1. ホーム
  2. 邪馬台国への道のり
  3. 邪馬台国への道を見出すヒント
2026/10/11

1里の距離は70~76mと推定 「魏志倭人伝」の距離データを理解する鍵

古代中国の高度な測量技術

古代社会における中国の測量技術は高度なレベルに達し、世界でもトップクラスと言えるほど発達していたことがわかっています。中国では紀元前2世紀頃の前漢の時代では既にグリッドとも呼ばれる方眼を用いた地図が作成されていました。「周礼・考工記」には、城郭の設計や道路の配置に関して「九経九緯」(縦横ライン)や方位に沿った区画の記述があり、方眼図の構想が用いられていたのです。そして後漢(1~2世紀)では、測量技術は相当に発達していたと考えられます。特に土地の面積や陸地の距離、河川の勾配などの測量などは官僚制度のもとで行われ、正確な計測が求められていました。こうした背景を踏まえると、3世紀の魏の時代には、既に相当高度な測量技術が存在していたと推察できます。

しかし、中国から朝鮮半島を越えて海を渡る場合、どのように距離が測定されたのか、詳細は明らかではありません。おそらく、複数の航路記録や使節の航海日数、船の速度、さらにはさまざまな天文学的考察を組み合わせて、島々の距離を測ったのではないでしょうか。倭国への航海では、朝鮮半島から遠くに対馬を望むことができ、その後の航海においても次の目的地である島を視認できる場合がありました。よって、計測する距離に大きな誤差が生じたとは考えづらく、史書に記された距離のデータには、検討する価値があると考えられます。

中国史書で用いられた距離単位は「里」

「魏志倭人伝」に記された里数を現代の距離に換算する際には、慎重な検証が必要です。「里」の解釈には長里と短里があり、「魏志倭人伝」では短里が用いられています。実際、1里を70~76mと想定することにより、「魏志倭人伝」の距離データを用いて、Google Earthをはじめ3D地図などを参照しながら当時の経路をを周辺の地勢に照らして検証できるようになります。

「里」は、尺貫法における距離の単位です。国や時代によって、その長さは大きく異なり、日本では一般的に1里は約3.9kmとされています。しかし古代の律令制の時代では1里が5町、300歩と定められていたことから、当時の1里はおよそ530mであったと推定されます。その長さは、現在の中国で用いられている1里500mに近い値です。また、中国においても時代を遡ると「里」の解釈が異なり、およそ400mから576mまでの幅があったとされています。そのため、中国史書に記された里数を現代の距離に換算する際には、対象となる時代の単位を慎重に検討しなければなりません。

「魏志倭人伝」の距離表記は短里

「魏志倭人伝」に記された里数を現代の距離に換算する際には、慎重な検証が必要です。「里」の解釈には長里と短里があり、「魏志倭人伝」では短里が用いられています。そして1里を70~76mと想定することにより、「魏志倭人伝」の距離データを用いて、Google Earthをはじめ3D地図などを参照しながら、当時の経路を周辺の地勢に照らして検証できるようになります。

ただし短里には異論も多く、1里の長さについてもさまざまな見解があります。また、邪馬台国に絡む決定的な遺跡が見つかっておらず、中国史書の地理データには間違いが多いのではないかという見解もあり、史書の記述そのものの解釈が多岐に分かれてしまうのも、問題が複雑化する要因の一つとなっています。さまざまな先入観をいったん排し、史書に記されたデータをそのまま受け止めて地図上にプロットすることは可能です。1里を70~76mと想定すれば、距離データを地図上に合理的にプロットできることがわかってきたのです。

短里70~76mを用いた距離の事例

朝鮮半島
の大同江河口からの距離朝鮮半島の大同江河口
からの距離

例えば「魏志倭人伝」には、朝鮮半島南端に位置するとされる狗邪韓国から対馬までの距離が千里と記録されています。実際の航海距離はおよそ70kmになると考えられることから、1里を70mとすれば千里は70kmになり、数値は一致します。

