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式年造替を迎えた春日大社のルーツ 朱色に染められた社から浮かぶ古代の真相

奈良の春日大社は、三重の伊勢神宮、島根の出雲大社、そして東京の明治神宮と並び、広大な敷地と多くの参拝者を誇る著名な神社です。全国におよそ3000余りの分社を持つ春日神社の総本社であり、「古都奈良の文化財」の1つとして世界遺産にも登録されています。春日大社で催される春日祭は、賀茂神社の葵祭、石清水八幡宮の石清水祭とともに三勅祭の一つに数えられています。春日大社は標高283mの御蓋山(みかさやま)の緩やかな裾野に建立され、隣接する花山、芳山と合わせて周囲一帯は春日山と呼ばれています。そしていつしか御蓋山は春日大社の御神体となり、その山頂は今も禁足地となっています。

春日大社の境内で戯れる鹿
春日大社の境内で戯れる鹿
御蓋山からは湧水が豊かに放水され、古代より人々の生活を育んできました。その境内の随所に鹿が放し飼いされているのは、鹿島の神が白鹿に乗って、飛火野と呼ばれる春日山の丘陵地に降臨したという伝承に由来します。鹿は神をお連れになっただけではありません。牡鹿の角は毎年生え変わり、その繁殖力の強さから、鹿は生のシンボルとなる吉兆として神聖視されてきたのです。その為、平安時代では春日山一帯では狩猟が禁じられ、神社周辺の春日原始林が聖地化され、それ以降、野生の鹿は保護されてきたのです。春日曼荼羅と呼ばれる神道美術の傑作の中に、室町時代に描かれた「鹿座神影図」があります。そこには春日山を背景に、立派な白鹿の姿と、鞍の上に立つ榊の頂点に大きな鏡が載せられている光景が描かれています。

春日大社 御蓋山浮雲峰遥拝所
春日大社 御蓋山浮雲峰遥拝所
中央豪族として忌部氏と共に政権に影響力を持ち、かつ祭祀活動を司っていた中臣氏の氏神を祀る春日大社は、768年、平城京の守護と国民の繁栄を祈願するために創建されました。中臣鎌足が亡くなられた際、その氏寺として669年に興福寺が奈良に建立されてから、ちょうど1世紀が経った時のことでした。その後、中臣鎌足の子孫は藤原姓で知られるようになり、中臣氏の中でも一大勢力になっていたことから、必然的に春日大社も藤原一族の氏神を祀る神社として知られるようになりました。そしていつしか春日大社は興福寺と一体化して見做されるようになり、次第に大きな勢力を誇示しながら、その影響力は奈良時代から平安時代にかけて、大和一国全体までに及ぶようになったのです。

脚光を浴びる2016年の式年造替

春日大社 二の鳥居
春日大社 二の鳥居
平城京の遷都を機に建立されてから13世紀余りの期間を経た2016年、10月から11月にかけて、春日大社では20年に1度の式年造替(ぞうたい)が執り行われています。式年造替の行事は今回で60回目にあたります。造替と言えば通常は全面的な建て替えを意味しますが、春日大社の場合、本殿はいずれも江戸末期に改めて造営されたものであり、その後、国宝にも指定されたことから、今では全面的な建て替えは行われなくなりました。しかしながら大掛かりな改修工事が行われることに変わりはなく、2016年の式年造替でも、本殿の骨組みを残して檜皮(ひわだ)屋根が葺き替えられ、朱の塗り替えだけでなく、壁面の絵柄なども描き直されたのです。10月29日には、本殿の修理完了を祝う「立柱上棟祭」が行われ、衣冠姿の工事関係者らが本殿の屋根に上り、「陰哉棟」(いんざいとう)、「陽哉棟」(ようざいとう)と、掛け声に合わせて棟木を木槌で打ち付けました。その後、11月6日夜には正遷宮を控え、昨年3月から移殿に移されているご神体が本殿に戻されます。20年に1度の周到な行事であるだけに、春日大社はメディアから脚光を浴び続けています。

