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2026/07/25

若杉山遺跡の歴史的背景 日本最大の古代辰砂工場が徳島県に存在する意味

若杉山遺跡の積石段
若杉山遺跡の積石段

若杉山遺跡とは

国の重要文化財となる若杉山遺跡

2022年11月18日、国の文化審議会は、徳島県の若杉山遺跡で発掘された約40点の石臼と約350点の石杵のうち、保存状態の良好な124点を国の重要文化財に指定するよう答申しました。若杉山辰砂採掘遺跡から出土したこれらの石臼と石杵は、1世紀から3世紀にかけて製作されたものであり、弥生時代後期から古墳時代初頭にかけての遺物に該当することが改めて確認されました。

古代社会において、鮮やかな赤色顔料は極めて重要な加工資源でした。特に水銀朱は祭祀に用いられた土器や石器、木製品の採色だけでなく、古墳に埋葬する死者の遺体に振りかけたり、石室の壁面を塗装したりする際にも使われました。また、船底に塗ることにより優れた防水効果を発揮したことから、海洋豪族にとっても貴重な資源だったのです。その水銀朱の原料となる辰砂を採掘・加工する古代最大級の生産拠点が、徳島県の若杉山遺跡だったのです。

遺跡から出土した臼は、辰砂を含む岩石を砕き、それを粉末になるまですりつぶす役目を果たしていたと考えられています。そして石杵を用いて砕かれた辰砂は水に沈められ、沈降速度の違いを利用して不純物を取り除いた後、水銀朱へと精製されていったと推測されます。

日本国内において、古代最大級の辰砂加工施設が徳島に存在し、そこで水銀と硫黄の化合物である辰砂が加工され、赤色顔料が精錬されていたのです。水銀朱精製の道具として石臼と石杵が生産工程を示す遺物として発見されたことは注目に値します。そのため文化審議会は、「同時代の生産実態を示し、学術的価値が高い」と評価し、若杉山遺跡の石器を重要文化財に指定することを決定しました。

日本最古の大規模な坑道、若杉山遺跡

徳島県阿南市水井町の山間部にある若杉山遺跡は、2019年頃からNHKニュースをはじめ各種メディアで取り上げられて話題になっていました。若杉山遺跡では、赤色顔料である水銀朱の原料となる辰砂が採掘されていたことに加え、出土した土器片が1~3世紀のものと確認されたためです。これにより、それまで国内最古の坑道とされていた奈良時代(8世紀)の長登銅山跡(山口県美祢市)よりも古い坑道が存在した可能性が浮上し、従来の定説を覆す発見となったのです。

若杉山遺跡には複数の人工坑道跡が確認されており、大規模な辰砂採掘・加工施設であったことが明らかになっています。その範囲は約7500㎡から1万㎡に及ぶと推定されています。長登銅山が操業していた奈良時代よりも約5世紀も遡った1~3世紀に、これほど大規模な坑道が徳島で掘削されていたのです。そのため、阿南市と徳島県教育委員会はプレスリリースを通じて、若杉山遺跡が大規模かつ日本最古の坑道である可能性が高いことを公表しました。

水銀鉱山の一角にある若杉山遺跡

若杉山遺跡の位置

若杉山遺跡は、徳島県の小松島市と阿南市の間を流れる一級河川・那賀川の中流域に存在します。四国霊場二十一番札所である太龍寺へ向かって20kmほど上流へ進み、阿南市加茂谷地域に入ると、若杉谷川と呼ばれる支流へ分岐します。その川沿いには「四国の道」と称される遍路道が整備されており、太龍寺を目指して進み、さらに南方に1km少々歩くと、若杉山遺跡の看板と休憩所が目に入ります。その背後に流れる小川を渡り、山の斜面を登ると、突如として段々畑状の地形が見えてきます。そこが若杉山遺跡です。標高140~280mほどの山腹斜面一帯に、古代の辰砂採掘・加工施設が広がっていたのです。

