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神の民の指標となった大陸最東端の伽耶と任那

三世紀末、遂に歴史が動きはじめます。都の再建築を夢見たイスラエル系の渡来人は、応神天皇をリーダーとして、新天地である東の島々に王が住まわれる都を造営するために民が決起するべきことを公言したのです。その号令と共に、各地に居住していたイスラエル系の人々は、ヘブライ語で「神の民」を意味する「ヤマト」政権の誕生を祝して、各地からこぞって貢物を持参し、今日の奈良界隈に居を構えた天皇を訪ねてきたことでしょう。無論このニュースは、大陸側でも特に朝鮮半島に在住する同胞に伝わり、中でも有力なユダ族を主体とする秦氏は、イスラエル系民族の移住を朝鮮半島から加速させる原動力となりました。応神天皇の時代に、大勢の秦氏が朝鮮半島から渡来してきたことは、日本書記等の古文書に記載されている通りです。

当時、朝鮮半島の南には新羅、百済、伽耶の三つの国がありましたが、中でも日本へ渡る通過拠点となったのが、半島の最南端に突如として現れた伽耶と呼ばれる小国家群です。応神天皇の即位と同時期、それまで弁韓と呼ばれていた地域に複数の部族が共存するようになったのです。この伽耶と呼ばれる地域は、日本では任那とも呼ばれました。そして「魏書」においては倭国の境界線が狗邪韓国であるようにも伺えることから、任那を事実上ヤマト政権下にある「日本府」と解釈する学説が広まりました。しかし、三世紀末のヤマト政権はまだ成立したばかりであり、当時、倭国よりも歴史が古く、文化的に先行していたと考えられる中国に隣接する朝鮮半島が、たとえその一部であったとしても、まだ発展途上にあるヤマト政権の支配下に置かれていたという考えには多くの異論があります。いずれにせよ、当時の倭国と伽耶の間には密接な関係があり、何らかの統治機関が存在して、双方のコミュニケーションを円滑化したことは確かなようです。

伽耶という小国家群が突如として現れた理由は、長い年月を経て東方に移住してきたイスラエル系民族の中でも、特に秦氏を中心とするユダ族による倭国への民族移動が加速したため、朝鮮半島の南部に一時の空白が生じたからに他なりません。そこに多くのイスラエルの部族や、大陸から渡来してきた他国の民族も流入し、瞬く間に小国家群が形成されたのでしょう。そこには日本に渡る前に狗邪韓国周辺にて一時滞留をしていた民も少なくはなく、これらの氏族はそれぞれ独自に海を渡る準備をしていたと考えられます。こうして地理的に日本に一番近い伽耶は、日本への架け橋となりました。また、これらの民族移動を取り計らうために、なんらかの統治機関があったに違いなく、それがあたかも任那政府というヤマト政権下の機関であるように伝わったのではないでしょうか。

さて、「伽耶」(カヤ)という言葉は「命と希望」を意味する言葉として選別されたkhayah、カヤ(khayah、カヤ)が語源です。この言葉はヘブライ語で単に「生きる ! 」ことを意味するだけでなく、言葉を数字に置き換えることができるヘブライ語では「幸運 ! 」を象徴する「十八」となります。それ故、新天地にて「生きる恵み」「生きることの幸せ」を示唆したものと考えられます。日本書記でも十八の十倍である「百八十種」の勝(すぐり)を全国から秦酒公(さけのきみ)が集め、絹布を献上した結果、秦氏が朝廷より太秦の姓を賜ったという記述が有ります。この数字は正に幸運の象徴だったのです。

次に任那(ニンナ)という名称ですが、ごく一般的には主浦(nim-nae)という場所の名前を朝鮮語で訓読みしたものと考えられています。しかし実は、その語源はヘブライ語のニンナ(nimnah、ニンナ)です。この言葉はヘブライ語で「帰属する」、「仲間に数えられる」を意味します。つまり、伽耶と任那という名称を組み合わせると、「神の民に帰属し、生きる幸運をつかむ」、「神の選民として生きる!」という意味になり、それはまさに、日本に都を建設する噂を伝え聞いたイスラエル系の同胞が、約束の地にて決起することを象徴するにふさわしい、帰属意識を高潮させる言葉となるのです。任那を地理的に包括する伽耶諸国は、朝鮮半島の最南端、倭国へ旅立つ最後の大陸の拠点であり、その地域が伽耶、及び任那と呼ばれた瞬間から、イスラエルの民はその場所が、「神の民」にとって約束の地である島々に渡る最後の重要拠点であり、そこが高天原の最東端、アジア大陸の東の端であることを知らされたのです。