった邪馬台国の歴史であるだけに、その終焉は、神宝が取り去られることをも意味していたのです。

邪馬台国の発展と荒廃には、神宝の遷座と守護に関わる重要な歴史が含まれています。聖なる神宝だけに、邪馬台国に安置されていた神宝は、国家が崩壊した後、安全な場所に再び遷されたのではないでしょうか。その史実を「かごめかごめ」の歌は、ヘブライ語で証していたと考えられます。邪馬台国の比定地である四国の剣山に神宝が遷座したと想定することにより、元伊勢の御巡幸から邪馬台国へと繋がる歴史の流れが明確になり、ヘブライ語で読む「かごめかごめ」の歌詞の内容が、より一層、現実味を帯びてきます。「かごめかごめ」の歌詞は、邪馬台国が崩壊した後の時代、秘蔵されていた神宝が取り出され、周辺一帯は焼かれて清められたことを、如実に物語っていたのです。

2.元伊勢のレイラインは剣山が起点

剣山と絡む元伊勢のレイライン
剣山と絡む元伊勢のレイライン

元伊勢御巡幸により守護されていた神宝が、最終的には邪馬台国へ遷されたとするならば、その新しい秘蔵場所は、伊勢からさほど離れていない地域に存在したはずです。その場所を特定するには、邪馬台国の比定地を中国史書の記述を基に検証するだけでなく、元伊勢の御巡幸地に絡む数々のレイラインと、それらの繋がりを調べることも重要です。

一見、不規則に散在しているように見える御巡幸地ではありますが、それらの場所には一つの共通点が存在します。全ての御巡幸地は、四国剣山とレイライン上で繋がっていたのです。剣山と元伊勢に関わる御巡幸地を通るレイラインを地図にプロットすると、どの御巡幸地も剣山と直結するレイラインが存在していることがわかります。それは、四国の剣山を起点として、他の聖地や霊峰、地の指標を結ぶ線上に、それぞれの御巡幸地が見出されたことを意味しています。それ故、これらレイラインの起点となる剣山の意味は重要であり、神宝と何かしらの繋がりを持っていた可能性が見えてきます。

元伊勢御巡幸の目的は神宝の守護であり、人の手の届かぬ安全な場所に神宝を秘蔵することでした。その結果、御巡幸の最終目的地として選ばれた場所が、西日本で2番目の標高を誇る剣山であったと想定すれば、レイラインの起点として特別視された理由が明確になります。しかしながら、例え断崖絶壁が連なる剣山への道のりとて、その場所を公言してしまえば、いつ何どき、盗賊がやってくるかわかりません。神宝の収蔵場所は、隠ぺいするしかなかったのです。それ故、誰もわからない場所に密かに秘蔵することが目論まれ、元伊勢の御巡幸という謎めいた長旅が計画されたのです。そして神宝の秘蔵場所となる最終目的地を剣山と定め、他の聖地と剣山を結ぶレイライン上に並ぶ場所を、御巡幸地の条件としたのです。こうして全ての御巡幸地は1か所ずつ念入りにロケーションが精査され、剣山という起点をレイライン上で共有することができたのです。その結果、それぞれの御巡幸地から剣山の方向を見ると、その御巡幸地と霊峰を結ぶ一直線上の間には、大切な聖地が必ず並ぶようになったのです。それらの聖地と一直線上にぴたりと並ぶ剣山の存在は、例え目にすることはできなくても、人々の心に徐々に根付いたことでしょう。

元伊勢の御巡幸は、神宝が秘蔵された場所の謎を解くための鍵を後世にも伝えることも、その目的のひとつとしていました。それ故、ひとつひとつの御巡幸地に絡むレイラインは剣山を含むものとし、剣山が共通の起点として示されるように工夫されただけでなく、そこが御巡幸の最終目的地であることも分かるように、最終的に淡路島の伊弉諾神宮と剣山を結ぶレイラインと三輪山の緯度線が交差する場所に磐座を置き、そこで神を祀ったのです。これが淡路島の舟木にある石上神社創始の背景です(後述参照)。こうして古代の識者を含め、後世の民でも、元伊勢の御巡幸地と剣山を交えたレイラインの存在に気づくことにより、神宝の秘蔵地となった剣山の重要性を理解することができたのです。

