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鰐族らイスラエル系渡来人が日本列島を目指した理由

列島各地に拠点を広げた鰐族ですが、周辺沿岸だけでなく内陸にも拠点の輪を広げていたことがその地名から察することができます。図は各地に点在する鰐の名が付く地名です。それらの場所は対馬を筆頭に九州各地と瀬戸内海沿岸だけでなく、日本海沿岸は石川県や新潟県、太平洋岸においては茨城県鹿島から岩手県まで広がりを見せています。北海道を除く各地沿岸の位置付けは、古代社会における海人の渡航ルート上の拠点に匹敵し、その広範な海人の航海路を知ることは渡来人の軌跡を知る上で重要です。また渡来した国生みの先駆者にとって、新天地では神を祀るに相応しい拠点をまず、探し出すことが不可欠でした。青森や山梨の内陸にも鰐の拠点が置かれたのは、近くにある諏訪湖や富士山、そして十和田湖周辺等が極めて重要な位置付けだったからに他なりません。その地理的根拠については、後ほど詳しく解説することにします。

鰐族の出自はイスラエルのレビ族

全国に広がる鰐(ワニ)の付く地名今日の北九州八幡周辺に存在したと考えられる伊都国に拠点を持っていた鰐(バニ)族は、志賀島を拠点とし大海原を行き来した海人一族らと同様に、その背景にはイスラエル民族の内、祭司の役目を担ったレビ族が存在していたようです。鰐が生息することのない地域であるにも関わらず、八幡の西にある岡県の祖が「熊鰐」(ワニ)と呼ばれた理由も、その出自がイスラエルで祭司の務めを取り仕切っていたレビ族の民にあると考えられます。イスラエル12部族の中では、神宝を担ぎ、ときには移動し、それを安置して守るような宗教的儀式は、レビ族しか執り行うことが許されていなかったのです。それ故、新天地に足を踏み入れる際は誰よりもまずレビ族が先行して出向き、立地条件を検証して宗教儀式に相応しい神聖な土地を選別し、そこで神を祀ることから移民の歴史が始まりました。日本列島に到来した南ユダ王国の民には、神殿にて仕えていたレビ族の子孫が数多く同行してきたに違いなく、その結果、短期間で各地にイスラエル系レビ族の拠点が増えていくことになります。

紀元前8世紀、国家崩壊を目前にしたイスラエル10部族と南ユダ王国2部族に対し、預言者イザヤはユダ王国の首都エルサレムから警告メッセージを投げかけていました。66章からなるイザヤ書の前半39章にはこの緊迫した時代を背景に大胆な予言が綴られており、そのほとんどが、国家の崩壊に象徴される神の裁きについての記述です。しかし所々に希望と救いのメッセージが書かれている点も見逃せません。イザヤ書には幾度となく島々についての記載があり、特に東方の「海の島々」や「聖なる山」に、救いの道が残されているということがほのめかされているように窺えます。そしてイザヤは「神が我らとともにおられる」を意味する「インマヌエル」という言葉を用い、幼子が「驚くべき指導者、力ある神」の象徴となり、イスラエルが救われ平和の道を見出すことができることを語りました。

当時、現実的な問題として北イスラエル王国はアッシリアの攻撃を目前に控えていただけでなく、南ユダ王国も崩壊するのは時間の問題であったのです。その緊迫した政治情勢を背景に、イスラエルの民の多くは、一刻も早い国外への脱出を望んでいたに違いありません。アッシリア帝国による侵略の恐怖にさらされる中、神の御告げを信じその教えを求めた民は、イザヤの言葉をどのように受け止めたのでしょう。イスラエルの救いの象徴ともいえる「インマヌエル」については、「速やかな略奪と捕獲」(マヘル・シャラル・ハシ・バズ)という、間近に迫る戦争と略奪を暗示する別の名前もあることが知らされ(8章1節)、その言葉のとおり、これらの預言の直後、前731 年にはダマスコ(現在のダマスカス) が陥落し、9年後の前722年にはついに北イスラエル王国が滅亡、アッシリアの占領下に置かれたのです。

