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2021/06/15

ソロモンの神宝は剣山に埋蔵されたか? 四国剣山に纏わる神宝の伝承を検証!

ソロモンの秘宝とはなにか?

3種の宝と契約の箱がソロモンの秘宝

再建を待ち望むエルサレム神殿の城壁
再建を待ち望むエルサレム神殿の城壁
四国剣山に纏わるソロモンの神宝とは、古代イスラエル、ソロモン王の時代、王自身が建てられたエルサレム神殿に宝蔵されたユダヤの秘宝を指しています。イスラエルの王として歴史的に最も偉大な地位と権威を得たダビデ王の子、ソロモンは、即位した直後からエルサレム神殿の建築に着手しました。そして神殿の中に神の臨在を象徴するイスラエルの秘宝、聖櫃とも呼ばれる「契約の箱」を収蔵したことが、聖書の歴史書に記録として残されています。

「契約の箱」と宝蔵された「三種の神器」
「契約の箱」と宝蔵された「三種の神器」
契約の箱とは日本でよくみられるお神輿のような形をしており、箱の上部には2匹の金の鶏が向かい合わせに添えられていました。そして箱の中には、神自ら十戒を記された石板が2枚、収められていたのです。そして箱のそばにはイスラエルの神宝として大切に飾られていたアロンの杖と、奇跡の食べ物であるマンナを入れた壺が添えられていました。それ故、ソロモンの秘宝とはエルサレム神殿に納められたこれら神宝のいずれか、つまり「十戒の石板」、「アロンの杖」、または「マンナの壺」を指すことになります。また、これらを収蔵する「契約の箱」も、神の存在そのものの象徴であることから、最も権威ある神宝の一つとして捉えることができます。

それらソロモンの神宝のいずれかが、もしくは全部が、四国の剣山周辺に埋蔵されたという伝承が古くから四国の祖谷地域で語り継がれてきているのです。その証となる最も有名な歌が、祖谷の民謡です。その歌詞のルーツがどこからきたかは定かではりませんが、古代から祖谷の民謡が歌われ、伝承されてきたことに注目する必要があります。

祖谷の民謡も証する3つの宝

祖谷の民謡は、何かしら3つの神宝が遠く伊勢の方から持ち運ばれてきたことを伝えています。

九里きて、九里行って、九里戻る。
朝日輝き、夕日が照らす。ない椿の根に照らす。
祖谷の谷から何がきた。
恵比寿大黒、積みや降ろした。
伊勢の御宝、積みや降ろした。
三つの宝は、庭にある。
祖谷の空から、御龍車が三つ降る。
先なる車に、何積んだ。
恵比寿大黒、積みや降ろした、積みや降ろした。
祖谷の空から、御龍車が三つ降る。
中なる車に、何積んだ。
伊勢の宝も、積みや降ろした、積みや降ろした。
祖谷の空から、御龍車が三つ降る。
後なる車に、何積んだ。
諸国の宝を、積みや降ろした、積みや降ろした。
三つの宝をおし合わせ、こなたの庭へ積みや降ろした、積みや降ろした。

祖谷の民謡

祖谷の民謡に残されている歌詞の信ぴょう性については定かではありません。しかしながら古代、何かしら祖谷の地域にて神がかり的な事件が起きたことに違いなく、だからこそ、このような歌詞の唄がいつまでも伝承されたと考えられます。

つまるところ、祖谷の民謡が主張していることは3点です。まず、三つの宝が祖谷に持ち運ばれてきたということ。それらは御龍車と呼ばれる厳かな乗り物のようなものに入れられて、祖谷まで運ばれてきたこと。そしてこれらの神宝は、伊勢の宝、伊勢から持ち運ばれてきたものと理解できます。すると、伊勢から運ばれた神宝が、ソロモンの秘宝になるのでしょうか。その解決の糸口を見出すために、まず、「三種の神器」について振り返ってみました。

三種の神器はどこにある?

皇位継承における「三種の神器」の役割

平成31年4月30日、天皇陛下が譲位された後、皇太子さまが新天皇に即位され、平成の元号が変わりました。この皇位継承を国民とともに祝福し、皇室の伝統を世間に知らしめるため、践祚(せんそ)の儀、即位式、そして大嘗祭と呼ばれる3つのご大典が執り行われました。

日本三種の神器
日本三種の神器
践祚の儀とは、新天皇が皇位の証となる「三種の神器」を先帝から引き継ぎ、天皇の位が正式に継承されたことを象徴する儀式を指します。それは「剣璽等承継の儀」と「賢所大前の儀」と呼ばれる2つの儀式に分けられています。前者ではスサノオノミコトが大蛇を退治した際に、その尾から取り出したとされる草薙剣と、天照大神を天の石屋から誘い出すために作られた八尺瓊勾玉を、新天皇が受け継ぎます。後者は八咫鏡を用いた儀式であり、すでに鏡は宮中にて祀られていることから、皇居吹上御苑にある宮中三殿を受け継ぐことにより儀式が完結します。

践祚の儀が終わると、その直後、即位式を通じて新天皇は新しい元号による新時代の訪れを国民に告げることになります。そして皇位継承の儀式として最後に催されるのが一代一度の特別な宮中祭祀となる大嘗祭です。新天皇が執り行う最初の新嘗祭りが大嘗祭であり、その年の五穀豊穣に対し神に感謝を捧げます。大嘗祭では秋田や大分で収穫された新米だけでなく、和歌山と淡路の水産物、徳島産の麻織物などがお供えものとして献上されます。その他、各地からの産物も献上され、天皇御代と伝統の継承を国民が一体となってお祝いを申し上げるのです。

三種の神器の起源

皇室の行事には多種多様の儀式が存在します。中でも皇位継承の証となる三種の神器を受け継ぐ践祚の儀は極めて重要です。三種の神器は古事記日本書紀によると、天照大神が新天地を統治せよと孫の瓊瓊杵尊に対して命じた際に、天孫の地位を象徴するべく授けた宝物です。それ故、古代より皇室の歩みとともに、三種の神器は常に皇族と共に存在することとなります。

では、それらの神器は何に由来し、どこで作られ、どのように収蔵されてきたのでしょうか。今日では神宝の現物を見ることができないことから、様々な文献や言い伝え、皇室の仕来りなどの内容を検証しながら推測することになります。