また、帯方郡から狗邪韓国までの距離は「7千余里」と記載されています。「余」の文字は、7千里をやや超える距離であると解釈できます。ここでは、帯方郡の位置を楽浪郡との境界に近いと考えられる大同江河口付近に想定します。この周辺は、陸路の交通に適した場所だったと考えられます。一方、狗邪韓国については、対馬の和多都美神社の鳥居が朝鮮半島の巨済島の方向を向いていることから、その東岸にある入江が、有力な候補地として浮かび上がってきます。

帯方郡と狗邪韓国の2地点間の距離を計測すると、約525kmです。1里を75mと想定すると、525kmは7千里となり、「7千余里」に合致します。また、「余里」と記載されているため、実際には7千里を少々超える距離だったと考えられます。その場合、1里の長さは75mより短くなりますが、それでも1里の想定値である70~76mに収まります。このことは、短里瀬戸と整合する結果と言えます。

古代中国の優れた識者らが、長い年月をかけて邪馬台国の情報を収集し、編纂しながら書き記した「魏志倭人伝」です。中国史書の記述を尊重しながら、成立背景や地理的情報の制度にも目を向け、今一度、歴史を振り返ってみませんか。1里を70~76mと想定するだけで、意外にも、古代人の目から映し出される倭国の姿や地勢観が浮かび上がってくるかもしれません。

画像ギャラリー:和多都美神社

コメント
  1. 通りすがり より:

    すみません。
    邪馬台国が、火の国ではなく、「卑弥呼」の「卑」や「肥」を「火」と同じ読みという事で、邪馬台国は火の国説を唱えてる人がいるみたいです。それで、阿蘇山候補地で、書いている人がいました。実際には、中国読みで、発音も違ったりして、
    火の国の、言われは全く関係なかったみたいです。
    すると、水路を使った生活の部分から、候補地として、福岡県久留米市の祇園山周辺と、感じてしまいました。
    しかし、熊本県内も弥生時代の集落跡が、発見されたりしてるので、調査次第では、どうかな?と考えてしまいます。
    なにはともあれ、過去に盗掘にあったり、高度経済成長期に、古墳が破壊されたり、埋没したりで、調べると行っても大変そうですね。
    九州の何処かを掘って銅鏡とかでたら、嬉しいですけど。
    長々と自分の考えを失礼しました。

  2. 曽我えい子 より:

    魏志倭人伝の記述は帯方郡から女王国までの道のりが12000里です、帯方郡から狗邪韓国まで7000里、狗邪韓国から末盧国まで3000里、残りの2000里が末盧国から女王国までの距離です
    その2000里の道のりが水行や陸行と難所の連続で日数を要する、有明海の干満の影響と川幅を渡る行程、川上に行けば山又山です、不弥国から南へ1300里に女王国となります、不弥国が宇美とした場合また末盧国から伊都国は東南に500里、伊都国から奴国も東南100里、奴国から東へ百里、で末盧国から不弥国は700里で宇美の辺り、南へと書かれており、肥後熊本の邪馬台国は間違いない、その上末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国は女王国の北にあると書いています、北部九州福岡には、大率を置き厳しく検察つた、読めば卑弥呼は肥後の高齢の倭国の初代女王、夏后の末裔であると思います

  3. 曽我えい子 より:

    魏志倭人伝は3世紀の前期の古代中国の正史と言われています、日本にはまだ文字が無く8世紀の前期平安時代にむ日本書紀や古事記として残されています
    日本の神話は好きですが、魏志倭人伝は的確に当時としては正確に要点もしっかり伝えて、倭人にも敬意のある書き方だと思います、何故邪馬台国や女王卑弥呼について歴史歪曲されているのか、倭国と日本が別種であってはいけないのでしょうか、日本の天皇は1300年間と言っておられる其れであっても凄い素晴らしい事です、日本人の心、武士道の論語が又素晴らしいと思います、泰伯の末裔が倭王だった事は間違いない

コメントする