前3世紀、秦始皇帝による治世が終焉を迎えた時代、東アジアより朝鮮半島、そして日本へ向けてイスラエルの血統を継ぐ部族を中心とする東夷の民族大移動が始まりました。その直後の前漢・後漢時代にかけて中国では人口が激減しましたが、その最も大きな原因の1つと考えられるのが、この東夷の国外脱出です。イスラエル人こそ先祖代々、戸籍登録を大切にしてきた人種です。戸籍台帳に漏れなく記載され続けてきたイスラエル系住民が国外に退去するということは、人口統計上の数字に直接反映されることになっただけでなく、戦争や疫病の流行、食糧難、天候の変動などが重なり、中国の人口は激減したのです。
目次
日本と朝鮮民族の類似点と相違点
この民族移動の中核であったイスラエル系民族の中でも、特にユダ族を中心とする南ユダ王国の部族とそれに伴うレビ族の多くは朝鮮半島を南下し続け、そこから海を渡り、最終的に日本へと向かいました。また北イスラエル王国に属した部族の中には日本に渡らず朝鮮半島に留まる民も少なくはなく、半島南部ではその民族移動の波に追従して、中国界隈から移住してきた諸部族や、高句麗、そしてアジア大陸北方からの移民も加わり、いつしか東夷の流れをくむ諸部族にさまざまな人種が交わりながら、新しい国家の土台が培われていきました。そして朝鮮半島では中国の統治下における楽浪郡が前108年に置かれ、半島の南部では中国の影響を強く受けつつ馬韓、辰韓、弁韓の三韓が台頭し、その後、百済、新羅、伽耶の三国時代へと移り変わります。そして、その北部には高句麗が台頭し、朝鮮の歴史が築かれていきます。
高句麗や、その背景にある扶余にもイスラエル民族の影響を強く受けた東夷との関わりがあり、そのどちらも日本と朝鮮のルーツに深く関与していることは前述したとおりです。よって大まかに語るならば、日本と朝鮮の始祖の主流となる民族は、どちらも西アジア系東夷の移民の流れに、中国や東アジア各地の諸部族が多少なりとも混血して形成されたと言えます。つまり、日本も朝鮮も、その大元となる民族のルーツは、共通している部分が多分にあることに違いはありません。また、それは日本民族のルーツが朝鮮であるという考えが誤りであることも意味しています。何故ならば、どちらも同じ民族移動の流れに沿ってほぼ同じ時期に国家として台頭してきたからです。
また、日本と朝鮮とでは2つの決定的な違いがあることにも留意する必要があります。まず、大陸からの民族移動の流れに沿って最終的に日本まで辿り着いたのは、イスラエル系の中でも南ユダ王国系とレビ族が多くを占めていたことが挙げられます。せっかく朝鮮半島南部まで辿り着き、安住できるというのに、そこから東へと海を渡り遠い未知の島々をひたすら目指すという願望を抱くには、それなりの根拠が不可欠です。南ユダ王国の民は、前7世紀以降から代々語り継がれてきた東方の伝説と、イザヤの預言書に書かれている「東の島々」、そして「主の山」というモチーフに纏わる明確な理由を携えていたのです。それ故、日本と朝鮮は同じイスラエル民族の血統を多分に受け継いでいても、その部族の構成が最終的に枝分かれすることとなり、似てはいるものの、異なる兄弟国のような存在になったと言えます。
更に決定的な相違点がもう1つあります。北イスラエル王国が崩壊して百数十年後、そして南ユダ王国が滅びてから数十年後の前6世紀、中国では既に孔子が、東夷にまつわる儒教的楽土が遠い東の彼方に存在することを認識しており、それを「君子の国」「不死の国」と呼称しました。また「山海経」には、「君子国も不死国もともに東方にある」とされ、「外国図」には、それが琅邪(山東省臨沂市付近)から3万里離れた所にあるという記述もあります。短里の1里を70m前後と仮定しても、中国の東部よりおよそ2万kmも離れた場所に「君子の国」が存在していたわけです。
つまり前2~3世紀、大規模な東夷の民族移動が朝鮮半島から日本に向けて始まる以前に、おぼろげながらも国家らしきものが日本のどこかに既に存在していたのです。その「君子の国」「不死の国」こそ、南ユダ王国の部族を中心としたイスラエルからの初代難民からなる小規模な国家であり、その存在は後世のイスラエル民族にも広く流布され、最終的に日本は多くのイスラエル移民が目指す楽土となったのです。
