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日本列島を目指した多くの渡来者
西アジアから東方へ向かう渡航経路とシルクロード弥生時代後期、日本列島には既に多くの渡来者が大陸から朝鮮半島を経由し、列島内各地に集落を築いて居住していました。その背景には、紀元前722年に北イスラエル王国が崩壊した後、アジア大陸を東方へ向けて離散した民の存在がありました。中には長い年月をかけて大陸を横断し、日本列島まで到達した民も存在したと考えられます。
また、北イスラエル王国が崩壊する直前、南のユダ王国も直に占領されることを察知したイザヤも、日本列島を目指して旅をしたと推測されます。何故なら、旧約聖書のイザヤ書に綴られているとおり、太陽の昇る東方に浮かぶ「海の島々」に新天地があると神がイザヤに告げられたからです(イザヤ24章15節)。その言葉を信じたイザヤは、王系一族や祭司、そして自分の家族と共に船に乗り、アジア大陸の南岸を東方へ向けて出発することを決意したのです。時は、北イスラエル王国が滅びてから既に20年あまり経っていました。
既に膨大な数に上る北イスラエル王国の民が大陸に向けて離散している最中、ひたすらアジア大陸の先に浮かぶ島々を目指し、船に乗って日本列島に渡来してきたイザヤの集団は、東南アジアから台湾、八重山諸島を経由し、1年足らずで琉球、沖縄に到達したと推測されます。船に乗ってきただけに、大陸を徒歩で移動した人々よりも先に、南方から日本列島に到達することになります。しかしながら、20年程先行して離散した北イスラエル王国の民の中には、そのイザヤよりも先に日本列島に到達していた民も少なからず存在しました。それらの人々は、朝鮮半島を経由して九州の北部や山陰地方へ到達し、先んじて各地に集落を築いたと考えられます。
この渡来者の流れは、大陸で秦始皇帝による統治が崩壊し、膨大な数にのぼる難民が各地に逃避し始めた直後から、一気に加速することになります。大陸各地は戦禍の坩堝となり、多くの人々は東方や朝鮮半島の方向に逃げるしか術がありませんでした。その中で、イスラエルにルーツを持つ人々の間に、大陸の東方には神から祝福された長寿の国があるという噂が伝承されていたのではないでしょうか。また、先行して日本へ渡航した人々からの噂の便りで、日本列島の住みやすさ、素晴らしさが大陸の人々にも伝えられていたのかもしれません。中国の史書を見ても、東方の彼方には長寿の国があるという言い伝えが信じられていたことがわかります。
その結果、日本列島へ旅する人の波は急激に増加し、イスラエル系の民を中心とする大勢の民が、大陸より渡来することになります。そして最終的には弥生時代後期の数世紀の間に、日本列島に渡来した民は膨大な数に膨れ上がったのです。大陸より渡来した人々の数は歴史人口学の見地からしても、少なからず150万人にはなると推測されています。日本列島は、まさにアジア大陸からの渡来者によって、徐々に開拓されていく途上にあったのです。
邪馬台国の後を担う応神天皇の建国精神
邪馬台国が崩壊した直後の3世紀末、遂に歴史が動き始めます。当時、既に多くの渡来者が大陸から海を渡って日本列島の随所で集落を開拓していました。特に都の再建築を夢見てきたイスラエル系の人々にとっては、イザヤが預言書に綴った東方にある「海の島々」こそ日本列島であると信じてきたが故、そこに新しい都を造営することは急務でした。
魏志倭人伝などの中国史書によると、3世紀ごろの日本は既に統治国家なる邪馬台国として知られ、列島内にはその強国以外にも多くの小国が連なっていたことが記録されています。その一大勢力を誇示した邪馬台国が突如として崩壊したことにより、一時、日本の政情は大変不安定になったと推測されます。そして新しい国家体制の構築が望まれた矢先、満を持して声をあげ立ち上がったのが応神天皇だったのです。息長足姫(おきながたらしひめ)神功皇后を母とする応神天皇の即位により、日本の歴史が大きく動き始めます。
応神天皇が八幡神と呼ばれた理由