3.神宝の秘蔵が伝承される剣山

西日本で2番目に高い剣山の周辺地域では、ユダヤの秘宝が隠されているという噂が遠い昔から村々で語り継がれています。剣山の麓は「日本のチベット」と呼ばれるほどの交通の難所であり、そこには今もってなかなか開発が進まない東祖谷山村(ひがしいややまそん/現・三好市)が存在します。四国の真ん中に位置する人口2,600人余りの小さい村で、その地域は高山に道を阻まれており、まさに秘境。その東祖谷村でも、ソロモンの秘宝と言われる契約の箱が、この剣山下に隠されていると言い伝えられてきました。村の観光案内でも公式に認知されていることもあり、単なる伝説ではすまされないようです。

剣山の麓にある祖谷地方には、古代から伝承されている民謡があり、その歌詞は、神宝や、イスラエルの契約の箱に関して歌っているという説もあります。

祖谷の谷から何がきた。 恵比寿大黒、積みや降ろした。

伊勢の御宝、積みや降ろした。 三つの宝は、庭にある。

祖谷の空から、御龍車が 三つ降る。(中略)

伊勢の宝も、積みや降ろした、 積みや降ろした。(中略)

三つの御龍車が降った祖谷。 伊勢の宝が積みおろされた祖谷。

この歌の背景について詳細は不透明なものの、剣山に向けて、伊勢から神宝が運ばれてきたことが語られているように読み取れます。祖谷地方の民謡に、神宝の移動を証する歌が残されていることは極めて重要であり、その背景は「かごめかごめ」のものと同じであったと考えられるのです。

剣山に神宝が秘蔵されている、ということを最初に公言したのは、神奈川県出身の元小学校校長である高根正教氏です。高根氏は昭和11年から3年にわたり、剣山の頂上周辺にて発掘調査を行いました。発掘した全長は485尺、すなわち150〜160mにも及び、その結果、多くの玉石や鏡石などの遺物が見出され、同氏は剣山を「人工の山」と称したほどでした。そして高根氏は聖書や古事記を比較研究した結果、剣山にはイスラエルの契約の箱が隠されているのでないか、という結論に達したのです。

その真相は定かではないものの、高根氏の働きは、剣山の存在を世間に知らしめることになります。その後、同氏の剣山に纏わる働きは、御子息である高根三教氏に引き継がれ、筆者も生前、色々な話を高根氏の自宅にて伺うことができました。高根氏の見解には極論が多く見られたものの、剣山に関する洞察力は抜きんでており、周辺の遺跡に纏わる貴重な話を聞くことができたことは収穫でした。

4.金の鶏が秘蔵されたと語り継がれる石尾神社

岩間を通り抜ける石尾神社の参道
岩間を通り抜ける石尾神社の参道
高根氏から教わったことで、最も感銘を受けたのが、徳島県穴吹にある石尾神社の存在です。今となっては、荒廃した岩場のようにしか見えませんが、そこには剣山の謎を解く多くの鍵が残されています。最も大切なことは、古代、人々が剣山を参拝する際にはこの石尾神社にて、まず祈りを捧げ、それから杖立峠という難所を通り抜けて、剣山の山頂へと向かったのです。よって、石尾神社は何故かしら重要な位置づけにあり、剣山と深い絆で結ばれていたことがわかります。

その石尾神社は、空海こと弘法大師も愛してやまない聖地でした。それ故、空海が高野山に拠点を設け、紀伊の吉野川上流にて人生の最後の日々を過ごした際も、高野山周辺にしか見られない「こうやまき」という木を、わざわざ石尾神社まで持ち運び、御神体として佇む巨大な磐座の頂上に植えたのです。それほどまでに何故、空海は石尾神社を大切に取り扱ったのでしょうか。その理由を解明することが、「かごめかごめ」の謎を紐解くことになります。

