30日の陸行を要する四国山地の絶壁
四国の徳島、吉野川の下流の河口から八倉比賣神社付近まで川を上り、そこから邪馬台国へ向かうためには、さらに30日間、陸地を歩かなければなりませんでした。30日間とは、平坦な道を歩くなら1,000㎞を超える距離、もしくは相当険しい山道を登るためにかかる日数と考えられます。邪馬台国の場所が四国山上にあると仮定するならば、その厳しい山岳事情から、1か月という長旅の必要性を理解できます。
四国の山岳は、その急斜面と聳え立つ多くの崖が旅人の道筋を阻み、壮大なスケールの峡谷を誇示しています。これらの山々では、人間が上り下りすることができるような山道を見出すことさえ不可能な絶壁や急斜面が多く、今日、車を運転しながら四国の高山を眺めると、その急勾配と崖や絶壁の多さに驚かれる人も少なくないでしょう。それ故、遠い昔から四国の山々を渡り歩いた人間は、できるだけ川沿いや、山の裾野、尾根伝いに道を見出したのです。
四国山岳地帯の山道については今日、四国八十八ヶ所霊場の遍路みちからも理解することができます。例えば第11番札所の藤井寺から第12番札所の焼山寺までは、往古の遍路みちの有様を留める急勾配の狭い山道が続き、頑強な足腰がなければ歩き抜けることができない難関として有名です。直線距離では8.2kmしかなくとも、実際には山を2つ越え、標高40mの藤井寺から標高700m近くの焼山寺まで、標高差660mを大きく上下しながら登りつめることから、その歩行距離は13kmにもなるとも言われています。それ故、徒歩で丸1日歩き続けなければなりません。どうりで冬の遍路を第12番札所に向けて歩んだお遍路さんらは、昔から死を覚悟していたと言われていた訳です。途中で怪我をしたり力尽きたりしてしまえば、それが命取りとなって山で命を落とすことを意味していたのです。よって白い衣を身に纏い、いつ死んでも良いという信念を持って遍路に臨んだ訳です。
急勾配が多い焼山寺までの山道でさえも、その後に続く厳しい山道の始まりにしかすぎません。焼山寺は標高938mの焼山寺山の中腹、700mの地点に造営されましたが、山の南側にはその2倍前後の標高を誇る山々が聳え立ちます。南西には、かつては人を寄せ付けない険峻な山として知られる標高1495mの雲早山、そして西側の釜谷峡を越えると、深い原生林に囲まれ、殆ど人が足を踏み入れることのない標高1627mの高城山が続きます。その尾根伝い、西方向に四国の霊山、標高1955mの剣山が聳え立ちます。これら急勾配の山岳が続く四国の地勢故、船を降りてから邪馬台国へ到達するまで、1か月という長い期間を要したのです。
史書の記録と合致する四国の位置
一見して人が寄り付きづらい山岳地帯の多い四国ではありますが、何かしら神聖な要素を秘めていた山奥だからこそ、30日という長い日数をかけて山を登る必要があったのでしょう。果たして、その先に邪馬台国が存在したのでしょうか。中国史書の記述を参考に、改めて邪馬台国へ辿り着くまでの地勢を振り返ってみます。
まず、朝鮮半島の帯方郡からの方角と距離を振り返ると、四国の中心部は帯方郡から見てちょうど東南の位置にあたります。また短里を70~76kmとして1万2000里余里の距離を考慮すると840~910kmとなり、余里という表記からは910㎞を多少超えることが想定されます。朝鮮半島の帯方郡を大同江河口に比定すると、そこから四国の徳島県最高峰、西日本で2番目の標高を誇る剣山までおよそ950㎞です。よって剣山の界隈は、「魏志倭人伝」に記載されている「1万2千余里」の範囲に合致します。
さらに、「女王国の東、海を渡ること千余里のかなたに、また国がある」という記述についても、距離のデータが合致します。邪馬台国の東方にあたる港を、吉野川の支流である鮎喰川の上流、八倉比賣神社近くの川沿い、今日、四国八十八ヶ所霊場第13番札所の大日寺が建立されている場所の周辺と仮定します。するとそこから和歌山の紀ノ川(上流は吉野川と呼ばれる)の河口までおよそ70㎞となり、その距離は「千余里」という史書の記述と合致しています。
