宇佐神宮が祀る八幡神とは
全国約11万社ほどある神社の中で、八幡神(ヤハタノカミ)は最も多く祀られています。その数は4万社を超え、古くから多くの人々が八幡神社を参拝しています。八幡神社では一般的に応神天皇が主座として祀られ、神功皇后、仲哀天皇を合わせた三神が崇められています。
「八幡」という言葉のルーツを探ると、「続日本紀」に記載されている「広幡乃八幡大神」が、現存する古文書の中で使われている「八幡」という文字の中でも、最も古い事例であることがわかります。その八幡神を祀る八幡神社の総本社が、宇佐八幡宮とも呼ばれる宇佐神宮です。
宇佐神宮上宮の南中楼門宇佐神宮は6世紀、欽明天皇の時代に現在の九州の大分県宇佐市に建立されました。社伝によると紀元571年に八幡神が現れ「誉田天皇広幡八幡麿」、つまり「我、誉田天皇(ホムタノスメラミコト)は広幡八幡麻呂なり」と告げたそうです。誉田天皇とは、応神天皇の死後に贈られた諡号(しごう、贈り名)であることから、八幡神のルーツは3世紀後半の応神天皇まで遡ることになります。そして、八幡神の宣言もあり、いつしか応神天皇は八幡神と同一視され、天皇が神として祀られるようになったのです。
八幡の語源
八幡宮神社(対馬) 鳥居第15代の応神天皇は、実在した天皇であることがわかっていますが、その出自については諸説があります。その謎を解明する鍵が、八幡神社と秦氏の関係に秘められています。
まず、八幡神「ヤハタノカミ」の「ヤハタ」という名前に注目です。「八幡」は元来「矢羽田」と書き、それを「ヤハダ」と発音していました。その発音に酷似した言葉がヘブライ語に存在します。イスラエル12部族のひとつであるユダ族を、ヘブライ語ではיהודה(yahudah、ヤフダ) と言い、「ヤハダ」の発音に酷似しています。すると、「八幡神社」とは元来、「ユダヤ神社」、もしくは「ユダ族の神社」という意味の名称であったことになります。ヘブライ語の「ヤフダ」を語源とし、「ヤフダ」から「ハダ」「ハタ」という名称になったと推測できます。
同様に、古代豪族の秦氏の「ハタ・ハダ」という名称も、その語源は同じくユダ族を意味する「ヤフダ」「ヤハタ」であり、そこからヘブライ語で神を意味する「ヤ」が脱落して、「ハタ」と呼ばれるようになったと考えられます。つまり八幡神とは秦氏のルーツとなるユダ族の神であることから、古代、多くの八幡神社は秦氏の働きにより建立されたのです。
それ故、八幡神として秦氏に崇められた応神天皇も、同じユダ族の出自であると考えることができます。旧約聖書にはイスラエルのユダ族から王が輩出されることが明記されています。古文書には、応神天皇の時代に秦氏が大挙して日本に渡来したことが記載されていますが、それは正に、秦氏と応神天皇が同族であることの裏付けであり、ユダ族を中心としたイスラエル系の渡来者が日本を訪れたことを象徴しています。すると日本の天皇家も、王系ユダ族の血統を引き継いでいるかもしれません。
籠神社の狛犬また、聖書にはユダ族の象徴となる動物が「獅子」であると明記されています。その「獅子」の様相を反映したと思えるのが狛犬 (こまいぬ) です。多くの八幡神社では、境内に石で造られた狛犬の像が安置されています。狛犬は、古くから秦氏の手がけた神社に散見され、秦河勝 (はたのかわかつ) が祀られている大避神社の社殿前にも左右に一対置かれています。その後、狛犬は徐々に広まり、平安時代には多くの神社に定着しました。今日、狛犬は日本全国各地の寺社で見かけることができます。
この「狛犬」こそ、ユダ族の象徴である「獅子」の名残ではないでしょうか。つまり秦氏が創設に関わった神社においては、ユダ族のシンボルでもあった獅子を安置することにより、ユダ族である秦氏の存在を密かにアピールしていたと考えられます。そしてあからさまに「獅子」と呼んでしまうと、ユダ族の出自を誇張することになりかねないことから、あえて「狛犬」と呼ぶようになったと推測されます。
応神天皇が「ホムタワケ」と称された所以
