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2025/03/16

「君子の国」のルーツはイスラエル?

前3世紀、秦始皇帝による治世が終焉を迎えた時代、東アジアより朝鮮半島、そして日本へ向けてイスラエルの血統を継ぐ部族を中心とする東夷の民族大移動が始まりました。その直後の前漢・後漢時代にかけて中国では人口が激減しましたが、その最も大きな原因の1つと考えられるのが、この東夷の国外脱出です。イスラエル人こそ先祖代々、戸籍登録を大切にしてきた人種です。戸籍台帳に漏れなく記載され続けてきたイスラエル系住民が国外に退去するということは、人口統計上の数字に直接反映されることになっただけでなく、戦争や疫病の流行、食糧難、天候の変動などが重なり、中国の人口は激減したのです。

日本と朝鮮民族の類似点と相違点

この民族移動の中核であったイスラエル系民族の中でも、特にユダ族を中心とする南ユダ王国の部族とそれに伴うレビ族の多くは朝鮮半島を南下し続け、そこから海を渡り、最終的に日本へと向かいました。また北イスラエル王国に属した部族の中には日本に渡らず朝鮮半島に留まる民も少なくはなく、半島南部ではその民族移動の波に追従して、中国界隈から移住してきた諸部族や、高句麗、そしてアジア大陸北方からの移民も加わり、いつしか東夷の流れをくむ諸部族にさまざまな人種が交わりながら、新しい国家の土台が培われていきました。そして朝鮮半島では中国の統治下における楽浪郡が前108年に置かれ、半島の南部では中国の影響を強く受けつつ馬韓、辰韓、弁韓の三韓が台頭し、その後、百済、新羅、伽耶の三国時代へと移り変わります。そして、その北部には高句麗が台頭し、朝鮮の歴史が築かれていきます。

高句麗や、その背景にある扶余にもイスラエル民族の影響を強く受けた東夷との関わりがあり、そのどちらも日本と朝鮮のルーツに深く関与していることは前述したとおりです。よって大まかに語るならば、日本と朝鮮の始祖の主流となる民族は、どちらも西アジア系東夷の移民の流れに、中国や東アジア各地の諸部族が多少なりとも混血して形成されたと言えます。つまり、日本も朝鮮も、その大元となる民族のルーツは、共通している部分が多分にあることに違いはありません。また、それは日本民族のルーツが朝鮮であるという考えが誤りであることも意味しています。何故ならば、どちらも同じ民族移動の流れに沿ってほぼ同じ時期に国家として台頭してきたからです。

また、日本と朝鮮とでは2つの決定的な違いがあることにも留意する必要があります。まず、大陸からの民族移動の流れに沿って最終的に日本まで辿り着いたのは、イスラエル系の中でも南ユダ王国系とレビ族が多くを占めていたことが挙げられます。せっかく朝鮮半島南部まで辿り着き、安住できるというのに、そこから東へと海を渡り遠い未知の島々をひたすら目指すという願望を抱くには、それなりの根拠が不可欠です。

南ユダ王国の民は、前7世紀以降から代々語り継がれてきた東方の伝説と、イザヤの預言書に書かれている「東の島々」、そして「主の山」というモチーフに纏わる明確な理由を携えていたのです。それ故、日本と朝鮮は同じイスラエル民族の血統を多分に受け継いでいても、その部族の構成が最終的に枝分かれすることとなり、似てはいるものの、異なる兄弟国のような存在になったと言えます。

更に決定的な相違点がもう1つあります。北イスラエル王国が崩壊して百数十年後、そして南ユダ王国が滅びてから数十年後の前6世紀、中国では既に孔子が、東夷にまつわる儒教的楽土が遠い東の彼方に存在することを認識しており、それを「君子の国」「不死の国」と称しました。また「山海経」には、「君子国も不死国もともに東方にある」とされ、「外国図」には、それが琅邪(山東省臨沂市付近)から3万里離れた所にあるという記述もあります。短里の1里を70m前後と仮定しても、中国の東部よりおよそ2万kmも離れた場所に「君子の国」が存在していたわけです。

日本と朝鮮とでは民族の源流が同一視できる部分が多々あるものの、日本はイスラエル系でも南ユダ王国系の血統がより多いと考えられるだけでなく、移民の波が押し寄せる前から存在した「君子の国」とも呼ばれる古代国家を手掛けた初代移民の血統が引き継がれていることに違いを見出すことができます。日本列島に大昔から居住していた古代人に、前7世紀、西アジアから移住してきた「君子の国」となるイスラエル南ユダ王国の民が少数加わり、そこに前2~3世紀以降、朝鮮半島を介して民族移動の波が数多く押し寄せました。それらの人々が日本人の原点となり、その後も大陸からの移民を受け入れながら、今日の日本人の姿となったのです。