春日大社 御廊
春日大社 御廊
この式年造替に伴って執り行われる「お砂持ち行事」は2016年10月6日から23日まで開催され、その期間に限り本殿前特別参拝が許されています。一般の参拝者らは襷を首にかけ、袋の中に入った白砂を本殿前に敷き詰めます。参拝者は20年に1度しか通ることのできない中門をくぐり、内院まで足を運び、そこで鮮やかに塗り替えられた4連の本殿を目の当たりに拝観することができるのです。25mほどの幅しかない本殿ではありますが、壁面には高さ1.5m、幅約2mの「御間塀」(おあいべい)があり、絵馬板とも言われています。そこには獅子や馬、人の姿など、創建当時からの絵が5面に渡り描かれています。そのうち、3面は舎人が神馬を引く絵画です。その他、獅子牡丹図と竹に雀が描かれた壁画があります。本殿の美しさと共に、これらの壁画も、今回の特別参拝を通して多くの参拝者を魅了したことでしょう。

一般的に神社は本朱が3割、残りは丹塗りという伝統が踏襲されてきています。しかし春日大社の場合は、本朱と呼ばれる水銀に由来する顔料のみで塗られることから、他の神社とは赤味の度合いが異なり、深い朱色が冴え渡る、明るく鮮やかな美しさを誇る本殿に蘇ります。

春日大社を支えた藤原一族とは

春日大社 表参道 石灯籠
春日大社 表参道 石灯籠
春日大社の創建の起源は、今からおよそ1300年前に遡ります。奈良時代の初期、公卿出身の政治権力者として藤原家の栄華を極めた藤原不比等は、藤原氏の氏神である武甕槌命(たけみかづちのみこと)を鹿島神宮から奈良春日の地に勧請し、春日神として祀ったのです。それは平城京が奈良に遷都された710年のことでした。「鹿島宮社例伝記」によると、鹿島神宮が建立された時期は、武甕槌命が鹿島神宮に到来して神を祀った後に宮柱が建てられた神武天皇の時代まで遡ります。よって鹿島神宮の建立からは既に13〜4世紀を経ていたことになります。その後、768年、藤原永手により壮麗な社殿が造営され、それが春日大社の正式な創始と考えられるようになりました。藤原不比等によって春日山の聖地が見出され、一族の祖である武甕槌命が祀られた平城京の始まりからおよそ60年近くの年月が費やされた後、藤原永手によって春日大社が建立されたのです。

その春日大社のルーツを知るための一番の早道は、ご由緒を頼りに、そこで祀られている神々の背景を理解することです。古代、建国に貢献された信心深い国家のリーダーらは、日本列島の各地を訪ねた際に、どこへ行くにもまず、神を崇め祀る聖地を定め、そこで祈りや燔祭を捧げて祭祀活動を行いました。その結果、日本列島の要所では、古くから祭祀場が造営され、それらの聖地には宮柱が建てられ、神社と呼ばれる社へと発展したのです。よって最古の神社では、建国に携わったリーダーの名が創建者として敬われ、神々として名を残し、祭神となるのが常でした。また、創建者との血縁関係にある親族も、祭神として共に祀られることも少なくありませんでした。それ故、古代の神社にて祀られている神々では、社の創始に関わる発起人や、その先祖、親族が絡んでいるケースが多いのです。また、時代を隔てて社を建立する際は、親族のルーツに関わる太古の神社より分社、もしくは分祀という形をとることもありました。その結果、創始者が建立した場所から離れていても、血縁関係に紐付けられた神々を異なる時代に祀り、元来の創建者を称えることができたのです。

春日大社幣殿を中門より見る
春日大社幣殿を中門より見る
春日大社もその例に漏れず、藤原氏(中臣氏)の祖先である建国の神々が祀られています。本殿に建てられた4つの神殿のうち、第一殿では国生みの話の中でも、剣の武威と神宝の存在に関わり、大国主の国譲りの際に大きな貢献を果たした武甕槌命が鹿島神宮より勧請されています。そして鹿島の神と共に第三殿と第四殿では、枚岡神社から中臣氏(藤原氏)の祖とされる天児屋根命(あまのこやね)と、その比売神(ひめがみ)も勧請されました。武甕槌命を第一殿にて祀ることにより、春日大社の創建に関わった藤原一族と武甕槌命との血縁関係が誇示されています。つまり、藤原氏は自らの先祖神を勧請することにより、時を隔てた飛鳥・奈良時代においても、鹿島から離れた奈良という新天地にて祭壇を築き、神を崇める社を改めて建立することができたのです。こうして藤原一族はいつの時代においても鹿島の神に結び付く有力な公卿としてその名を馳せ、武甕槌命の子孫として奈良時代においては政権を極め、古代豪族として国の発展に寄与したのです。