日本書紀において誉田天皇と称され、八幡神として祀られている応神天皇の諡号には、「誉田別」(ホムタワケ) や、「誉田天皇広幡八幡麿」(ホムタノスメラミコト・ヒロハタ・ヤハタマロ) が知られています。前者は古事記において、同じ「ホムタワケ」という発音に「品陀和気」という異なる漢字が当てられています。これは「ホムタワケ」が外来語であり、漢字が任意に当てられていることを意味しています。一見、日本語として不可解な「ホムタワケ」という発音ですが、ヘブライ語で読むことにより、その意味が明確になるだけでなく、応神天皇の使命と、そこに潜むイスラエルとの繋がりを見出すことができます。
まず、「誉田別」ですが、「ホムタ」はヘブライ語のחומה(homah、ホマッ) が語源と考えられ、「壁」や「城壁」を意味し、「神殿を囲む城壁」、「神殿を守る壁」という表現をする際にも使われました。その形容詞形がחומת(homah、ホマッ) であり、ほぼ同等の発音です。またחומתה (homatah、ホムタ) とすると「彼女の壁」という意味になります。
また、ヘブライ語には「初子を生む」、「最初にできる」という意味のבכר(biker、ビケー) という言葉があります。その語源から派出したבכור(bikor、ビコー) という「初子」、「長子」という言葉も聖書では使われています。この「ビコー」「バケー」が「ホムタワケ」の「ワケ」にあたる語源と推測されます。
国家を失った古代イスラエルの民にとって、神が住まわれる神殿の城壁を再建することは永遠のテーマでした。その取組が、遂に日本列島で立ち上げられようとしていたのではないでしょうか。よって、新天地において最初に神殿の壁を立ち上げることに着手したとされる王、すなわち、応神天皇を「ホムタワケ」と称したのです。それはヘブライ語で「城壁の初子」、つまり「最初の壁が生まれた」ことを意味していたと考えられます。
「スメラミコト」をヘブライ語で読む
近江八幡 日牟禮八幡宮応神天皇のもう1つの諡号である「誉田天皇」(ホムタノスメラミコト) には、天皇の称号として用いられる「スメラミコト」の読みが含まれています。スメラはヘブライ語でשם אל(sum el、スメル) と書くことができます。「スム」「シェム」は置く、もしくは「名」を意味します。「エル」は「神」を指す言葉です。よって「スムェル」「スメル」とは、「神の名」もしくは「神を置く」、「神を掲げる」という意味になります。
続く「ノ」は「乃」とも書かれ、ヘブライ語ではנו(na、な!) と書きます。この言葉は、「さあ、行こう!」、「来たれ!」という励ましの掛け声にもなります。よって、「ホムタ(ノ)スメラミコト」の意味はヘブライ語で、「最初の壁が立ち上がり、神を掲げる、来たれ!」という号令だったと考えられます。
「広幡八幡麿」の意味とは
次に「広幡八幡麿」の「広幡」(ヒロハタ)ですが、これはヘブライ語で「ユダ族の丘陵」「ユダ王国の丘」を意味するהריהודה(hirifudah、ヒリフダ) と発音する言葉が訛って「ヒロハタ」になったと考えられます。「麿」もしくは「麻呂」(マロ)の語源はמלא(male、マレ) であり、ヘブライ語では「満ちる」「完全な」「達成する」を意味します。そしてユダ族を意味する「八幡」 (ヤハタ) と合わせて八幡麿(ヤハタマロ)とすると、「ユダ族が満ち溢れる」「ユダ族が完結する」という意味になります。
「誉田天皇広幡八幡麿」(ホムタノスメラミコト・ヒロハタ・ヤハタマロ)の意味が、通しで見えてきました。この名前には、「初代の壁が立ち上がり、神を掲げる、来たれ!王国の地でユダ族が完結する」というメッセージがヘブライ語で込められていたのです。これは日本へ渡来したイスラエル人の中でもユダ族を中心とした信仰のメッセージであり、人々を激励する言葉でもあったのです。この号令により、日本の古代史が大きく動き始めます。
見えてきた古代大和朝廷