応神帝御影 (河内国誉田八幡宮蔵)応神天皇は後世において八幡神としても知られるようになりました。八幡神は古代より、国家の守護神として信仰されていたことから、平安時代以降、いつしか応神天皇の功績が神格化され、八幡神として崇拝されたというのが定説です。八幡神を祀る総本山は、秦氏が建立した大分県の宇佐神宮として知られています。よって、応神天皇は秦氏と繋がっていたことがわかります。
その後、八幡神は仏教と神道が融合する「神仏習合」の影響を受け、「八幡大菩薩」としても崇拝されるようになります。それ故、武士が台頭して謳歌した鎌倉時代にかけては、国の統治に関わる武士たちが八幡神を崇拝するようになります。源頼朝や源義家が、源氏の祖先は八幡神を信仰していたという言い伝えを元に八幡神を信仰し、武士の間でも八幡神が守護神として崇められるようになったのです。こうして八幡神は神仏習合の影響を受けて、広く信仰されるようになります。
しかしながら、定説ではなぜ、応神天皇が八幡神と結び付いたのか、その理由が説明できていません。国のために尽力された天皇は、他にも大勢存在するにも関わらず、何故、応神天皇だけが国家に貢献した天皇として八幡神となり、崇められるようになったのでしょうか。その理由は「八幡」という言葉の語源を理解することにより、明らかになります。
「八幡」の意味をヘブライ語で解明する
「八幡」、「ヤハタ」の発音に良く似ているヘブライ語にהודה(yahuda、ヤフダ)があり、イスラエル12部族のひとつである「ユダ族」を指します。また、「ヤフダ」を語源とするיהודי (yahudhi、ヤフディ)という言葉もあり、 「ユダヤ人」を意味します。どちらも「ヤハタ」の発音に類似していることから、ヘブライ語でユダ族、ユダヤ人を意味する「ヤフダ」「ヤフディ」が多少訛り、「ヤハタ」と読むようになり、そこに八幡という漢字があてられたと推測されます。
イスラエル12部族の中で、国王はユダ族から出ることが定められていました。それ故、もし日本の天皇がイスラエルの出自と結び付いていると想定するならば、国王に等しい天皇のルーツはユダ族になるはずです。つまり天皇は「ヤフダ」一族であり、天皇の神とは「ヤフダ」の神を指すことになります。そして天皇の神は「ユダ族の神」でもあることから、一族の神を総じて「八幡神」と語り継がれるようになったと考えられます。
応神天皇が「ホムタワケ」と呼ばれた所以
応神天皇の諡号は、日本書紀では「誉田別」「ホムタワケ」、また古事記では「品陀和気」「ホムダワケ」とも記載されていますが、その由来がわかっていません。大和地方にて応神天皇が崇敬され、その地域に誉田(ほむた)という場所があったとか、神聖な天皇であるということから聖別され、「分け」た役割を担うお方として、人々と神とを結ぶ仲介者の意味で「ホムタワケ」と言われるようになったとも語り継がれています。また、天皇は「誉(ほまれ)高い」ことから、「ホムタワケ」という言葉になったという説もあります。その場合「ワケ」は、何等かの役割を果たす位を指すような意味合いにとられますが、定かではありません。
「ホムタワケ」の真相も、ヘブライ語で理解することができます。まず、「ホムタワケ」の「ホムタ」は、「壁」を意味するחומה(khoma、ホマ) の語尾が可変したחומתה(khomta、ホムタ) と考えられます。この言葉は「神殿の壁」を意味することもありました。
「ワケ」は「最初にできる」、「初子」、「長子」を意味するביכור(bikor、ビコー) が語源と考えられます。頭の子音「ב」の発音は、「ヴ」に近いことから「ワ」に似たような響きがあります。そして「コ」が訛り「ケ」に近づいた発音とすれば、「ビコー」が訛って「ヴァケー」「ワケ」になったと理解できます。すると「誉田別」という名前には、ヘブライ語で「最初にできた壁」、「初めての神殿の壁」、すなわち神殿復興の意味が込められていることになります。
