航海技術を携えて渡来した古代の民
古代の日本社会において活躍した知識層の多くは、アジア大陸より海を渡ってきた渡来者でした。アジア大陸では、日本が縄文時代や弥生時代と呼ばれるような古代においても、各地で高度な文明が発展し、メソポタミアを中心とする西アジアでは、優れた航海術と造船技術が発達していたことが知られています。西アジアでこうした海洋技術を培ってきた人々は、大型船に乗って遠洋航海を行い、各地を往来しながら交易や文化交流を展開していました。その代表例として、旧約聖書に登場する大型の外洋船。タルシシュ船が知られています。
紀元前10世紀にはすでに大型船を用いて、西アジアの人々はアフリカやアジア各地との海上交易を行っていました。その航海技術を踏まえれば、大型船が大陸より東方の島々、すなわち日本列島まで航海することは、技術的に可能であったと考えられます。優れた航海術を有する知識層の活躍によって、多くの渡来者が短期間のうちに大陸から台湾や南西諸島を経由して日本列島へ渡ることができたという見方も成り立ちます。
そのため、記紀においても国生みから天孫降臨の時代に至るまで、神々が船を乗り物として島々を往来していたことをうかがわせる記述が数多く見られます。こうした大陸からの渡来者によって、古代日本の国造りと文化の礎が築かれていったと捉えることができます。
「二柱の神」となる武甕槌命と経津主神
春日大社の第一殿に祀られ、藤原氏の祖神として知られる武甕槌命もその例に漏れず、船に乗って日本列島の島々へ渡来したと考えられます。葦原中国を平定するという国家の一大事に際し、天照大神は武甕槌命を葦原中国へ遣わすことを決め、その際、天鳥船神(あめのとりふねのかみ)を同行させたことが、古事記に記録されています。
その後、武甕槌命と天鳥船神は出雲の伊耶佐の小浜に向かい、そこで大国主神と対面します。そのため、「古事記」では武甕槌命と天鳥船神は、「二柱の神」と記されています。「日本書紀」や「古語拾遺」にも同様の内容が記されていますが、そこでは武甕槌命とともに出雲へ赴いた神は、春日大社の第二殿に祀られている経津主神となっています。「古語拾遺」には、武甕槌命は常陸国の鹿島神、経津主神は下総国の香取神であることが明記されています。一方、「古事記」の記述には経津主神の名前は見当たりませんが、武甕槌命に同行した神として天鳥船神が記されていることから、経津主神と天鳥船神は同一神であった可能性が浮かび上がってきます。
「刀剣神」として祀られる武甕槌命
武甕槌命と経津主神は、国家鎮護の神として広く信仰されており、鹿島神宮には武甕槌命、香取神宮には経津主神が祀られています。両神は、いずれも刀剣神であり、武甕槌命は雷神としても知られています。両神は葦原中国の平定のために遣わされ、出雲の国ではともに十握剣を逆さまに大地へ突き立てる姿が描かれていることから「刀剣神」として崇敬されるようになりました。
鹿島神宮と香取神宮は、古代の海原を隔てて約13㎞しか離れていない沿岸部に鎮座しています。鹿島神宮の祭神が春日大社の第一殿、香取神宮の祭神が第二殿に祀られているのは、単に両社が常総地域に近接しているだけでなく、両神がいずれも「刀剣神」であり、春日大社創建の背景を成す重要な歴史的経緯に関わっているからに他なりません。
海洋豪族の天鳥船神と旅する武甕槌命
武甕槌命、そして経津主神と同一神であった可能性がある天鳥船神の背景を史書からひもとくと、伊耶那岐命の時代まで遡ります。天鳥船神は伊耶那岐命の子神とされ、その神名が示すように優れた航海技術を有していたことから、船旅に関する重責を担っていた氏族を象徴する神と考えられます。天鳥船神は巨石を御神体とする東茨城の石船神社や、出雲大社に近い美保神社、さらに大阪の住吉大社など、船神にゆかりのある著名な神社でも祀られています。
天鳥船神は武甕槌命とともに出雲へと船で赴いただけでなく、その後、瓊瓊杵尊が高天原から九州南部を経て本州へと海路をたどって旅を続けた際にも、その航海を導いた一行に加わっていたと考えられます。その航路沿いには、鹿児島県日置市にある船木神社をはじめ、造船や航海技術に長けていた船木一族の痕跡を今に伝える神社が残されています。
後世、元伊勢御巡幸が行われた時代には、船木氏の尽力によって複数の船が倭姫命の御一行に提供されました。それらの船を用いることで琵琶湖東方の船木山近くにあった伊久良河宮から川を下り、伊勢湾を経て五十鈴川上流の伊勢の聖地まで御一行は向かうことができたのです。古代、まだ人口も少なく、集落の形成も十分ではなかった時代、卓越した航海術を有する豪族が同時期に複数存在したとは考えにくいことから、船木氏も経津主神(天鳥船神)と同系の出自であった可能性が見えてきます。
海洋豪族の血統を継ぐ中臣氏と藤原一族
第12代景行天皇の時代、中臣臣狭山命(なかとみのおおさやまのみこと)が神託を受けた際に三隻の船が奉献され、それが12年に一度行われる鹿島神宮の御船祭の起源になったと伝えられています。つまり、中臣氏も天鳥船神や経津主神につながる系譜を有し、造船や航海に関わる役割を担った豪族であり、それらの神々を祀る鹿島神宮や春日大社では、船にまつわる祭事が執り行われるようになったのです。こうして、天鳥船神に象徴される航海・造船の役割は、船木氏に加えて中臣氏にも引き継がれていったという解釈も成り立ちます。
その後、藤原の姓を賜った中臣鎌足の子、藤原不比等が春日山にて祖先に関わる神々を祀ったことを契機として、古代の海洋豪族を象徴する経津主神も春日大社の第二殿に祀られるようになります。「香取大宮司系図」によると、経津主神を祀る香取神宮では、もともと香取連が祭祀氏族として名を連ねていました。しかし奈良時代後期、大中臣氏(おおなかとみうじ)が中央政権にて祭祀を司るようになると、大中臣清暢が香取連の養子となり、それ以降平安時代に至るまで大中臣氏が香取神宮の宮司を務めたことが伝えられています。こうした経緯を踏まえると、中臣氏(藤原氏)は経津主神を奉斎する祭祀的系譜と深いつながりを持ち、その背景にある船神・天鳥船神の神格を受け継ぐ存在として経津主神が春日大社で祀られるようになった可能性が見えてきます。春日大社の成立背景には、古代の海原を舞台に活躍した海洋豪族の存在があったと考えられます。





