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2012/09/06

応神天皇を祝した大陸からの渡来者 伽耶と任那の背景に潜むイスラエル民族の存在

日本列島を目指した多くの渡来者

西アジアから東方へ向かう渡航経路とシルクロード
西アジアから東方へ向かう渡航経路とシルクロード
三世紀当時、日本列島には既に多くの渡来人が大陸から朝鮮半島を経由して海を渡り、列島内各地に集落を築いて居住していました。その渡来人の流れは、紀元前7世紀初頭、南北に分かれたイスラエル国家双方が崩壊する最中、国を脱出して日本まで船で渡ってきたイザヤと祭司の集団、そしてイスラエルの王系一族によって始まったと考えられます。

その背景には、イスラエルの民が信じる神から与えられた約束として、太陽の上る東方の「海の島々」にて神を崇めよ、という預言がありました。そして確かにアジア大陸の東方に美しい島々が存在するというニュースが、先行した渡航者より大陸各地に離散している同胞らに伝わることにより、イスラエルの民の中にはその言葉を信じて東方を目指す人々が少なくなかったと考えられます。そして最終的には数世紀という長い時を経て、大陸から日本列島に渡来した民の数は膨れ上がります。その数は歴史人口学の見地からしても、少なからず150万人にはなると推測されています。日本列島は、まさにアジア大陸からの渡来者によって、徐々に開拓されていく途上にあったのです。

邪馬台国の後を担う応神天皇の働き

邪馬台国が崩壊した直後の三世紀末、遂に歴史が動きはじめます。当時、既に多くの大陸からの渡来者が日本列島に渡来し、随所で集落を開拓していました。特に都の再建築を夢見てきた西アジアからの渡来者であるイスラエル系の人々にとっては、預言者イザヤが約束した「東の島々」、すなわち神から与えられた新天地が日本列島であると信じてきたが故、そこに新しい都を造営することは急務でした。

魏志倭人伝などの中国史書によると、三世紀ごろの日本は既に統治国家なる邪馬台国とて知られ、列島内にはその強国以外にも多くの小国が連なっていたことが記録されています。よって、その一大勢力を誇示した邪馬台国が突如として崩壊したことにより、一時、日本の政情は大変不安定になったと推測されます。そして新しい国家体制の構築が望まれた矢先、満を持して声をあげ、立ち上がったのが、息長足姫(おきながたらしひめ)、神功皇后を母とする応神天皇だったのです。

応神天皇はユダヤ系か?

応神帝御影 (河内国誉田八幡宮蔵)
応神帝御影 (河内国誉田八幡宮蔵)
応神天皇は後世において八幡神としても知られるようになりました。八幡、ヤハタ、という名称は、ヘブライ語で「ユダヤ人」を意味する「イェフダ」、「ヤフダ」の発音に酷似していることから、その語源はヘブライ語と考えられます。つまり、ヘブライ語の「ヤフダ」が多少訛り、「ヤハタ」と読むようになり、そこに八幡という漢字があてられたと想定されるのです。それ故、八幡の名称で知られる応神天皇は、「ヤ」の神を祀るイスラエルのユダ族であったと考えられます。

また、応神天皇の諡号である「誉田別」、「ホムタワケ」も、同様にヘブライ語で理解できます。「ホムタ」は「壁」を意味するחומה(khoma、ホマ) の語尾が可変したחומתה(khomta、ホムタ) です。この言葉は「神殿の壁」を意味することもありました。そして「ワケ」は、「最初にできる」、「初子」、「長子」を意味するביכור(bikor、ビコール) という言葉が語源と考えられます。すると「誉田別」という名前には、ヘブライ語で「最初にできた壁」、「初めての神殿の壁」、すなわち神殿復興の意味が込められていることになります。

国家再建の責任を担う応神天皇

応神天皇が即位した頃の歴史的背景と名前の意味から察するに、天皇は国家再建の象徴となる神殿の壁を立ち上げ、イスラエルの伝統を守るべく、日本においても神を祀る役割を授かっていたと推測されます。よって時が満ちたある日、応神天皇は国家のリーダーとして、新天地である「東の島々」、日本列島にて神を祀る神社を造営すべく、立ち上がったのではないでしょうか。その合図が、応神天皇、自らの名前に込められていました。

よって応神天皇が即位すると共に、日本から遠く離れたアジア大陸においても、神殿が再建される噂を聞きつけたイスラエル系の民の中には、日本へ向かうために決起し、渡来者の群れとなった人々も少なくはなかったようです。そして応神天皇による国家再建が始まると共に、各地に居住していたイスラエル系の人々は、ヘブライ語で「神の民」を意味する「ヤマト」政権の誕生を祝して、アジア大陸よりこぞって貢物を持参し、今日の奈良界隈に居を構えた天皇を訪ねてきたことでしょう。