しかし、神を信じる民にとってこの「インマヌエル」の預言は、イスラエル崩壊の予知だけに留まらず、同時に自国の民が速やかに「略奪と捕獲」を成し遂げるごとく、イスラエルの救いの道が国外に開かれていくという希望を説いた言葉でもあったのではないでしょうか。そのシンボルがイザヤの子、マヘル・シャラル・ハシ・バズです。その恩恵にイスラエルの民が預かったが故に「闇の中を歩んでいた民は大きな光を見」、「分捕り物を分けるときに楽しむように」喜ぶことが予知されたのでしょう。そしてイザヤ書8章9節には、「国々の民よ、打ち破られてわななけ! 遠く離れたすべての国々よ。耳を傾けよ。腰に帯をして、わななけ」(8章9節)とあり、インマヌエルの群れには行き着く所どこでも速やかに相手を征服することができる力と権威が与えられたと信じられるようになったのでしょう。

こうして預言者イザヤの言葉に励まされた大勢の民は、イザヤのリーダーシップに従い、北イスラエル王国が崩壊し南ユダ王国も滅びようとするその直前に国を離れ、新天地に向け旅立ったと考えられます。北イスラエル王国がアッシリアからの侵略の恐怖に慄いていたころ、エルサレム宮殿で仕えていたイザヤは、東の国々、海の島々(24章15節)に救いがあることを悟り、宮で仕える働き人や家族らとともに東方の島々に向け旅立つ準備をし始めたと考えられます。実際に北イスラエル王国が滅び、その後南ユダ王国では一旦はヘゼキヤ王による宗教改革が行われるも、国家滅亡が間近に迫っていたことがイザヤには見えていました。そして「あなたたちは東の地でも主を尊び、海の島々でもイスラエルの神、主の御名を尊べ」という神の声、そしてそれらの島々やそこに聳え立つ山や高い丘に祝福が訪れるという預言が思い起こされたのではないでしょうか。イザヤの目は、明らかに東方に向いていたのです。

イザヤが南ユダ王国を脱出した根拠

イザヤはおよそ前765年にエルサレムで生まれ、前740年頃より半世紀以上にわたり神の預言者として活躍した最も著名なヘブライ人預言者です。しかしイザヤの晩年については定説がなく、一説ではマナセ王の許のもと鋸で処刑され、水路のそばにある樫の木の下に葬られたと言い伝えられています。この伝承はおそらく、元来ヘブライ語で語り告げられた言葉が後1世紀前後にギリシャ語訳として著され、それが後3世紀以降のギリシャ語写本として残された後、聖書の外典となる儀典に含まれたものです。しかし内容には疑問点も多く、特に国をあげての宗教改革の直後、その先導者であり自国民の信望が厚かった偉大なる預言者イザヤを、ヘゼキヤ王の子や周囲の役人らが一変して処刑するということは考えづらいことです。よってキリスト教の視点から、新訳聖書にある「のこぎりで引かれた」預言者(ヘブル書11章)をイザヤに結び付け美化した物語とも考えられ、信憑性には乏しいものです。

イザヤの生涯を理解するため、まずヘゼキヤ王の宗教改革を振り返ってみましょう。南ユダ王国のヘゼキヤ王は前739頃に生まれ、前728年に即位しています(単独の王権は前715年からとも言われています)。この時点では既にダマスコは陥落し(前731年)、北イスラエル王国は前722年、イザヤの預言どおり滅亡したのです。神の偉大なる預言者としてイスラエル全土に名声を博していたイザヤは、当時、南ユダ王国エルサレム神殿でヘゼキヤ王に仕えており、一大宗教改革の波をもたらします。旧約聖書には以下の記述が見られます。

「こうして、ユダヤの全会衆、祭司たちとレビ人、イスラエルから来た全会衆、イスラエルの地から来た寄留者、ユダに住む者がともに喜び祝った…。イスラエルの王ダビデの子ソロモンの時代以来、このようなことがエルサレムで行われたことはなかった。祭司とレビ人は立ち上がって、民を祝福した。」(歴代誌下30章)
イスラエル史と皇暦の関係