その結果、日本と朝鮮とでは民族の源流が同一視できる部分が多々あるものの、日本はイスラエル系でも南ユダ王国系の血統がより多いと考えられるだけでなく、移民の波が押し寄せる前から存在した「君子の国」とも呼ばれる古代国家を手掛けた初代移民の血統が引き継がれていることに違いを見出すことができます。日本列島に大昔から居住していた古代人に、前7世紀、西アジアから移住してきた「君子の国」となるイスラエル南ユダ王国の民が少数加わり、そこに前2~3世紀以降、朝鮮半島を介して民族移動の波が数多く押し寄せました。それらの人々が日本人の原点となり、その後も大陸からの移民を受け入れながら、今日の日本人の姿となったのです。
「君子の国」のルーツはイスラエル
1世紀ごろ、諸王の長として大倭王が邪馬台国を治め、倭国の中からおよそ30国が中国と通好したことが後漢書に記されています。これら30国の首長は、「みな王と称して、代々その系統を伝えている」という記述から、そのルーツがかなり昔まで遡ることがわかります。家系と伝統を重んじる諸王が、複数の部族に分かれて倭国の統治に携わっていた背景には、戸籍と文字の存在があったに違いなく、血統を大事にしたイスラエル系の民族の流れをくんでいたと考えられます。
その後、2世紀後半から倭国は乱れ、長期間にわたり国内で騒乱が続きました。その大きな要因として、渡来人の波がピークを迎えたこのころ、現住民との緊張度が頂点に達しただけでなく、それまでとは異なる宗教文化を携えた部族も大勢渡来し、各地で対立が生じたことが考えられます。そして王位の継承や統治に関わる問題に加え、都の立地条件や宗教儀式、神宝の保管など、国家の尊厳と在り方そのものに関わる問題が浮上したことも、倭国の統制が著しく乱れる原因となりました。
大混乱に陥った倭国ではありますが、2世紀末に卑弥呼が即位して国を治めることにより、国家の混乱は一旦収拾し、平穏な時代を迎えることになります。膨大な数にのぼる渡来人の到来だけでなく、数々の地域紛争や、複雑な諸問題に対し、卑弥呼はその鋭い霊力をもって先頭に立ち、邪馬台国を導きます。三国志や梁書、晋書によると、卑弥呼が帯方郡に使節を初めて送ったのは魏の時代、景初3年、239年のことです。そして女王卑弥呼の存在は魏からも認知され、親魏倭王の封号を得ただけでなく、実際に国家の統治も規律正しく行われるようになります。
しかしながら邪馬台国の水面下では、新しい都の造営を目論む機運もあり、特に秦氏のように独自の宗教歴史観に基づき、着々と地盤を広げていく民もいました。そして卑弥呼は248年ごろ、狗奴国との戦いにおいて力尽き、死去してしまいます。その後、男王が王位を継承するも、再び国家は乱れ、台与(臺与)と呼ばれる女王が王位を継承するまで、混乱は続きます。そして266年、倭の女王の使者が朝貢したと伝えられる晋書の記述を最後に、倭国に関わる歴史の情報は中国の史書から1世紀半の間、途絶えることになり、およそ150年という空白の時代を迎えるのです。
疑問が尽きぬ邪馬台国の真相とは…
邪馬台国の存在は史実であり、古代日本史の中核となる重要な位置を占めています。ところが、主に魏志倭人伝や後漢書倭伝などの史書に残されている記述を頼りに邪馬台国を理解しようにも、その解釈には定説がなく、特にその場所については見解の相違が著しいことは周知の事実です。また、昨今の「卑弥呼の墓」の遺跡発掘調査の結果などから、これまで主流となってきた近畿説と北九州説の2大説の内、近畿説の方に、より分があるという方向性が見え始めているようです。しかし、たとえ卑弥呼の墓の場所が確認されたとしても、邪馬台国を探すための手掛かりにはなるものの、その場所を確定する根拠としてはいささか不十分であり、依然として多分に議論の余地を残すことになります。
一見、歩み寄りが難しそうな邪馬台国の論争ですが、史書をそのまま読み通して、文面のとおりに解釈することで、糸口を見出すことができそうです。そのためには、まず日本列島を含む東アジアの歴史の流れを把握することが重要であり、史書に含まれる東夷伝の背景にある民族移動の流れを理解した上で、邪馬台国を構成する民の背景に注視することが不可欠です。
史書から浮かび上がる素朴な疑問
確かに史書の解釈は一筋縄ではいかず、疑問点は尽きません。その重要性の度合いに関係なく思いつくままに列記するならば、例えば以下の10項目などが挙げられます。
- 先祖代々にわたり王系を継ぐと言われる民族は元来、日本列島を起源に育まれてきたのか、それともアジア大陸から渡来してきたのか?