若杉山遺跡の地勢

若杉山遺跡は、幅が約50m、谷底から上方に向けて約150mにわたって広がっています。若杉山一帯は石灰岩層が急傾斜をなしており、岩石が随所に露頭しています。その斜面には階段状の平坦面が築かれ、大量の石灰岩砕石が石積みとして整然と積まれています。1980年代の発掘調査終了後には、これらの平坦面に杉が植林され、今日では大きく成長した杉林となっています。遺跡のエリアには、その段々畑状の地形だけでなく、その上部に露出する巨石群や石灰岩の岩場も含まれています。発掘調査は当初、段々畑の地下を中心に行われましたが、近年では上部岩場に存在する坑道入口から内部調査も進められています。その結果、坑道の広がりや出入口同士のつながりが徐々に明らかになってきました。

水銀鉱山の一角にある若杉山遺跡

遺跡周辺一帯は、全国でも有数の水銀鉱脈を有する水井水銀鉱山として知られています。その一角にある若杉山遺跡は、小さな谷が入り組む谷底に近い山腹斜面にあります。土壌の堆積が比較的少ないことから、石灰岩が随所に露出しています。これらの石灰岩やチャートの割れ目には、熱水活動によって生成された辰砂が存在し、水銀鉱床を形成していたのです。

辰砂を含む岩盤は東西方向に広がっています。そして若杉山遺跡から東北東に1kmほどの場所には由岐水銀鉱山があり、北方約800mには水銀採取場として知られている中野遺跡も存在します。これら辰砂採取場の分布や規模からして、古代における採掘活動の中心が若杉山遺跡だったことが想定されます。その歴史は弥生時代後期まで遡り、周辺に存在する複数の遺跡からも、同時期のものとみられる土器片や銅鐸、石斧などが数多く発見されています。

段々みかん畑に潜む若杉山の不思議

若杉山遺跡石積み段々畑の真相

若杉山遺跡に足を踏み入れると、まず目を引くのが、きれいに石積みされた巨大な段々畑です。戦後、この山の斜面にはミカンが植えられ、栽培されていました。しかし1980年代に入ると、ミカンの木を伐採して段々畑に杉や檜の植栽をすることが計画されたことから、その前段として、長年停滞していた遺跡調査が、1984年から本格化しました。その後、3年間にわたる発掘調査が行われ、1980年代後半には調査区が埋め戻されました。そこに杉の植林が行われたことで、段々畑と杉林が混在する景観となりました。今日の若杉山遺跡は、古代の辰砂工場であった当時の面影とは大きく異なる姿になっています。

段々畑に似合わない若杉山の地勢

若杉山の段々畑は、戦後に山の斜面を削って造成されたものと考えられています。しかし、人が容易に足を踏み入れられない山奥であり、急斜面は45度を超える場所も少なくありません。さらに、周辺には石灰岩の岩盤が地表に露出している箇所も多く、このような場所に大規模な段々畑を造成したのかという疑問が残ります。実際、急斜面と岩盤が目立つ地勢であるため、開墾が困難と思われる場所が随所に見られます。また、遺跡調査では周辺一帯から無数の破砕礫岩(はさいれきがん)が出土し、激しい土石流の痕跡も確認されています。

このような状況を踏まえると、戦後であっても、若杉山のような急斜面を切り崩し、ミカン栽培のための段々畑を造成したと考えるには、やや無理があるかもしれません。今日でも地域周辺にミカン畑はあるものの、少なくとも若杉山遺跡周辺が段々畑の造成に適した地の利を備えていたとは言い難いでしょう。

辰砂採掘のための段々畑か?

若杉山の急斜面は、古代に辰砂を採掘する際に、安全に作業を進めるために造成された作業場跡を利用したものである可能性があります。もし若杉山が古代の辰砂採掘・加工の拠点であったなら、急斜面であっても作業しやすくするため、人工の平坦面が設けられていたと考えるのが自然です。そして、その作業場跡が戦後の段々畑造成に利用された可能性があります。

若杉山遺跡周辺には水銀鉱床を形成する地層が広がり、遺跡の東北東およそ1kmには、江戸時代から採掘が行われた日本有数の由岐水銀鉱山もあります。そのため、辰砂鉱床を発見した古代の人々は、採掘用の石器を製作し、露頭を削りながら辰砂を採掘するとともに、安全な足場を確保するため、急斜面に平坦な作業場を造成したのでしょう。

発掘調査では、少なくとも2か所の平坦面が確認されています。こうした作業場跡は長い年月を経ても残され、戦後には地形を利用して段々畑が整備され、ミカンが植えられたものと推測されます。