真名井遺跡 ひすい製曲玉
真名井遺跡 ひすい製曲玉
(提供 島根県立古代出雲歴史博物館)
八咫鏡と八尺瓊勾玉については、その出所が古事記と日本書紀に記されています。これらの神宝は、天照大神を岩間から誘い出す際に作られたものです。天照大神が岩裏にお隠れになった際、大神を誘い出すために、岩鍛冶工は鏡を、玉の職人は八尺瓊勾玉を複数作り、それらは天の香山から切り出した真榊にかけられたのです。八咫鏡と八尺瓊勾玉は人間の手によって同時期に作られ、神宝となったことが記紀の記述からわかります。その結果、これらの鏡や勾玉はその後、神宝として大切に扱われることとなりました。それら神宝の名称には、どちらもヘブライ語で神を象徴する「ヤ」、すなわち「八」という文字が含まれていることも、神聖なる宝であることを証していると考えられます。

その後、天孫降臨の際には、天照大神は新天地に向かわれる民に対して三種の神器をお添えになり、御自身の姿を写された八咫鏡については「この鏡はひたすら私の御魂として、私を祭るように祭り仕えなさい」と語り告げたと古事記は伝えています。それを機に、八咫鏡は神聖化されることとなります。

国宝「直刀」金銅黒漆塗平文拵 附刀唐櫃
国宝「直刀」金銅黒漆塗平文拵 附刀唐櫃
(提供 鹿島神宮)
草薙剣の出所に関しては、八岐大蛇の神話から、その正体について理解する必要があります。八岐大蛇とは海を渡って列島を襲う怪物であり、人々を拉致し、苦しめていたということからして、海賊船のような存在であったと考えられます。その無法者達に対しスサノオが戦いを挑み、天敵を退治した際に、大蛇の尾から剣が見つかったというのが話の流れです。それはおそらく、船の後尾から神宝の剣が見つかったことを意味していたのではないでしょうか。それがいつしか神話化され、記紀には悪のシンボルとなる大蛇の尾として記されたと解釈できます。

よって草薙剣の出所は日本ではなく外来のものであり、アジア大陸より船によって運ばれてきた神剣だった可能性が考えられます。そしてスサノオが船の後尾にて発見した剣は、神宝として大切に扱われ、天照大神に献上されたのです。その後、天孫降臨の際に神剣は瓊瓊杵尊に授けられました。そして日本武尊の東征においても山の草原を刈り取るために神剣が振るわれたことから、草薙剣と呼ばれるようになります。

三種の神器は何処に

その後の歴史の流れにおいて、日本書紀によると瓊瓊杵尊に授けられた三種の神器のうち、天の岩戸事件の際に作られた八咫鏡は伊勢神宮に祀られることとなりました。「これがすなわち伊勢に斎き祀る大神である」と記載されているとおりです。その鏡には、岩間を通る際についてしまった小さな傷跡があり、「その瑕は今もなお残っている」ことも記されています。

八咫鏡の模写
八咫鏡の模写
その八咫鏡などの神宝が伊勢神宮にて祀られる前段においては、元伊勢の御巡幸と呼ばれる過去に類を見ない壮大なスケールの皇族による長旅が計画されました。そして最終的に1世紀近くの年月をかけながら、元伊勢と呼ばれるにふさわしい厳選された聖地にて、神宝は順次奉斎されました。その後、元伊勢の行脚を導いた倭姫命とその御一行は伊勢神宮の地に辿り着き、神託によりそこに皇大神宮が創建され、運ばれてきた八咫鏡は天照大神として祀られたのです。伝承や記紀の記述から察するに、八咫鏡の形代(レプリカ)も古くから作られており、その後、同じ名前で呼ばれる鏡が皇室でも保有されることになります。

草薙剣については、最終的に愛知県名古屋市の熱田神宮に遷され、それが御神体として祀られることとなりました。「この剣は今尾張国の吾湯市村にある。つまり熱田の祝部がお守りになっている神がこれである」と日本書紀には書かれています。草薙剣という名前の由来は、景行天皇の皇子である日本武尊が野原に火を放たれて殺されそうになった時、その剣をもって草を薙ぎ払うことにより、生き延びることができたからとされています。

参拝者が絶えない熱田神宮
参拝者が絶えない熱田神宮
ところが崇神天皇の時代になると国家情勢が悪化し、海外からの渡来者が海を渡って大勢押し寄せてきただけでなく、列島内でも国々は分裂し、内乱の噂が絶えなくなります。そのような社会情勢を背景に、大切な神宝を盗難から守るために草薙剣や八咫鏡の形代(レプリカ)が作られ、宮中においてはそれらの形代が皇族により祀られました。そして本物の草薙剣と八咫鏡は伊勢神宮に移されることとなったのです。景行天皇の時代では、東征を託された日本武尊に草薙剣が授けられ、その後、尾張の熱田神宮にて草薙剣は秘蔵されたと語り継がれていますが、真相は謎めいています。

伊勢神宮 本殿鳥居
伊勢神宮 本殿鳥居
今日、皇室にて保有している三種の神器は「剣璽の間」と呼ばれる部屋に安置されています。八尺瓊勾玉は古くから皇居に存在し、八咫鏡と草薙剣の形代も皇室は保有してきました。つまり皇居で祀られている三種の神器はいずれも形代であり、伊勢神宮と熱田神宮にて保存された神宝と同等の形代であるかどうかも定かではありません。また、草薙剣においては、源氏と平氏との最後の合戦である壇ノ浦の戦いにおいて安徳天皇とともに水中に沈み、失われてしまったという伝承がありますが、その失われた草薙剣でさえも形代であったのではないかと語り継がれています。

では、本物の三種の神器はどこに秘蔵されているのでしょうか。八咫鏡が伊勢神宮にて祀られ、草薙剣は熱田神宮に移された、というのはあくまで記紀に記された伝承です。よって、一時はそれらの聖地に収蔵されたと考えられても、神宝がずっと同じ場所に秘蔵され続けたのか、それともその後、どこか違う場所に遷されてしまったか、定かではありません。また、本物の八尺瓊勾玉は今、どこに収蔵されているのでしょうか。八咫鏡と同様にどちらも国内で作られたものであることに違いはなく、きっと日本のどこかに収蔵されているはずです。

三種の神器は皇室の権威の象徴となる神宝だけに、天皇の権威を維持するためにも大切に秘蔵する必要がありました。特にアジア大陸の情勢に不穏な空気が漂いはじめ、国内においても地方の紛争が悪化して内政が不安定になったことから、それら神宝を保護するために、多くの形代、すなわちレプリカが作られることになったと考えられます。その結果、本物と形代がどこかですり替えられた可能性も否定できず、本物の神宝がどこに運ばれて秘蔵されたか、いつしか実態がわからなくなったのです。

