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2025/10/27

徳島の山岳地帯を覆うミヤマクマザサ 高地性集落の跡に広がるササ原の背景

ササ原が広がる剣山周辺の山々

徳島の山々を真上から衛星写真で見ると、特に剣山頂上周辺の生態系が大きく変貌している実態が良くわかります。標高が比較的高いエリアに亜高山帯に生育する植物が群生しているのです。本来、樹木が覆い茂っているはずの高山でも、剣山を中心とする一角だけは、山頂周辺に樹木がありません。その代わりに剣山に繋がる連山や近隣の山々の頂上周辺や尾根伝いでは、ミヤマクマザサやコメツツジが生い茂っている光景を目にします。ミヤマクマザサのササ原は、剣山の頂上周辺から三嶺、天狗塚との間だけでなく、杉造林が集中的に行われた木屋平を越える地域まで広がっています。それらの山々の中心となるのが剣山です。

剣山の北側の麓には、所々になだらかな斜面を有する丸笹山赤帽子山中尾山があり、東側には一の森と天神丸があります。また、西側には次郎笈塔丸三嶺天狗塚、そしてその先には矢筈山があります。奥祖谷の北側の外れにはなりますが、吉野川にも近い標高1332mの腕山には、今日でも県営腕山牧場が存在することも注目に値します。これらの山々は、その殆どが剣山の北側に在り、東西に26km、南北には12kmほどの範囲に集中しています。

徳島山岳地帯の山々の多くは、その頂上周辺から中腹にかけて、ササ原が生い茂る場所が顕著に見られます。国内でも類のない山頂周辺の広大なササ原の存在は、遠い昔、樹木が切り倒され、山が焼かれた痕跡である可能性を示唆しています。特にミヤマクマザサの群生は地域の最高峰である剣山を中心に周辺の山岳地帯に広がりを見せています。しかも四国の高山においてササ草が生い茂る場所を検証すると、標高の高い場所にありながら、何故かしら起伏の緩やかな場所が多く、その周辺には湧き水や池などの水源が目に入ります。よって、ミヤマクマザサが群生するエリアを辿ることにより、古代、徳島の山岳地帯に人々が集落を造り、尾根伝いを行き来していた痕跡を見出せるかもしれません。

国の天然記念物に指定されたミヤマクマザサ

剣山の山頂周辺に広がるミヤマクマザサは、一般的には標高1600m以上の本州中部の山岳地帯に分布しています。そして積雪量のさほど多くない徳島の亜高山帯には本来分布しないが、何故か広範囲に見られるのです。ミヤマクマザサは冷涼で多湿な気候に適応しているため、本来は中部山岳地帯で見られるはずが、徳島山岳地帯の環境に依存しているのではないかというのが一般論です。そのミヤマクマザサが徳島の剣山から三嶺にかけて広範囲に群生しているのは、その地域一帯が高山でありながら、日本でも屈指の高湿度となる山岳地帯であるからと考えられています。

ササ草が広がる草原の所々には大規模なコメツツジも団塊状に見られ、特に岩石が露出している場所や、土壌の堆積が浅いエリアに集中して分布しています。このような例は全国でも類がないため、特に剣山の西側、三嶺と天狗塚の間に広がるコメツツジとミヤマクマザサの群落は、国の天然記念物に指定されているほどです。

剣山を囲う山々の広大なササ原

西日本で2番目の標高を誇る剣山の頂上周辺は、だらかな斜面と美しいミヤマクマザサのササ原に包まれていることで有名です。その光景は「馬の背」とも呼ばれています。古代、霊山のシンボルとして比類なき名声を博した剣山の界隈では、古くからユダヤに関するソロモンの秘宝や金の鳥に関する伝承が言い伝えられています。剣山頂上からの斜面を覆う美しいササ原の光景には、何かしら古代の人々の思いが込められているようにも感じられます。剣山の麓ではブナの原生林が広がり、隣接する一ノ森は、日の出の名所としても有名です。

剣山の周辺を見渡すと、東は一ノ森 (1879m)、北は丸笹山(1712m)、北西は塔丸 (1713m)、そして南西は次郎笈 (1930m) に囲まれ、いずれも頂上からササ原が広がります。そしてササ原の群落はさらに西方に広がり、剣山から平和丸、みやびの丘を越えて三嶺(1893m)と天狗塚(1812m)まで15kmにわたり、尾根伝いに続きます。天狗塚の南には草原の山とも言われている綱附森 (1643m) が隣接し、ササ漕ぎを強いられるほどの広々としたササの草原が一帯を覆っています。さらに天狗塚の南西5kmには土佐矢筈山の頂上にもササ原が広がっています。これらの山々の多くは標高1700~1900mの高山であり、周辺の山麓一帯は断崖や絶壁が際立つ多くの急斜面に囲まれているにも関わらず、尾根伝いにはなだらかな斜面が続くことに驚きを隠せません。