その結果、日本と朝鮮とでは民族の源流が同一視できる部分が多々あるものの、日本はイスラエル系でも南ユダ王国系の血統がより多いと考えられるだけでなく、移民の波が押し寄せる前から存在した「君子の国」とも呼ばれる古代国家を手掛けた初代移民の血統が引き継がれていることに違いを見出すことができます。日本列島に大昔から居住していた古代人に、前7世紀、西アジアから移住してきた「君子の国」となるイスラエル南ユダ王国の民が少数加わり、そこに前2~3世紀以降、朝鮮半島を介して民族移動の波が数多く押し寄せました。それらの人々が日本人の原点となり、その後も大陸からの移民を受け入れながら、今日の日本人の姿となった

「君子の国」のルーツはイスラエル

1世紀ごろ、諸王の長として大倭王が邪馬台国を治め、倭国の中からおよそ30国が中国と通好したことが後漢書に記されています。これら30国の首長は、「みな王と称して、代々その系統を伝えている」という記述から、そのルーツがかなり昔まで遡ることがわかります。家系と伝統を重んじる諸王が、複数の部族に分かれて倭国の統治に携わっていた背景には、戸籍と文字の存在があったに違いなく、血統を大事にしたイスラエル系の民族の流れをくんでいたと考えられます。

その後、2世紀後半から倭国は乱れ、長期間にわたり国内で騒乱が続きました。その大きな要因として、渡来人の波がピークを迎えたこのころ、現住民との緊張度が頂点に達しただけでなく、それまでとは異なる宗教文化を携えた部族も大勢渡来し、各地で対立が生じたことが考えられます。そして王位の継承や統治に関わる問題に加え、都の立地条件や宗教儀式、神宝の保管など、国家の尊厳と在り方そのものに関わる問題が浮上したことも、倭国の統制が著しく乱れる原因となりました。

大混乱に陥った倭国ではありますが、2世紀末に卑弥呼が即位して国を治めることにより、国家の混乱は一旦収拾し、平穏な時代を迎えることになります。膨大な数にのぼる渡来人の到来だけでなく、数々の地域紛争や、複雑な諸問題に対し、卑弥呼はその鋭い霊力をもって先頭に立ち、邪馬台国を導きます。三国志や梁書、晋書によると、卑弥呼が帯方郡に使節を初めて送ったのは魏の時代、景初3年、239年のことです。そして女王卑弥呼の存在は魏からも認知され、親魏倭王の封号を得ただけでなく、実際に国家の統治も規律正しく行われるようになります。

しかしながら邪馬台国の水面下では、新しい都の造営を目論む機運もあり、特に秦氏のように独自の宗教歴史観に基づき、着々と地盤を広げていく民もいました。そして卑弥呼は248年ごろ、狗奴国との戦いにおいて力尽き、死去してしまいます。その後、男王が王位を継承するも、再び国家は乱れ、台与(臺与)と呼ばれる女王が王位を継承するまで、混乱は続きます。そして266年、倭の女王の使者が朝貢したと伝えられる晋書の記述を最後に、倭国に関わる歴史の情報は中国の史書から1世紀半の間、途絶えることになり、およそ150年という空白の時代を迎えるのです。

その「君子の国」「不死の国」こそ、南ユダ王国の部族を中心としたイスラエルからの初代難民からなる小規模な国家であり、その存在は後世のイスラエル民族にも広く流布され、前2~3世紀、大規模な東夷の民族移動が朝鮮半島から日本に向けて始まる以前、北イスラエル王国が崩壊して百数十年後、そして南ユダ王国が滅びてから数十年後の前6世紀、中国では既に孔子が、東夷にまつわる儒教的楽土が遠い東の彼方に存在することを認識しており、それを「君子の国」「不死の国」と呼称しました。つまり古代、孔子の時代以前から国家らしきものが日本のどこかに既に存在していたのです。その「君子の国」「不死の国」こそ、南ユダ王国の部族を中心としたイスラエルからの初代難民からなる小規模な国家であり、その存在は後世のイスラエル民族にも広く流布され、最終的に日本は多くのイスラエル移民が目指す楽土となったのです。

朝鮮半島、そして日本へ向けてイスラエルの血統を継ぐ部族を中心とする東夷の民族大移動が始まりました。そのイスラエル人こそ先祖代々、戸籍登録を大切にしてきた人種です。戸籍台帳に漏れなく記載され続けてきたイスラエル系住民が国外に退去するということは、人口統計上の数字に直接反映されることになっただけでなく、戦争や疫病の流行、食糧難、天候の変動などが重なり、中国の人口は激減したのです。

この民族移動の中核であったイスラエル系民族の中でも、特にユダ族を中心とする南ユダ王国の部族とそれに伴うレビ族の多くは朝鮮半島を南下し続け、そこから海を渡り、最終的に日本へと向かいました。また北イスラエル王国に属した部族の中には日本に渡らず朝鮮半島に留まる民も少なくはなく、半

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