次のハードルは、「東西は徒歩5ヶ月、南北は徒歩3ヶ月で、おのおの海に至る。」という邪馬台国全体の地勢に関わる条件です。「おのおの海に至る」という表現から、邪馬台国は巨大な島の中に位置していたと言えます。しかも南北よりも東西の方が長い距離です。四国は地図を一見するだけで、東西の距離の方が、南北よりも長いことがわかります。実際、西の佐田岬から東の徳島沿岸まではおよそ250kmあります。また、南北で一番長い個所は北の今治から南の足摺岬で、その距離は約150kmです。つまり東西と南北の距離の比は5対3です。史書の記述では徒歩5ヶ月と3ヶ月と記載されていますが、その数字の割合と並ぶのは、単なる偶然でしょうか。また、四国の山岳は大変険しいが故に、徒歩で島を横断するには、東西方向は約5ヶ月、南北方向は約3ヶ月の日数を有すると考えられるのです。邪馬台国の地勢に関する史書の記述は四国と見事に合致します。つまり邪馬台国とは四国山奥にある山上国家だったのです。
難解な侏儒国の解釈も叶う四国山上説
「魏志倭人伝」に記載されている「南方四千里離れたところに侏儒国がある」という記述にも注目です。邪馬台国の南方にある侏儒国は小人の国として知られていました。1里を70~76mとするならば、4千里は280㎞から304㎞となります。難解な中国史書の記述ですが、邪馬台国を四国山上と想定すれば、無理なく解釈できます。何故なら、四国の足摺岬から南西方向に280㎞に向かうと種子島があり、侏儒国の候補地として浮かび上がってくるからです。
種子島を含む南西諸島は、元来、日本国内で最も平均身長が低い地域として知られています。昭和32年から34年にかけて種子島の広田遺跡にて発掘調査が行われ、海岸の砂丘に造られた集団墓地から157体が出土しました。それらの人骨を検証した結果、弥生時代において種子島に居住した人々の平均身長は、成人の男性が154cm、女性は143cmしかないことが判明しました。同じ弥生時代、九州で発掘された人骨から想定される身長より、男女共に10cm程も背が低く、極めて身長の低い人々が住む集落であったということがわかったのです。種子島が侏儒国と呼ばれ、小人の国と考えらえていた所以を、実際に発掘された人骨の解析から理解することができます。
侏儒国の侏儒という言葉は中国語で小人を意味し、zhu-ru(ジュル)、zhu-ju(ジュジュ)と発音します。しかしながら、中国の上海や長江下流界隈で使われていた呉語の影響も考慮すると、古代ではTong Zy(トンヅィ)とも読まれていたようです。その「トンヅィ」「侏儒」に類似した発音を持ち、しかも小人のように小さなものを象徴する言葉として、「種子」という文字を当てたのではないでしょうか。「種子」はtsong-zi、ツォンヅィと読み、その発音はトンヅィと酷似しているだけでなく、双方とも小さい人や種を意味することから類似点が重なります。
難解と言われてきた侏儒国の比定地まで特定できることから、邪馬台国が四国山上に存在したという説の信憑性はますます高まります。
四国山上説と剣山が結び付く理由
南淡路の丘の上から眺める剣山の頂上邪馬台国が四国山上に存在したと考えられるもうひとつの理由は、標高1,955mを誇る四国の剣山の存在です。国生みの原点となった淡路島からは、剣山の頂上を遠くに望むことができます。標高の高い山には神が降臨するという宗教観が古代では普及していました。よって剣山も霊峰として崇められていたと考えられます。それ故、神憑りの女王が君臨する場所として、剣山の周辺が邪馬台国の場所として選別されたとしても不思議ではないのです。剣山周辺には高地性集落が存在したと考えられ、山頂に至るルートがとてつもなく厳しい道のりであっても、古代の民はそこに辿り着く山道を見出していたのです。こうして四国剣山周辺の山岳地帯では、古代、高地性集落が造られたと想定されます。
その説をサポートするのが、邪馬台国が台頭する1~2世紀前に行われた元伊勢の御巡幸です。奈良の三輪山から始まり、近畿地方を中心に、各地を一世紀近く渡り巡るという一見不可解な元伊勢の御巡幸ではありますが、、実はそれらすべての御巡幸地が、レイラインと呼ばれる仮想の線上にて四国剣山と結び付いていたのです。これらの御巡幸地は、剣山を基点として、他の聖地と結ぶ直線上に見いだされています。それは、元伊勢の御巡幸の背景に潜む霊峰が剣山であり、御巡幸地と剣山が何かしら深い因果関係があったことの証とも言えます。

御巡幸の主目的はおそらく、国家の威厳を保つための神宝を外敵から守り、大切に保管することであったと考えられます。そのため、神宝を祀る場所を、一世紀に渡る不思議な御巡幸という長旅を通して探し求め、その最終段にて伊勢に辿り着いたのでしょう。しかしながら伊勢の地は外敵からの侵入に対して無防備であり、神宝を秘蔵するには不適切だったのです。そのため、外敵からの侵略を受けることがない、最も安全な場所として、剣山の山頂付近が特定されたのではないでしょうか。そして後世の識者にもわかるように綿密に仕組んだのが、元伊勢御巡幸の骨子であったと考えられます。