大勢の秦氏が朝鮮半島から渡来した
大勢の秦氏が朝鮮半島から渡来した
その最大の集団が秦氏でした。秦氏の名前もイスラエルのユダ族、「ヤフダ」「ヤワタ」に由来し、ユダヤ系一族と考えられます。そして大陸においても秦始皇帝との血縁関係が取り沙汰される秦氏は、多大なる資産を保有していただけでなく、その教養や学問知識においても、一族が抜きん出て優れていることが知られていました。それら知識人や有力者が多い秦氏一族が、自らの資産を携えながら京都方面へと向かい、最終的にそこを一族の拠点としたのです。

秦氏はその資産運用だけでなく、政治経済力においても長けていたことから、日本に渡来した直後から、すぐに天皇家に仕え始めることとなります。そのような連携プレーを可能にしたのは、秦氏が天皇家との血縁関係があったからに他なりません。その結果、アジア大陸に残された大勢のイスラエル系同胞らを、朝鮮半島から船を用いて日本列島へと迎え入れる原動力となったのです。応神天皇の時代に、大勢の秦氏が朝鮮半島から渡来してきたことは、日本書記等の古文書に記載されている通りです。

大和政権が重要視した伽耶

応神天皇の即位と同時期の3世紀、朝鮮半島は三国時代の最中にあり、高句麗、新羅、百済の三つの国が存在しました。また、それら3国と平行して伽耶など、多くの小国や部族国家があり、弁辰または弁韓と呼ばれていた朝鮮半島最南端の地域、狗邪韓国にも複数の部族が共存していました。

三国時代、4~5世紀半ばの朝鮮半島
三国時代、4~5世紀半ばの朝鮮半島
(引用元: Wikipedia)
中でも日本へ渡る通過拠点として重要視されたのが、半島の最南端にいつしか現れた伽耶と呼ばれる小国家群です。この伽耶と呼ばれる地域は、日本では任那とも呼ばれました。「魏書」においては倭国との境界線が狗邪韓国であるようにも窺えることから、朝鮮半島の任那を事実上、大和政権下にある「日本府」の一部と解釈する学説が広まりました。しかし、三世紀末の大和政権はまだ成立したばかりであり、倭国よりも歴史が古く、文化的にも先行していた中国に隣接する朝鮮半島が、これから発展を遂げる大和政権の支配下に置かれるという考えには多くの異論があります。いずれにせよ当時、伽耶と倭国には密接な関係があり、何らかの統治機関が存在して、双方のコミュニケーションを円滑化したことは確かなようです。

朝鮮半島にも影響を及ぼした秦氏の存在

伽耶という小国家群が突如として現れた理由は、秦氏ら大陸を拠点とした豪族の大集団が日本列島へ移動したことと関わっているようです。長い年月を経て東方に移住してきたイスラエル系民族の中でも、特に秦氏を中心とするユダ族による倭国への民族移動は、特に秦始皇帝の統治が崩壊した後、徐々に加速することになります。その背景には国家の内乱だけでなく、秦氏らに対する迫害などもあり、始皇帝との血縁関係も取りざたされた秦氏は、東方へと自らの拠点を移動する宿命を背負っていたのです。そして最終的に3-4世紀にかけて、その移住者の波、すなわち日本への渡来者の群れはピークを迎えます。

日本への渡来者が多く行き交う最中、必然的に朝鮮半島の南部には一時、歴史の空白が生じたことでしょう。西から東へと大勢の人々が朝鮮半島から船で日本列島に向かったことから、地域に定着する人々との摩擦も生じました。そのような激動の時代の最中、そこにはイスラエル系の部族に限らず、大陸から渡来してきた他の民族も流入し、瞬く間に小国家群が形成されていくことになります。無論、そこには日本に渡る前に狗邪韓国周辺にて一時滞留をしていた民も少なくはなく、それぞれが独自に海を渡る準備をしていたと考えられます。

こうして地理的に日本に一番近い狗邪韓国の伽耶は、日本への架け橋となる場所として認知されるようになりました。そして、これらの民族移動を取り計らうためには何らかの統治機関があったに違いなく、その働きをもってそれがあたかも任那政府という大和政権下の機関であるように解釈されたと推測されます。