石尾神社の御神体となる巨石
石尾神社の御神体となる巨石
石尾神社の御神体である巨大な磐座には、古代より、金の鶏が埋蔵されていると伝えられています。それ故、今日では巨石の真横に、「金鶏の風穴」と大きく記された標識が立てられ、その下には小さく、「この穴は清水があり、さらに進むと金鶏の像があると伝えられる」と書かれています。火のない所には煙は立たぬ。何かしらの理由があり、金の鶏に見えるような物体が古代、石尾神社に持ち運ばれ、巨石の下に埋められたのではないでしょうか。このような伝承が2千年以上の時を経てまで語り継がれていることに驚きを隠せません。もしかして金の鶏とは、イスラエルから運ばれてきた契約の箱の上に取り付けられていた、ケルビムと呼ばれる1対の鶏のことかもしれません。それ故、剣山界隈、祖谷の地域では、古くからイスラエルの契約の箱に纏わる伝承が残されてきたのではないでしょうか。

石尾神社の磐座は特筆すべき価値のある、見事なものです。その御神体である結晶片岩の路頭は、100mx50mというとてつもない大きさを誇示しています。その磐座を空海も大切にしていた形跡が残されていることからしても、石尾神社が神宝と絡んでいた可能性は高いと考えられます。

5.鶴石と亀石を崇める剣山

剣山を象徴する鶴石と亀石
剣山を象徴する鶴石と亀石
剣山の頂上近くには宝蔵石と呼ばれる巨石があり、そこから200mほど離れた所には、鶴石、亀石と呼ばれてきた大きな岩石が存在します。これらの巨石は古くから、剣山を登頂する多くの人から崇められてきました。鶴と亀、と言えば、「かごめかごめ」の歌詞に登場する2匹の「すべった」動物が、思い起こされます。剣山は山自体が「鶴亀山」とも呼ばれることもあり、「かごめかごめ」のテーマと一致します。これはもはや単なる偶然とは言えないでしょう。剣山の鶴石と亀石の存在は、剣山に纏わる数多くの伝承の中に「かごめかごめ」の歌も含まれていたことに起因しているのではないでしょうか。

6.剣山周辺が焼かれた痕跡とは

四国では瀬戸内側に高地性集落の遺跡が多数見つかっています。古代社会の不思議とも言われる謎めいた高地性集落は、剣山を中心とする周辺の山々でも存在しました。実際、祖谷地区の周辺には近年までは大きな牧場が存在したほど、剣山周辺でも、人々が居住することができる程度のなだらかな斜面と地勢を有する山麓が少なくありません。四国の山上に高地性集落を造営することは決して難しいことではなく、邪馬台国が存在していた可能性も見えてきます。

標高1,955mを誇る剣山の頂上周辺は、ササ原やコメツツジの野原が広がっています。樹木が全くなく、野原が尾根に沿って広がっていることから、その景観は「馬の背」、とも呼ばれています。このように、ササ原に囲まれたおよそ平坦な高地を有する山々は、剣山の周辺に広がっています。矢筈山、石立山、赤帽子山、天狗塚などがその一例です。
  ササ原とコメツツジの野原が剣山周辺の山々に見られる理由は、古代、これらの山々の頂上周辺にて樹木が切り倒され、集落が造られた形跡の名残ではないでしょうか。そして、「かごめかごめ」の歌詞が証するように、ある時、これらの高地性集落の中で、神宝が秘蔵されていた場所や、神社を有する地域が、ことごとく焼かれてしまったと考えられるのです。その結果、今日見られる「馬の背」のように、山麓の途中から樹木が消え去り、頂上近くになるに従って、野原が広がっているという景色を目の当たりにするのです。これは、山々が古代、山焼きの被害に遭遇し、樹木が一掃された痕跡と考えられ、「かごめかごめ」が証する結末と一致します。