三輪山応神天皇は3世紀後半から4世紀初めに在位した天皇です。時期を同じくして、大和朝廷が奈良の盆地を中心に大きく発展しました。特に奈良の桜井市にある三輪山近郊に大和朝廷の本拠地が構えられた頃から、その発展は確かなものとなりました。大和(ヤマト)という言葉は単なる地名としてだけではなく、日本そのものを言い表す時にも使われ、また、ヘブライ語では「神の民」を意味する言葉でもあります。
大和朝廷の成立には諸説がありますが、いずれにしても3世紀後半より近畿地方において天皇を中心とした政治勢力が台頭した背景には、イスラエルの文化を携えてきた古代の原日本人、及び、「誉田天皇広幡八幡麿」という号令を頼りに朝鮮半島より海を渡った膨大な数の秦氏を始めとする大勢の渡来人の働きがあったことに違いありません。そのイスラエルの民は遅くとも紀元前6~7世紀頃から日本に渡り始めたと推定され、応神天皇以降の時代には秦氏を中心とする多くの渡来人が押し寄せ、日本各地に拠点を構えるようになったと考えられます。
その秦氏については「新撰姓氏録」や「秦氏本系帳」に記載されているとおり、応神天皇より一世代前の仲哀天皇の時代においても、秦氏である功満王が日本に渡来したという記述があります。これらの記述は氷山の一角に過ぎず、実際にはそれ以前より、大勢のイスラエルの民が長い年月を経て海を渡り、日本にやって来たと考えられます。そして秦氏もその名前から察するに、出自はユダ族であると推測されます。
ユダ族には、先祖代々より語り継がれてきた旧約聖書の教えがありました。それは新天地において、失われたエルサレムの都を再建し、そこで神の降臨を待つことです。そしてユダ族の王に代表される大勢のイスラエルの民は、遥かアジア大陸の東端の大海に浮かぶ日本という新しい約束の地に辿り着き、そこで先祖代々の言い伝えどおり、エルサレム神殿の再建を待ち望むことになったのではないでしょうか。
大和朝廷はじまりに貢献した秦氏
そして時が満ちた3世紀後半、ユダ族の王の血筋を引く応神天皇は、神殿の再建を手がけるという天命を悟り、「誉田天皇広幡八幡麿」という号令をもって、大勢のイスラエルの民を大和に結集する合図としたと考えられます。その時、朝鮮半島の秦韓において大きな勢力となっていた同じユダ族の末裔である秦氏は、満を持して日本列島へ移住を開始し、海を渡ったあかつきには資金や技術面で、天皇の働きを後押しすることになります。そして秦氏らと行動を共にしてきた祭司の役目を司るイスラエルのレビ族の末裔は、引き続き祭祀として、日本列島各地に神を祀る社を建立し、国家の創設に貢献してきたのです。古代大和朝廷が誕生した背景には、秦氏に代表されるユダ族を中心とする大勢のイスラエル人の貢献があったのです。
奈良県桜井市にある纒向遺跡から昨今、発掘された巨大な建物跡の調査においては、纒向遺跡は単なる住居ではなく、祭祀殿である可能性が極めて高いことがわかりました。つまり生活するには不便な為、住居としては考えにくいが、時折、大勢の民が集まるには都合のよい建物(祭祀殿)であると推定されたのです。また、纒向近郊は前方後円墳の発祥の地でもあり、遺跡から発掘された出土品には、木製の仮面や鳥形、導水施設跡など、祭祀に関する各種遺物や遺構が見つかっています。特筆すべきは、出土した土器の中には、関東から北九州が原産地であると考えられる物が多数含まれていたことです。もしかすると、これらの遺物の多くは、大陸より渡来して日本全国に拠点を構えていた秦氏らを中心とするイスラエルの民が、大和朝廷の誕生を祝して全国各地から天皇の元に持ち込んだ物かもしれません。それ故、発掘される遺物の多くは秦氏の拠点であった新羅系のものや、北アジア系のものが多く見られるのではないでしょうか。これらの遺跡調査の結果も、今後、目を離すことができません。
いつも楽しみに拝読いたしております。西アジアからの古代の人々の大移動には驚きを隠せません。秦氏と月支国についても興味が湧いてきました。個人的には宇佐八幡宮のウサはムサ(モーセ)から転訛したもののようにも感じられます。