伽耶は「生きる幸せ」を意味する

「伽耶」(カヤ) という言葉の語源には定説がありません。もしかすると、ヘブライ語で「命と希望」を意味するחיי(khayah、カヤ) がその語源である可能性があります。この言葉はヘブライ語で単に「自分の人生」「生きる」ことを意味するだけでなく、「幸運」というニュアンスを含んでいます。言葉を数字に置き換えることができるヘブライ語では「カヤィ」の数字は「幸運」を象徴する「十八」となるのです。

それ故、「伽耶」はヘブライ語において新天地での「生きる恵み」「生きることの幸せ」を示唆した名称であったと考えられます。例えば日本書記でも秦酒公(さけのきみ)が、十八の十倍である「百八十種」の勝(すぐり)を全国から集め、絹布を献上した結果、秦氏が朝廷より太秦の姓を賜ったという記述が有ります。この数字も、正に幸運の象徴として意図的にえらばれたものだったことがわかります。

帰属意識を高潮させる伽耶と任那の意味

次に任那(ニンナ)の名称ですが、ごく一般的には主浦(nim-nae)という場所の名前を朝鮮語で訓読みしたものと考えられています。しかし実は、その語源はヘブライ語のנמנה(nimnah、ニンナ) です。この言葉はヘブライ語で「属する」「仲間に数えられる」「任命される」を意味します。すると、伽耶と任那という名称を組み合わせると、「神の民に帰属し、生きる幸運をつかむ」、「神の選民として生きる!」という意味になります。

応神天皇の名「ホムタヒコ」には、神殿の城壁を建設する思いが込められていました。それは神の社、すなわち神社を各地に建立し、新天地となる大和国にて神を崇めるということに尽きます。その応神天皇が立ち上がったという噂を聞いたイスラエル系の人々は、心を踊らせたに違いありません。新天地にてイスラエルの王国が復興する兆しが見えてきたからです。その思いを象徴する地名が、新天地へと飛躍する最終拠点、伽耶と任那でした。その意味はヘブライ語で「神の選民として生きる!」それは正に、日本列島にてイスラエル王族の血をひくという噂を伝え聞いたイスラエル系の同胞が、日本に渡るために立ち上がり、帰属意識を高潮させる名称だったのです。

任那を地理的に包括する狗邪韓国、伽耶諸国は、朝鮮半島の最南端、倭国へ旅立つ最後の大陸の拠点でした。そしてその地域が「伽耶」及び「任那」と呼ばれた瞬間から、イスラエルの民にとってはそこが、約束の地である「東の島々」に渡る最後の重要拠点であることが知らしめられたのです。これらの地名や人々の名称から、応神天皇即位の背景にはイスラエル民族の存在があることがわかります。

秦氏もそれにもれることなく、応神天皇と同族のイスラエル系渡来者であったからこそ、日本国家の歴史、大和国の土台を皇族と共に築き上げることができました。そして八幡神社、稲荷神社をはじめ、多くの神社を列島内に建立し、神への信仰を普及させるための一大勢力として、歴史にその名を残すことになったのです。

コメント
  1. おおさか より:

    いつも楽しみにしています。私は、ベニヤミンはベン オニなので弁韓で鬼、ユダは、倭の右側の委ねるの読み、魏はユダとベニヤミンでユダ王国と関係していると考えたいと思います。これからも応援します。がんばってください。

  2. Jack より:

    うまく言えませんが、日本人の誠実さ、清潔感は他国民と比べても極めて稀な特質と思います(一般論)、また塩を撒いて清めるといった風習は日本特有と思いますが聖書にも記載あり、いろいろ考えると日本文化というか基礎的なものは結構、聖書にもある古代イスラエル的な色合いが濃いと感じています。歴史というのは面白いですね。

  3. Jhome625 より:

    すごく面白くて一気読みしました。
    そこで感じたことですが、ユダヤの民で景教の秦氏がなぜ景教を広めようとせずに八幡神社や稲荷神社を次々と建立したのでしょうか?
    素朴に疑問を持ちました

  4. Jhome より:

    非常に興味をそそら得るテーマです。

    「日本とユダヤのハーモニー」も読みたくなりアマゾンやブックオフを見ましたが本がありません。
    購入したいのですが、どこで購入できますか?
    お忙しいところ恐縮ですが、よろしくお願いします

  5. 中島 より:

    元々出版する予定はあったのですが、インターネットの時代が到来し、WEBでの展開が重要視されてきたことから、現状は未定となっています。まだ、リサーチや執筆を続けているトピックもあり、最終章に辿り着くまで、今少々、お待ちください!

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