信憑性の高い中国史書のデータ
「魏志倭人伝」をはじめ、史書には邪馬台国に関する地理や文化、人口に至るまで、さまざまなデータが明記されています。当時の科学、天文学、地理学に関する知識レベルは、現代人が思うほど原始的ではなく、むしろ優れていたがゆえに、史書の記述は歴史の謎を紐解くうえで、大変貴重なデータとなります。エジプトやメソポタミアなどの古代文明を振り返ると、そこには現代の科学をもってしても計り知れないほどの優れた文明が存在していたことがうかがえます。
特に、測量と幾何学、天文学、そして地理学について優れ、西アジアに点在する著名な遺跡の多くは、緻密な計算に基づいて当初から設計されていたと考えられています。こうした西アジア文化圏で育まれた高度な文明は、橋渡し役となったイスラエルの民を中心に、西アジアからの移民によって東アジアにもたらされました。その影響を多分に受けながら、中国ではメソポタミア文明に匹敵する黄河・長江文明などが育まれたのです。
優れた中国文化の基には、西アジア古代文明の知恵が息吹いていたからこそ、その文明の延長線上に登場する史書にも優秀な識者や編纂者が携わり、各種データの正確性を確認したうえで編集されたと考えられます。よって、史書に記載されている邪馬台国までの距離や方角をはじめ、地形やその他の文化的背景に関するデータなどの信憑性は高いと言えます。
邪馬台国という古代女王国の場所を理解するための重要な手がかりとなるのは、少なくとも以下の8つの点です。これらのキーポイントを踏まえ、中国史書のデータに基づいて邪馬台国の比定地を検証すると、思いのほか、邪馬台国の姿が見えてきます。
邪馬台国を見出す8つのキーポイント
ポイント1:倭国の歴史を記録した中国史書の数々
邪馬台国についての記述が含まれる複数の史書を理解するにあたり、その歴史的背景に留意することは極めて重要です。「魏志倭人伝」が含まれる「三国志」は280~290年に編纂されました。卑弥呼が君臨した時代から既に半世紀近く経ち、倭国では応神天皇が即位して、大和朝廷が基盤が形づくられ始めた頃に当たると考えられます。その時代は、中国側から見れば、倭国からの情報が途絶える「歴史の空白」の始まりでもありました。
三国志に倭人伝が編纂された背景の一つとして、倭への出兵が挙げられます。そして、卑弥呼の時代からもさほど年代を経ていないため、三国志そのものは3世紀頃の歴史観によって編纂されていると考えられます。しかし、なぜ倭に対して魏が出兵したのか、また2世紀後半から3世紀にかけて倭国の混乱がなぜ起きたか、それがどう中国に影響を及ぼしたかなど、不透明な歴史は残されたままです。
もう一つの著名な史書、後漢書倭伝は、前漢の武帝が衛氏朝鮮を紀元前108年に滅ぼした後に倭国の使者が漢を訪れた話から始まり、最後は女王国の話で終わっています。しかし、後漢書が編纂されたのは三国志より100年以上も後の398年から445年頃です。それゆえ、後漢書は三国志の記述を多分に参考にしただけでなく、その後の倭国の歴史についても、三国志とは異なる情報を得ていた可能性があります。さらに後漢書では、魏の出兵による倭との対立が背景にある三国志とは異なり、むしろ孔子の言葉を引用しつつ、東夷について高い評価がなされていることも注目に値します。
また、三国志や後漢書からさらに年代が隔たる隋書は、7世紀に編纂されました。大和朝廷の発展を目の当たりにした時代に成立したと見られ、遣隋使の話で終わっています。隋書の編者にとって、邪馬台国は遠い過去の歴史として捉えられていたため、倭国に対する認識に大きな相違があっても不思議ではありません。
三国志や後漢書、隋書などの中国史書は、倭国や倭人について、昔からの言い伝えやさまざまな記録、そして当時得ることのできた現地の情報など、多様なデータを駆使して編纂されていると考えられます。特に、複数の史書が記録している倭国の歴史は、後漢書に記された武帝の時代から、隋書に記された遣隋使の時代に至るまで、およそ750年にわたっています。よって、史書を編纂するにあたり、さまざまな文献や資料が用いられたはずです。そして、それぞれの史書は時代を経て編纂されているため、外部環境や政治的背景の影響も受けやすかったに違いありません。よって、その内容を正しく理解するには、大陸の歴史も含めて東アジア全体の政治情勢にも目を留める必要があります。
ポイント2:大陸からの渡来者による国々の形成