- 邪馬台国の王は元々男子であったが、何故、卑弥呼という女王を「相談の結果」立てるまで、互いに攻撃し合い、戦争が続いたのか。また、卑弥呼の後も、男王を立てると戦争になり、再度女王が立てられると平和になったのは何故か?
- 最後の女王、壹與が3世紀半ばに中国に対して朝貢したのを最後に、およそ150年もの間、史書から倭国に関する記述が見当たらなくなり、「空白の世紀」が生じる理由は何か?
- 邪馬台国の場所は、その長い歴史の中で常に同一の場所になければならないか、それとも時には場所を移動することもあると考えられるか?
- 中国や朝鮮半島から遠く離れたはるか彼方という印象が強いが、九州というアジア大陸に直近する島という可能性もあるか、また、そこは山上の国か、平野部に広がる国か?
- 「海中の洲島の上に絶在していて、或いは絶え、或いは連なり、一周して戻って来るのに五千里ばかりである。」と記載されていることから、邪馬台国は、海に囲まれた大きな島の上に存在するのではないのか?
- 史書に記載されている距離感覚、地理感において、一里はおよそ何kmを意味するか、また、その当時の距離感や計測値は信頼できるデータと言えるか?
- 邪馬台国にたどり着くためには海を渡り、陸を旅するという、いわゆる水行と陸行を繰り返すことになるが、何故、一度船で渡り、そこから内陸に入り、再び海を渡る必要があるのか、また、そうしなければ目的地に到達することはできないのか?
- 何故、四季を通じて野菜が育ち、温暖であるはずの邪馬台国では、「牛・馬…羊など」の家畜が存在せず、邪馬台国の民は野菜を中心に食しているのか?
- 卑弥呼の高貴なイメージとは打って変わり、邪馬台国の人は「手づかみで飲食し」、「裸足で生活し」、衣服については「ただ結び束ねているだけで、ほとんど縫っていない」、という原始的なライフスタイルなのか?
「君子の国」の記述が見られる山海経は、戦国時代から秦朝の時代にかけて加筆されながら編纂されたと考えられており、最古の地理書としても有名です。その「君子の国」は中国の琅邪から3万里、短里を70mと仮定して考えるならば約2.1万km離れていた所に存在していたということです。すると山東省臨沂市から青森県の十和田湖周辺までが約3万里、茨城県鹿島までが2.9万里、長野県諏訪湖までは約2.6万里となります。古代中国の史書における距離感をそのまま数字どおりに受け入れるかどうかは別としても、中国山東省から相当な距離と考えられていたことに違いはありません。
青森では今日までユダヤに纏わる伝説が数多く語り継がれてきただけでなく、遠い昔から歌われてきた民謡の中に含まれる囃子詞の多くがヘブライ語で解釈できることからも、イスラエル移民の影響を多分に受けた地域であることを否定できません。また茨城県の鹿島は、遠い昔から西アジアよりタルシシ船が渡来した港が存在したと考えられ、周辺の平坦な地形からしても日本へ渡航するには最もアプローチし易い地域であったはずです。それ故、特に南方から船で北上して日本へ渡航する際の重要な玄関の1つとなっていた可能性があります。
そして諏訪湖の南にある守屋山、および今日の諏訪大社周辺は、初代の「君子の国」が存在していた可能性が極めて高い地域であることにも注目です。縄文文化の遺跡が多く発掘され、古代から守屋山を御神体とする祭祀が執り行われているだけでなく、動物犠牲の伝承までもが引き継がれてきた諏訪大社周辺の地域こそ、「君子の国」と呼ばれるに相応しい場所の筆頭なのです。動物を捧げる燔祭の儀式は、西アジアルーツにある可能性が極めて高く、更に守屋という名前自体が、アブラハムの子供イサクを神の命に従い、犠牲として父親であるアブラハムが捧げようとした山の名前とまったく一緒であることは、もはや偶然とは言えません。また、その背後に聳え立つ守屋山までの距離は、中国の琅邪からおよそ3万里という距離の範疇に収まるだけでなく、守屋山の緯度は太平洋岸からの玄関である鹿島神宮とまったく同じ35度58分。しかも日本の国生み神話である「おのころ島」との関わりが指摘されている淡路島の伊弉諾神宮から東北に向けて、夏至の日の出の方向である30度の一直線上に諏訪大社があることは、伊弉諾神宮でも石碑に記されている公認の事実です。その夏至の線と鹿島神宮から真西に向けた同緯度の線が交差する場所に諏訪大社、および守屋山が存在するのです。そしてそこには遠い昔、イスラエル人が熱望したエルサレム周辺の地理に類似した山と平地、そして湖が存在します。また今日でも、イスラエルからの駐日大使やユダヤ系ラビ(ユダヤ教の宗教指導者)らが多数、諏訪大社を訪れて参拝していることからしても、諏訪大社及び守屋山の背景にイスラエルが絡んでいることは、疑う余地がないと言えます。