剣山に神宝が秘蔵されたと考えられる5つの理由

神宝の秘蔵に適した剣山の地勢

皇室の権威を象徴する神宝、三種の神器を外敵から守り、代々にわたり末永く安心して収蔵するためには、どこに持ち運べばよかったでしょうか。古代人の英知を駆使して検討されたとするならば、いかなる外敵からも安全に守られる場所が厳選されたはずです。その秘蔵場所として国内でも筆頭候補にあげられる場所が四国剣山です。四国剣山に神宝が秘蔵された可能性が考えられる根拠は4つあります。

広大な四国吉野川のデルタ
広大な四国吉野川のデルタ
まず、剣山の地勢に注目です。四国剣山の周辺は日本国内でも険しい崖と急斜面が連なる秘境に囲まれており、四国沿岸から剣山まで徒歩で到達するには大変な労力を要します。四国の沿岸から山頂を目指して歩きはじめるにしても、平野部は広大なデルタが広がり、川幅が数百メートルに及ぶ大河が何本も行く道を阻みます。しかも剣山までの距離は長いだけでなく、その後に続く山の傾斜がひどく急であり、歩行するに困難な道なき道、崖っぷちの連続なのです。それ故、もし、その山々の最高峰である剣山周辺に神宝を秘蔵できるならば、外敵から安全に守ることができると考えられたことでしょう。

古代、イスラエルからの渡来者が日本を訪れたとするならば、まず、周辺の島々をくまなく船で巡り渡り、一連の「国生み」ともよばれる島々の探索に没頭したはずです。そして新天地において一番高い山を確認するだけでなく、遠くに見えるその他の山々を確認しながら、高山を島ごとに特定し、それらの山々にて神を祀り、新天地の祝福を祈り求めたと考えられます。

淡路島から望む剣山
淡路島から望む剣山
西日本で2番目の標高1973メートルを誇る剣山は、紀伊水道、淡路島、そして熊野の山々からも、その頂上を遠くに眺めることができます。西日本最高峰は石鎚山ですが、その標高は1985メートル、ほぼ剣山と同じであるだけでなく、淡路島からは剣山しか遠くにその頂上を望むことができないことから、古代では実質上、剣山が最高峰と考えられていたことでしょう。

「終わりの日に、主の神殿の山は山々の頭として硬く立ち、どの峰よりも高くそびえる」という記述が旧約聖書のイザヤ書にあります。淡路島や紀伊水道の海原からも望むことができる剣山は、この聖書の言葉にふさわしく、他の山々の峰より高く聳え立ちます。奈良の南方、熊野の山頂からも遠くに見える剣山の頭がひとつ抜きん出ていることからしても、剣山がまさに、主の神殿の山と考えられたに違いありません。

剣山周辺は崖に囲まれた急斜面
剣山周辺は崖に囲まれた急斜面
しかも四国のおよそ中心に位置し、その山頂に到達するためには極めて困難な山道を1か月近くかけて登らなければならないのです。魏志倭人伝を代表とする中国史書に、邪馬台国への道のりが徒歩で1か月かかると記されていることから、剣山の周辺地域が邪馬台国であった可能性も垣間見えてきます。いずれにしても、神を崇め祀るに最もふさわしい秘境の地と考えられたに違いなく、大切な神宝を安心して収蔵することができた剣山の存在は重要視されたと想定されます。

高地性集落に囲まれた剣山

剣山周辺は川の両岸も急斜面の崖が多い
剣山周辺は川の両岸も急斜面の崖が多い
剣山の麓につながる瀬戸内周辺を囲む山々では、古くから高地性集落が存在しました。その史実が、剣山に神宝が秘蔵されたと考えられる2つ目の理由です。せっかく平地があるのに、わざわざ不便な山の上に集落を作ったのは、古代の民が崇拝する神は山の神であり、高い山の頂きに住まわれるという信仰があったからに他なりません。それ故、古代の渡来者は日本列島に居住の基点を見出す際、周辺の地勢をしっかりと研究したうえで、まず、標高の高い山を見定め、その頂上周辺にて祭祀活動を行ったのです。

高地性集落における祭祀活動の痕跡は、今日でも列島各地で確認することができます。実際、四国や山陰、山陽地方などには高地性集落が広範囲に存在していたことが知られています。特に剣山の周辺では、西側には祖谷、奥祖谷から、その東北側は木屋平から焼山寺周辺の神山に至るまで、広範囲に高地性集落が古くから存在していました。よって、それら高地性集落よりも標高の高い剣山にて神が祀られ、神宝が秘蔵されるということは、ごく当然の成り行きだったとも考えられます。

剣山頂上周辺の緩やかな斜面
剣山頂上周辺の緩やかな斜面
また、剣山近くの奥祖谷周辺の山々には、明治時代まで大規模な牧場が存在したことも知られています。その後、牧場を管理する若手の人々が都市部へ流出し、働き手が不足して経営が成り立たなくなったことから衰退を続け、最終的にはそれら牧場の跡地では国の政策により、杉の植林が盛んに行われるようになったのです。そして瞬く間に、多くの古代集落や牧場の跡地に杉の木が育ち始め、いつしか牧場の姿は、跡形もなく消え去っていきました。今となっては高地性集落の名残さえなかなか見ることができませんが、これら消滅した牧場の過去には、高地性集落の存在がありました。

剣山周辺の山々では杉植林の場所を見極めることにより、牧場や高地性集落が存在していた可能性のある場所を知ることができます。それら杉植林は剣山を中心に、その西側は三好市から美馬郡、そして東側は焼山寺そばの神山から勝浦郡に及ぶ広範囲に広がっていることからしても、剣山周辺には高地性集落が多く形成された時代があったと想定されます。よって剣山周辺には古代、大規模な集落が存在しただけでなく、それは大切な神宝を秘蔵して守るための要塞の役割を果たしていたのではないでしょうか。

湧水が溢れる剣山頂上周辺
湧水が溢れる剣山頂上周辺
さらに、四国の高地には豊かな水源が多数存在し、剣山周辺も例外ではありません。剣山では頂上周辺から麓に至るまで随所に水が湧き出ており、水源に恵まれていることは一目瞭然です。これほどまでに十分な量の水源があるからこそ、古来、山頂から麓周辺にかけて大勢の人が居住できる集落が作られていったことでしょう。特に祭壇や神殿の周辺では、様々な清めの儀式を執り行うためにも十分な水を供給する必要があります。よって、豊富な水量が確保できる剣山では、色々な工夫が施されながら水源が要所にて確保されたと考えられます。

