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2026/03/29

春日大社が祀る武甕槌命の背景 刀剣神と船神に繋がる海洋豪族の出自

航海技術を携えて渡来した古代の民

古代の日本社会において活躍した知識層の多くは、アジア大陸より海を渡ってきた渡来者でした。アジア大陸の歴史は古く、日本の縄文時代や弥生時代と呼ばれるような古代においても、先進した文化が発展していました。特にメソポタミアを中心とする西アジアの地域では、優れた航海術と、それに伴う造船の技術が発展していたことが知られています。西アジアで海洋技術を培ってきた人々は、大型船に乗って海を渡り、各地を行き来していたのです。タルシシュ船がその一例です。

紀元前10世紀には既に大型船を使って、西アジアの人々はアフリカやアジアの各地と貿易を行っていました。よって、それらの船が大陸より東方の島々、すなわち日本列島まで航海することは、決して難しいことではありませんでした。その優れた大陸の航海術を携えた知識層に導かれたからこそ、多くの渡来者が短期間に大陸から台湾、南西諸島を経由して日本列島を訪れることができたのです。

それ故、記紀においても国生みから天孫降臨の時代に至るまで、神々が船を乗り物として島々を行き来していたと想定する内容の記述が多く見られます。これら大陸からの渡来者により、古代日本の国造りと文化の礎が築かれていくことになります。

「二柱の神」となる武甕槌命と経津主神

春日大社の第一殿にて祀られ、藤原氏の祖である武甕槌命もその例に漏れず、船に乗って日本列島の島々に渡ってきたと考えられます。葦原中国を平定しなければならないという国の一大事の時、天照大神は自分の子である武甕槌命を葦原中国に遣わすことを決め、その際に天鳥船神(あめのとりふねのかみ)を同行させたことが、古事記に記録されています。

その後、武甕槌命と天鳥船神は出雲の伊耶佐の小浜に向かい、そこで大国主神と対面するのです。それ故、古事記では武甕槌命と天鳥船神は、「二柱の神」と呼ばれています。日本書紀古語拾遺にも同等の内容が記されていますが、そこでは武甕槌命と共に出雲へ旅をしたのが、春日大社の第二殿に祀られている経津主神となっています。古語拾遺には、武甕槌命は常陸国の鹿島神、経津主神は下総国の香取神と明記されています。また、古事記の記述には経津主神の名前は見当たりませんが、武甕槌命に同行した神として経津主神の代わりに天鳥船神の名前が書かれていることから、経津主神と天鳥船神は同一人物であったと想定されます。

「刀剣神」として祀られる武甕槌

藤原一族の祖である武甕槌命と経津主神の2神は、国家鎮護に関連する神社として知られる鹿島神宮には武甕槌命、香取神宮には経津主神が祀られています。武甕槌命と経津主神は、どちらも刀剣神であり、前者は雷神としても知られています。両者とも葦原中国の平定に遣わされ、共に出雲の国にて十握剣を逆さまに大地に突き立てたことから「刀剣神」とも呼ばれています。

鹿島神宮と香取神宮は、古代の海原を隔てて13㎞ほどしか離れていない海岸沿いに建立されています。鹿島神宮の神が春日大社の第一殿、香取神宮の神が第二殿にて祀られているのは、単に2社が同じ常総の地域にあるということだけでなく、そこで祀られている2神が、どちらも「刀剣神」に関わる神々であり、春日大社の背景となる重要な史実に関わっているからに他なりません。

海洋豪族の天鳥船神と旅する武甕槌命

武甕槌命、及び経津主神として知られる天鳥船神、2神の背景を史書から探ってみると、伊耶那岐命の時代まで遡ることになります。天鳥船神は伊耶那岐神の子であり、その名前のとおり優れた航海技術を有していたことから、船旅に関する重責を担っていた氏族と考えられます。天鳥船神は巨石を祀る東茨城の石船神社や、出雲大社近くの美保神社、そして大阪の住吉大社など、船神に纏わる由緒を持つ著名な神社でも祀られています。

天鳥船神は武甕槌命と共に出雲へと船で向かっただけでなく、その後、瓊瓊杵尊が高天原から九州の南方、そして本州へと海を渡りながら旅を続けた際にも、その航海を導いた一行に属していたと考えられます。その旅路のルート沿いには、鹿児島日置市にある船木神社のように、造船と航海技術に長けていた船木一族の痕跡が残されている神社が存在します。

後世において元伊勢御巡幸が行われた時代では、船木氏の貢献により複数の船が倭姫命の御一行に提供されました。それらの船を用いて琵琶湖東方の船木山近く、伊久良河宮から川を下り、伊勢湾岸を経由して五十鈴川の上流にある伊勢の聖地まで御一行は向かうことができたのです。古代、まだ人口も少なく、集落の形成もままならぬ時代、航海術に抜きん出た豪族が同時期に複数存在したとは考えづらいことから、船木氏も、経津主神(天鳥船神)と同系の出自と考えてよさそうです。

海洋豪族の血統を継ぐ中臣氏と藤原一族

第12代景行天皇の時代、中臣臣狭山命(なかとみのおおさやまのみこと)が神託を受けた際に船3隻が奉献され、それが12年に1度行われる鹿島神宮の御船祭の起源になったと伝えられています。つまり中臣氏も天鳥船神、経津主神の末裔として造船の責務を担う豪族であり、その祖が祀られる鹿島神宮や春日大社では、船の祭事が執り行われるようになったのです。こうして天鳥船神の責務は船木氏に加え、中臣氏にも引き継がれていきました。

その後、藤原の姓を賜った中臣鎌足の子、藤原不比等が春日山にて先祖を祀った由縁により、先代の海洋豪族である経津主神も春日大社の第二殿で祀られるようになります。「香取大宮司系図」によると、経津主神を祀る香取神宮では元来、香取連が祭祀氏族として名を連ねていましたが、奈良時代後期、大中臣氏(おおなかとみうじ)が中央政権にて祭祀を司るようになった際、大中臣清暢が香取連へ養子として迎えられ、それ以降平安時代まで大中臣氏が香取神宮の宮司を務めたことがわかります。中臣氏(藤原氏)は経津主神や、その子孫と血縁関係にあったからこそ、その船神の祖となる天鳥船神が経津主神として、春日大社で祀られるようになります。春日大社の背景には、海原を航海する海洋豪族の存在があったのです。

画像ギャラリー:春日大社 / 鹿島神宮 / 出雲大社 / 住吉大社 / 船木神社

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