その証として、剣山から24kmしか離れていない神山町には焼山寺が建立されています。第12番札所としても名が知られている焼山寺の創始は、遅くとも飛鳥時代にまで遡り、その名称のとおり、焼き山についての由緒が複数残されています。中には空海が、火を吹いて人々を襲う大蛇と対決した言い伝えもあります。そして山を火の海にする大蛇と、第12番札所 焼山寺の正門
第12番札所 焼山寺の正門
真言を唱えながら戦う空海との一騎打ちとなり、最終的に大蛇は岩窟の中に封じ込められます。しかしながら、丸焼きの被害をまぬがれるこができずに焼山となってしまったことから、焼山寺が建立されたのです。焼山寺周辺の見晴らしの良い場所からは、剣山周辺の山上にて燃え上がる火の手を見ることができたでしょう。それ故、この焼き打ちを目撃した証として焼山寺が建立されたとも考えられます。
  「火を付けろ」、「燃やせ」という「かごめかごめ」に含まれる命令を裏付ける環境が、古代の剣山周辺には整っていたのです。

7.剣山に魅了された船木氏の動向

元伊勢の御巡幸において、縁の下の力持ちとして倭姫命御一行を伊久良河宮から伊勢まで導いたのが、海人豪族として名高い船木氏でした。大陸に由来する船舶技術を携え、経済力にも富んでいた船木氏は、皇室の御一行に船舶を提供しただけでなく、神宝の護衛も任されていたことでしょう。よって、船木氏の動向を見据えることにより、元伊勢の御巡幸における最終段の結末が見えてきます。

美濃国から近畿へと広がる船木氏の拠点
美濃国から近畿へと広がる船木氏の拠点

丹生都比売神社の本殿
丹生都比売神社の本殿
御一行が伊勢の五十鈴河上に到達し、そこで神が祀られた後、船木氏は短期間で何故かしら伊勢の拠点を去り、船で海岸沿いに紀伊半島最南端まで下り、そこから紀伊水道を北上したのです。そして紀伊半島の吉野川上流にある伊都郡へと向かい、丹生都比売神社の周辺に拠点を設けました。直後、船木氏は淡路島北部の山頂へと向かい、そこで巨石を移動するという難題に着手し、磐座の周辺には環状列石にも見える岩石を並べ、祭祀活動を行ったのです。その周辺一帯は舟木と呼ばれ、船木氏の重要な拠点となったのです。その後、船木氏は大阪の住吉大社方面から摂津国へと拠点を広げ、最終的には明石国の加古川から上流に上り、今日、加西市と呼ばれる地域を拠点とし、住吉酒神社をはじめとする数々の神社を建立しました。また、加古川の支流となる東条川沿い、今日の小野市周辺にも船木の集落は広がりを見せ、多くの住吉神社が建立されました。

船木氏が足早に伊勢を去り、淡路島へと向かったことには、大切な理由が秘められていたようです。船木氏により、淡路島の舟木に建立された石上神社は、単に巨石を御神体として祀る神社ではありませんでした。その場所は、元伊勢の原点にある日本の聖地、三輪山だけでなく、長谷寺や斎宮とも同緯度の位置だったのです。しかも、他の御巡幸地と同様に、剣山を結ぶレイラインも構成し、剣山と石上神社を結ぶ直線上には、日本の創始に深く関わる伊弉諾神宮と、霊峰として名高い摩耶山や六甲山もピタリと並んでいたのです。さらに石上神社からちょうど真北に向かうと、そこには明石国の住吉神社も建立され、船木氏の拠点が設けられていたことからも、石上神社の位置が重要であったことがわかります。
  これら船木氏の動向を振り返ると、剣山を意識していたことが明らかになってきます。船木氏が剣山のレイラインに結び付く場所に拠点を設け、そこで祭祀活動を執り行った理由は、元伊勢御巡幸の最終地点となる剣山に神宝を運んだこと以外に答えがありません。だからこそ、剣山と伊弉諾神宮や摩耶山、六甲山を結ぶ線と三輪山の緯度線が交差する地点を、聖地の力がクロスする重要拠点と定め、その場所にピンポイントで巨石を移動し、そこで祭祀活動を執り行ったのです。神宝が秘蔵された剣山を思うあまり、船木氏は淡路島の石上神社において、剣山の神宝を思い起こしながら神を崇め祀ったのです。

美濃国から近畿へと広がる船木氏の拠点
石上神社と船木氏のレイライン

8.剣山に精通した空海が「かごめかごめ」の作者か?

