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邪馬台国を囲む21か国の比定地
邪馬台国を理解する上で、最も難しい事案の1つが、「女王が支配している領域」に存在すると記載されている21か国の場所です。魏志倭人伝には国名だけしか記載されておらず、皆、小国であり、その他の情報がないため、比定地を探す作業は困難を極めます。まず、史書の記述を振り返ると、「女王が支配している領域」として、以下のとおり記載されています。
次に斯馬国があり、次に已百支国、次に伊邪国、次に都支国、次に弥奴国、次に好古都国、次に不呼国、次に姐奴国、次に対蘇国、次に蘇奴国、次に呼邑国、次に華奴蘇奴国、次に鬼国、次に為吾国、次に鬼奴国、次に邪馬国、次に躬臣国、次に巴利国、次に支惟国、次に烏奴国あり、次に奴国などの国々がある。 |
これらの国々は「女王が支配している領域」ということから、邪馬台国の影響力が及びやすい周辺の小国家であると推定できます。よって何よりもまず、邪馬台国の位置付けが重要であり、その比定地を前提に周辺地域を検証することになります。
既に邪馬台国は四国の山上に存在した可能性が高いことを、史書の記述から解説してきました。すると、四国周辺に20数か国の小国家が存在することになります。倭国全体で100か国と想定するならば、それでも倭国全体の5分の1を多少超える程度の数です。残りの70数か国は、主に九州、山陽山陰、近畿から東海にかけて存在することになり、その他、南西諸島の島々から本州は東北地方まで、国々の場所は広がっていたとも考えられます。四国の面積からしても、そこに21か国が存在するという想定は、倭国全体100か国のバランスからして、ちょうど良い数字に見えます。
この21か国のリストには、「魏志倭人伝」に記されている邪馬台国への道沿い国々は含まれていません。あくまで投馬国を過ぎ、そこから水行10日を経て、最後の港から四国の内陸へ向かい、30日の陸行を経て到達した終点地にある邪馬台国の遠隔を、21の小国家が囲んでいると考えられます。よってこれらの国々の場所を検討するには、邪馬台国の場所をまず、特定する必要があります。

高地性集落に相応しい場所をプロット
そこで、邪馬台国の中心地に近いと考えられる剣山周辺で、高地性集落が存在した可能性があるエリアを検証してみました。四国の山岳は大変険しいことで有名ですが、山々の地勢と、そこに生茂る植物を調査することにより、高地性集落を造営するに相応しい地の利が整った場所の存在を推測することができます。
そのガイドラインとして、まず、高地性というからには標高が少なくとも1000mを越える高山であることが重要です。そして頂上周辺にはなだらかな斜面があり、人が居住できそうな広大なエリアが確認できること、また、周辺には山焼きの跡と考えられるササ原やコメツツジの野原が広がっていることにも注目します。これら3つの条件をベースに地域全体を視察し、山々の情報をまとめてみました。
ササ原やコメツツジの存在は、遠い昔、樹木が切り倒され、山が焼かれた痕跡の1つである可能性を示唆しています。実際に、四国の徳島南方に聳え立つ連山の中には意外と、ササ原に囲まれた平坦な高地を有する山が多く存在し、赤帽子山、天狗塚、矢筈山、石立山など、ササの草原と絶景を有する山々は枚挙に暇がありません。これらの条件に見合う山々や地域を順次探し出して検証し、地図上にプロットしてみました。その結果、高地性集落を造営して居住するに相応しい、頂上周辺のなだらかな斜面や、山麓全体の地勢に恵まれた条件が整った山岳地帯を、剣山周辺の連峰界隈に多数見出すことができました。
剣山の東方にある牧場の跡