若杉山遺跡調査の歴史

人骨の発見から始まる若杉山遺跡調査

若杉山遺跡は1954年頃、地元住民が周辺の山を開墾した際、偶然に石窟と人骨が発見されたことから世間に知られるようになりました。そこから出土した石臼と石杵(いしきね)については、「発火用に用いたり、採掘した辰砂を粉末にしたりするために使用したものらしい」と、「加茂谷村誌」に記されています。その2年後、水銀鉱床に関する地質調査が徳島県産業技術振興会によって行われ、辰砂の付着した石灰岩が散在することが、「四国鉱山誌」に掲載されたのです。

1962年には徳島県による遺跡調査が始まり、多くの土器や壺の破片、人骨が出土しました。調査報告書には、「石灰岩の留積と混ざりて水銀鉱(辰砂)の破片が出土している」と記されています。また、近隣には古くから太龍寺が存在するものの、目印もない森林の一角である若杉山まで山を登る必要性があったのはなぜか、という問題提起もされています。

一方、早稲田大学の松田博士による「丹生の研究」においては、若杉山のそばを流れる那珂川の上流域に残る「仁宇」「小仁宇」「丹生谷」の地名は、辰砂の生産と深く関係している可能性が極めて高いことが指摘されました。これを契機として、それらの地名と若杉山遺跡との関連性について、さらに調査・研究が進められることになります。

調査結果は日本古代辰砂工場跡

1967年には、当時早稲田大学の学生であった岡本氏が、若杉山の遺跡調査が中学校の生徒らとともに行われ、多くの石臼と石杵が対になった状態で埋没していることが確認されました。その後、これらの遺物は辰砂を粉砕するための石器ではないかという見解に基づき、同大学の市毛勲氏による本格的な調査が開始されます。

その結果、多くの石臼と石杵とともに土器類も改めて発見され、出土遺物の年代は弥生時代末期から古墳時代初期にかけてのものと考えられるようになりました。1969年に市毛氏は、「朱の起源、日本古代辰砂工場跡見つかる」と題する記事を日本経済新聞に寄稿したのです。そして「古墳時代の辰砂採掘砕石址-徳島県阿南市若杉山遺跡のこと」、と題した論文を「考古学ジャーナル」に発表し、調査成果の詳細は「朱の考古学」にもまとめられました。

これら一連の調査成果により、若杉山遺跡は「唯一の古墳時代の辰砂採掘・砕石遺跡」として紹介されるようになり、阿南市史跡に指定されることになります。

若杉山遺跡は辰砂生産遺構

1984年、徳島県博物館は徳島考古学研究グループと阿南市教育委員会の協力を得ながら、「生産遺跡の調査」として、若杉山遺跡の第1次調査を開始します。当初の目的は、遺跡の性格を把握するための試掘調査でした。その結果、明確な遺構は確認されなかったものの、石臼や石杵(いしきね)、壺、甕(かめ)、高杯(たかつき)などの土器が多量に出土しました。土器片においては2000点を超え、それらの多くが弥生時代後期のものと推定されました。

さらに、辰砂原石と同じ層からシカの歯と顎骨も集中して出土したほか、イノシシの角や牙、骨なども発見されました。これらは食用として利用された可能性がある一方、燔祭などの祭祀用いられた可能性も否定できません。これら多くの出土遺物を総合的に検証した結果、若杉山遺跡は古墳時代初頭にかけての辰砂生産遺構であるとの結論が導かれ、その内容は調査報告書として正式にまとめられました。

3年にわたる4回の若杉山遺跡発掘調査

1985年には文化庁の国庫補助金の交付が決定し、3か年計画に基づく本格的な発掘調査が徳島県立博物館により開始されました。辰砂採掘・砕石遺跡の調査は全国でも初めての事例であり、第1次調査を含め、4次にわたる発掘調査が実施されることになったのです。

第2次調査では調査する範囲が拡大され、遺構面が発見されました。それらはほぼ水平に造成されていたことから、急斜面をL字状に掘削して平坦面を設けたものと考えられています。また石杵や辰砂原石だけでなく、獣骨や土器などが多数出土し、完形品の土器も確認されました。さらに、辰砂採掘跡とみられる岩盤の掘り込みや土壙などの遺構も検出され、当時の人々の生活の様子をうかがわせる貴重な成果となりました。