ソロモンの秘宝が隠されているという伝承

剣山の山頂にある注連縄
剣山の山頂にある注連縄
3つめの理由は、剣山周辺の祖谷地方において、古来より剣山に纏わる様々な言い伝えがあり、特に剣山近郊のソロモンの秘宝にまつわる伝承も残されていることです。剣山は山岳信仰の霊場として名高い山です。つい昭和の初めまでは、女性が近づくことさえ許されない女人禁制の霊山だったのです。その剣山に、イスラエルの「契約の箱」と、それに纏わる神宝が埋められているという伝承が地元で語り継がれてきたのです。今日、三好市の役場で管理されている祖谷の観光案内にも、それらの言い伝えについて公式の記述が見られます。

例年7月に行われる剣山祭りで、契約の箱に酷似している神輿を担ぎながら剣山頂上まで登る風習は、イスラエル文化の名残ではないかと考えられます。また、近郊にある神明神社では、古代イスラエルの祭祀場に類似した形状の遺跡も存在します。そこで、剣山に纏わる神宝の伝承について、これまで囁かれてきている内容をまとめてみました。

まず、剣山の麓、奥祖谷周辺の地域では、古くから安徳天皇の剣が隠されているという伝承があります。安徳天皇の剣とは、草薙の剣、もしくはそのレプリカを指します。つまり三種の神器のひとつである草薙剣が、剣山のどこかに隠されているのではという言い伝えがあり、剣山の麓集落にて語り継がれてきているのです。

志谷奥出土 銅剣集合
志谷奥出土 銅剣集合
(提供 島根県立古代出雲歴史博物館)
また、ソロモン王の秘宝が剣山に埋蔵されているという伝説が祖谷地域に残っていることにも注目です。ソロモンの秘宝と限定されている宝は特にないことから、おそらく契約の箱、またはそれに纏わるイスラエル神宝を指していると考えられます。イスラエルの契約の箱に関わる神宝は3つあります。まず十戒が刻まれた契約の石板、次に芽を出したアロンの杖、最後にマンナと呼ばれる天からの食べ物を入れた金の壺です。記紀に書かれている三種の神器とイスラエル神宝の類似点は、その形状にあります。十戒の石板は薄い板であることから八咫鏡の形、アロンの杖は細長いことから草薙剣、また、マンナの壺は丸い容器であることから八尺瓊勾玉の形に類似しています。

前述したとおり、八咫鏡と八尺瓊勾玉は国内で作られたものであることから、ソロモン王の秘宝にはなり得ません。しかしながら草薙剣については外来の神宝であると想定できることから、それがイスラエルから運ばれ、剣山に埋蔵されたという可能性は否定できません。もしソロモンの秘宝に関する伝承が事実であり、実際に剣らしきものが剣山に秘蔵されたと仮定するならば、それは草薙剣としてスサノオが八岐大蛇から勝ち取った剣か、もしくは契約の箱に収められていたアロンの杖、いずれかである可能性があります。

剣山の発掘調査から見つかった鏡石の存在

この鶴石と亀石の底の部分から発掘調査が行われた
この鶴石と亀石の底の部分から発掘調査が行われた
4番目の理由は、実際に剣山で発掘調査を手掛けた方々が存在し、剣山の頂上が人工のものであるということを公表したことにあります。四国剣山顕彰学会の発起者である故高根正教氏は昭和11年から3年かけて剣山の発掘調査を行い、「人工の鏡石」の出土に成功したと言われています。その鏡石とは一辺が2メートルの正方形の板が2枚、粘土をはさんで合わさったものであり、それをもって“山頂が人工でできている”ことを証明する証拠物件としたのです。その鏡石の破片は現在も剣山の中腹、見ノ越にある剣神社に保管されていると伝えられています。高根氏は自らの発掘調査の結果を「四国剣山千古の謎」などの著書を通して解説し、剣山に神宝が埋蔵されていることを人々に訴えてきました。

その後、高根正教氏のご子息である高根三教(カズノリ)氏が顕彰学会の後継者として、神宝にまつわる様々な情報を提供し続け、顕彰学会を通じて、発掘調査の真相を伝えられました。筆者は生前、高根三教氏と親交があったことから顕彰学会の経緯や、経験談などをお聞きすることができました。高根氏は、剣山が「徹頭徹尾、人工の山」であり、秘宝が埋蔵され、山中に埋められた後に盛土された形跡があることを強く訴えていました。

剣山 宝蔵石
剣山 宝蔵石
剣山頂上にはその場所に似つかない宝蔵岩と言われる巨石があるだけでなく、鶴石と亀石と呼ばれる巨石も存在します。その鶴石と亀石の根元から発掘調査がはじめられ、鏡石の発見に及んだというのです。そして昭和12年には54メートル、昭和13年には131メートルまで掘り進み、太陽石だけでなく、「アーチ状の天井をした空間」や、「三日月形の大理石」、「人工的な積み石構造」の壁面も見つかったと記録されています。その信ぴょう性を立証することは明確な証拠がないだけに困難を極めますが、剣山の山頂が人工である可能性を検証する手がかりとなる情報はふんだんに存在します。

剣山の亀石は真横から見ると巨石!
剣山の亀石は真横から見ると巨石!
剣山の頂上近くにある2つの巨石が鶴石、亀石と呼ばれるようになったのは、もしかしたら古代、この山にイスラエルからの渡来者が訪れたことが要因かもしれません。何故なら、ヘブライ語で「鶴」(ツ)は「神」を意味し、「亀」(カメア)は「お守り」を意味するからです。よって鶴石、亀石とは、神のお守りとなる磐座のことを指し、ヘブライ語では明確な意味がある言葉だったのです。そのヘブライ語ルーツの名称で知られる鶴石、亀石の岩の下から実際に発掘調査が行われて文献まで出版されたことは注目に値します。

剣山に登る途中の石尾神社には金の鶏が!

