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2025/05/25

不弥国の足立山が重要な理由 和気清麻呂が見定めた北九州の拠点

足立山に繋がる和気清麻呂

奴国から不弥国へ向かう途中、北九州の海岸近くまで行くと、道の北方には足立山が見えてきます。今日では観光地として知られる足立山は標高518mを誇り、夜景のスポットと言われるほど、山頂からの見渡しが素晴らしいことでも有名です。

この山が足立山と言われる所以は、その山の麓にある安部山公園に行くと、答えを得ることができます。そこでまず目にするものは和気清麻呂の銅像であり、足立山という名称の謂れも含め、その山麓周辺の地域には、偉人の史話、民話、伝説が多く残されています。和気清麻呂の存在は、例え時代はかけ離れていても、空海とともに古代史の謎を紐解く重要人物だけに無視できません。そして日本の地理を知り尽くしていた達人としても名高い和気清麻呂が目を留めた足立山だからこそ、何かしらその場所が重要な意味を持っているに違いないのです。

足立山を拠点にした和気清麻呂の貢献

奈良時代後期、天文学と測量学の天才として名声を博した和気清麻呂は、数々の土木や灌漑プロジェクトにおいて多大なる貢献をしました。平安京の造営においては、清麻呂自身が平城京から遷都する必要性を桓武天皇に訴えています。そして目的地を探し当て、実際に平安京の造営を完成させたマスターマインドでもあったのです。

さらに神社造営の達人としても知られる清麻呂は、空海とも交流を持ち、神宝の取り扱いや、それらを秘蔵する場所について、さまざまなアドバイスを与えたと考えられます。その博学な和気清麻呂が、奴国の比定地にある足立山を拠点としたことは、それなりの理由があったはずです。そこでまず、清麻呂が足立山へ導かれた背景となる宇佐八幡宮神託事件を振り返ってみました。

宇佐八幡宮神託事件と清麻呂との関わり

奈良時代、藤原一族とその反対勢力による皇位継承の争いは絶えることがありませんでした。聖武天皇の時代でも、藤原不比等の娘であった光明皇后の子が亡くなった後、女性の阿倍内親王が皇太子、孝謙天皇となることにより、政権抗争が続いたのです。そして孝謙天皇が上皇に退いた際、上皇の信望を得て出世を狙う道鏡に敵対する藤原仲麻呂が764年に反乱を起こしまた。しかし謀反は失敗に終わり、直後、上皇は称徳天皇として再度即位されます。

766年、道鏡は前代未聞の法王という天皇の位に匹敵する称号を与えられました。その道鏡の元にある日、「道鏡を皇位につけたら天下太平である」という宇佐八幡宮のご神託なるものが届けられたのです。孝謙天皇は周囲の疑問を払拭するためにも、当時、天皇に仕えていた和気広虫を、宇佐八幡宮の神託を改めて請うための勅使として任じますが、その代わりに行くことになったのが、弟の和気清麻呂です。

その結果、八幡宮に参宮した清麻呂は、「わが国は君臣の分が定まっている。いまだ臣もって君となしたことがない。天つ日嗣は必ず皇儲をたてよ」、という神託を得ました。それが大変な騒ぎとおこすことになります。

足立山と呼ばれた所以

769年、清麻呂は与えられた神託を持ち帰り、「いまだ臣もって君となしたことがない」との御告げにより、道鏡の逆心を封じようとしたのです。ところが、虚偽のお告げを奏上したとして、道鏡と親しい間柄に陥っていた天皇の怒りをかってしまい、足の筋を断たれたあげく、大隅(鹿児島)に流罪となってしまいました。

その旅の途中に天候が急変し、清麻呂が乗っていた船は宇佐まで流されてしまいました。その時、何故か猪が200頭ほど現れて清麻呂を宇佐宮に導きます。そして「足立山の麓から湧き出でる霊泉を浴びよ」、という八幡神のお告げを清麻呂は得たのです。そのお告げに従って霊泉を浴びると、清麻呂の足は奇跡的に癒されたという伝承が残されています。それが足立山と呼ばれるようになった所以です。

和気清麻呂の復帰と活躍

和気清麻呂が足立山に惹かれた理由は、単に宇佐宮八幡神の神託の導きによるものだけではありません。清麻呂は実際にその地域が大陸と日本列島を行き来する上において、北九州最大の要所である奴国と海に面した不弥国を結ぶ場所であることを知り尽くしていたのでしょう。清麻呂はその足立山を自らの拠点とし、そこで休息も兼ねて、都への再出発の時期を窺うことになります。

神託事件の1年後、称徳天皇が崩御されると清麻呂は赦免されて帰京し、皇太子の勅により政界に復帰します。そして光仁天皇が即位した後、道鏡は失脚し、皇位継承の流れが天武天皇系から天智天皇系に戻ります。その後、清麻呂は光仁、桓武天皇に仕えながら河川工事、灌漑工事等、地域社会の基となる土木造成に尽力し、日本国家の社会基盤を造り上げることに貢献したのです。そして最終的には桓武朝の高官として、平安遷都の土地を見出し、自らを造営大夫として遷都の実現を果たす第一人者なりました。

足立山と剣山の繋がり

和気清麻呂が足立山をこよなく愛した訳は、八幡神の介入による不思議な神の導きにより自らの体が癒されたこと以外に、もう1つ大事な理由がありました。足立山の位置付けです。列島の地勢を知り尽くした清麻呂は、足立山が古代の聖地である霊峰、四国の剣山と同緯度に並んでいることを知っていたようです。そして足立山の頂上に立つことは、その真東にある剣山と同じ緯度の延長線にいることになり、太陽の動きが全く同じになることを理解していました。同緯度線上にある山々には神秘的な繋がりがあり、古代社会においては地の力を共有する源と考えられていたのです。

足立山を自らの拠点とした理由は、そこが霊峰剣山に結び付いていたからに他なりません。それは和気清麻呂が剣山を重要視していた結果とも言えます。その証として清麻呂は剣山と伊弉諾神宮伊勢神宮石上神宮を紐づけて再度山の聖地を見出しただけでなく、その後、平安京の場所も特定することができたのです。測量学の天才である和気清麻呂だからこそ、剣山と同緯度に聳え立つ足立山の存在は極めて重要と知りうることができたのです。

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