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2022/11/26

若杉山遺跡と結び付く海洋豪族 貝殻の出土から解明された海洋豪族との関係

若杉山遺跡の掘削現場

海洋豪族の存在を証する多くの貝殻

貝殻が出土する若杉山遺跡

若杉山遺跡から発掘された遺物において特筆すべきは、海と川、陸に生息する貝の片が2,982点出土したことです。その大半はハマグリなどの鹹水(かんすい)産ですが、中には汽水・淡水産の2枚貝や陸産の巻貝も含まれていたのです。しかもそれらの陸産貝類が海に生息する貝類に混じって出土したのです。

当時の調査においては、土石流により混入したか、当該時期だけに生息していたか、単に遺構内に生息していたかというような憶測だけにとどまり、判然としないまま検討事項として残されてしまいました。「若山杉遺跡は、那賀川の中流域に位置し、標高150m以上の高位の環境にあるにもかかわらず、鹹水・汽水域に生息する貝殻や魚類骨が出土しています。これは、物と人間の移動を意味するものであり、辰砂生産に従事していた集団の生活形態を考察する上で、貴重な出土資料」と、調査報告書はまとめています。

若杉山遺跡の貝殻は船底修繕の跡か

この謎を解明するヒントを、貝殻が出土された状態から見出すことができます。多くの貝殻はまとまって、しかも貝殻の堆積としてではなく、土圧で押しつぶされたような状態で出土したのです。これら多種にわたる貝殻の存在こそ、後述するとおり、若杉山遺跡が古代海洋豪族の一大拠点であり、そこに船が行き来した証と考えられます。

まとまった貝殻の存在は、船底に付着した貝殻に関連するものと考えられます。古代、海や川、湖までも行き来する船だからこそ、その船底には様々な貝殻が付着したはずです。よって、船底を修繕し塗装するためには、それらの貝殻をまず削って取り除く必要がありました。その貝殻の残がいを集積したものが、埋蔵された可能性が考えられます。だからこそ、出土した貝殻は、破損が一見不可解なほど激しく、その割れ方が類似している貝殻も多数発見されたのです。

辰砂は船底を保護し、防水加工するための原材料として古代の海洋豪族が最重要視した資源であり、その一大掘削場となったのが、若杉山遺跡だったと考えられます。

海洋豪族が辰砂を欲した理由

辰砂の優れた効用

辰砂は丹(に)とも呼ばれる資源です。中国湖南省の辰州が主産地だったことから、一般的には辰砂として知られるようになりました。色が赤いことから、朱砂とも呼ばれています。その鉱石を砕いて採取した粉が主成分となり、本朱の顔料になります。辰砂を加熱して発生する水銀蒸気と二酸化硫黄を冷却すると、水銀が精製されます。古代より水銀は大切な資源であったことから、十分な辰砂を確保することが重要視されたのです。

水銀の元となる辰砂には多くの優れた効用があり、その用途は船の耐久性を向上させるための船底用塗料にとどまらず、古代から顔料、染料、朱肉、薬などに幅広く活用されてきました。また、墳墓にて死者を弔うために朱色の顔料を使用する風習も古くから存在し、弥生時代においてはすでに埋蔵する骨に水銀朱を用いた赤色顔料を塗布する事例が認められています。

その後、古墳時代においても石室や棺、古墳の内壁や壁画の彩色だけでなく、由緒ある建造物や重要文化財にも多用されました。辰砂は防腐剤の役目も果たすことから、神社の鳥居を赤く塗る際に使われただけでなく、貴重な神殿の壁面などにも使われることがありました。

また、古代では辰砂を含む赤土を顔や身体に塗ることがあり、これが化粧の始まりであったという説もあります。丹生都比売神社の由緒には、「播磨国風土記によれば、神功皇后の出兵の折、丹生都比売大臣の宣託により、衣服・武具・船を朱色に塗ったところ戦勝することが出来た」と記載されています。

辰砂の採掘時期

日本では、およそ弥生時代から辰砂の採掘が広まったと考えられています。しかしながら辰砂の掘削は想定より、もっと早い時期から始まったようです。昨今の発掘調査では、縄文土器や漆器からも水銀朱が検出されていることから、その歴史は縄文時代にまで遡ることがわかってきました。

また、遠い大陸の西アジアでは、紀元前10世紀頃、すでに造船の技術が発達していたことから、朱顔料を用いて船の防水加工を行っていた可能性があります。聖書の歴史書にはソロモン王の時代、タルシシ船が海を渡って世界各地を航海していたことが記されています。古代の民は今日、私たちが想像する以上の優れた航海術や造船の技術を習得していたと考えられます。

海洋豪族と辰砂の関係

イスラエル王国
イスラエル王国
ソロモン王の時代から3世紀ほど過ぎた頃の紀元前7世紀頃、北イスラエル王国が滅び、南ユダ王国も崩壊の危機に直面した時、王朝を支えてきた南ユダ王国の豪族らは神宝を携えながら国家を脱出し、預言者らとともに船に乗り込んで東方へ向かった可能性があります。そのイスラエルから逃れてきた王族や預言者の一行が、台湾から八重山諸島、琉球諸島を経由して日本列島に渡来し、皇族の元となる歴史の土台を作ったと想定してみました。すると、日本建国に関わった古代の中心人物は大陸からの渡来者であり、高度な航海技術と大陸からの優れた文化を携えて、海を渡ってきたことになります。弥生時代後期から古墳時代初期にかけて、日本列島を船で行き来していた海洋豪族は大陸から渡来した国生みに纏わる一族の末裔と考えられるのです。西アジアで培われた優れた航海技術、天文学や地勢学の知識を持っていたからこそ、日本列島に渡来した後も、その文化が開花したのではないでしょうか。