邪馬台国を考えるにあたり、もう一つ大切な点は邪馬台国の時代における倭国の民のルーツに留意することです。紀元前2~3世紀頃、大陸から日本列島への渡来者が急増し始めました。史書の中でも最古と言われ、前漢の時代、およそ紀元前104年に司馬遷が執筆に着手し、紀元前91年頃に編纂を完成した「史記」の中に含まれる朝鮮伝には、倭国についての記載がありません。それから170余年を経た後漢の時代に、班固が82年に編纂した「漢書」に初めて、「それ、楽浪の海の中に倭人が住んでいて、分かれて百余の国をつくり、毎年使者を送り、捧見している」という倭国に関する短い記述が見られます。その後、三国志などにも同様の記述が見られるようになります。
秦の始皇帝による統治が崩壊した後、東アジアから朝鮮半島を介して渡来者が大勢押し寄せ始めたと考えられる紀元前2~3世紀頃を起点として、それから200年余りの間に、倭国と呼ばれる島国に、百余りの国が突如として歴史に姿を現したのです。これはまさに、多数の渡来者が日本列島に到来した結果と言えます。昨今の歴史人口学の検証によると、渡来者の数は100万人を超えるとされています。
史書に記録されているもう一つの重大な内容は、後漢末の147年〜189年頃、「倭国はたいへん混乱し、たがいに戦い、何年もの間、主なきありさまであった」という倭国の状況です。大勢の渡来者が大陸から訪れる最中、各地に集落がつくられ、大勢の人々が部族ごとに分かれて列島に住み着いたと想定されます。その結果、「百余の国」が作られ、それぞれが統治し始めたものの、人種や習慣、言葉の相違なども重なり、各地で緊張感が高まったことは想像に難くありません。また、当時の渡来者は中国系の人々が主で、中には西アジア系や東夷を出自とする民族も存在したようです。
そして、大陸からの移民が急増し始める中、倭国に最も影響力を及ぼしたのが秦氏一族でした。秦氏の政治経済力は並大抵のものではなく、倭国の統治や宗教に関わる社の造営において、大きな影響力を持つようになります。そして、短期間に「秦王国」とも呼ばれる勢力の拠点を築き上げ、その存在は中国にまで知れ渡るほどになりました。それが、「東して秦王国に至る。秦王国の人は中国人と同じである」と隋書などに記されている理由です。秦氏は、その後の日本の歴史を理解するうえで、極めて重要な存在となります。
ポイント3:邪馬台国が牧場のない高地性集落である理由
古代、倭国では、なぜか住みやすい平野ではなく、標高の高い山々に人が居住するという高地性集落の現象が見られました。特に瀬戸内沿いの四国、中国地方では、その傾向が顕著でした。これらの地域では、人が居住しやすい平地が瀬戸内の沿岸にあったにも関わらず、多くの人々はなぜか足を踏み入れにくい山へと登り、山麓や山頂周辺に集落を造成しました。
紀元前7世紀頃、日本列島を訪れた初代のイスラエル系渡来者は、イザヤの預言に従って東方へと旅し、「東の島々」となる日本列島に到達しました。イザヤの預言については「山」についての教えも多く、特に山々の頂として聳え立つ「主の神殿の山」が注目されたと推察されます。高い山には神様が住まわれると信じられていたのです。人々は各地の山々を登りつめ、高地に集落を作り続けたとみられます。その結果、イスラエル系渡来者が訪れたと考えられる諸地域では、特に四国や中国地方の瀬戸内沿いに、多くの高地性集落が広がっていきました。
邪馬台国もその高地性集落の一つであったと考える手がかりが、実は史書に記されています。史書には、邪馬台国には牛や馬、羊などの家畜が存在しなかったと明記されています。なぜ、邪馬台国には家畜が存在しなかったのでしょうか。その答えを聖書に見出すことができます。
祖国を失ったイスラエルの民は、東の島々に聳え立つ「神の山」を求めて日本列島に渡来して来ました。イスラエル人にとって、日本の山は聖なる存在だったのでしょう。その聖なる山について、旧約聖書の出エジプト記34章には、「山のふもとで羊や牛の放牧もしてはならない」と明記されています。モーセが登ったシナイ山が聖なる山であったように、新天地の拠点に聳え立つ山も同様に聖なる山として、家畜を排除することが取り決められたのでしょう。また、神の宝を安全に保管し、外敵から守るためにも、神の山は防御に優れた地形を有さなければなりません。そのようなイスラエル系民族の念願を叶えた聖なる神の山が存在したからこそ、その周辺には長い年月をかけて集落が形成されたと考えられます。こうして、山上の国家となるべく、邪馬台国の土台は長年にわたり培われていったのです。
