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歴史人口学から日本人の起源に迫る !

日本の古代史を散策していると、いつか必ず通るのが「日本人の起源」に関わる奥の細道です。昨今の学説によると、日本人の起源は60万年以上前の新生代更新世までさかのぼり、100万年前のジャワ原人、80万年前の北京原人の流れに続くと考えられています。そして3〜4万年前ごろから中央アジアや東中国、南中国に現れたアジア最古のホモ・サピエンスと呼ばれる新人が日本列島に到来し、原日本人となったという仮説に繋がります。既に1万8000年前の旧石器時代の人骨も沖縄で見つかり、その後の調査から東南アジアや南方諸島、中国南方で発掘されたものとの関連性も指摘され、信憑性は深まります。やがてアジア大陸からはヒマラヤ山岳民が、中国や朝鮮半島からは渡来系弥生人も訪れ、日本固有の文化を生み出していきます。こうして日本人の祖先とは、異なるルーツをもつ古代人が日本列島に到来し、共存した結果として、長い歴史の中で育まれてきたという背景が、おぼろげながら浮かびあがってきます。

国立科学博物館による最新の研究

「日本人の起源」については、これまで幾度となく通説を見直す動きが見られました。最近では国立科学博物館を主体とした研究チームが中心となり、昨今の遺伝子工学や人骨の発掘調査を参考に5年がかりのリサーチを経て、2010年に新たなる仮説が発表されました。以前は、沖縄で発見された港川人が縄文人の祖先ではないかと考えられてきたのですが、再検証をしていくうちに、港川人は東南アジアのルーツというよりは、さらに南のオーストラリア先住民やニューギニアの集団に近いことが分かってきました。その結果、港川人の多くは、大陸から移住してくる農耕民の広がりに押されて、北方から南方に移動せざるをえなかった民ではないかという新たなる仮説が登場しました。しかも、北海道で発掘された縄文時代から続縄文時代の人骨の遺伝子を分析していく内に、大陸北東部のアムール川下流に住む先住民と関連している事実が指摘されはじめたのです。つまり、これまでの通説であった縄文人のルーツは南方諸島から、という考えは不十分であり、大陸北東部からも渡来していることを考慮する必要性が判明したのです。

この研究チームによって発表された、最終的な日本人形成のシナリオの方向性はシンプルで明確です。ホモ・サピエンスに進化した人類の一部が東南アジアに到着し、北上して日本列島に拡散し、縄文人の祖先になる者も存在したが、その民の流れとは別に、アジア大陸の北方から移住した民も含まれていたのではないかということです。そして大陸では、寒冷地に適応した集団が東進南下して3000年ほど前までに中国や朝鮮に住みはじめ、最終的には縄文時代の終わりから弥生時代にかけて西日本に渡り、縄文人と融合しながら、弥生時代以降の本土における日本人の祖先になったという仮説に至ったのです。この国立科学博物館が発表した日本人の起源に関する新しい仮説は、実際には学者の見識がまとまらない論点も多く、結果として通説を否定するまでには至らず、およその妥協点としての発表であり、いかに「日本人の起源」を語ることが難しいかを物語っています。例えば、後述する「歴史人口学」のデータを基に日本人の起源を検証するだけでも、縄文時代における人口分布が著しく東日本に偏り、九州、四国にはほとんど人が居住していなかったことからして、南方から北上した人数は限られていると推定できます。それ故、むしろ暖かく住みやすい土地を探し求めた北方から渡来してきた民が主体となって、東日本の平野部から中部にかけて居住範囲を広げていったと考える方が、人口分布に関するデータとのつじつまが合いそうなのです。