古代、日本建国に関わった中心人物は大陸からの渡来者であり、高度な航海技術と大陸からの優れた文化を携えて、海を渡ってきたと考えられます。よって、イスラエルから逃れてきた王族や預言者の一行が、台湾から八重山諸島、琉球諸島を経由して日本列島に渡来し、皇族の元となる歴史の土台を作った可能性が見えてきます。弥生時代後期から古墳時代初期にかけて、日本列島を船で行き来していた海洋豪族は大陸から渡来した国生みに纏わる一族の末裔に違いなく、優れた航海技術、天文学や地勢学の知識を持っていたと推定されます。だからこそ、元伊勢御巡幸でも船団が活用され、その後、邪馬台国の時代でも日本列島と中国を行き来することができたのです。

その結果、元伊勢御巡幸でも船団が活用されたことが史書に記され、その直後の邪馬台国の時代では、有力な国家としてアジアにその名を知らしめるようになりました。その背景には、日本列島と中国を行き来する船の存在がありました。よって、辰砂が重宝されたことは言うまでもありません。

海洋豪族が欲した川沿いの辰砂

その海洋豪族が欲したのが、辰砂鉱山でした。辰砂には優れた耐水効果があることから、その使用目的の中でも、船底の塗装は最も歴史が古いだけでなく、耐久性に優れた船を造り上げるためには不可決な資源だったのです。辰砂を顔料とした本朱の塗料をしっかりと船底に塗ることにより、船底の腐食や貝殻の付着による被害が緩和し、船の耐久性が見違えるように向上します。そのため、いつしか海洋豪族は辰砂を求めて、特に紀伊半島と四国の徳島を中心に探索を進めたようです。

しかしながら、往々にして鉱山は山奥に存在し、その場所を掘り当てることは困難を極めました。しかも掘削された鉱石の粉を山奥から運搬することは容易でなかったことは想像に難くありません。よって辰砂を含む鉱山の多くが河川沿いの山々に見出され、資源の運搬には船が多用されました。それ故、歴史の古い辰砂の鉱山は、和歌山県や三重県、徳島県に流れる大きな河川、もしくはその支流沿いにあるのです。古代、日本国内における辰砂の鉱山が河川沿いの山々にて掘削された理由は、その採取に携わった主人公が、川を船で行き来することを苦にしない古代の海洋豪族であったからに他なりません。

辰砂と関連する地名「丹生」

丹生都比売神社と辰砂との関わり

丹生都比売神社 楼門
丹生都比売神社 楼門
辰砂鉱山の中で最も有名な場所は、おそらく紀伊半島の吉野川沿いにある丹生であり、その中心には丹生都比売神社が建立されています。「丹生」には「辰砂が採取できる地」「辰砂を精製する氏族」という意味があることからしても、丹生都比売神社は辰砂と深く関わっていたことがわかります。

丹生都比売神社の由緒には、「魏志倭人伝には既に古代邪馬台国の時代に丹の山があったことが記載され、その鉱脈のあるところに「丹生」の地名と神社があります」と書かれています。丹生という地名の背景には、辰砂の存在がありました。丹生都比売神社は世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」にその名を連ねています。そして今日、紀伊水道を渡った徳島側の若杉山遺跡が、日本最古の辰砂採掘の坑道として名乗りをあげたのです。

辰砂と丹生の名称との関係

丹生の名称を含む神社や地名は紀伊半島を中心に広がっているだけでなく、若杉山遺跡のある徳島の那賀川上流にも存在します。那賀川上流を6kmほど上ると、そこにも仁宇と呼ばれる町があります。江戸時代に編纂された「阿波誌」の中に記載されている那賀郡の「丹生」と「小丹生」が、今日の仁宇にあたります。

仁宇に居住の拠点を構えた丹生氏については、「丹生俊重伊勢の人、丹生谷に来居す」とあり、 仁宇氏が伊勢から徳島の那賀川上流まで船で渡ってきたことがわかります。辰砂坑道の真下にある巨石
辰砂坑道の真下にある巨石
その他、「丹生谷」「木頭丹生」「丹生和食」などの地名も「阿波誌」には記載されており、若杉山の上流、那賀川沿いには仁宇神社とも呼ばれた八幡神社があります。つまり、紀伊半島の吉野川上流の丹生と、徳島の若杉山周辺の丹生は、双方とも辰砂の採取というテーマで結びついている地名であり、歴史的背景を辿ると、弥生時代後期という同じ時期、仁宇一族などの同一集団によって手掛けられた採掘場であったと考えられます。

参考文献

  • 辰砂生産遺跡の調査-徳島県阿南市若杉山遺跡 徳島県立博物館1997年
  • 若杉山遺跡発掘調査概報 徳島県教育委員会- 徳島県 1987年
  • 広報 あなん 徳島県阿南市役所 2018年11月

参考サイト

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