よって山海経が編纂された当時、中国で考えられていた「君子の国」とは、諏訪湖周辺に集落を形成していた古代イスラエル人のことを指していた可能性があります。史書記述から察するに、「君子の国」の存在は戦国時代、そして孔子の時代以前から存在していたことは明らかであり、邪馬台国が台頭した時代から数世紀も遡ると考えられるため、この「君子の国」が邪馬台国の原点であるかどうかは定かではありません。君子の国が存在した時期から邪馬台国の時代まで長い年月を経ていることから、邪馬台国が、その位置を変えずに発展し続けたとは必ずしも言い切れず、日本国内のほかの地域に「君子の国」が移動したり、複数個所に存在していたりした可能性も否定できないからです。大事なことは、邪馬台国が台頭する以前に、中国にて羨ましがられるような長寿大国、「君子の国」が日本に存在し、その民こそ、イスラエルを逃れて日本に渡来した南ユダ王国の民族であったことに着眼することです。
邪馬台国を証言する史書の記述
中国の東方、海のはるか彼方にある東の島々に存在した「不死の国」「君子の国」について孔子が言及したときから6~700年という長い年月を経た2~3世紀ごろ、倭の国には邪馬台国と呼ばれる国家が台頭しました。この、今日まで定説のないまま議論され続けている日本古代史上最大の難題「邪馬台国はどこにあったのか」という論争は止むところを知りません。邪馬台国の候補地については畿内説と九州説が有力視される中、その候補地は実際には百カ所以上もあると言われ、真相は謎に包まれたままです。
日本の古代史において重要な位置を占める邪馬台国を理解し、歴史を再構築する鍵は、魏志倭人伝などの正史を正しく解釈することにあります。魏志倭人伝は「三国志」の魏書にある「東夷伝の倭人の条」の略称であり、三国志魏書倭人伝とも呼ばれています。また、倭国に関する記述は、魏志倭人伝に限らず、後漢書倭伝、晋書倭人伝、宋書倭国伝、梁書倭伝や、隋書倭国伝にも見られます。これらの史書に記載されている、ごく限られた情報源の解釈の相違により、邪馬台国が日本列島のどこに存在していたかが今日まで議論され続けているのです。倭、および、邪馬台国に関する情報は、史書ごとにおよそ、以下のとおりにまとめられます。
後漢書倭伝
- 楽浪郡の境界は邪馬臺国から一万二千里も離れており、倭の西北と境界をなす狗邪韓国から七千余里離れている。
- 気候は穏やかで四季を通じて野菜が育つ。
- 牛、馬、虎、豹、羊、鵲(かささぎ)などはいない。
- 大倭王は邪馬臺国に居住している。
- 桓帝・霊帝(後漢末147-189年)以降、一人の女子、卑弥呼が王となる。
- 女王国から東へ海を渡ること千余里で拘奴国に至る。
- 女王国から南へ四千里で朱儒国に至る。
魏志倭人伝(三国志)-渡航経路
- (帯方)郡より倭に行くには、郡を出発してまず海岸に沿って航行して狗邪韓国に到着する。七千余里である。
- 一つの海を渡り、千余里にして対馬国に到着。
- 次に南へ海を渡り、千余里で一大国(壱岐)に到着する。
- また一つの海を渡り、千余里行って末盧国に到着。
- 陸上を東南へ五百里すすむと、伊都国に到着。
- 東南に百里すすめば奴国に到着する。
- 東に百里すすめば不弥国に到着する。
- 南へ水行20日すすむと投馬国に到着する。
- 南にすすみ邪馬壹国に到着する。
- ここは女王の都している所であり、水行10日、陸行一ヶ月かかる。
魏志倭人伝(三国志)