剣山の麓にある穴吹と呼ばれる村の近くには石尾神社と呼ばれる巨石を拝する神社が山の中腹にあります。この神社の存在こそ、剣山に神宝が埋蔵されたと考えられる5つ目の理由となります。

石尾神社がご神体とする南北120mを超える巨石の景観は見事であり、その上にはコウヤマキと呼ばれる高野山に生息している樹木が何故かしら茂っています。高野山は空海の最終拠点でもあり、空海自身も石尾神社を参拝し、その場所の重要性に気付いていたからこそ、空海自身が高野山の樹木を人工的に植林したのかもしれません。

岩の裂け目が参道 石尾神社
岩の裂け目が参道 石尾神社
空海が石尾神社を知っていた理由は明らかです。古代、四国吉野川周辺の平野部から剣山に行くためには、人々はまず、石尾神社にてお参りしたと言い伝えられています。そこから杖崎峠を越えて、剣山頂へとひたすら長い道のりを歩いたのです。石尾神社と剣山とは古代から深い繋がりがあったのです。よって四国の香川に生まれ育った空海も、古くから古代聖地として知られていた剣山に登る際には、必ずや石尾神社の岩場を経由し、その巨石下にて参拝した後、杖崎峠から剣山へと向かったことでしょう。

金の鶏が秘蔵されると語り継がれた石尾神社の磐座
金の鶏が秘蔵されると語り継がれた石尾神社の磐座
石尾神社の御神体となる巨石には大きな割れ目があり、遠い昔から「金の鶏」がそこに埋蔵されたという伝承が残されています。「金の鶏」といえば、契約の箱の上に向かい合って据え付けられたケルビムと呼ばれる2匹の羽を広げた鳥が思い浮かびます。もしかして、契約の箱がこの巨石の下に収められている可能性はあるのでしょうか。いずれにせよ、ソロモンの神宝が秘蔵されていると囁かれている石尾神社は剣山の麓にあり、そこを関門として古代の人々は剣山を訪れたということから石尾神社は剣山の参道にあたる存在です。そこに「金の鶏」が埋蔵されたという伝承が古くからあること自体、その地域にイスラエルからの渡来者が訪れ、岩なる神を祀り、そこに何かしら神宝のようなものを掲げ、一時的にでも埋蔵し、人々の信仰の対象にしたと考えられます。

さらに剣山の東南方向、徳島県と高知県境にある竹ヶ島の西側に浮かぶ小さな二子島にも、熊野権現である「金の鳥」が飛来したという伝承が残されています。その「金の鳥」を祀るのが近隣の熊野神社です。二子島に隣接する竹ヶ島神社では、古くから海中神輿の祭りが例年執り行われています。神輿の形状は契約の箱に酷似していることからしても、海中神輿のルーツには、契約の箱の存在があるかもしれません。

古代、海を渡ってアジア大陸より到来した人々は、契約の箱を船に載せて日本列島まで辿り着いた際、それを陸地に運ぶには海中から大勢が契約の箱を担ぐ必要がありました。その記念すべき行事を祝して、海中神輿の祭りが始まった可能性があります。そのような大事な祭りのきっかけがなければ、わざわざ大切な神輿を担いで海の中にまで入り、塩水につけるという考えには至らなかったはずです。大陸より持ち運ばれてきた契約の箱のケルビムは、四国竹ヶ島の近郊を経由して石尾神社に運ばれ、さらには剣山にてソロモンの秘宝として埋蔵されたことが、四国の祖谷を中心とする地域で語り継がれてきた根源にあるのでしょうか。

元伊勢御巡幸に秘められたレイラインの真相

神宝を秘蔵する聖地と元伊勢御巡幸の関係

剣山にソロモンの神宝が秘蔵されたという伝承の信ぴょう性を検証するにあたり、貴重な参考資料となる歴史的イベントが、元伊勢の御巡幸です。紀元前一世紀、崇神天皇から垂仁天皇の時代にかけて、神宝を携えて皇族が各地を行脚するという、歴史に類を見ない画期的な構想が実現しました。その元伊勢御巡幸の主旨、すなわち何故、長い年月をかけて各地を転々と移動しながら伊勢まで辿り着いたのか、という歴史に前例のない長旅の目的を見据えることにより、神宝の存在とその行方に関する理解を深めることができます。

豊鍬入姫命から倭姫命に引き継がれた御巡幸は1世紀近くも続きましたが、それは決して、あてもなく各地をさまようような旅ではありませんでした。皇居近くの霊峰、奈良の三輪山を起点とし、近畿地方を中心に年月をかけて神宝とともに移動し続けた御巡幸は、後世において元伊勢と呼ばれるようになる各地の拠点に滞在した後、最終的に伊勢を長旅の終点として完結します。日本書紀には、垂仁天皇25年に倭姫命の御一行が神風の伊勢国に到達し、大神のお教えのままに「その祠を伊勢国に建て、そのために斎王宮を五十鈴川のほとりに建てられた」と記されています。そして「伊勢国は天照大神が初めて天より降臨された所」として知られるようになりました。

元伊勢の御巡幸はごく一般的に、伊勢神宮を最終目的地とした皇族の旅として、伊勢に天照大神を祀ることを念頭に置いたプランのように考えられています。神宝を護衛し、守り続けながら、80余年という歴史に類をみない長い年月をかけて、御巡幸地の場所を移動し続け、海と山の幸に恵まれた伊勢において天照大神を祀るというのが、長旅の主旨と理解するのが普通の解釈です。

しかしながら、御巡幸ルートの途中で厳選された元伊勢の場所を調査すると、長旅における本来の目的は伊勢神宮の建立だけに限らず、神宝を外敵から守るため、その収蔵場所を伊勢神宮とは別に特定し、その場所を示唆することにあった可能性が見えてきました。元伊勢御巡幸の終点は一見、伊勢のように思われがちですが、実際には伊勢に到達した船団は、その後、何故かすぐに伊勢を離れて紀伊半島をさらに南下し、紀伊水道の方面、すなわち紀伊半島の西方へと向かっていたのです。つまり、何かしら重要な案件があり、船団は紀伊水道から紀伊半島の西岸、淡路島、もしくは四国の方面へ向かう必要があったと考えられます。

その理由として挙げられるのが神宝の存在です。元伊勢御巡幸とは、外敵から神宝を守るという、熱い思いに導かれた信仰の旅路だったことから、本物の神宝を護衛するために、船団は伊勢を超えて次の最終目的地へと神宝を運び続けたとは考えられないでしょうか。表立っては、御巡幸を導く倭姫命の御一行は、神宝を携えながら各地を転々と巡り歩き、伊勢を最終地点として、そこに神宝を収蔵し、祀ったことになりました。しかしながら実際に祀られた神宝は携えてきた形代、レプリカであり、本物の神宝は伊勢から持ち去られ、船団と共に別途定められた最終目的地へと運ばれたとも想定できます。まさに神隠しのような状況を、元伊勢御巡幸は暗黙のうちに作り出していたのでしょうか。