ポイント4:40~50万人の人口に適する広大な土地
邪馬台国の人口は、7万世帯と史書には記されています。これは邪馬台国の領土が広大であり、その規模は中国における郡にも匹敵するほど大きな、固有の領土であったことを意味しています。
例えば後漢初期に編纂された漢書地理志によると、秦の時代に設置された遼東郡には、前漢の時代、5万5千972の戸数があり、人口は27万人を超えたという記述があります。また楽浪郡には6万2千812戸が存在し、人口は40万人、また玄菟郡には約4万5千戸、22万の人口があったことが窺えます。楽浪郡よりもさらに多い7万戸を誇った邪馬台国だけに、たとえ山岳地帯を想定しても、その人口は20万人を下らなかったと考えられます。邪馬台国の人口は20~30万人規模になっていたと推測されます。また、楽浪郡の面積は九州の半分を優に超え、遼東郡や玄兎郡に至っては九州全体よりもさらに大きいエリアを占めていました。それゆえ、邪馬台国の人口を考慮するならば、おそらく楽浪郡に匹敵するほどの広大な領土を治めていたと想定できます。
ポイント5:山上国家のイメージに繋がる邪馬台国への旅路
邪馬台国に行くために、水行と陸行を交互に繰り返すという記述についても、それは長年にわたる旅の経験から、目的地まで効率よく到達できる旅程として、海路と陸路の双方を使ったと推測されます。その道のりを史書の記述どおりに理解するならば、邪馬台国へ向かうには、まず、朝鮮の帯方郡から狗邪韓国まで海岸沿いを旅した後、対馬、壱岐を経由して倭の国の末慮国に着きます。そこから陸上を東南へ500里、100里、そして東へ100里、合計700里を歩き、再び船で20日間、さらに10日間、合計30日間航海し、さらに陸上を1か月かけて進み邪馬台国に到着します。つまり、対馬、壱岐を過ぎて倭の国の沿岸に着いた時点から、さらに2か月以上も水行と陸行を繰り返して旅しなければたどり着けないほど、遠い所に存在したのです。しかも、20~30万人もの人口を有する領土であり、島の端から端までは5千里となり、島の東側には海を千里渡ると他の島が存在するということです。
これらの記述から、邪馬台国が山上の国家であったというイメージが浮かび上がってくるのではないでしょうか。農耕にも適した平野部が目の前に広がっているにも関わらず、わざわざ山上を目指した理由は、軍事的目的ではなく、むしろ宗教的な背景が第一にあったと考えてよいでしょう。そして、イスラエル系の渡来者が聖なる山を求めて日本列島までたどり着き、山上を目指して移住し続けたことにより、いつしか山上に国家の骨組みができ上がり、邪馬台国が歴史に姿を現したという仮説が成り立ちます。
ポイント6:史書における距離感を理解する
後漢書や魏志倭人伝(三国志)などの中国史書では、距離を表す単位として「里」が用いられています。そのため、1里の距離がどの程度であるかを理解することが重要です。中国では時代によって「里」の長さが異なり、長里と短里に分かれています。まず、秦から漢の時代にかけては、距離を表す基準を馬の歩長に置き、360歩をもって1里とし、これを長里と呼んだようです。馬の一歩を約1.5mと仮定すると、1里はおよそ540mという計算になりますが、複数の地理事例から検証すると、1里あたりの距離は430m前後の計算になるという指摘もあります。歩幅の解釈が、およそ1.2mであったのかもしれません。いずれにしても、長里の距離はおよそ400~500mの範疇に収まるようです。
魏・晋の時代には、長里が距離の単位として継承される一方、身近な距離を測るための単位として、人の歩幅を基準とした短里が頻繁に用いられるようになりました。長里が大まかな長距離を測るために馬の歩幅を基準としたのに対し、短里は目先の建造物や近距離をより正確に表現するために用いられ、その距離は1里あたり70m~76m、長くても90mまでと推定されます。
「千里眼」という有名な言葉がありますが、これは「魏書」楊逸伝の「楊使君千里眼あり」という表現に由来しています。もし千里が長里ならば、およそ400~500kmとなり、短里ならば70~80kmになります。この「千里」という表現が、遠くまで見渡せる人間の視力の限界を示しているとするならば、短里で考えた方がより現実味が増すのではないでしょうか。例えば、韓国の南岸から対馬までは、およそ千里と魏志倭人伝に記載されていますが、空気が澄んだ天気の良い日には、実際に対馬の山上をはるか彼方に望めると言われています。つまり、遠くを見渡せる限界点を表す「千里眼」という言葉は、短里を前提に解釈すると、より理解しやすくなります。