藤原氏と鹿島神宮の関係においては、神託の存在があることでも知られています。第10代崇神天皇の時代、鹿島の神が大阪山に現われ、天児屋根命(あまのこやね)を祖とする中臣神聞勝命(なかとみのかむききかつのみこと)に神託が与えられたことが伝承されています。記紀に登場する祭司の中でも、最も古い国生みの時代に活躍した天児屋根命は、天岩戸に天照大神がお隠れになった際に、祝詞を唱えた祭司として知られる神です。この神託の結果、中臣神聞勝命は鹿島中臣氏の祖となり、鹿島神宮の祭祀を司ることになったのです。祭祀としての責務は子孫へと引き継がれ、後世に伝授されていくことが古代の仕来りであったと考えられることから、中臣氏(藤原氏)が鹿島神宮に遣わされたのは、鹿島で祀られている国生みの父、武甕槌命や天児屋根命と中臣氏が血縁関係にあったからに違いないでしょう。中臣氏の祖が天児屋根命であることは古事記にも記されており、一族は祭祀の責務を担った古代豪族であったことがわかります。

中臣神聞勝命がご神託を授かった崇神天皇の時代は神武天皇の時代から6世紀余り隔てた紀元前1世紀頃であり、それは神宝を携えながら各地に神を祀る聖地を見出していく元伊勢の御巡幸が奈良の三輪山より始まった時でもありました。鹿島神宮へ向かった中臣神聞勝命と元伊勢の御巡幸を始められた豊鋤入姫命は、どちらも同じ時期に、神託により列島を移動しながら大切な神宝を守り、聖地にて神を礼拝するという立場に置かれていたことから、何かしら関係がある可能性があります。当時の祭祀活動とは、正に不思議な力に導かれるまま、国家の安泰を願い、祈ることにあったことからして、特に国の一大事においては祭祀活動の重要性が際立ったことでしょう。そのような強い信仰を持つ民の働きが、日本の礎にはあり、その流れの中で、藤原一族が大きく台頭したことに注視する必要があります。

最後に、これらの宗教的背景のルーツが外来のものである可能性にも着眼してみました。国生みの時代において藤原氏の祖である天児屋根命は祝詞をあげましたが、それが唐突に始まるとは考えづらいことから、祈祷や宗教儀式に纏わる相応の文化が、古くから存在していたと想定されます。それ故、一大事においてはすぐに祭祀が呼ばれて祝詞をあげることができたのでしょう。その祭祀活動の完成度から察するに、天児屋根命による祝詞の行事とは、もしかすると日本固有のものではなく、大陸の宗教文化に由来しているものかもしれません。独自の宗教文化を携えている大陸の民が列島に渡来し、祭司らがその宗教的儀式を日本に導入したと仮定すれば、天児屋根命から藤原一族に引き継がれた一連の儀式の在り方が理解しやすくなります。

本殿に祀られる経津主神

春日大社 南門
春日大社 南門
春日大社では、藤原一族の祖である武甕槌命が祀られている第一殿に併せて、第二殿では香取神宮の御祭神である経津主命(ふつぬしのみこと)が勧請されました。武甕槌命と共に葦原中国の平定に遣わされたのが経津主命であり、共に出雲の国にて十握剣を逆さまに大地に突き立てたことから、両者は刀剣神と呼ばれています。鹿島神宮の神が春日大社の第一殿、香取神宮の神が第二殿にて祀られているのは、単に2社が同じ常総の地域にあるということだけでなく、そこで祀られている2神が、春日大社の背景となる重要な史実に関わっているからに他なりません。

「古事記」には、伊邪那美命が亡くなられた際に生じた伊耶那岐命による火神斬殺について、リアルに記されています。十握剣(とつかのつるぎ)と呼ばれる御刀(みはかし)によって、首を切り落とした際に、御刀の鍔についた血が神聖な岩にほとばしりついて生まれたのが、建御雷男神、または建布都神(たけふつのみかみ)であり、それは葦原中国平定を行った武甕槌命を指します。香取神宮で祀られている経津主命と建布都神は、その読みが類似しているだけでなく、「ふつ」という言葉が一致していることから、同一の神であったという説があります。