今度の研究チームによる仮説には、上記以外にも多くの課題が残されています。まず、年代別の人口の推移を十分に考慮しておらず、弥生初期から特に後期にかけて、人口が激増した理由について説明がないことには留意する必要があります。次に、シベリアで寒冷地に適応した集団が東進南下したと想定しているのですが、なぜ南下するだけではなく、東進しなければならなかったのか、その背景が解明されていません。アジア大陸の日本海沿岸は山岳地帯が多く、例え古代にて陸続きであったとしても、東進するよりは南下するほうがずっと理に叶っているのです。また、シベリアからの移民が3000年前までに中国や朝鮮などに分布したとするならば、なぜ古代文明の発祥地でもあるアジア大陸を後にして、わざわざ日本に渡らなければならなかったのか、その動機も明確ではありません。さらに、南方から北上してきた人々と、シベリアから南下した人々が原日本人の起源であり、弥生人の大半が中国から訪れたとするならば、なぜ日本語は、それらの人々とはおよそ関係のない、西アジアから北アジア大陸にかけて普及した、モンゴル語や朝鮮語と同じアルタイ諸語の仲間に分類される言語であるのか、その説明に欠けることなどが挙げられます。

いずれにせよ、このたびの研究成果の発表により、少なくとも縄文人とはいくつものルーツを経たさまざまな集団が関わって誕生した人種であることが明確になりました。それに加え、上記の疑問点を踏まえてさらに個別に検証を重ねることにより、古代日本史の原点とも言える「日本人の起源」の謎を紐解くキーポイントが見えてくるのではないでしょうか。中でも、弥生時代に列島の人口が急増したという実態を検証することは重要です。その疑問点を解明する鍵が、アジア大陸からの移民の流れにあります。そしてイスラエル人を中心とする大勢の移民の可能性に目を向けることにより、歴史の謎が紐解けてきます。

歴史人口学が明かす縄文時代の人口

過去の人口現象を考察する学問を「歴史人口学」と呼んでいます。例えば前3世紀の日本の人口を推測する際、以前は北アメリカの先住民に関する人口データからさまざまな類似点を探り、日本の事例に当てはめながら15万人から25万人の人口であると推定するような方法がとられました。「歴史人口学」ではそれに加えて、遺跡の分布や、基礎人口、集落規模などまでも検証し、数字の精度を高めています。その「歴史人口学」の研究成果から、日本列島における人口分布の実態がより明確に見えてきました。

昨今の研究による結果、まず、縄文時代の初期にあたる紀元前6000年ごろ、およそ2万人の原日本人が存在し、その大半が東北から関東、東山(山梨・長野地域)にかけて居住していたと推定されました。つまり縄文時代は人口分布が東日本側に著しく偏り、西日本では縄文晩期まで、ごく僅かな人口しか居住していなかったと推定するに至ったのです。その後、日本の人口は紀元前3200年ごろに約10万人、縄文中期の紀元前2300年ごろにはおよそ25万人まで増加するも、総人口の96%までもが東日本に居住していたと推定されました。東日本に人口が集中した経緯は、ごく一般的に、東日本の方が平野部も多く、採取、狩猟、漁撈活動が行いやすいという食料資源に関連する事柄が主たる理由であったと考えられています。

歴史の転換点となる弥生時代

弥生時代の始まりについてはさまざmな議論がありますが、国立歴史民俗博物館が平成15年度に発表したように、水稲や製鉄の文化が導入されたころと位置付けるならば、およそ前10世紀ごろがその始まりと考えることができます。ちょうどそのころ、イスラエルではソロモン王が君臨し、タルシシュ船を利用して諸外国との貿易が活発に行われていました。そのタルシシュ船が日本とも接点を持ち、関東、東北地方の太平洋沿岸、および北九州地方などにたどり着いた可能性が考えられます。優れた大陸文化を携えたタルシシュ船は、日本に製鉄や水稲など、さまざまな大陸文化を紹介したのではないでしょうか。近年の放射性炭素年代測定により、水稲の年代が前10世紀までさかのぼることが分かってきたことからしても、弥生初期が日本史の大きな転換点であったに違いないでしょう。

弥生時代の急激な人口増加を検証

歴史人口学の研究によると、弥生初期、前10世紀ごろの人口はおよそ7万6000人前後と推定されていますが、注目すべきはときを経て3世紀に入ると、60万人に膨れ上がっている点です。縄文時代における平均的な人口増加率は0.1%とも推定され、その値が弥生時代も変わらないと仮定するならば、3世紀の人口は23万人程度になるはずです。ところが推定人口はそれより37万人も多く、実に2.5倍以上の開きがあり、人口の年平均増加率もそれに連れて、0.2%に急上昇していたと考えなければ、数字のつじつまが合いません。その要因については、これまでアジア大陸の歴史の流れに照らし合わせ、中国の春秋時代に起った内乱で土地を追われた民が海を渡りはじめたからではないか、という説明がされていました。しかし、この説にはいくつかの問題点があります。まずは春秋時代における中国の地理的条件と人口分布を考慮していないことです。

