皇族の血統を継ぐ和気氏
和気清麻呂の生家は先祖代々から和気郡司を務めた和気郡の伝統的名家です。和気氏(わけうじ)は別氏とも書きます。
「日本後記」によると、和気氏の祖は垂仁天皇(前29年-70年)の皇子である鐸石別命(ぬてしわけのみこと)であり、古事記では大中津日子命と記載されています。清麻呂は和気氏15代目にあたることからしても、和気氏の出自は皇族の系統であることがわかります。
和気氏が吉備磐梨県を授かった背景
和気清麻呂の父は磐梨別乎麻呂(いわなしわけのきみ)として知られています。磐梨別乎麻呂の「磐梨」という名称については、「続群書類従」記録されている和気氏の系図に由来が記されています。そこには垂仁天皇の皇子である鐸石別命(ぬてしわけのみこと)の3世の孫、日本武尊の家臣であった弟彦王(おとひこおう)が、初めて吉備磐梨別公の氏姓を賜ったとあります。
弟彦王は神宮皇后の新羅征伐の際に活躍し、その軍功により現在の岡山県和気郡周辺となる吉備磐梨県、藤原県を授かります。よって、和気氏の本来の名は磐梨氏であり、765年に和気氏と改名され、皇族の血統を継ぐ豪族の名として定着します。
ヘブライ語で解く和気清麻呂のルーツ
和気清麻呂の出自は西アジアのイスラエルであり、由緒あるユダヤの家系に属していたことを、その名前の意味から理解することができます。清麻呂の父の名前は磐梨別乎麻呂と書き、「イワリ・ビコ・マロ」と読むことができます。訓読みの磐「いわ」に続き、音読みの梨「リ」が混在します。この発音は、そのままヘブライ語で読めるため、ヘブライ語に合わせて漢字が当てられたと考えられます。
「イワリ・ビコ・マロ」は3つのヘブライ語から成り立っています。まず、ヘブライ人のことをヘブライ語ではעברי(ivriy、イヴリ) と発音することに注目です。日本語の「イワリ」とほぼ同等の発音であることから、「イワリ」はヘブライ人のことを意味すると考えられます。
続く「ビコ」は、男子の名を作る接尾辞です。ヘブライ語ではבכור(bekhor、ビコ) と書きます。その言葉の意味は、最初に生まれた子供、初子、長子を意味します。また、最初の収穫を指して使うこともあります。おそらくこの「ビコ」が語源となり、後世では「彦」(ひこ)の漢字が当てられたのです。そのため、「彦」の文字は男子の美称を意味するようになり、今日までその意味は引き継がれています。
最後に「マロ」は、ヘブライ語のמרום(marom、マロ) が語源になっていると考えられます。「マロ」はヘブライ語で天、天国、偉大を意味します。すると「磐梨別乎麻呂」「イワリビコマロ」の発音はヘブライ語で読むと、「ヘブライ人の天子の初子」、「ヘブライ人の偉大な長子」を意味することがわかります。それは清麻呂の父だけでなく、磐梨別君の氏姓を賜った弟彦王、そして垂仁天皇を含む皇族がヘブライ人であり、ユダヤ系であったことの証と考えられます。
和気清麻呂が足立山を拠点とした理由
皇族の流れをくむ天才的な学者として知られる和気清麻呂は、その名前から、ユダヤ人であったことがわかります。そして和気清麻呂は皇族の出であるが故に、八幡大神である応神天皇や、秦氏とも深い関係にありました。しかも清麻呂の妻は桓武天皇の母である高野新笠の妹、嗣子でした。
和気清麻呂は北九州の足立山に注目し、そこを自らの拠点としました。日本地理を熟知していた清麻呂は、北九州から邪馬台国へ向かう際に通りすぎる奴国と不弥国という2つの場所を見極めていたようです。足立山の頂上からは、それらの小国家を見渡すことができます。しかも足立山は、四国の霊峰、剣山と同緯度に存在し、その事実にも清麻呂は気が付いていたのではないでしょうか。だからこそ有無を問わず、足立山を自身の聖地としたのです。