神武天皇の時代、国家を平定する大刀として武甕槌命が謙譲したのが布都御霊(ふつのみたま)の剣です。よって、「ふつ」は神剣に関わる言葉であり、人名に「ふつ」が含まれることは、御刀によって生まれた神々に由来していることを指しています。古語拾遺によると、伊耶那岐神が子をもうける際に振るった十握剣は「天のハハギリ」を意味し、古語では蛇のことを「ハハ」と呼んだことから、蛇、すなわち悪を斬る、という意味に捉えることができます。また、「ふつ」という発音は擬声語であり、剣によって物を切る様を表現し、古代では神威を強調した言葉として用いられたとも考えられています。よって、火神斬殺とは神の子の家系を守るため、悪に染まった者を斬るという手段だったとも考えられます。また、ヘブライ語で「ふつ」hutsa、フツァ(hutsa、フツァ)は「処刑される」ことを意味し、御刀の剣威に沿う意味合いを持つことから、「ふつ」という言葉はヘブライ語に由来していた可能性もあります。

日本書紀や古語拾遺によると武甕槌命は甕速日(みかはやひ)の子であり、香取神宮で祀られている経津主神は、磐裂(いはさく)の子孫として磐筒男(いわつつのお)の妻である磐筒女(いわつつのめ)から生まれた子であると出自まで明記されていることから、香取の神と鹿島の神は伊耶那岐神の子孫として血縁関係はあり、刀剣神の名を共有するものの、家系は同一ではないと考えたほうが無難でしょう。また、経津主神の祖である「磐裂」の意味は、岩を裂く刀剣の威力を意味するという説もありますが、もしかすると原語のルーツはイスラエル族長の一人であるイサクを指していたのかもしれません。つまり、イサクの子孫であるモーセが荒野で岩を杖でたたき、裂けた岩から水が出たことから、磐裂(イサク)という字をあてた可能性があるのです。

春日大社に多くの参拝者が集う理由は、これら4連の本殿にて祀られている神々が建国に纏わるものであり、国家の創建に深く関わっていたからでしょう。武甕槌命が祀られる鹿島神宮は神宝剣に関わる重要な拠点でもあり、国家鎮護に関連する神社としても知られています。そして神々の末裔となる中臣氏、そして藤原氏も、併せて祀られることにより、国家を代表する祭祀活動の象徴として春日大社が位置付けられたからではないでしょうか。祖先崇拝そのものが、建国の神々を崇め祀ることに直結する4つの本殿が存在したからこそ、春日大社は国家の崇敬を集め続け、今日まで古代日本を代表する偉大な神社のひとつとして、多くの人々が参拝しているのです。

春日大社が船神に深く関連する理由

古代の日本において活躍した知識層の多くは、アジア大陸より海を渡ってきた渡来者でした。アジア大陸の歴史は古く、日本では縄文時代と呼ばれる古代においても、先進した文化が発展していました。特に西アジアの地域では、海を渡るための航海術と、それに伴う造船の技術が古代でも発展していたことが知られています。大陸より東方の島々へ航海することは一大イベントであったに違いなく、その優れた大陸の航海術を携えてきた知識層に導かれて海を渡ることができたからこそ、多くの渡来者が短期間に大陸から台湾、南西諸島を経由して日本列島を訪れることができたのです。よって、記紀においても国生みから天孫降臨の時代に至るまで、神々は船を乗り物として島々を行き来していたことが書かれているのです。これら大陸からの渡来者により、古代日本の国造りと文化の礎が築かれていくことになります。

春日大社 藤浪之屋
春日大社 藤浪之屋
春日大社の第一殿にて祀られ、藤原氏の祖である武甕槌命もその例に漏れず、船に乗って島々を移動しました。葦原中国を平定しなければならない、という国の一大事に、天照大神は自分の子である武甕槌命を葦原中国に遣わすことを決め、その際に天鳥船神(あめのとりふねのかみ)を同行させたことが古事記に記録されています。その後、武甕槌命と天鳥船神は出雲の伊耶佐の小浜に向かい、そこで大国主神と対面するのです。それ故、古事記では武甕槌命と天鳥船神は、「二柱の神」と呼ばれています。日本書紀や古語拾遺にも同等の内容が記されていますが、そこでは武甕槌命と共に出雲へ旅をしたのが、春日大社の第二殿に祀られている経津主神となっています。古事記の記述には経津主神の名前は見当たりませんが、武甕槌命に同行した神として経津主神の代わりに天鳥船神の名前が書かれていることから、経津主神と天鳥船神は同一人物であったと想定されます。