- 対馬国は千余戸、一大国は三千戸、末盧国は四千戸、伊都国には千余戸。奴国は二万戸の人家、不弥国には千余戸。投馬国には五万戸、邪馬壹国には七万戸の人家がある。
- 伊都国には代々国王がいる。
- 女王国より北の国々はその戸数や道里をだいたい記載することができるが、そのほかの周囲の国々は遠く隔たっていて詳細に知ることができない。
- 女王国の南には狗奴国があり、男子が王となっている。
- 帯方郡より女王国に至る距離は一万二千余里である。
- 女王国は北の国々に対し一大卒を伊都国に置いて検察し、港で文書や賜物の検閲をする。
- 倭の地は温暖で冬でも夏でも生野菜を食べ、みな徒跣で生活している。
- 女王国の東、海を渡ること千余里のかなたに、また国がある。
- その南に侏儒国があり、人の身長は3、4尺にすぎない。
- 倭の地は、島々を経めぐって行くと五千里ほどになる。
隋書倭国伝
- 倭国は、百済・新羅の東南、海路・陸路三千里の所にある。
- 大海の中に、山の多い島に移住している。
- 倭国の境域は、東西は徒歩5ヶ月、南北は徒歩3ヶ月で、おのおの海に至る。
- 東が高く西が低い地勢。
- 耶靡堆を王都とし、ここが魏志にいう邪馬臺である。
- 楽浪郡の境や帯方郡から一万二千里離れている。
- 会稽の東の方にあたり、タン耳に近い。
- 倭国の戸数は十万戸ほどである。
- 河川が多く、陸地は少ない。
- 阿蘇山がある。突然に噴火し、祈祷祭祀を行う。
- 新羅・百済は、倭を大国で珍しい物も多い国として敬仰し、つねに使者を往来させている。
- 百済に渡り(608年)、竹島に至る。南の方にタン羅国(済州島)を望みつつ航海し、はるか大海の中なる都斯麻国(対馬)を経由する。また東して一支国(壱岐)に至り、また竹斯国に至る。また東して秦王国に至る。秦王国の人は中国人と同じである。それからまた十余国を経て海外に到着する。竹斯国から東は、みな倭国に従属している。
邪馬台国論争に終止符を打つためのヒント
歴史の研究には史実の解明と解釈がつきものであるため、古代史を遡れば遡るほど、謎は増えやすくなるものです。邪馬台国論争においては、史書という中国の古文書に記載されている内容の解釈に大きな比重がかかるだけでなく、一見、矛盾点や誤植と思われるような記述も散見されることから、それらの解釈に幅が広がり、ますます問題を混乱させています。また、学界の主流となる畿内説や九州説をはじめとし、これまで提言されてきた諸説の多くは、都合の悪い個所を誤植扱いしたり、強引な解釈をしたりするなどして、史書の記述内容について苦しい説明を強いられる個所が多少なりとも生じるため、更なる議論の余地を残してしまうのです。しかも昨今の国内における発掘調査の結果は、各説を裏付ける考古学的資料として取り上げられ、大きな反響を呼ぶことも少なくありませんが、遺留品や埋葬品などは移動できるだけでなく、跡を残さずに持ち回ることも可能であり、墓についても国が興された場所に存在しなければならない理由が特にないため、遺跡の発掘結果だけでは邪馬台国の存在を立証することは困難と言えます。
邪馬台国の真相を見極めるためには、歴史の流れを正しく解釈する上で共有すべき前提があります。その基本となる考え方に合意できなければ、議論がちぐはぐしても仕方がありません。例えば九州北部に邪馬台国に関連すると思われる遺跡が多数発掘されたとしても、前2~3世紀から3世紀にかけて朝鮮半島から数百万とも考えられる大陸からの移民が九州北部を介して日本に渡来し、その多くが九州に居住したであろうことを考慮するならば、今日、九州北部で多くの遺跡が発掘されるのは当たり前の現象であり、それだけでは邪馬台国の存在を証明することにはなりません。更に歴史の流れとともに、国の場所も時代とともに移動できるわけですから、邪馬台国の場所を一概に「ここだ」と断定する必要がないことを認識することも大事でしょう。その上で、これまで解説してきたような日本のルーツに潜むイスラエルからの渡来人の存在など、新たなる史料、発見、アイデアの中から信憑性の高いものを吸収し、できる限り素直に、史書が語り継げる文面をそのまま解釈することに努めれば、邪馬台国の真相がきっと見えてくるはずです。