ヘブライ語と日本語を巧みにブレンドした「かごめかごめ」の作者は、語学の達人、弘法大師空海である可能性が極めて高いと言えます。空海は四国に生まれ育ち、遣唐使として中国へ渡った際、ネストリウス派のキリスト教(景教)を学び、ヘブライ語を習得しました。聖書の教えに触れた空海は、帰国して15年後の821年、今日の香川県にある日本最大の灌漑用溜池として知られる満濃池の改修を3か月で完了させ、多くの農民を救済したのです。空海は海外の文化人らも驚嘆させたほどの偉大なる宗教家、詩文家、書道家でありながら、その天分のみならず、土木灌漑建築というまったく異なる分野においても、当時の最先端技術と情報を唐より持ち帰り、即座に活用して多くの結果を残しました。

空海が灌漑治水を学んだ理由は、単に庶民の救済だけでなく、神宝を見出して、新たなる聖地へと遷さなければならないという天命を悟ったからに他なりません。旧約聖書のイザヤ書に繰り返し綴られている重要なテーマは、山と水、そして水路の存在です。空海は神宝が秘蔵されるべき場所は安全であるだけでなく、水源が豊かな場所であることに気づいていました。それ故、全国をくまなく行脚して水路を造り、神宝を収蔵できる環境に恵まれた場所を探し続けたのです。「かごめかごめ」の歌は、収蔵場所が焼かれてしまうことを語り告げていますが、その前に神宝は取り出されて、別の場所に遷されたのです。その巧みな遷座策を実現した張本人が、空海であった可能性が見えてきました。

空海が行脚した四国の巡礼場所は、後に四国をほぼ一周する「四国八十八箇所」となりました。これら空海ゆかりの聖地も、イスラエルルーツの神宝、及び「かごめかごめ」の歌と不思議な繋がりがあるようです。まず注目すべきは88という数字です。一般的に「八十八箇所」は、88の煩悩を消し去り、88の徳を成就するという意味に捉えられているようです。しかし「8」の音読みである「ヤ」はヘブライ語で神を意味し、その8を重ねることにより、八重(ヤエ)、つまりヘブライ語での「神」となります。しかも日本語では幾重にも覆われて隠れてしまう、というニュアンスが含まれているため、「八十八」は「神を隠す」と解釈できます。それを更に明確に表現した言葉が「八重桜」であり、この言葉の読みはヘブライ語で「神隠し」を意味します。おそらく空海は、長年に渡り神宝が秘蔵された剣山を基点にして、その周囲を八十八箇所の霊場で結びながら遍路と定めることにより、多くの信望者が剣山という霊峰の存在を知り、その恩恵を受けることを願っていたのでしょう。

四国の剣山は、空海が生まれ育った東香川の地から近い場所に位置しています。そして古代よりイスラエルの神宝が埋蔵されているという言い伝えが残されていたが故に、剣山を徹底して調査したのではないでしょうか。そして四国の剣山には、確かに元伊勢の御巡幸に結び付く大切な神宝が秘蔵されていたことを知り、それらの神宝の中には、預言者イザヤに導かれて渡来したイスラエルの民が祖国から持ち込んだ、聖櫃に纏わる貴重な神宝が含まれていたと考えられるのです。

それ故、イスラエルの神器が日本に運ばれて秘蔵されているという風説は、あながち作り話ではないようです。偶像が多々残されていた剣山周辺は焼かれて清められることが定められますが、その焼き打ちが実行される直前、それらの神宝が持ち出されて違う場所に移設されたと考えると、「かごめかごめ」の歌の主旨とぴったり合います。そして「かごめかごめ」の作者だけに留まらず、それを実行したのも空海であると想定すると、全体の流れがよりわかりやすくなります。

「かごめかごめ」の歌は、剣山に秘蔵されていた神宝が、新天地に遷されたことを語り告げていたのです。空海の故郷に聳え立つ剣山は、神隠しの象徴であり、鶴と亀という「お守り」の岩によって、今でも霊峰剣山を守護しています。そして神宝は歴史の中に隠され、新天地にて秘蔵されることになりました。これら一連の働きの背後に存在したのが空海ではないでしょうか。そして空海こそ、世界が探し求めているイスラエルの神宝の秘蔵場所を知る主人公だったのです。