イザヤが語る神の言葉を忠実に聞き、モーセの律法に従い国家レベルでの宗教改革をもたらし「心を尽くして進め、成し遂げた」ヘゼキヤ王ですが、前701年、アッシリアとの戦いに勝利した直後、重病にかかって死に直面します。そしてイザヤの仲介による祈りの結果、神から15年もの延命を与えられました。しかしその恵みにも関わらず、ヘゼキヤ王の晩年(前687年死去)には、神から受けた恵みに相応しく応えず「思いあがり、自分とユダ、エルサレムの上に怒りを招いた」と聖書に記録されているのです。とても不可思議な事の成り行きではないでしょうか。もし神の預言者であるイザヤがヘゼキヤ王の晩年まで王のそばで仕えていたとするならば、大宗教改革の余韻もあることから、ヘゼキヤ王が晩年という人生を締めくくる最も大事な時期に、神の恩恵を忘れ罪を犯すとは思えないのです。しかもその直前までイザヤは神に祈り、天に助けを求めアッシリアの軍隊を全滅させています(歴代誌下32章)。

ヘゼキヤの不信仰による神の怒りの原因は何でしょうか。その理由は、ヘゼキヤの晩年に突如としてイザヤが王宮を去り、南ユダ王国から姿を消したからではないでしょうか。ヘゼキヤ王が神から延命の恵みを得た後、イザヤに関わる聖書の記述がないことからしても、イザヤが不在であったことが窺えます。南ユダ王国を旅立ったイザヤは、おそらくヘゼキヤ王に隠れて国を去ったのではなく、むしろヘゼキヤ王の同意を得て、王の子を同伴し、かつ神殿から契約の箱と神宝を持ち出して新天地を目指したと考えられます。その理由は、神から与えられた預言のとおりダビデ王の王系を継ぐ子孫による王国を継続し、新しいエルサレムにて平安の都を造営するためにほかなりません。神が語ったとされるダビデ王系の約束は永遠であり、決して途切れることがないと信じられていたのです。

ヘゼキヤ王の後継者であり、王の跡を12歳で継いだマナセは、前709年に生まれています。そして倭国の初代天皇である神武天皇は前711年の生まれです。もしかして、イザヤの一行はヘゼキヤ王が黙認する最中、王の長男の方をダビデ王系の後継者として選び、東への旅へ同行させたと考えられないでしょうか。イザヤを信任していたヘゼキヤ王だけに十分その可能性はあります。そしてイザヤが国を離れたのは、ヘゼキヤ王の病に冒された前701年からマナセ王が即位する前697年の間ではないかと考えられます。そのとき、神武天皇の年齢は10代前半でした。だからこそ、幼少時にヘゼキヤ王の後継者となったマナセは、大人になるにつれ自分がダビデ王朝の真の後継者として信任されていなかったことを知り、しかも兄弟が既に南ユダ王国を離れ、更にエルサレム神殿から契約の箱や神宝さえ取り去られていたことが発覚して激怒し、イザヤ及び自分の兄弟の国外脱出を背信行為と見なしたのではないでしょうか。そして嫌悪感をつのらせたマナセ王は神に敵対し、禁断のアシュラ像やバアルの祭壇、異教徒の高台も平気で再建し、「主の目に悪とされることを数々行って主の怒りを招いた」のです。無論、このような異教風習の横行がまかり通るということ自体、マナセ王の周辺には神の声を聞き、王を戒めることのできる宗教リーダーが不在であったことを物語っています。それはいつの間にか、イザヤを初めとする信心深い祭司、レビ人らが南ユダ王国から去ってしまった結果とも言えます。