古語拾遺には、武甕槌命は常陸国の鹿島神、経津主神は下総国の香取神と明記され、どちらも刀剣神であり、前者は雷神としても知られています。鹿島神社と香取神社の距離は古代の海原を隔てて13qほどしか離れていない海岸に隣接した場所に建立されています。「香取大宮司系図」によると、経津主神を祀る香取神宮では元来、香取連が祭祀氏族として名を連ねていましたが、奈良時代後期、大中臣氏(おおなかとみうじ)が中央政権にて祭祀を司るようになった際、大中臣清暢が香取連へ養子として迎えられ、それ以降平安時代まで大中臣氏が香取神宮の宮司を務めたことがわかります。中臣氏(藤原氏)は経津主神や、その子孫と血縁関係にあったからこそ、その船神の祖となる天鳥船神が、経津主神として春日大社にて祀られていたのではないでしょうか。

経津主神としても知られる天鳥船神は伊耶那岐神の子であり、その名前のとおり優れた航海技術を有していたことから、船旅に関する重責を担っていた氏族と考えられます。天鳥船神は巨石を祀る東茨城の石船神社や、出雲大社近くの美保神社、そして大阪の住吉大社など、船神に纏わる由緒を持つ著名な神社でも祀られています。天鳥船神は武甕槌命と共に出雲へと船で向かっただけでなく、その後、瓊瓊杵尊が高天原から九州の南方、そして本州へと海を渡りながら旅を続けた際にも、その航海を助けたのではないでしょうか。その旅路のルート沿いには、鹿児島日置市にある船木神社のように、造船と航海技術に長けていた船木氏の痕跡が残されている神社が存在します。後世において元伊勢御巡幸が行われた時代では、船木氏の貢献により複数の船が倭姫命の御一行に提供されました。それらの船を用いて琵琶湖東方の船木山近く、伊久良河宮から川を下り、伊勢湾岸を経由して五十鈴川の上流にある伊勢の聖地まで御一行は向かうことができたのです。

古代、まだ人口も少なく、集落の形成もままならぬ時代、航海術に抜きん出た豪族が同時期に複数存在したとは考えづらいことから、船木氏も、経津主神(天鳥船神)と同系の出自と考えてよさそうです。第12代景行天皇の時代、中臣臣狭山命が神託を受けた際に船3隻が奉献され、それが12年に1度行われる春日大社 清浄門
春日大社 清浄門
鹿島神宮の御船祭の起源になったと伝えられています。つまり中臣氏も天鳥船神、経津主神の末裔として造船の責務を担う豪族であり、その祖が祀られる鹿島神宮や春日大社では、船の祭事が執り行われるようになったのではないでしょうか。こうして天鳥船神の責務は船木氏に加え、中臣氏にも引き継がれていったのです。その後、藤原の姓を賜った中臣鎌足の子、不比等が春日山にて先祖を祀った由縁により、先代の海洋豪族である経津主神も春日大社の第二殿で祀られるようになりました。春日大社の背景には、海原を航海する海洋豪族の存在があったのです。

春日大社が誇る本朱の意味

20年に1度行われる春日大社の式年造替では、4棟の本殿と境内の南東に位置する若宮神社のみ、水銀に由来する本朱と呼ばれる顔料を用いて、煌びやかな朱色に塗り替えられます。朱色系統の顔料は本朱の他に、鉛丹と弁柄があり、一般的な神社では橙色の鉛丹が使われています。一方、春日大社では本朱のみが本殿の塗装に用いられてきたのには、何かしら理由がありそうです。実はこの本朱に纏わる伝統も、中臣氏(藤原氏)が造船に深く関わっていた海洋豪族であることを示唆しています。

本朱の原料は辰砂と呼ばれる硫黄と水銀の化合物です。その鉱石を粉砕して採取された粉が主成分となり、丹とも呼ばれる本朱の顔料になります。その粉に水で溶いた膠水を加えて棒でこねると本朱の塗料になります。実際の本朱色は真っ赤であり、塗装して時が経つにつれて深みのある赤色に変わることから、神を祀る神社の建築物を荘厳に彩ることができます。また、辰砂を空気中において加熱すると水銀蒸気と二酸化硫黄が発生し、その蒸気を冷却することにより、水銀を精製することができます。赤色の鉱物質が、シルバー色の水銀に可変するという自然の不思議は神秘的であり、古代では神威の象徴と考えられたのではないでしょうか。