御巡幸の主目的は外敵から神宝を守ることであり、その在処を隠すために確実な保全方法が模索されたと考えられます。御巡幸という長旅を続けて各地で神を祀ることにより、三種の神器をいつ、どこに移動し、どこで収蔵しているのか、世間にはわからないようになりました。しかしながら、数多くの御巡幸地の場所は、互いに遠く離れた位置にあっても、ひとつの共通点となる場所で結ばれていたのです。その事実を検証することにより、元伊勢御巡幸が最終目的地とした場所が浮かびあがるだけでなく、神宝が宝蔵された場所が後世の人々でも見出せるように念入りに仕組まれた計画の内容が見えてきます。

元伊勢御巡幸地 行程地図
元伊勢御巡幸地 行程地図

元伊勢御巡幸の歴史的背景と社会情勢

紀元前後、倭国では多くの小国家に分裂し、天皇による統治が困難な局面を迎えていました。アジア大陸においても動乱が生じているさなか、国の威厳を守り、神国たる存在を人々に知らしめるためにも、先代から受け継がれてきた神宝を保全し、外敵から護衛することは、国家の最重要課題であったと考えられます。しかるに現実問題として国家態勢を安定化するには程遠く、多くの難題が山積みになっていました。

まず、紀元前2世紀頃より大陸からの渡来者が急激に増加し、日本列島各地で人種間の歪みや社会的な混乱が起きていたことが、倭国の統治が困難に陥った最も大きな理由として挙げられます。大陸では秦の始皇帝による国家采配が紀元前210年には終焉を遂げ、前漢、後漢の時代へと突入し、中国大陸全体が混乱の時期へと向かいました。その結果、始皇帝が死去した後、政治的混乱や迫害などを理由に、大勢の民が中国から東方へと逃亡し、朝鮮半島を経由して海を渡り、日本列島に渡来したと考えられるのです。

歴史人口学的にみても、その当時、数世紀にわたる日本への渡来者の数は少なくとも100万人から150万人とも言われています。3世紀、応神天皇の時代になると、秦氏の先祖とされ、融通王とも呼ばれた渡来人、弓月の君が「自分の国の人夫120県分を率いて帰化」したことが日本書紀にも記されています。これら膨大な数に上る渡来人の到来により、長年にわたり政治情勢がさらに不安定になっただけでなく、皇族の存在すら脅かされるようになりました。結果として、大切な神宝は常日頃、盗難の危機にさらされることになりました。

三輪山
三輪山
国家体制がまだ整っていなかった崇神天皇や垂仁天皇の御代、神宝を護衛することは極めて困難であったに違いありません。神宝が収蔵された各地の神社周辺の地勢を検証するだけでも、それらがいかに無防備な場所であったかがわかります。古代の霊峰として記紀にも明記されている聖地、三輪山を例にとれば標高467mしかなく、平地からものの30分歩くだけで頂上に到達してしまいます。しかも周辺は山と丘に囲まれているだけなので、外部からの攻撃を防ぎようがありません。また、草薙剣が宝蔵された尾張の熱田神宮についても、ごく平坦な場所にあることから無防備に等しいのです。同様に、伊勢神宮を見ても、ゆるやかな丘陵が連なるだけの広大な地であり、神宝を秘蔵するにも、その術に限度があります。

これらの状況を見る限り、神宝を真に敬い、大切にする民ならば、人々の手の届かない全く違う場所に本物を秘蔵することを考えるのではないでしょうか。ちょうどピラミッドが一見、王族の墓のように見えても、実際の墓は別の場所に存在し、上手に隠されていたのと同様です。それ故、皇居に収蔵された神宝においても、それらはすべて形代であった可能性を否定できません。また、本物の神宝が一時は収蔵された熱田神宮や伊勢神宮においても、時代の流れとともにいつしか本物が形代とすり替えられたのではないかと推測されます。では、本物の神宝はどこに遷されてしまったのでしょうか。それが元伊勢御巡幸の謎だったのです。

神宝の秘蔵場所に繋がる元伊勢御巡幸地

そのような不安定な国内外の情勢を背景に、元伊勢の御巡幸という奇想天外な計画が遂行されました。一世紀近くにわたり各地を転々とする一連の元伊勢御巡幸には大切な目的があり、後世に伝えるべき重大なメッセージが秘められていたのです。一見、とめどもないような複雑な旅路を示す御巡幸地の数々ですが、実はそれらすべては地理的に重要な共通点を有しています。それは、御巡幸地のすべてが、その共通の条件を有するべく、巧みな構想と手法によってピンポイントに聖地の場所が特定されていたことを意味します。

すべての御巡幸地は、ある一つの地点と地理的に結び付けられていました。その実態は、国内の地理を細部にわたって検証し、御巡幸地と全国にある聖地や霊峰との繋がりを精査するならば、後世の人々でも解明できるようにしたと考えられます。つまり、すべての御巡幸地を、中心となる一つの地点と結び付けることにより、いかにその場所が重要であるかを暗黙のうちに示唆することを、古代の識者は目論んだことが窺えます。

その中心地とは、神宝の秘蔵場所以外のなにものでもないはずです。元伊勢の御巡幸は、神宝を守ることが目的であり、神隠しのように神宝を人々の目からくらましてしまうことにありました。その神宝の在処を密かに示しているのが、元伊勢の御巡幸の結末です。その秘蔵場所は、思いもよらず四国の剣山だったのです。

レイラインで繋がる剣山と元伊勢御巡幸地

すべての元伊勢御巡幸地は、共通の地理的要素を有していました。それは四国の剣山と、列島各地の霊峰や名山など地勢上の重要な拠点や古代神社などの聖地を結ぶ直線上に、御巡幸地が並ぶという構想に基づくものです。その結果、元伊勢御巡幸地は列島内の重要な場所に紐付けられるだけでなく、それらすべてが剣山に結び付いている、という不思議な状態が実現したのです。

その背景には、聖地や重要な拠点が仮想の一直線上に並ぶというレイラインの考え方を古代の人々が重要視した歴史があったのです。

元伊勢御巡幸の目的は、神宝が秘蔵された剣山の場所を暗示することでした。それ故、神宝を携えて神を祀った御巡幸地のすべてが、遠くに聳え立つ剣山とレイライン上で結び付けられることにより、神宝の行方が後世の人々でも理解することができるようにしたと考えられます。つまり、元伊勢御巡幸の結末とは、神宝が四国の山上、剣山にまで持ち運ばれたということだったのです。剣山こそ、古代、神宝が秘蔵された場所であったことを御巡幸は暗示していたのでしょう。

古代英知の結晶が元伊勢御巡幸であり、剣山と一直線上に結び付けられていた御巡幸地の存在が明らかになってきました。今日、地図を実際に見ながらレイラインの存在を確認できることからしても、古代、剣山が重要な基点であり、そこに神宝が携えて行かれたことを想像するに難くありません。(「日本のレイライン」参照)