中国では、およそ紀元前8世紀から中国では春秋時代が始まり、その後、晋は韓、魏、趙の3国に分かれます。当時、中国では内陸の西安を中心として人口が分布し、太平洋沿岸周辺では、大きな都市が発展するまでに至っていませんでした。よって戦火を逃れるにしても、わざわざ大陸を何百キロも旅して、さらに海まで渡り、中国から大勢の難民が日本列島に渡来したとは考え難いのです。また、春秋時代から戦国時代にかけて中国より大勢の難民が渡来したことにより、3世紀までに日本の人口が37万人も増加したとするならば、渡来人が与える文化的影響は計り知れないはずです。例えば、日本語の文化は中国語の影響を強く受けてしかるべきでしょう。しかし日本語は、西アジアから北アジア地域に広まったアルタイ諸語のひとつと分類され、朝鮮語やモンゴル語に類似するも、中国語とは一線を引いた言語グループに含まれています。このことからも、弥生時代に中国から難民が日本に渡ったという説では、37万人にも上る人口の差異を説明することができません。

弥生人の正体はイスラエルか!

前10世紀から3世紀にかけて日本の人口が急激に増加した理由は、アジア大陸からイスラエル人が渡来してきたからにほかならず、今日でも日本文化の根底にはイスラエル文化の影響が色濃く残っています。前8世紀ごろのイスラエルの人口は、北イスラエル王国と南ユダ王国を合わせると、最低でも70万人から100万人以上に達していたようです。旧約聖書には20歳以上の北イスラエル王国の戦士が80万人から110万人、南ユダ王国には50万人登録されていたという人口調査の結果報告が記載されており、また前13世紀までさかのぼる出エジプト記や民数記の記述でも、20歳以上の男子の数が当時、60万人以上も登録されていたことが明記されています。よって前8世紀のイスラエルの全人口は膨大な数になっていた可能性があります。しかし人口も2〜300万人を超えてきますと、人口密度の観点からしてもその数字は非現実的であるという見解もあり、前8世紀の人口は、北イスラエル王国が50〜100万人、南ユダ王国が25〜50万人、というおよそ少なめの人口を想定してみました。

その北イスラエル王国が崩壊し、南ユダ王国の滅亡も間近であった前7〜8世紀、まず、北イスラエル王国の10部族がアジア大陸各地に離散し、消息を絶ちました。その後、南ユダ王国も壊滅し、ごく一握りの民が捕囚としてバビロンに連れていかれます。その数はエレミヤ書によると4600人、列王記下には高官も含めて1万人と記載されており、決して多い数ではありません。つまり、北イスラエル王国だけでなく、ユダ族とベニヤミン族、そしてレビ族からなる南ユダ王国の民の多くも、歴史から姿を消してしまったのです。中には大陸を横断して海を渡り、日本列島までたどり着いたイスラエルの民も存在したのではないでしょうか。大規模な民族移動となれば、ほとんどの民は大陸を徒歩で横断したと考えられ、これらイスラエル難民の残した歴史の軌跡が、シルクロードの原点となりました。

また、当時のイスラエルは航海技術も発達しており、ソロモン王の時代からタルシシュ船によるインド洋への航海実績もあることから、王族をはじめとする少数の南ユダ王国の民は、聖櫃、その他、神宝を携えた船で先行し、日本まで旅した可能性があります。実際問題として、南ユダ王国の民にとっては王位を継承し、神宝を守護することは民族の死活問題でした。よって「東の島々」を探し求め、そこを安住の地とすることは民族の強い願望でもあったはずです。こうして弥生初期より北イスラエル王国の民を含む、大勢の南ユダ王国の民が日本に渡来してきたのでしょう。そして一部先行してイスラエルを旅立った預言者の船団は、東南アジアの南方から北上し、沖縄経由で四国、九州にたどり着き、その他大勢の人々は、ひたすらアジア大陸を東へと向かい、日本にたどり着いたと考えられます。

