鮎喰川流域から始まる陸行30日の旅
「魏志倭人伝」には、投馬国から10日間の水行と30日間の陸行を経て、邪馬台国へ到達すると記されています。中国史書に描かれた邪馬台国のイメージは秘境の地に栄えた国家でした。邪馬台国が厳しい山岳地帯に囲まれた山上周辺に広がっていたと想定すると、徒歩で30日かかるという史書の記述も現実の地形に照らして捉えることができます。
普通の山道ならば30 日も歩くと、1000km以上進めるはずです。しかし、急斜面が続く四国山岳地帯の中でも、特に徳島の山岳地帯は事情が大きく異なります。地域の最高峰である標高1955mの剣山は、西日本で2番目の高山です。その頂上までは、東南の太平洋側からは40km弱、北東の徳島や東かがわ、北西の四国中央方面からでも50km少々しかありません。一方、その間には無数の急斜面や断崖、絶壁が連なっています。そのような厳しい地形を前提に考えると、直線距離だけでは測れない大きな迂回を重ねながら山道を進むため、数十kmの距離を進むのに30日かかっても不思議ではありません。
人が容易に足を踏み入れることができない厳しい山岳地帯の奥地に存在した国家と推測されるだけに、そこに向かう旅人たちは安全かつ最短の日数で移動できるルートを厳選したはずです。そう考えると、投馬国から出発した船が最後にどの地域で下船し、30日にわたる陸路の旅をどこからスタートするかが、邪馬台国への道を見極める重要な鍵となります。投馬国の比定地を四国の讃岐平野、今日の高松周辺とすれば、そこから南方へ向かって進む残り10日間の船旅のルートが浮かび上がってます。そして途中、四国東岸の吉野川河口に到達した後、吉野川を上流へ進み、さらに支流である鮎喰川流域に上陸したと想定すれば、10日間の船旅が完結します。その川沿いの波止場から四国の山奥まで、30日に及ぶ山道のルートを見出せれば、邪馬台国が見えてきます。
陸路のスタート地点は八倉比賣神社
四国上陸の最終地点と考えられる周辺の地域の水辺に、卑弥呼の伝承が残る八倉比賣神社が建立されていることは注目に値します。八倉比賣神社の歴史については、1779年に書かれた社縁記や、1818年から1830年にかけて記録された「天石門別八倉比賣大神御本記」があります。江戸時代には、八倉比賣神社の祭神は「杉尾大明神」として知られ、地元の人々は「杉尾さん」と呼んでいました。境内はおよそ6000坪と広く185段の階段を上ると社殿に至ります。
八倉比賣神社の祭神は八倉比賣神、天照大神です。両者は同一神と思われがちですが、存在した時代が異なることから、その生まれ代わりのように考えられていたと推測されます。社殿奥の小高い丘を上ると、奥の院には高さ60㎝ほどの五角形の石積みがあります。その中央には「おふなとさん」と呼ばれる形状の石組みの厨子があり、中には石神像が祀られています。
社名の由来について、志賀博士は「木延山は二百メートル餘の主峯を中心に南北に小峯を敷ケ宛、起伏せしめ八倉の名に相応しいからであろう」としています。そして地の利に恵まれていたことから地域一帯は重要視され、周辺には国府も置かれました。こうして八倉比賣神社は阿波国第一の社になったと考えられています。八倉比賣神社が鎮座する山は気延山と呼ばれ、一帯には古墳が数多く残され、さまざまな遺物が発掘されています。
古代には神社のある小高い丘の近くまで吉野川の入り江が入り込んでいたため、八倉比賣神社は鮎喰川が合流する周辺の水辺に面していました。そして上流に向けて進むと、周辺には八倉比賣神社と同様の「おふなとさん」と呼ばれる祠が建てられています。これらは多くの船が吉野川から八倉比賣神社周辺まで入り、さらに鮎喰川を上った証と考えられます。周辺地域に建てられた「おふなとさん」の存在は、古代の旅人が邪馬台国へ向かう際、八倉比賣神社近くまで船で移動し、鮎喰川の上流から四国山上を目指して陸路を進んだ可能性を示唆しているようです。この八倉比賣神社周辺から、陸路の旅は始まったと考えられます。
四国山上を目指す最短の陸路
では、邪馬台国を目指した民は、どのようなルートをたどり、30日という長い期間をかけて四国東岸から山岳地帯へと向かったのでしょうか。まず、鮎喰川が吉野川に合流する地点に建立された八倉比賣神社近くの波止場で下船し、そこから川沿いに山道を進んで今日の神山町方面まで緩やかな斜面を歩いて行きます。交通の要所であり、水源にも恵まれている神山町は、今では大きな町に発展しています。神山町周辺が古くから神領と呼ばれているのは、そこから先は神の領域に入ると認識されていた時代があったからと推測されます。
神山町から先は、四国山上、徳島の山岳地帯にあると想定される邪馬台国に向かって西方へ進みます。その山道の初めは、今日の県道438号に沿うような東西に長く続くルートであったと考えられます。西方に聳え立つ剣山までは直線距離で28km、今日の自動車道を行けば50kmほどです。しかし、神山町から徒歩で進む場合は山岳地帯の麓に近づくにつれて勾配が急になり、山中に入ると多くの断崖に囲まれ、歩行に支障をきたす難所が随所に現れます。それゆえ、幾度となく迂回を繰り返しながら進む必要があったのです。高低差も1700mに及び、実際の歩行距離は数百kmとも言えるほどの長く厳しい山道になります。よって30日という長期間の旅が現実味を帯びてきます。こうして長い山道を西方へ進み続けると、やがて剣山周辺の山麓にたどり着きます。