三嶺の山頂一帯にも剣山と同様にミヤマクマザサの群落が広がります。山頂になだらかな3つのピークを持つことが三嶺という名前の由来になったと言われています。天狗塚の山頂からは牛の背と呼ばれる剣山のササ原を眺めることができます。そのなだらかな稜線から広がる周辺の祖谷山系や高知の山並みは絶景です。三嶺と天狗塚の頂上そばには大きな池があることでも知られています。

剣山の南側、徳島県と高知県の県境に聳え立つのが標高1707m の石立山です。石立山の頂上も傾斜は緩やかであり、一面がクマザサの草原に包まれ、北側、剣山方面の展望が開けています。近隣の川沿いには、広範囲に物部村の集落が広がっていることも注目に値します。その南側には山頂一帯がササ原に覆われ、頂上がどこだかわかりづらいほど平坦な行者山 (1346m) があります。その南西方向には高知県の山々も望むことができます。

三嶺の北方にある矢筈山(1848m)の山頂周辺も起伏の少ない斜面に囲まれ、ミヤマクマザサの草原が広がっています。ササ原は矢筈山から落合峠に向けて続き、寒峰の頂上でも散見されます。矢筈山近くの腕山 (1332m) では今日、県営牧場が営まれています。広大な牧場の草原は、四国屈指とも言われています。厳しい山岳地帯であるにも関わらず、尾根伝いには意外にもなだらかな斜面にササ原が群生しているだけでなく、牧場までも存在するのが徳島山岳地帯の特徴です。

これらのササ原は自然に群落が広がったものではなく、人為的に山焼きされた跡であるというのが定説になりつつあります。ササ原を古代の高地性集落の跡として紐付けることにより、ササ原の生態系がよりわかりやすくなるだけでなく、古代社会において集落が造成されていた地域を推測するための貴重な資料にもなります。

ミヤマクマザサが群生するエリア

ミヤマクマザサが群生する徳島山岳地帯の山々を確認して、地図上にプロットしてみました。すると、徳島の最高峰である剣山と、その西方に並ぶ三嶺を結ぶ尾根伝いを基点とした延長線上にササ原が続き、その南北に聳え立つ山々にもササ原が広がっていることを確認できます。

ミヤマクマザサが群生するエリアは東西方向に26kmほど広がります。東の端は剣山のお膝元となる劔山本宮槇渕神社そばの赤帽子山の頂上周辺までミヤマクマザサが群生しています。そして西方は三嶺、天狗塚を超えて土佐矢筈山のさらに西、小桧曽山まで至ります。北方は落合峠から矢筈山、石堂山を結ぶ尾根伝いがリミットとなり、南方はみやびの丘を境界として、その先には物部集落が広がっています。

邪馬台国の集落が剣山周辺の地域に存在したという前提で、古代社会において集落が造成された可能性のある場所を検討してみました。そのヒントが、剣山地周辺の山々において、ササ原が生い茂るエリアです。ミヤマクマザサが群生するエリアを地図上にプロットすると、邪馬台国の中心地と想定される剣山の頂上を包み込むように、剣山と三嶺の山麓や山々の周りにはササ原が生い茂るエリアが広がっているのがわかります。また、随所に高地性集落を造営するにふさわしいなだらかな斜面が広がる場所が見つかります。

これらのエリアに至るには、徳島を流れる吉野川から支流を上り、下船してから陸地を1か月間、歩かなければならないほど、道中には厳しい山道が待ち構えていたことがわかります。剣山周辺の山岳地帯は、その位置付けからしても史書の記述と一致するだけでなく、大規模な高地性集落が広範囲に存在した可能性を秘めています。邪馬台国が徳島の山岳地帯にあったという信憑性は高まります。

四国山岳地帯のミヤマクマザサを参考に推測した邪馬台国のエリア
四国山岳地帯のミヤマクマザサを参考に推測した邪馬台国のエリア

高地性集落の焼け跡に群生したササ原

これらの山々に生い茂る四国特有の亜高山植物こそ、多くの人間が長年、居住した高地性集落の結果として生じた現象と考えられます。古代より四国の山上では、集落の造成や山道整備のために樹木が伐採され、山に火が入れられたり焼かれたりすることがありました。そして針葉樹や落葉広葉樹が失われた後、山道が切り開かれ、集落が築かれたのです。標高が1600m以上の高い地域でも、なだらかな斜面を有する場所では、高地性集落が存在したと考えられています。こうして自然の山々に人間の手が入り、高地性集落は徐々にエリアを拡張して発展を遂げ、国家の様相を呈するまでになった時代がありました。それが邪馬台国と考えられます。

ところが時代の流れとともに、邪馬台国は衰退して滅び、山には火が入れられて樹木が消滅してしまいます。そして焼き葬られた集落の跡、特に緩やかな斜面のエリアではミヤマクマザサが優先侵入し、生い茂るようになったと推測されます。こうして長い年月をかけて、ササ原が支配する草原状の景観が、剣山を中心とする徳島の山岳地帯に形成されていくことになります。尾根やなだらかな斜面が古代集落や通路、儀礼空間として使われた可能性を想定すると、こうした場所がササ帯化して維持されてきた背景と整合します。剣山周辺の山々を覆うササ原は、高地性集落の余韻を残しているのです。