実際には、秦の時代を遡り、周代においても「論語」や「孟子」は短里で書かれていました。また、四書五経などにも短里が採用されていたため、魏の時代においては、かつて使われていた距離の単位が復活したとも解釈できます。さらに、孔子の時代には短里が一般的に使われ、孔子の弟子も同様に短里を用いていたとみられるだけでなく、「孔子家語」が編纂された魏の時代にも短里が使われていたことは注目に値します。歴史書として高い価値を極めた一連の史書も、諸子百家の影響を強く受けた識者らが中心となって編纂が行われたと想定されるため、短里がごく自然に使われていたようです。こうして、後漢書や三国志では短里が用いられ、その距離がおよそ70mであるという前提で記述内容を見直すと、魏志倭人伝をはじめとする史書の内容がより明確になります。
ポイント7:1日の渡航距離は15㎞ほど
邪馬台国の位置を見極めるにあたり、見落としがちなのが、日本列島周辺における古代海上交通の難しさです。船による航海はときに困難を極め、特に帆船は渡航条件の変化から転覆しやすく、多くの危険をはらんでいたことが知られています。18世紀に書かれた「増補日本汐路之記」でさえ、「船は汐に添い、風に委ねて人力の届ざる所、特に水脈の浅深を記憶、風を知り雲を知るともまた暴風発起することあり」と、船旅は一喜一憂の連続であることを記しています。よって、動力船を用いず帆船で渡航していた時代は、常に雨風という悪天候と潮の流れに左右されるため、危険を察知すればすぐに停泊できる陸地を見出すことが重要課題でした。そして難を逃れるため、頻繁に陸地に船を寄せ、そこで水や食料の補給も行っていたのです。
中でも海上航行に不可欠なのは、潮の流れを理解することです。日本列島近海を流れる「黒潮」は有名ですが、この大きな潮の流れは赤道付近の北東恒風帯を起点として、台湾東部から八重山諸島を筆頭とし、南西諸島に並ぶ島々に沿うように北東に向かって流れています。その後、四国、本州の沿岸を北東へと進み、そこから三陸沖に達して東方に抜け去ります。黒潮の流れは大変に強く、沖縄周辺では昔から、「島から出ることはすべて「旅」といわれてきた」と語られてきたゆえんです。黒潮は九州南部から二分し、西側に分岐した流れは九州の西を北上し、済州島と長崎の間から壱岐、対馬間を通り抜けて、日本海に向かいます。そしてこの対馬暖流と呼ばれる流れは、青森の津軽海峡にまで達し、そこから太平洋側に向かって今度は、三陸沖を南下します。そして太平洋側からは、九州の南から列島沿いに北上してくる黒潮の流れとぶつかり合うのです。
「海上航行の基本的な技術はやはり潮と風にうまく乗ること」であり、この黒潮の流れに乗って当初、帆船が南方より日本列島に到来したと考えられます。このように潮の流れに乗れば、山口県の漁師の間で語り継がれてきた「二日走り」にあるように、南風の助けを借りて、たった2日でロシアのウラジオストクまでたどり着けたのです。また、偏西風に乗ると、太平洋側で難破漂流した船がアメリカ大陸まで流される事例も珍しくありませんでした。これらの事例は、潮の流れに逆らう航海が大変な危険を伴うことを示しています。また、潮の流れに加え、季節風の向きも重大な要素です。日本海方面の風向きと気圧配置は、1年を通して定期的に変化することが知られています。秋から冬にかけて、また、春から秋にかけて風向きが変わることも、航海に多大な影響を及ぼします。航海者は経験則から、南系の季節風と北系の季節風を上手に使い分けることが不可欠だったのです。
日本列島近海には、これら複数の要素が黒潮の流れと絡んで渡航条件に大きな影響を及ぼします。船が難破しやすい危険な箇所は多々存在し、それらは「海の難所」と呼ばれるようになりました。例えば、九州の筑前宗像沖の難所は、古代から中世にかけて航海者に恐れられてきました。凪の日でも潮の満ち干により、突如として急流のように潮が流れ、時化の日は、風向き次第で怒涛のごとく逆巻き、玄界灘で一番の難所となるため、近くの浜辺には難破船の漂着物が数多く打ち上げられてきたことで有名です。その漂着物の量があまりにも多く、宗像神社の本社・末社合わせて70余社の修理に必要な資材を、すべて近くの葦屋津や新宮浜に打ち上げられる難破船の資材をもって充当していたと記録に残っているほどです。