また、「ワケ」を準備ができたことを表す言葉であるבהכן(bahken、バケ)と解釈することも可能です。その場合、「ホムタワケ」は、「神殿の壁の準備ができた」という意味になります。後者の方が「ホムタワケ」により近い「ホムタバケ」「ホムタヴァケ」の発音になるため、語源としての可能性が高いと言えます。
いずれの解釈にしても、応神天皇が東方に浮かぶ海の島々で、神殿の城壁を立ち上げる責務を担っていたことを象徴する呼称が「ホムタワケ」だったのです。そして、神の宮が日本列島に立ち上げられることが応神天皇によって宣言されたことから、「ホムタワケ」と呼ばれるようになったのではないでしょうか。
国家再建の責任を担う応神天皇
応神天皇が即位した頃の歴史的背景と名前の意味から察するに、天皇は国家再建の象徴となる神殿の壁、すなわち神宮を建立し、イスラエルの伝統を守るべく、日本においても神を祀る役割を授かっていたと推測されます。よって時が満ちたある日、応神天皇は国家のリーダーとして、新天地である「東の島々」、日本列島にて神を祀る神社を造営すべく立ち上がったのです。その熱い思いが、応神天皇、自らの名前に込められていました。
応神天皇が即位すると、日本から遠く離れたアジア大陸においても、神殿が再建される噂を聞きつけたイスラエル系の民がいたのではないでしょうか。その中には日本へ向かうために決起し、渡来者となった人々も少なくはなかったはずです。そして応神天皇による国家の統治が始まると共に、アジア大陸の各地に離散していたイスラエル系の人々の中には、ヘブライ語で「神の民」を意味する「ヤマト」政権の誕生を祝して、アジア大陸より日本列島に向けて旅することを願った人々が大勢いました。
渡来者の原動力となったユダヤ系秦氏の存在
大勢の秦氏が朝鮮半島から渡来した大陸より渡来してきた最大の集団が秦氏でした。膨大な数に膨れ上がった渡来者の数は、日本書紀等の古文書に記載されている通りです。秦氏の名前もイスラエルのユダ族、「ヤフダ」「ヤワタ」に由来し、ユダヤ系一族と考えられます。そして大陸においても秦始皇帝との血縁関係が取り沙汰される秦氏は、多大なる資産を保有していただけでなく、その教養や学問知識においても、一族が抜きん出て優れていることが知られていました。それら知識人や有力者が多い秦氏一族が、自らの資産を携えながら京都方面へと向かい、最終的にそこを一族の拠点としたのです。
秦氏はその資産運用だけでなく、政治経済力においても長けていたが故、日本に渡来した直後から、すぐに天皇家に仕え始めることとなります。そのような連携プレーを可能にしたのは、秦氏が天皇家との血縁関係にあったからと推測されます。その結果、アジア大陸に残された大勢のイスラエル系同胞らを、朝鮮半島から日本列島へと船を用いて迎え入れる原動力となり、日本の歴史が大きく動くことになります。
いつも楽しみにしています。私は、ベニヤミンはベン オニなので弁韓で鬼、ユダは、倭の右側の委ねるの読み、魏はユダとベニヤミンでユダ王国と関係していると考えたいと思います。これからも応援します。がんばってください。
うまく言えませんが、日本人の誠実さ、清潔感は他国民と比べても極めて稀な特質と思います(一般論)、また塩を撒いて清めるといった風習は日本特有と思いますが聖書にも記載あり、いろいろ考えると日本文化というか基礎的なものは結構、聖書にもある古代イスラエル的な色合いが濃いと感じています。歴史というのは面白いですね。
すごく面白くて一気読みしました。
そこで感じたことですが、ユダヤの民で景教の秦氏がなぜ景教を広めようとせずに八幡神社や稲荷神社を次々と建立したのでしょうか?
素朴に疑問を持ちました
非常に興味をそそら得るテーマです。
「日本とユダヤのハーモニー」も読みたくなりアマゾンやブックオフを見ましたが本がありません。
購入したいのですが、どこで購入できますか?
お忙しいところ恐縮ですが、よろしくお願いします
元々出版する予定はあったのですが、インターネットの時代が到来し、WEBでの展開が重要視されてきたことから、現状は未定となっています。まだ、リサーチや執筆を続けているトピックもあり、最終章に辿り着くまで、今少々、お待ちください!