そこで、まず5万人のイスラエル民族が前8世紀ごろ、日本列島にたどり着いたと想定してみました。その後、3世紀までの1000年間、100年ごとに2万人ずつ、合計23万人が渡来したと仮定し、平均人口増加率0.1%を当てはめると、3世紀には渡来人の人口が37万人となり、元来日本列島に居住していた縄文人と合わせれば、日本の人口が60万人になります。後世の奈良時代から平安末期の年間増加率が0.1%、そして平安初期から平安後期の年間増加率が0.07%であることからしても、0.1%の人口増加率はおよそ妥当と考えられます。弥生時代、3世紀までに20万人を超える渡来人が日本を訪れたと推定する以外、その膨大な人口の増加を説明することが難しいことは明白です。そして渡来人の正体は、その歴史的背景、動機などから察するに、もはやイスラエル民族以外に答えはないでしょう。

100万人渡来説は現実的か?

最近の歴史人口学のデータによると、3世紀に60万人まで増加した日本の人口は、奈良時代にかけてさらに加速し、8世紀には450万人まで膨れ上がったようです。年平均の人口増加率を求めると、およそ0.4%という大変高い数値となり、縄文時代の0.1%とはかけ離れているだけでなく、弥生時代前半の渡来人によって増加したと考えられる0.2%という値のさらに2倍となります。3世紀の60万人という人口を、弥生時代と同じ0.2%という人口増加率を用いて奈良時代当初の人口を計算しても170万人ほどにしかならず、280万人もの差が生じます。この数字は、北東アジアから毎年のように移民が南下しては日本に渡ってきた、というような従来の通説では到底説明がつきません。弥生時代を通して急激な気候の変化や、天変地異があったわけでもなく、大陸における歴史を振り返ってみても、そこまでの膨大な数に上る人々が中国大陸や朝鮮半島から移動し、海を渡ってまでいまだ見知らぬ日本列島に移住する要因が見あたらないのです。

この急激な人口増加は、日本列島に遠い昔から居住した縄文人と、弥生時代に入ってから大陸より渡来したイスラエル系を中心とする渡来者からなる古代日本人の姿が、紀元3世紀以降、更なる変化を遂げたことを意味します。それは民族大移動とも言える、新たなる大きな人の波の到来によるものであり、想像を超える膨大な数の渡来者が日本に押し寄せてきたという証にほかなりません。例えば毎年1000人の渡来者が大陸から日本へ渡り、それが1000年続いたとしても、都合100万人にしかなりません。その渡来人の数が、在来の原日本人と同様に年平均0.2%ずつ増加したと仮定して、双方が同率で増え続けたとしても、奈良時代の人口は300万人にも満たないのです。それ故、「100万人渡来説」は、誇張した数字を用いた仮説ではなく、100万人の渡来人を想定しても、まだ想定される人口に至らないことがわかってきたのです。それ故、100万人をさらに上回る渡来人が訪れたことを前提に、歴史の再構築する必要性に迫られています。

弥生時代における急激な人口増加は、アジア大陸より数百人単位でまとまって日本に渡ってくるような渡来者のパターンが頻繁に繰り返され、その合計が膨大な数に膨れ上がったという前提で古代史を見直さない限り、説明がつきません。そして歴史的背景を踏まえながら、古文書などに記載されている史実と照らし合わせて、数字の検証を繰り返す必要があります。その3世紀から8世紀までの間に生じた、280万人もの人口のギャップを埋める鍵を握るのが、イスラエル系の渡来人です。ユダ族をルーツに持つ秦氏を中心とするイスラエル系の渡来人が、遠い東の果ての日本という島々に到来していたという前提で歴史を見直すことにより、あらためて多く疑問点を解明し、歴史の真実に触れることができるのではないでしょうか。イスラエル民族の多くは歴史からほぼ姿を消した存在であっただけに、実は渡来人として大陸を経由し、朝鮮半島より日本に渡っていたと想定できないことはなく、むしろそのように歴史を再構築することにより、これまでの多くの謎が一気に解明できるのではないでしょうか。