更に注目すべきは、マナセ王が即位して40数年後、王の孫であるヨシヤが後継者となったときのエルサレム神殿の状況です。ヨシヤ王はそれまでの悪政を改め、新たなる宗教改革の実践に努めたのです。しかしながら国家のリーダー的存在たる預言者や、神宝を守り神殿を司る祭司、レビ人の多くが国家を脱出して長い年月が経っていることもあり、主の神殿は「ユダの王たちが荒れるにまかせた建物」と化していたのです。そのため、神殿を補修し、神殿の中まで一掃し片付けることになるのですが、その際に祭司ヒルキヤがモーセによる律法の書を見つけたのです(歴代誌下34章)。40数年ぶりに、王の前で読まれた律法の言葉を聞いて、ヨシヤ王は衣を裂いて悔いることになります。そして主の神殿に仕えることの大事さを律法から学んだヨシヤ王は、祭司達を選りすぐり、神殿の奉仕を改めて行わせ「イスラエルの王ダビデの子ソロモンが建てた神殿に、聖なる箱を納めよ。あなたたちはもはやそれを担う必要がない。」と宣言したのです。主の神殿には既に契約の箱が存在しなかったため、そこに「聖なる箱を納めよ」と命じたのであり、律法の書に基づき新たな契約の箱が造られたとも考えられます。しかもその中には真の神宝が納められることはなかっただけに、それを神殿に一旦納めた後は「もはや担う必要がない」と語ったのではないでしょうか。

こうしてイスラエルの歴史を振り返ると、イザヤが王系の継承者とともに国外に脱出して東の島々を目指し、最終的に日本列島に漂着した可能性が十分に残されていることがわかります。そしてイザヤと家族一行、同行したレビ族を中心とする精鋭部隊がイスラエルの神宝を携えて事実、日本の地まで辿り着いたからこそ、古代の日本社会に溶け込んだイスラエル民族の宗教文化の影響とその面影を、今日の日本文化に見出すことができるのではないでしょうか。しかもイザヤの一行が、神宝を密かに携えて国を去ったということを裏付ける記述を旧約聖書に見出すことができるのです。このあたりについては、ヘブライ語による新しい解釈を含め、別の機会に触れてゆくことにします。大切なことは、イザヤ書8章から9章全体のメッセージは、次の内容に集約されるということです。「北イスラエル王国の崩壊を目の当たりにし、神のみ頼るはずが、南北双方の民はともに背信行為に走った為、国が滅びる。よって神宝の証である契約の箱を厳重に保管し、弟子達により、そこに秘められている律法を封印せよ。その後、イスラエルの奇跡となる約束の子が現れ、彼に望みを託せよ。ダビデ王は復活し、民は大いなる光を見出す。」

イザヤ書の言葉に励まされ、信仰に熱心なイスラエルの民は、いつしか王国が復活する希望を抱いたことでしょう。そして祭司らはイザヤに導かれるままエルサレム神殿より契約の箱を持ち出し、律法が刻まれた2枚の石の板のありかも含めて、その行き先を弟子達の内に封印したのです。よって今日までそれらが安置された場所は、謎に包まれたままでした。その場所がどこであるにせよ、イザヤの導きにより神宝が持ち運ばれたことは聖書が証している事実であり、預言者と祭司らの勇気ある行動により神が約束されたダビデの王座は、新天地においても継続することとなり、永久まで絶えることがないのです。

大陸を東方に目指したイスラエルの民

古代史には推測の余地が大きく、イスラエルの失われた10部族に関しても、およそ1900年前にフラビウスという歴史家が「10部族は今でもユーフラテスのかなたにおり、膨大な民衆となっている」と書き記している程度で、実際にデータがほとんど存在していません。一部の少数ユダヤ系民族の間では、「10部族は大陸を横断して中国の先にある神秘的な国に移住した」と語り継がれていますが、確証がありません。それでもアジア大陸におけるイスラエル人の動向に関しては、イランやアフガニスタン、中国などに離散したイスラエルの民がユダヤ集落を形成した軌跡を幾つか確認することができます。前にも触れましたが、中国の開封市では19世紀に洪水で村が壊滅状態に陥るまでユダヤ教の規律に従い生活をしていた集落が前3世紀から存在し、ユダヤ会堂が建てられていたことで有名です。またアフガニスタンにも前5〜6世紀頃にはユダヤ集落が存在し、11世紀頃まで数万人規模の在留異国人として知られていました。