第3次調査では、土層の堆積状況を確認するとともに、土壙の広がりなどが調査されました。作業場と想定される土壙が5基検出され、その中には石臼が据えられた状態で発掘されたものもありました。そのほか、多くの石杵に加え、勾玉などの遺物も発掘されました。また、石灰岩が積み上げられた痕跡からは、それらが辰砂掘削時の残がいであり、そこに辰砂精製の作業場があったことも確認できました。豊富な遺物の出土とともに勾玉も発掘されたことから、若杉山遺跡はまさに辰砂生産集団の活動拠点であり、その規模は当初の想定よりもかなり大きいことが明らかになってきたのです。

第3次調査では、土層の堆積状況を確認するとともに、土壙の広がりなどが調査されました。作業場と想定される土壙が5基検出され、その中には石臼が据えられた状態で発掘されたものもありました。そのほか、多くの石杵に加え、勾玉などの遺物も発掘されました。また、石灰岩が積み上げられた痕跡からは、それらが辰砂掘削時の残がいであり、そこに辰砂精製の作業場があったことも確認できました。豊富な遺物の出土とともに勾玉も発掘されたことから、若杉山遺跡はまさに辰砂生産集団の活動拠点であり、その規模は当初の想定よりもかなり大きいことが明らかになってきたのです。

4次にわたる遺跡調査は1987年に終了しました。調査結果を統合すると、出土した遺物は石臼が約40点、石杵は約350点にものぼります。また、壺、甕、高坏、鉢など、生活に関わる土器も数多く出土し、多くの人々が若杉山周辺を生活の拠点としていたことがうかがえます。一方で、多数の土器が出土しているにもかかわらず、鍬などの農具の出土は全くなく、住居跡も確認されていません。若杉山周辺でもより地の利の良い生活に適した場所に住居を構えたのではないでしょうか。いずれにしても、これらの調査結果から、若杉山遺跡は全国最古の水銀朱生産遺構として位置付けられたのです。

辰砂生産遺跡の調査(1997年)

1997年には「辰砂生産遺跡の調査-徳島県阿南市若杉山遺跡-」が刊行され、遺跡から出土した水銀朱精製用石器などについて詳細な調査結果がまとめられました。若杉山遺跡からは辰砂原石だけでなく、に限らず、辰砂の精製に用いられた石臼や石杵をはじめ、多数の石器や勾玉などが出土しています。全国的に見ても辰砂を採掘する遺跡としては、前例のない大規模な遺構が徳島県に存在していたことが、改めて確認されました。

定説を覆した2017~2019年の遺跡調査

その20年後、2017年に始まった遺跡調査では、標高245mの若杉山の山腹にある岩場から、坑道跡と思われる横穴が確認されました。坑道は、高さ0.7~1.2m、最大幅約3m、全長約13mに及びます。この発見により、弥生時代では地表から掘削しながら辰砂を掘り当てていたという従来の定説が覆されることになったのです。すでに弥生時代では、硬い岩盤をトンネル状に掘削する高度な採鉱技術が確立され、那賀川上流で辰砂採掘が行われていたことが明らかになったのです。

その後も遺跡調査は継続して行われ、2019年2月、この坑道の入口からおよそ3m地点で出土した土器片数十点のうち、少なくとも5点については弥生時代後期(1~3世紀)のものと判明しました。また、石杵や石臼などの石器も多数発掘されてきたことから、若杉山遺跡では辰砂の採取だけでなく、水銀朱の顔料を製造する工程まで行われていた可能性が高いと考えられるようになりました。

参考文献


  • 辰砂生産遺跡の調査-徳島県阿南市若杉山遺跡 徳島県立博物館1997年
  • 若杉山遺跡発掘調査概報 徳島県教育委員会- 徳島県 1987年
  • 広報 あなん 徳島県阿南市役所 2018年11月

参考サイト


ギャラリー:若杉山遺跡 / 那賀川

コメント
  1. Jack より:

    大和民族より以前に日本・出雲に住み着いたドラビダ族はインドからバイカル湖・アムール川を経て樺太ー津軽から船で出雲に渡来した、これも製鉄法(たたら式)にたけていた彼らが奥出雲に砂鉄を求めての結果、とある投稿で読みました。徳島の辰砂・水銀朱もそれに似た話で面白いですね。1~3世紀頃とありますが、どういう人達なんでしょう?

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