剣山と絡む元伊勢のレイライン
剣山と絡む元伊勢のレイライン

元伊勢御巡幸と繋がる邪馬台国の真相

御巡幸の船旅を担った古代海洋豪族の船木一族

倭姫命による元伊勢の御巡幸において、美濃国(岐阜県)、伊久良河宮から川を下り、尾張国(愛知県)、伊勢国(三重県)への船旅をガイドした古代海洋豪族の船木一族の存在にも注目です。元伊勢御巡幸も始まってから既に半世紀以上を過ぎた頃、琵琶湖の東、坂田宮に近い美濃国からの最終節となる旅路は、船による移動が大半を占めました。その船旅も海洋豪族の強力なサポートと護衛があったからこそ、倭姫命御一行は安心して川を下り、海岸沿いを伊勢に向けて移動することができたのです。「倭姫命世紀」の記述からも船の存在が当時、いかに重要であったかを垣間見ることができます。

美濃国~近畿 船木氏の拠点
美濃国~近畿 船木氏の拠点

船木一族の証となる淡路島舟木の巨石

その船旅を取り仕切ったと考えられる船木一族は、元伊勢御巡幸の後、紀伊半島を旋回して吉野川上流に拠点を設け、船の塗料となる原材料として不可欠であった辰砂、水銀を発掘しながら地域の周辺に、丹生都比命神社をはじめとする神の参拝場所を造営したと考えられます。その後、再び川を下って紀伊水道をさらに北上し、淡路島の北部の沿岸に上陸します。そして今日の淡路市東浦山奥の小高い丘に一族の拠点を置き、その場所を舟木と呼びました。その中心地には巨石を置き、周辺には環状列石を並べ、そこでも神を礼拝したのです。それが今日の石上神社です。

元伊勢御巡幸の延長線として、一見何の目印もない淡路島の舟木が重要であった理由は明確です。まず、その場所は元伊勢御巡幸の始点となる奈良の三輪山だけでなく、伊勢神宮の斎宮とも同緯度にあります。また、国生みの創始者である伊弉諾尊を祀る伊弉諾神宮と、剣山頂上とを結ぶ線上にもあり、その延長線上には、北東方向に摩耶山と六甲山が存在します。つまり、淡路島の舟木は、元伊勢御巡幸を締めくくる意味においても、御巡幸の始点である三輪山と、その最終到達点となる伊勢、そして神宝が秘蔵されることとなった剣山をレイライン上で結び付ける重要な拠点だったのです。

三輪山と石上神社のレイライン
三輪山と石上神社のレイライン

淡路島の石上神社が祀る巨石
淡路島の石上神社が祀る巨石
神宝を秘蔵し、外敵から完全に守るためには、人里離れた山奥の場所を選ぶしかなかったのかもしれません。いずれにしても、古代の民はその英知を結集して神宝が秘蔵される場所を探し求め、それを剣山と定めた後、その場所を暗黙のうちに元伊勢の御巡幸で示したのです。その後、三輪山、伊勢と剣山を結び付ける淡路島、舟木の拠点には巨石が置かれ、その石上神社で神が祀られることにより、神宝埋蔵の秘策は完結したのです。そして元伊勢御巡幸の直後、垂仁天皇の御代では一千個の剣が作られ、それらは奈良の石上神宮に宝蔵され、物部一族が治めることとなりました。多くの形代や神宝の創作により、真の神宝が秘蔵された場所が歴史の中に埋もれることになります。

四国の剣山に存在した邪馬台国

剣山に神宝が秘蔵されているという説の信ぴょう性が高いことを示す決め手が、元伊勢御巡幸後の1世紀後に台頭した邪馬台国の存在です。本稿「邪馬台国への道のり」においては、中国史書の記述に従って邪馬台国への道を辿ると、その場所は四国剣山の周辺になることを解説しています。

邪馬台国の比定地が剣山周辺にあると考えられる理由は、まず、邪馬台国の場所を剣山と想定し、その前提で魏志倭人伝の記述と照らし合わせて読むと、何ら矛盾なく地理的要因、条件を理解できることがあげられます。例えば、中国史書によると、邪馬台国へ行くためには、海岸線から徒歩で1ヶ月もかけて山を登らなければならず、とてつもない山奥に存在したことがわかります。そのような秘境とも言える場所が、剣山周辺の祖谷地域です。

若杉山遺跡 発掘調査中の坑道跡
若杉山遺跡 発掘調査中の坑道跡
また、中国史書には邪馬台国周辺からは辰砂が発掘されていたことが知られています。弥生時代後期の辰砂工場として、国内における遺跡調査の結果から、これまで確認された唯一の古代工場は、四国剣山の麓に位置する若杉山遺跡です。紀伊水道から那賀川を上流に向けて船で移動する途中に若杉山は存在し、そのさらに上流まで上りつめると剣山に辿り着くのです。それ故、一連の歴史の流れを自然に理解することができます。

古代より日本では山岳信仰が栄え、多くの民が神と出会うことを求めて高山に登り、時には高地性集落を築くこともありました。邪馬台国は、そのような高地性集落の極めとして、強い霊力を持つ卑弥呼に統治され、国家にまで発展しました。卑弥呼は霊媒師として中国大陸にまでその名を知らしめていたことからしても、卑弥呼が君臨した総本山は神掛かった山奥にあったと想定されます。その中心地には神宝が秘蔵されていたからこそ、2世紀後半に卑弥呼もその山上まで登りつめ、そこに国家を築いたのでしょう。そして神を崇拝するうちに神憑りになったと考えられます。神宝は剣山周辺に埋蔵されたからこそ、卑弥呼は霊力を養い、霊媒師として徐々に歴史の表面に台頭し、国家を統治する権力まで持つようになったと推察できます。

剣山こそ、神宝を秘蔵する場所として、古代の識者が見初めた霊峰だったのです。そして元伊勢の御巡幸が綿密に計算され、レイラインの原則に基づいて諸々の聖地が剣山と紐づけられるように仕組まれたのです。ゆえに、後世の識者は、神宝の秘蔵場所を探しあてることができたと考えられます。その結果、神宝の秘蔵場所となった剣山周辺にて巨大な集落が形成され、卑弥呼が邪馬台国を統治するまでに至ったと想定するならば、多くの歴史の謎が紐解けてきます。

剣山から持ち出された神宝の行方!