これら海上交通の本質を踏まえると、史書に記されている「海行」と呼ばれる帆船による渡航を、安易に川下りのようなつもりで、1日何十kmも航海できるとみなすのには無理があります。大変な危険を伴う帆船による海上交通であるからこそ、悪天候や視界が遮られるだけで航行できない日も多いのです。たとえ視界の良い日に航海する前提においても、向かう先に何らかの指標があることが重要でした。そのため、旅する方向を見極める目印として、視認性の良い島や岬、遠くに望む高山などが長い年月をかけて記録され、それらのデータを旅のツールとして用いていたのです。また、岬は潮流や風向きが変わるスポットとなりやすく、海上交通では陸路における峠のような存在です。よって、邪馬台国へ辿り着くための航路には、いくつかの岬が目印として存在していたと想定されます。さらに、悪天候に逆潮、逆風が重なり、減速を余儀なくされるような現実を考慮したうえで、史書では渡航にかかる平均的な日数を表していると考えられます。それゆえ、海岸沿いを航海するという前提としても、1日の航行距離は、平均して15km前後にとどまると推測されます。

ポイント8:西アジアに由来する邪馬台国の生活様式
邪馬台国は山上の聖地であり、神の訪れを待つ聖なる場所を汚さないよう、邪馬台国には牛、羊、馬などの家畜が存在しなかったことは史書に記されているとおりです。また、邪馬台国では人々がはだしで歩き回り、なおかつ、食事も手で食べると記されており、その生活様式は大変原始的であったことがうかがえます。これらの様相は、西アジアからの優れた文化を携えて渡来したイスラエルの移民の影響とも捉えられます。邪馬台国が倭国の中心的な存在であったとするならば、なぜ、そのような原始的な生活様式が見られたのでしょうか。
これらの生活様式は、西アジアからの文化を携えたイスラエルからの渡来者が倭国に流入した影響とみられます。紀元前6~7世紀頃から日本列島に渡来し始めたイスラエルの民は、倭国の文化を培う原動力となり、人々の生活様式にも、その影響が色濃く表れることになります。例えば聖なる山では靴を脱がなければならないという掟がイスラエルにはあり、山をはだしで歩いても不思議ではなかったのです。旧約聖書によると、モーセがホレブ山に登り、芝の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いを見た際、「足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから」という神の言葉がありました。こうした教えが、いつしか邪馬台国にも伝えられたのではないでしょうか。
また、邪馬台国では食事は手で食べると史書に記されていますが、これも一見、原始的なイメージであることを否定できません。しかし、旧約聖書に含まれている歴史書の記述や、数々の発掘データおよび考古学的見地からの検証を踏まえると、古代イスラエル社会においては、食べ物を手で食べるのが当たり前だったようです。当時、祭司によって犠牲が捧げられる際は、食べ物を切るためのナイフと柄杓や、刺したりかき混ぜたりする棒のようなものは使われていました(サムエル上2:13-14)。それはあくまで宗教的儀式が行われる際のことであり、ごく一般的な食卓においては基本的に食物を手で食べていたのです。その風習は、邪馬台国でも長年にわたり受け継がれたと考えられます。
神の訪れをひたすら待ちながら年月を過ごす山上の国家では、そこが神の訪れる聖なる地であるがゆえ、土地を汚す家畜を飼育することができなかっただけでなく、人々は靴さえも履かず、食事も手で食べることを常としていたのではないでしょうか。こうして邪馬台国の文化を作り上げたイスラエルの民は、外部社会から隔離された状態のまま、長年にわたり山上の国家を造営したのです。そのため、はだしで歩いたり手で食事をしたりするという、一見すると原始的にも見える、宗教文化に根差した生活様式が踏襲され続けたのでしょう。そして、中国からの使者がその実態を目撃し、史書に記したとも考えられます。
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