春日大社 椿本神社
春日大社 椿本神社
水銀の原料にもなる辰砂は、古代においても極めて重要な鉱山資源でした。辰砂から作られた本朱の顔料は、春日大社など名高い神社の塗装に用いられただけでなく、耐水効果にも優れていたのです。本朱塗りをする際には通常、膠と明礬(みょうばん)を混ぜた礬砂(どうさ)を下地として塗り、その上に本朱の塗料を塗ります。こうして木の湿気は下地によって封じられ、本朱による仕上げで耐水性がさらに増し加えられることになります。その優れた耐水効果故に、本朱の活用は船底を塗装する際にも重宝されるようになりました。そしていつしか船が建造される際には、その船底に辰砂を原料とした顔料が多用されるようになったのです。それ故、古代の海洋豪族は、水銀の元となる辰砂を探し求めて、日本列島各地を探索し続けました。

その結果、伊勢国の丹生(多気町)や、和歌山県を流れる吉野川の上流、紀伊山地周辺も、古くから辰砂の特産地として知られるようになりました。「丹生」には「辰砂が採れる場所」という意味があり、辰砂が採れる地域の多くは丹生と呼ばれるようになりました。中国の史書である魏志倭人伝にも、日本には丹の山が存在すると記載されており、多くの鉱脈があることが語り継がれています。中でも和歌山の丹生都比売神社は、辰砂の存在と古くから結び付いており、そこで祀られている女神は全国の辰砂を支配する一族が祀る神として崇められています。

古代、これら辰砂が埋蔵されている場所を探し当てて、それら鉱山の周りに一族の拠点を設けて集落を築いたのが、海洋豪族として名高い船木氏です。造船技術に長けていた船木氏にとって、船底に塗る本朱の水銀塗料は、耐久性に優れた船を造るために必要不可欠な鉱物質だったのです。それ故、元伊勢の時代、船木氏は御巡幸の最終地点となる伊勢国に到達した際、その地域に辰砂が埋蔵されていることを見出しました。結果、その周辺一帯は朱が生産される村として、伊勢国丹生と呼ばれるようになりました。その後、船木氏は伊勢国から自らの拠点を西方へと移し、今日の和歌山、吉野川上流にある丹生都比売神社周辺の地域に改めて辰砂の鉱山を見出し、朱の生産に専念したのです。その後、船木氏は播磨の北西部に一族の最終拠点となる集落を造成し、そこでも鉱山の発掘に尽力しました。

春日大社 多賀神社
春日大社 多賀神社
春日大社が本朱にこだわり、長年に亘る式年造替において、本朱のみで本殿を塗り替えてきた理由は、春日神のルーツに海洋豪族が関わっていたからではないでしょうか。武甕槌命や経津主神らは、どちらも大陸から渡来してきた豪族の血筋であり、単に祭祀の血統に属していただけでなく、海洋豪族としても造船や航海術に携わっていたと考えられます。その象徴として、この2神が祀られた春日大社では、海洋豪族が統括する辰砂の鉱山であると誇示するため、本殿を本朱によって鮮やかに染めたと考えられます。

大陸文化と深く繋がる春日大社

奈良時代は710年、平城京の造営により始まりました。平城京は当時、世界中で最も大きな都市であった中国の長安を手本に設計されています。それ故、奈良には複数の五重塔や建造物が建てられたのです。同じ時代、御蓋山にて神が祀られた春日大社では、創建以来、鏡に代表される神宝や、刀剣、楽器、装束など、至極の工芸品が、藤原一門や天皇、皇族が参拝を重ねるたびに奉納されてきたのです。その結果、「平安の正倉院」とも呼ばれるほど、おびただしい数の工芸品が奉納されてきたのです。今日、国宝や国の重要文化財に指定されているものは1300点以上にもなります。

春日大社 舞殿
春日大社 舞殿
注目は「蒔絵事」(まきえのこと)や「蒔絵弓」など、貴族文化を背景に創作された王朝美術工芸の傑作です。また、中には当時の藤原一族の栄華と国際的な文化交流を誇示するような大陸に由来するデザインを誇る工芸品も多く含まれています。例えば春日大社が建立された8世紀前後では、大陸より雅楽と称される歌舞や管弦が伝わりました。そして舞を行う際にかぶる舞楽面の中には、重要文化財に指定されている「納曽利」のように、大きな目や太く高い鼻など、大陸ならではの豊かな表情が特徴を持つ面が含まれていたのです。