「つるぎ」の意味は「壁の岩」

剣山頂上 馬の背
剣山頂上 馬の背
剣山に神宝が埋蔵されたという説は、「剣山」の名称と「かごめかごめ」の歌をヘブライ語で解釈することによっても理解することができます。

まず、剣山という名前を振り返ってみましょう。剣山の頂上は「馬の背」とも呼ばれるように、とても緩やかな尾根が続きます。剣のような様相を呈する自然の景色は、頂上周辺には見当たりません。よって山の存在自体が神剣と何らかの関わりを持っていたことから、「剣山」と呼ばれるようになった可能性があります。

また、山頂近くには、古代から鶴石、亀石と呼ばれる2つの巨石があります。その名称はどちらもヘブライ語で理解することができるだけでなく、「かごめかごめ」の歌詞とも結び付いていることに注目です。

まず、剣山の「つるぎ」という言葉の意味をヘブライ語で読んでみましょう。「ツルギ」のצור「ツ」(tsuru、ツー) は岩を意味するだけでなく、「神」そのものの名称ともなります。今日でもイスラエル人にとって「ツ」は、「神」を意味する言葉です。すなわち、岩なる神とは、「ツ」の神と考えられているのです。

ki、קיר(ki、キ) はヘブライ語で「壁」を意味する言葉です。すると、「ツルキ」と合わせて、「壁の岩」「壁の神」という意味になります。神宝に纏わる聖地として、そこに剣が埋蔵されたとするならば、漢字では剣を意味するも、ヘブライ語では、壁の岩で囲まれた頑丈な場所を指していたとは考えられないでしょうか。いずれにしても、「ツルキ」という名称がヘブライ語を語源として付けられ、剣山が神宝と絡む存在であったとするならば、剣山の秘蔵場所は、「壁の岩」のような場所であったと推察できます。

「かごめかごめ」は神宝に纏わる歌?

剣山の亀石と鶴石を下から見上げる!
剣山の亀石と鶴石を下から見上げる!
次に、「かごめかごめ」の歌詞について検証してみました。その歌詞の中には「鶴と亀」という言葉が含まれています。前述したとおり、「鶴」は「ツー」に漢字をあてたものと考えられ、ヘブライ語の「神」を意味するものと考えられます。「亀」はヘブライ語で「お守り」を意味する「カメァ」です。すると、「鶴亀」は「お守りの神」「お守りの岩」と解することができます。

その「鶴」と「亀」がモチーフになっている「かごめかごめ」だからこそ、歌全体がヘブライ語で書かれていると考えられるのです。果たしてそれが、頂上に鶴石と亀石を有する剣山の秘密について歌われている可能性はあるのでしょうか。「かごめかごめ」の歌詞全体をその発音どおりにヘブライ語によって解釈すると、日本語ではおよそ不可解な歌詞さえも意味が明確になり、歌詞全体の主旨がわかります。

何を取り囲むのか?誰を囲んで守るのか?
封じて安置すべきものを取り出せ!
そして火をつけろ!燃やし尽くせ!社を根絶せよ!
造られたお守りの岩は功を奏することなく
焼かれた荒れ地は見捨てられた

大剣神社の「御塔石」
大剣神社の「御塔石」
古来より歌われてきた「かごめかごめ」の歌詞は、実は神宝について歌っていたのです。ところが、その神宝は何故かしら取り出され、それまでの安置場所が燃やされてしまうことを語り告げているようなのです。そしてすべてが根絶した後、いつしか人気のない水際の岩場にて神宝が守られていることが歌われています。

もし「かごめかごめ」が剣山に絡んで歌われているとするならば、そこに埋蔵された神宝は、剣山が焼かれる直前に取り出され、遠く離れた別の場所に秘蔵されることになったのではないかと解釈できます。それは、神宝が宝蔵されている邪馬台国が全焼して消滅し、歴史から姿を消すことをも意味しています。その破滅を察知した古代の信仰者らは、邪馬台国から神宝を取り出し、別の場所に移動したことを、「かごめかごめ」の歌詞は証していたのです。

「かごめかごめ」の作者は空海か!

剣山亀石の見事な横顔!
剣山亀石の見事な横顔!
日本語とヘブライ語をブレンドして編み出された「かごめかごめ」の作者は、その内容と時代背景から察するに、空海の可能性が高いと考えられます。2つの言語を見事に絡めながら、誰の心にも残る日本の童謡として庶民に定着させ、しかもその内容はヘブライ語においてはイスラエルの神宝について語る、という神業的な作詞ができる能力を持つ人間は、空海以外には考えられないでしょう。

空海の出身地は四国の讃岐であり、元伊勢の真実に触れた空海にとって、剣山は大切な聖地と考えられていたに違いありません。その剣山に古代、神宝が秘蔵され、邪馬台国が崩壊する直前に神宝は取り出されて別の場所に隠されたことを知った空海は、ひたすらその場所を探し求めたのではないでしょうか。

剣山鶴石の姿!
剣山鶴石の姿!
空海にとって、剣山は神宝に纏わる聖地であり、神の裁きが起きる前に神宝が取り出される原点となる場所でもありました。よって、その大切な山を遠くから囲むように行脚する遍路を定め、行路の要所を礼拝所として選別し、その数を神隠しの象徴である数字の八十八としたのです。88という数字こそ、剣山に纏わる神宝に結び付く貴重な暗号とも言えます。それは神宝が八重桜の花びらの下に隠されるように、いつしか歴史の中に埋もれ、神が隠してしまったことを象徴しているかのようです。

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コメント
  1. 大竹葉子 より:

    いつも楽しみに読ませていただいております。USC-Momで、カトリック教徒です。何か月前にフィリピン人で、聖地やヨーロッパにもいた神学校の学者先生で今は札幌の私たちの教会でミサを捧げています。日本とユダヤとのかかわりについての英語の記事をみせたことがあります。今私は彼のHomilyをボランティアで日本語訳しています。それで最近のもので英語で書かれた文献とかがありましたら教えてください。昔の日ユ同祖論のものはもやは古いものとおもわれます。中島さまが英語で書かれたものが最適と思っていますが。

  2. 中島 より:

    来年、2022年にはサイトの英語化にも着手する予定です。今、少々お待ちください。

中島尚彦

中島 尚彦

南カリフォルニア大学、ペンシルベニア大学ウォートン校、フラー神学大学院卒。音楽系ネット通販会社サウンドハウスの創業者。古代史と日本古来の歌、日ユ同祖論の研究に取り組むとともに、全国の霊峰を登山し、古代遺跡や磐座の調査に本腰を入れている。

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