元伊勢御巡幸により、密かに神宝は剣山に持ち運ばれ、頂上周辺にて秘蔵されたことが、その直後の時代、邪馬台国が台頭することに繋がります。神宝の存在を背景に、霊能力に優れた卑弥呼は人里離れた山奥に籠り、そこで祈祷を捧げ、国家の元首として大きな政治力を振るうようになりました。魏志倭人伝には卑弥呼について、「鬼道に仕え、[その霊力で]能く人心を惑わしている...彼女を見た者は少ない」と記されています。卑弥呼の拠点となった邪馬台国とは、霊能力を発揮できる場所にあり、それは高山の山奥にしか存在し得なかったのです。
その山奥とは、四国の剣山周辺であったと考えられます。そしていつしかその山麓では集落が造成され、多くの民が居住して邪馬台国と呼ばれる国家権力となるまでに台頭したのです。その山は淡路島から眺めることができる最高峰でした。そこに神宝を秘蔵し、神を礼拝したからこそ、剣山の存在は比類なき霊峰としてゆるぎないものになったのです。古代の民にとって四国山上の国家とは、神宝の秘蔵と共に元伊勢御巡幸の夢が実現した歴史的な出来事だったことでしょう。
弥生時代中期に出現した高地性集落
では何故、邪馬台国が海岸沿いの平地を離れて、集落から遠く離れた山上に存在したのでしょうか。そのヒントが、弥生時代中期後半から突如として瀬戸内海を中心に出現した高地性集落の存在にあります。その面影を残していると考えられる事例が、四国の祖谷渓の周辺に散見される山上の集落です。吉野川の支流、祖谷川沿いの上流にある祖谷渓は、高低差が200mにも及び、無数の断崖や絶壁、そして山々の急斜面が全長10kmにも広がる秘境です。その幻想的な眺めに包まれた山麓は、広範囲に渡り、ササ原に覆われています。中でも東祖谷の中央にある落合集落は、祖谷川と落合川が合流する地点にあたり、集落を形成にするに不可欠な水源に恵まれていました。それ故、山奥であっても古くから山の斜面に沿って、集落を拡大することができたのです。
祖谷地方に残されている平家の落人伝説も落合集落に絡んでいます。古代の高地性集落の余韻が色濃く漂う落合集落では、今日、住居や畑、神社が混在し、国の重要伝統的建造物群保存地区の指定を受けています。急斜面の難を排して山の頂上近くまで石垣が積み上げられ、住宅や畑が段々に造られている光景には、歴史の重みを感じないではいられません。これら落合集落の背景を踏まえると、邪馬台国の時代においても、周辺の地域には既に集落が形成されていたと推測されます。
一説によると、古代社会においては尾根伝いに人々が旅をして国境を越えることが多かったため、山頂付近に集落が発展することがあったと言われています。しかしながら高地性集落の起源は、やはり神の降臨という宗教観に結び付けて解釈することが、一番わかりやすいようです。多くの高地性集落は、山の頂上近辺という日常生活において極めて不便な場所にわざわざ造られていること自体、高い山に神が住まわれるという信仰心と宗教文化的な動機がその背景にあったと考えられます。
四国に存在した古代の牧場?
邪馬台国が四国の山上に存在したことを示唆するもう1つの根拠が、牧場の存在です。剣山の西方、奥祖谷周辺は、今日でも段々畑が多く見られ、驚くほど急な山の斜面に家が建ち並んでいます。地元の方の話によると、奥祖谷周辺では明治時代まで広大な牧場が山上に存在していたとのことです。しかしながら国の近代化が進むにつれて、村の若い人達が続々と都会に出稼ぎに行き、村に戻らなくなったことから牧場を管理する人がいなくなってしまったそうです。そのため、ほとんどの牧場が放置され、雑草地化してしまったところに、国の方針として杉植林が始まりました。その結果、周辺一帯はいつの間にか、杉の森林と化してしまったのです。
何故、四国剣山の山上周辺には古くから、広大な牧場が存在したのでしょうか。その背景には高地性集落の存在があったと考えられます。四国周辺の山々には、元来、高山性の樹木が生い茂る剣山周辺の地域も例外ではないでしょう。古代、高地性集落を造営するためには山上周辺の樹木を切り倒し、集落を造るための資材として用いたり、時には山を焼いて樹木を除去したりする必要が生じたのではないでしょうか。弥生時代では、西日本において移住地を造るために森林焼却と焼き畑耕作が行われていたことが、花粉の分析などからもわかっています。同様に四国の高山においても森林焼却が行われたのです。こうして山上国家の造営を目論んだ古代の民により、四国の山上に集落が造られ、それが邪馬台国へと発展していくことになります。