まず、四国徳島を中心とする山岳地帯を東の端から辿ると、神山町の須賀山が目に映ります。標高こそ521mと低いものの、広野富士とも呼ばれ、山上国家への玄関ともなる位置付けに在ります。その南側には、大規模な牧場の跡が残る大川原高原が広がり、その最高峰が旭ヶ丸(1019m)です。その頂上はミツバツツジの群生に囲まれ、平坦です。そこから南西に進むと、八重地という地名を残す村が今日も存在します。イスラエルの神と同じ名前がつけられたこの地は、周辺地域でも最も高いところに棚田が造られていることで有名であり、山の斜面に並ぶ集落の目線から、山頂や尾根が広がる光景を見ることができます。その西には四季美谷温泉があり、山々の裾伝いに流れる川沿いには今日、温泉郷ができています。
吉野川の流れに近い美馬市の穴吹や木屋平周辺にも多くの山々が連なります。穴吹の由緒ある友内山(1073m)は、頂上に高千穂神社があり、万葉集にも登場する歴史ある山です。その東側、天行山(925m)は信仰の山と呼ばれ、剣山方面の景色が素晴らしく、隣には歴史の重みを今日まで残してきた正善山(1229m)が聳え立ちます。正善山の杖立峠は古代から剣山への参詣道として使われ、古の剣山道を有する木屋平の名峰として知られてきました。今では山のほとんどが植林され、道路工事のため、杖立峠の面影はなくなってしまいました。
杖立峠の手前、山の中腹には剣山に上る前に、まず参拝したと語り継がれてきた石尾神社の巨大な磐座の雄姿を、今日でも見ることができます。そこからさらに南方面へ向かうと、ブナやササ原が広がる山々が増え、尾根伝いに当野石山(1564m)が見えてきます。そして20分足らずで木屋平の天神丸(1631m)へと連なり、そこにもササ原が一面に広がり、剣山への展望が開けています。周辺の山々の裾には川が流れ、川沿い周辺は、集落を造るに絶好の地形を提供している場所も少なくありません。
ササ原が広がる剣山周辺の山々
そこから剣山方面に進むと、今度は赤帽子山(1611m)と中尾山(1330m)が見えてきます。剣山の北北東にあたるこれらの山々は、なだらかな草原の中にあり、原生林と花に包まれています。山頂もなだらかで広く、中尾山高原では今日、グラススキー場やオートキャンプ場などが運営され、アウトドアのスポーツが盛んです。そこから西に進むと、広々とした穏やかな草原を誇る丸笹山(1711m)と塔ノ丸(1713m)が夫婦池の東西に広がる雄姿を見ることができ、どちらも頂上にはササ原が広がっています。そのパノラマ光景は素晴らしく、正面剣山の雄姿をさえぎるものは、何も存在しません。
そして辿り着くのが剣山(1954m)と一ノ森(1880m)です。どちらの山頂部もミヤマクマザサで覆われたなだらかな草原が美しく、麓にはブナの原生林も広がり、剣山は霊山のシンボルとして、比類なき名声を博しています。一ノ森は、日の出の名所としても有名です。
剣山南方に広がる草原と物部集落
剣山の南側、徳島県と高知県の県境に聳え立つのが石立山(1707m)です。石立山の頂上も傾斜は緩やかであり、一面クマザサの草原に包まれ、北側、剣山方面の展望が素晴らしいです。そして近隣の川沿いには、広範囲に物部村の集落が広がります。
南側には同じく、ササ原に蔽われて頂上がどこだかわかりづらいほど平坦な行者山(1346m)や、海部山系の山々があり、南西方向には高知県の山々も見ることができます。そして物部村をさらに西に向かうと、そこは草原の山とも言われている綱附森(1643m)となり、ササ漕ぎを強いられるほどの広々としたササの草原が一帯を覆っています。
広大な草原と水源に恵まれた四国の山
また、剣山を西方に向かうと、そこには三嶺(1893m)と天狗塚(1812m)が聳え立ちます。三嶺の山頂一帯は、ミヤマクマザサとコメツツジの群落が広がることで有名であり、山頂はなだらかな3つのピークを持つことから三嶺という名前の由来となったとも言われています。天狗塚の山頂からは牛の背のササ原を眺めることができ、そのなだらかな稜線から広がる剣山、祖谷山系、高知の山並みは絶景です。三嶺の頂上下には池がありますが、天狗塚の頂上そばにも天狗池があり、頂上に不思議と大きな水源がある山々として注目されています。三嶺の北側には、同じくなだらかなササの草原を誇る矢筈山(1848m)があり、クマザサとススキに覆われた草原が広がります。そして起伏の少ないササ原にコメツツジの群生が混ざり始めた所が頂上となります。
