弥生時代中期後半から出現した高地性集落
中国史書によると、投馬国より10日の舟旅を終えて最終港に到達した後、そこから邪馬台国へ向かうためには、さらに30日間、陸地を歩かなければなりませんでした。平坦な道を歩くなら1000㎞を超えるか、もしくは相当険しい山道を登る場所に向かうためにかかる日数と考えられます。邪馬台国の場所が四国山上にあると仮定するならば、その厳しい山岳事情から、1か月という長旅の必要性を理解できます。では何故、邪馬台国が海岸沿いの集落から遠く離れた山上でなければならなかったのでしょうか。そのヒントが、弥生時代中期後半から突如として瀬戸内海を中心に出現した高地性集落の存在にあります。その面影を残していると考えられる事例が、四国の祖谷渓の周辺に見られる山上の集落です。
吉野川の支流、祖谷川沿いの上流にある祖谷渓は、高低差が200mにも及び、無数の断崖や絶壁、そして山々の急斜面が全長10kmにも広がる秘境です。その幻想的な眺めに包まれた山麓は、広範囲に渡りササ原に覆われています。中でも東祖谷の中央にある落合集落は、祖谷川と落合川が合流する地点にあたり、集落を形成にするに不可欠な水源に恵まれていました。よって、たとえ山奥であっても、古くから山の斜面にそって集落を拡大することができたのです。祖谷地方に残されている平家の落人伝説も落合集落に絡んでいます。古代の高地性集落の余韻が色濃く漂う落合集落では、今日、住居や畑、神社が混在し、国の重要伝統的建造物群保存地区の指定を受けています。急斜面の難を排して山の頂上近くまで石垣が積み上げられ、住宅や畑が段々に造られている光景には、歴史の重みを感じないではいられません。これら落合集落の背景を踏まえると、邪馬台国の時代においても、既に集落が形成されていたと考えて何ら不思議はありません。
四国の牧場は高地性集落の跡
古代の日本社会において、何故、アクセスの良い海岸沿いの平地を離れて、高地に集落を造らなければならなかったのでしょうか。一説によると、古代社会においては尾根伝いに人々が旅をして国境を越えることが多かったため、山頂付近に集落が発展したと言われていますが、高地性集落の起源は、やはり神の降臨という宗教観に結び付けて解釈することが、一番わかりやすいようです。
多くの高地性集落が、山の頂上近辺という日常生活において極めて不便な場所にわざわざ造られているのは、宗教文化的な動機がその背景にあったと考えられます。その答えを古代、日本列島に訪れたと考えられるイスラエル移民の文化的背景に見出すことができるのです。
日本へ到来した古代イスラエルの民は、当初、台湾から八重山諸島をはじめとする南西諸島を経由して、彼らが待望していた「東の島々」に辿り着きました。その「東の島々」とは、自らの国家が崩壊する最中、民を導く預言者イザヤに神から与えられた救いの言葉の中に含まれる場所でした。それは、国家を失うことになると示された民が、いかにして新世界へと逃避するか、その道すじを示す予言でした。その言葉を信じた大勢の民はイザヤと共にイスラエルを脱出し、ひたすら日が昇る東方へと移動し続けたのです。その遠い彼方に「東の島々」があることを信じて。
高地性集落の起源とイザヤの預言
預言者イザヤには「東の島々」だけでなく、もうひとつ大切なメッセ―ジが神から与えられました。それは、神は高い山に住まわれることから、標高の高い山で神を崇める、ということでした。旧約聖書の中で、イザヤが繰り返し高い山について書き記しています。それ故、新天地となる日本列島において、まず一番高い山を見出し、その山頂の周辺に集落を造り、そこで神の訪れを待つことを願い求めたと想定できないでしょうか。高き所は聖なる場所であり、神はその高い山に君臨するという信仰があったからこそ、古代イスラエルの民は日本列島にて高地性集落を造り、そこで祭祀活動を行ったのです。その結果、高地性集落の跡地と言われている場所の多くでは、今日でも祭祀活動の形跡を見出すことができます。
高地性集落の起源が古代、日本列島に到来した西アジアからのイスラエル移民にあると仮定してみましょう。すると記紀に記されている淡路島から始まった国生みは、南方より船でやってきたイスラエルからの渡来者によるものとなります。記紀の記述から察するに、国生みの神々はまず列島をくまなく巡り廻り、島々の場所や相互の位置づけを特定した後、それら島々の中心に聳え立つ高山に目を向け、その頂上にて神を崇めたと考えられます。高き所で祈りを捧げ、島全体を清めることの大切さを信じていた民だけに、山上における祭祀活動と集落の形成を積極的に試みたと推測されます。
その結果、弥生時代の後期、日本列島内の特に瀬戸内海沿いでも、背後の山々に高地性集落が造られていきます。特に淡路島から一望できる四国の連山は、民の憧れだったはずです。そして山々では集落の発展と共に随所で神が祀られました。また、標高1955mの剣山は、淡路島から遠くの山々の背後にその頂上を肉眼ではっきりと望むことができます。その剣山が、高地性集落の総本山となるべく重要視されたと考えられるのです。
卑弥呼をリーダーとする国家の誕生
紀元2世紀後半、四国山上に邪馬台国が産声をあげました。イスラエル民族の強い信仰故、山々に至る経路がとてつもなく厳しい道のりであることなど、何ら苦にならなかったでしょう。そして四国の山岳地帯で君臨した女王卑弥呼の鬼才により、高地性集落は常識では考えられないような国家へと発展していくことになります。
高地性集落が長い年月をかけて徐々に発展した後、時代の流れとともに卑弥呼が国家のリーダーとして台頭する時代が訪れました。霊能力に優れた卑弥呼は、人里離れた山奥に籠り、そこで祈祷を捧げ、大きな政治力を振るうようになりました。古代、イスラエルの偉大な預言者らも、モーセを筆頭に皆、山に籠り、神と出会い、霊能力を磨いたものでした。魏志倭人伝には卑弥呼について、「鬼道に仕え、[その霊力で]能く人心を惑わしている...彼女を見た者は少ない」と記されています。卑弥呼の拠点となった邪馬台国とは、霊能力を発揮できる場所にあり、それは山奥にしか存在し得なかったのです。その山奥とは、四国の剣山周辺であったと考えられます。
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