アジア大陸には、砂漠という広大な大自然の中に、いつのまにか大勢の民が東方へと向かう道が定まり、それが後のシルクロードへと繋がっていきます。後世においてはヘブライ語で道標も立てられ、結果としてユダヤ系の商人を中心として貿易が営まれたという事実に、驚く方も少なくないはずです。2700年前に国家を失ったイスラエル人にとって、救いの道は預言者が語った東方の島々にあり、それが砂漠の大陸を横断するモチベーションとなったと推測できます。預言者イザヤとともに、一部の民は祭司を中心に神宝を携えていたこともあり、船舶を用いて海を東に渡ったことでしょう。そして残りの無数の民は、大陸を徒歩で横断したのです。それ故、アジア大陸を横断する陸路の延長線にある日本列島がそのシルクロードの終点としてそこに北イスラエル王国10部族だけでなく、実は南ユダ王国の民が主体となって日本に到来したという説も、あながち空論とは言えないのです。

唐(618〜907年・首都/長安)から宋(960〜1279年・首都/開封)にかけての欧亜間海上ルート図。赤/ピンクの線が唐時代、青が宋時代におけるもの。(The Maritime SilkRoute/香港博物館・編より)唐(618〜907年・首都/長安)から宋(960〜1279年・首都/開封)にかけての欧亜間海上ルート図。
赤/ピンクの線が唐時代、青が宋時代におけるもの。(The Maritime SilkRoute/香港博物館・編より)

春秋戦国時代(前770〜前221年)における中国周辺の海路図。4000年以上前から中東〜アジアを結ぶ海上ルートが確立されていたことがわかっている。(The Maritime SilkRoute/香港博物館・編より)
春秋戦国時代(前770〜前221年)における中国周辺の海路図。4000年以上前から
中東〜アジアを結ぶ海上ルートが確立されていたことがわかっている。(The Maritime SilkRoute/香港博物館・編より)

ではいつ頃、どの程度の規模で、どの部族が日本に移民してきたのでしょうか?

まず、北イスラエル王国が崩壊した前722年の後、多くの民が離散したことに違いはありません。そして南ユダ王国は、北イスラエル王国崩壊という歴史の流れを受け、それからおよそ20数年を経た前690年代、ヘゼキヤ王朝の末期にイザヤが先導して弟子達を集め、神宝を扱う祭司やレビ族ら、多くの信望者とともに東方へ向けて先に旅立ったと推測できます。皇紀元年のタイミングはまさにその直後の時期と一致しています。暦を大切にしていた民族の一貫した歴史観を基に、新天地にて新たなる神国の歴史が始まり、それが見事に皇紀に反映されているのです。

大陸を東方に目指したイスラエルの民
シルクロードの想定ルート
しかしながら、大陸間の民族移動は部族に分かれ長い年月をかけて徐々に進展しただけでなく、実際には徒歩による大陸の横断は困難を極め、舟による東方への渡航も小規模でしか行うことが出来なかったため、この貴重な史実は歴史の水面下に葬られてしまいました。無論、イスラエルの民は自らの渡航の足跡を残さないことに努め、アイデンティティーを語ることもなく、ひたすら東の島々を目指したと考えられることから、ますますその軌跡を辿ることは困難を極めます。それでも神の約束は成就し、ダビデの王国は、東の島々で存続することになるのです。最終的に日本に到来したのは、離散した北イスラエル王国の10部族より、むしろイザヤに導かれた南ユダ王国の2部族と祭司、レビ族の方が多かったと推定できます。預言者イザヤが仕えていたエルサレム神殿は南ユダ王国にあり、ダビデ王の系列はユダ族から輩出されなければならなかったからです。また、契約の箱と神宝を神殿から持ち出し、新国家にて奉納するために、ユダ族とともに多くのレビ族も同行しなければなりませんでした。そのレビ族の中に鰐族が含まれていました。イスラエルの民にとって、契約の箱、神宝の存在は神の臨在を意味していたのです。そして信心深い民は、常に神の契約の箱や神殿の周辺に集まりました。その結果、「平安の都」を意味する南ユダ王国の首都エルサレムは、やがて新天地において新しいエルサレム、「平安京」に生まれ変わることになります。