藤原氏が大陸の文化と密接に繋がっていた理由は、まず、藤原氏(中臣氏)の祖である武甕槌命、経津主神が大陸系より優れた文化を日本列島に持ち込んできた渡来者であり、海洋豪族として優れた航海術と造船技術を携えてきたことが考えられます。また、藤原氏は祭司活動にも活発に関与していたことに注視する必要があります。歴史的に見ても、藤原氏の家系は祭祀に纏わる責務を担うことが多いのは何故でしょうか。宗教儀式とは誰もが突然始めることができるものではなく、長い歴史の中で祭祀の役割を持つ家系というものが培われてくると考えられます。それ故、藤原氏とは大陸にルーツをもつ豪族というだけでなく、祭祀の役割を代々に亘り担ってきた家系であると考えられるのです。

その大陸文化と深く関わる藤原一族から輩出された藤原不比等が、春日大社の創始者となりました。不比等という名前の意味は不可解であり、なぜ、そのような漢字の並びをわざわざ選んだのか、誰もが首をかしげることでしょう。不比等という名は、実はヘブライ語で書かれ、イスラエルの祭祀を担うレビ族であることを暗黙のうちに証しています。不比等(ふひと)という名前をヘブライ語で綴り、それを逆読みすると、その名前には「神」の文字が含まれていることがわかります。YHWH、ヤーウェー(YHWH、ヤーウェー)を左から右に読むと(ヘブライ語は通常、右から左に読みます)HWHY、フヒ(HWHY、フヒ)となります。不比等がレビ族の出自であり、祭祀の家系であったことは、別章にて詳しく解説します。

藤原氏の祖は、大陸より渡来してきたイスラエルからの移民として、優れた航海技術をもつユダヤ船団を動員して日本列島に渡り、そこで海上交通を取り仕切っただけでなく、イスラエルで祭祀を務めてきたレビ族の家系を汲む豪族である故に、祭祀の責務も担っていたのです。それ故、春日大社では海洋豪族が誇示してやまない水銀の象徴である本朱により式年造替の塗装と模様替えが行われるようになりました。また、魔除けの意味においても、神社の鳥居や門扉を鮮やかな朱色に塗る伝統も広まりました。これもイスラエルの過ぎ越しの祭に由来する儀式の延長線と考えられます。子羊を燔祭として捧げ、その血を「家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る」(出エジプト記12章)ことにより、「神の裁きが過ぎていく」と、約束されたことが旧約聖書に記されています。本朱色は、本殿を鮮やかに彩るだけでなく、神の守護も意味していたのです。

春日大社の見事なレイライン

藤原不比等が奈良の地を歩き回り、ピンポイントに厳選した春日山のすそ野だけに、その場所は、多くの聖地を結ぶ線が見事に交差する中心点となっています。特に注目したいことは、藤原不比等自身が海洋豪族の出自であり、春日大社もその祖を祀ることから、レイライン上に繋がる聖地の多くが、海の神に深く関与している神社であることです。それ故、武甕槌命が主人公となる国譲りの話に関わる出雲大社、諏訪大社、鹿島神宮は、これらを結ぶレイライン上に繋がっていることがわかります。また、海の神を祀る金刀比羅宮や、大陸から渡来した秦氏が創建した八幡神社に関わる宇佐神宮や宇佐八幡宮が名を連ねることにも注視する必要があります。

最も注目すべきは、春日大社のレイラインの中には、日本列島の聖地を結ぶ多くのレイラインの中でも、最も重大な1本の線が含まれているということです。それが、西から宇佐神宮、金刀比羅宮奥社厳魂神社、伊弉諾神宮、春日大社、富士山、という5つの聖地を一直線で結ぶレイラインです。日本列島最高峰と、国家の創始者である伊耶那岐神を祀る伊弉諾神宮、海上交通の神と大神神社の祭神である大物主が祀られている金刀比羅宮、八幡大神が祀られている宇佐神宮が、ぴたりと一直線に並び、その線上に春日大社が建立されたのは決して偶然ではありません。それは、藤原不比等ら、卓越した天文学と地理学、航海技術を携えて活躍した古代の識者らが英知を結集した結果と言えます。

鹿島神宮のレイライン
春日大社のレイライン

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