四国山地の中でも、徳島の山岳地帯は急斜面が続くことで知られています。そのような人が容易には近づけない山奥に、女王卑弥呼は何かしら特別な意味を見出したのではないでしょうか。人里離れた山奥だからこそ、卑弥呼は思いのままに祭祀活動を行い、霊力を研ぎ澄ますことができたのです。そのような修験道の鍛錬にも通じる山として浮かび上がってくるのが剣山です。その地域最高峰となる剣山にて卑弥呼は神を祀り、自らの祈りの場としつつ、周辺地域に集落を築いたと考えられます。そして卑弥呼の霊力を慕う人々が続々と結集し、次第に地域一帯が聖地化され、大きな国家へと成長したと想定すると、中国史書に記載されている歴史の流れにも繋がります。
徳島の山岳地帯を取り囲む断崖絶壁
徳島の山岳地帯には、壮大なスケールの峡谷が広がっています。一旦、鮎喰川沿いを離れて山中に入ると、突如として歩行するのも危険な急斜面ばかりの山々が続き、傾斜が45度を超える場所も少なくありません。人が上り下りすることができない断崖や絶壁が旅人の行く手を阻むのです。そのため、急斜面では山腹を横切って進む山道を見出す必要があり、ジグザグに大きく迂回しながら山を登ることを強いられます。荷物を背負いながらこのような山道を進むことを考えれば、邪馬台国まで30日間の陸路を要したという記述も理解しやすくなります。山岳地帯の絶壁に囲まれた光景は、今日でも国道438号線から見ることができます。
人里離れた徳島の山岳地帯を歩む山道の険しさは、現在の四国八十八ヶ所霊場の遍路みちからも垣間見ることができます。例えば、第11番札所藤井寺から第12番札所焼山寺までは、往時の遍路みちの面影を残す急勾配の狭い山道が続き、健脚でなければ歩き抜くことができない難所として知られています。藤井寺がある北方の吉野川沿いから剣山へ向かう山道は、東方の徳島側からのルートよりも距離が短いために急斜面が多くなります。直線距離では8km少々しかなくとも、実際には標高40mの藤井寺から山を2つ越えて標高700m近くの焼山寺まで登らなければならないのです。急斜面を伴う山道では、実際の歩行距離は直線距離の数倍になることもあり、丸1日歩き続けるお遍路さんも少なくありません。かつて冬に第12 番札所へ向かったお遍路さんらは、昔から死を覚悟していたと言われています。途中で怪我をしたり力尽きたりすれば、それが命取りとなって山中で命を落とすことを意味していたのです。そのため白衣を身に纏い、いつ死を迎えてもよいという覚悟を持って遍路に臨んだ訳です。
しかし、急勾配が多い焼山寺までの山道でさえ、その先に続くさらに厳しい山道の入口にすぎません。焼山寺山の中腹700mの地点に焼山寺は造営されています。焼山寺山の標高は938mであり、その南方を見渡すと倍近い標高を誇る徳島の山々が聳え立ちます。南西方向には、かつて人を寄せ付けない険峻な山として知られた1495mの雲早山があります。西側の釜谷峡を越えると、ほとんど人が足を踏み入れることのない深い原生林に囲まれた1627mの高城山が続きます。そこからさらに尾根伝いを西方向に進むと剣山に至ります。このような険しい山道を越えながら霊峰を目指した古代の民だったからこそ、船を下りてから邪馬台国へ到達するまで30日という長い期間を要したとしても不思議ではありません。
陸行30日の行き先は剣山の山頂周辺
邪馬台国は20~30万人の人口を有する大きな国家であり、その領域はとても広かったと想定されます。その国の中心地に向かうには、四国徳島の吉野川河口から八倉比賣神社を経由して支流の鮎喰川を途中まで船で上り、そこから30日間、山道を歩く必要がありました。
では、徳島の沿岸に近い場所から30日間歩き続けると、果たしてどこまで行くことができるのでしょうか。海岸から西方には徳島の山岳地帯が広がり、西日本で2番目の標高を誇る剣山を中心として多くの連山が地域一帯を埋め尽くしています。今日では道路網が整備され、登山道もGPSを利用して歩いて行けることから、当時の山岳地帯の厳しさは実感しにくくなっています。今一度、徳島の沿岸から山岳地帯に向けて、30日間歩く難しさを考える必要があります。
四国山地の中でも、徳島の連山に囲まれた地域一帯の急斜面や断崖は一目瞭然です。徳島の山岳地帯へ車で向かい、ヘアピンカーブをいくつも通って高所まで進むと、岸壁と急斜面が連このようななる山々を目の当たりにします。古代の民は、このような険しい山岳地帯に足を踏み入れ、断崖絶壁を迂回しながら山道を進まなければなりませんでした。
吉野川河口周辺から歩いて30日かかる場所を推測すると、剣山の山頂周辺が候補地として考えられます。古代の民は剣山周辺に存在した邪馬台国の中心地を目指して、「陸行30日」の旅をしたのではないでしょうか。そう考えると、「魏志倭人伝」に記載されている「水行10日」「陸行30日」がひとつのルートとして繋がります。投馬国の比定地である讃岐平野から船で南下し、吉野川を経由して八倉比賣神社周辺へ入り、そこから鮎喰川流域を経て徳島の山上国家が存在したと想定される剣山周辺へ到達するというルートです。邪馬台国を目指した民の行き先は、徳島の山岳地帯であった可能性が見えてきました。
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