禿山とササ原の跡に広がる杉造林

徳島の山岳地帯は亜高山植物が生い茂る山々の様相を呈する場合もあり、時には禿山として残ってしまう山も多かったようです。また、後世においてはこれらの焼かれた山の跡に牧場が営まれたこともありました。しかしながら、やがてそれらの牧場も国家の近代化とともに消滅する運びとなり、それらの跡地を有効活用するという目的をもって始まったのが、杉造林です。

ミヤマクマザサが生茂る四国の高山と杉造林地域
ミヤマクマザサが生茂る四国の高山と杉造林地域

1900年前後から西日本各地で杉やヒノキの造林が盛んになり、四国では特に、杉造林が積極的に行われました。そして最終的には20世紀前半にかけて、吉野川を境にその南側の殆どの山々において杉造林が行われる結果となりました。造林に適した土地面積は広大ですが、その作業がどの地域から集中的に始まったかを見極めることにより、造林が最も必要とされた禿山が多い場所を特定することができます。

徳島県の林業振興課によると、造林に関する管理台帳は明治後期、1904年分から5年ごとの齢級ごとに保管はしてあるものの、それ以前の造林データは法未整備の時代のため、台帳レベルで整理されたデータはないとのことです。しかしながら、四国における行政主導の大規模な造林プロジェクトの始まりは20世紀に入ってからのことですから、1904年からのデータで十分です。そこで1904年から当初の5年間、徳島県において林齢が101~105年である21齢級の植林が行われた造林データを見てみました。当初の予想どおり、杉造林が始まったエリアは剣山の麓から東北東の神山町方面に向かう地域に集中していました。その西側の端は、剣山より北東10kmに位置する正善山と綱付山に近い木屋平から、東側は焼山寺、悲願寺にまたがる神山町まで、やや右肩上がりに東西20数kmほど広がる地域にある山々の多くが杉造林の対象エリアとなっていたのです。そして1909年以降の20齢級杉造林も、これらの地域を中心としてさらなる造林が進められていきました。

その後、山全体が植林される例も見られるようになり、例えば木屋平の名峰であり、古の剣山道の途中にある正善山などは、山がまるごと植林されて現在に至っています。正善山の南西にある杖立峠は、霊山剣山への参詣道として使われた経路の途中にありましたが、今日では道路が整備され、古き峠道は消滅してしまいました。地元の言い伝えによると、遠い昔から剣山にお参りに行く際には、その北側に古くから造営された石尾神社にまずお参りし、それから杖立峠に上り、そこで杖を立ててから剣山に向かったとのことです。杖立峠が重要視されていたことが伝承されていたのです。

空海と焼山寺、悲願寺の伝承

興味深い点としては、当初から杉造林が最も集中して行われた場所が、焼山寺悲願寺周辺から剣山の方面へ向かう地域を含むことです。焼山寺は標高938mの焼山寺山の8合目に造営され、その名前のとおり、謂れは大蛇により全山に火が放たれ、山が燃え上がったことにあります。そしてその大蛇を退治するために空海が活躍したと伝承されてきました。それは遠い昔、何らかの理由で周辺の山々が焼かれ、禿山となった時期があったことを示唆するものではないでしょうか。

また、悲願寺は標高700mの山頂に建てられた寺であり、伝説によるとその境内は卑弥呼の宮居跡と言われ、祭壇跡と考えられる台座や磐座が残っています。高地性集落が存在した跡地であると推測される地域だからこそ、人が足を踏み入れることができないような険しい山奥の山麓であっても、そこに寺が建てられたのです。徳島の山岳地帯を覆う杉造林が最も集中的に行われた地域の東方の端に悲願寺は位置しています。杉造林の遠隔地に卑弥呼の宮居跡と語り継がれてきた伝説の場所が存在するだけでなく、山々が焼かれたことを証する焼山寺も建立されていることに、不思議な繋がりを感じないではいられません。

空海と焼山寺、卑弥呼の伝説が残されている悲願寺、そして剣山の周辺一帯に広がるササ原は、杉造林の歴史の背景においてひそかに通じていたようです。古くから存在した多くの禿山や、荒廃した牧場地の跡、そして剣山の周辺一帯に広がるササ原の存在は、これらの山々において、遠い昔、高地性集落が存在していたことを証しているように思えてなりません。

画像ギャラリー:剣山 / 丸笹山 / 赤帽子山 / 中尾山 / 次郎笈 / 塔丸 / 天狗塚 / 矢筈山 / 石尾神社 / 四国八十八ヶ所霊場 第12番札所 焼山寺 / 悲願寺 / 天神丸 /

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