矢筈山から吉野川が流れる北西方向に広がる山々にも、広大な草原が繰り広げられています。まず、腕山(1332m)は今日でも県営牧場が営まれるほどの絶好の緑地が自慢です。そのなだらかな草原の広がりは四国屈指とも言われています。その西側には中津山(1446m)と国見山(1409m)が聳え立ち、信仰の山とも言われる中津山の頂上近くには、黄金ノ池と呼ばれるおよそ100㎡の池があり、そこには睡蓮とジュンサイが自生しています。中津山では弘法大師が祀られていることから、黄金の池は灌漑工事を経た人工のものである可能性があります。その横には国見山が聳え立ち、中津山、国見山をもって、その下を流れる吉野川との標高差が1200mにも達することにより、この2つの山が祖谷への入り口を頑強に守る山岳となっています。
平家伝説の面影が残る奥祖谷

そこからさらに南方に向かうと、山の中腹にはフクジュソウの群生地が茂り、その頂上にはササの草原が広がり、祖谷の山々を見渡すことのできる寒峰(1604m)があります。その地域一帯には平家落人伝説が残り、寒峰の東南の麓には、奥の井と呼ばれる地に住吉神社と八幡神社があります。また、その周辺一帯が栗枝渡と呼ばれていることも、注目に値します。
その南側が奥祖谷と呼ばれる、今日の日本でも、もっとも原始的な姿に近い集落の面影を残す地域です。奥祖谷には平家伝説だけでなく、イスラエル関連の伝承も残され、かずら橋の存在も含めて、古代のロマンが語り継がれてきているゆかりの場所です。奥祖谷の南側には、剣山を眺め、ササの草原の山として名高い土佐矢筈山(1606m)があり、ササに蔽われたおだやかな山体が見事です。また、その西側の山のピークは笹山(1550m)と呼ばれる程、周辺一帯がササ原で覆われ、なだらかな地形を有しています。
史書の記述に合致する四国の地勢
これらの高地性集落を造るに適した山岳地帯の数々は、剣山を中心として、およそ一塊のエリアに連なっていることがわかります。それだけに、邪馬台国の領域は、これらの山々を全体的に含んでいた可能性を匂わせているのではないでしょうか。
その想定で、該当するエリアを地図上にシェードで記してみました。高地性集落を造営するに相応しい立地条件を備えた山々が存在するエリアは、史書の記述通り、確かにその中心地となる剣山周辺に至るには、徳島の海岸、吉野川河口から上流を上り、途中で下船してから陸地を1カ月程、歩かなければならないことがわかります。これら史書の記述と一致することからしても、邪馬台国が四国の山上にあったという信憑性は高まります。
四国の地名と一致する21か国の名称
最後に21か国の名前に注目してみましょう。これらは邪馬台国の周辺を取り囲む国々であることから、その国名に類似した地名が邪馬台国、及び四国周辺にないか、検証してみました。問題は国名の読み方です。「魏志倭人伝」の言葉は3世紀の洛陽音として読むべきという昨今の学説に則り、これまでの通説とはかなり異なる発音形体ではあっても、大胆な試みとして、洛陽音を用いて21ヶ国の国名を読みこなし、その名前の発音に類似した村落の名前が実際に存在するかどうかを徹底して探ってみました。洛陽音の読みは、国名の右側に片仮名で表記しました。
古代の地名集や「倭名類聚抄」を検証した結果は、図に記載したとおりです。21か国、全ての国名において、それに相応する類似した発音を持つ地名を見出すことができました。地図上の並びは邪馬台国をぐるりと一周するほど綺麗な孤を描いているわけではありませんが、淡路国、阿波国、讃岐国まではおよそ順番に並び、そこから対蘇(トサ)のみ突出してしまうものの、伊予国から土佐国までは再度、綺麗な順序で並びます。この推定地の図は、現段階ではあくまで参考に留め、これからさらに検証を進めていくためのたたき台として考えていただければ幸いです。