例えば、応神天皇の即位を機に、秦氏らを中心とする渡来人が3世紀から100年ごとに50万人、300年で都合150万人が日本に移住したと仮定し、0.2%の平均人口増加率で計算した渡来人の数を加えると、8世紀奈良時代に日本の人口は450万人となり、昨今に発表された当時の推定人口とちょうど数が合います。このように推測すると、奈良時代に至る直前の500年間に、少なくとも100万人を大きく超える150万人ほどの渡来人が日本を訪れ、日本文化の源流を築きあげたことに気が付きます。彼らは自ら日本人のルーツの一部となり、日本の文化を支えた立役者となったのです。

イスラエル系が占める比率は

イスラエルからアジア大陸の長い旅を経て、ときには世代を超えてまでして長い年月を経てアジア大陸を東方へと向かったイスラエルの民の中には、最終的に海を渡り、日本までたどり着いた民が少なくなかったはずです。特にユダ族とベニヤミン族、レビ族を中心とした南ユダ王国の民は、神からイザヤに与えられた天からの言葉とともにイザヤのリーダーシップに従って、「東の島々」を目指した民が少なくなかったことでしょう。また、北イスラエル王国の民の中にも、祖国イスラエルの崩壊とともに、神を崇める新天地を目指して日の出方向へ旅立ち、「東の島々」に到達するという夢と希望を持ち続けた民が存在したと考えられます。その結果、西アジアから東方へと流れる移民の動きは絶えることなく続き、海を渡って日本列島までたどり着いた民の総数は、3世紀までに累積20万人を超えるまでになりました。そして大陸からの渡来人は、主に朝鮮半島を経由し、九州を玄関として渡来してきたこともあり、それまで人口の少なかった九州、山陰、四国など、西日本側を中心として、居住範囲を広めていったと考えられます。

無論、渡来人の中には使用人をはじめとする、イスラエル民族に属さない人々も大勢いたことでしょう。例えば、弥生初期から3世紀までに日本に渡ってきた渡来人の構成比率として、約3分の1が南ユダ王国の部族、約3分の1が北イスラエル王国の10部族、そして残りの3分の1がそのほかの人種であると仮定してみました。すると3世紀の時点で60万人と推定された人口のうち、少なくとも37万人が渡来人のルーツを持つ民であることになり、そのうちおよそ12万人が南ユダ王国の民であり、北イスラエル王国の民も12万人含まれていたことになります。1つの目安にしかすぎませんが、これらを前提とすると、3世紀の時点でイスラエルにルーツを持つ民が、日本の全人口の4割前後は占めていたということになるのです。

弥生時代前半に渡来したイスラエルの民を原イスラエル人とするならば、3世紀以降に中国から朝鮮半島経由で渡来した秦氏を中心とするイスラエル民族は、ユダヤ系の朝鮮・中国人と言えるかもしれません。なぜならば、イスラエルのユダ族にルーツを持つ民族であり、3世紀以降に日本に渡ってきた秦氏らは、渡来するまでの長い年月を大陸で過ごし、中国文化圏の影響を著しく受けてきただけでなく、その後は朝鮮半島に移住し、朝鮮語を含む文化に大きく感化されたと考えられるからです。また、混血という現実的な問題もあり、何世紀にもわたる異国での生活から、複合的な文化を携えたイスラエル系のアジア民族としての秦氏の姿が浮かび上がってくるのです。つまるところ、秦氏とはイスラエルの民としてダビデ王朝を継ぐ血統のユダ族でありながらも、中国や朝鮮の血が混在した可能性を含む、ユダヤ系の朝鮮・中国人と呼ばれるにふさわしい存在であったと言えます。その秦氏は8 世紀、日本の全人口の1〜2割を占めていた可能性があります。

「日本人の起源」を考える際、そのルーツにイスラエル王系の血統である秦氏が存在することに感動を覚えずにはいられません。西アジアの卓越した文化と優れた伝統を継承し、イスラエル国家の正統なる王系に繋がる一族として、真なる神への信仰をかたくなに守り続けてきた偉大なるダビデ王の子孫である秦氏によって、日本の歴史はその後、大きく動かされることになります。